今年のファイナルはカリーにMVPをとってほしいなぁ。
ラルー・マーティン
元祖「史上最悪の1位指名選手」。72年のドラフトで、ボブ・マッカドゥーらを差し置いて1位でブレイザーズが指名。ロヨラ大出身のCで、もちろん期待されたがそれに応えることはなく、4シーズンをブレイザーズのベンチで過ごし、76年に現役を終えた。
マーティンの評価が高まったのは、71~72シーズンのUCLAとの対戦で、ビル・ウォルトンを上回るプレイを見せたから。皮肉にも、74年にはそのウォルトンがブレイザーズに加入し、マーティン退団後にはチームをNBAチャンピオンに導いている。
ジュリアス・アービング
ご存知「Dr.J」。ABAとNBAの両リーグでプレイし、キャリアを通いて3度の優勝、4度のMVP、3度の得点王に輝いた名選手。両リーグでの通算得点は3万点を超え、93年には殿堂入りも果たした。スラムダンカーとしても有名で、マイケル・ジョーダンやビンス・カーターらの先駆者的な存在とも言えるだろう。
マサチューセッツ大に進んだアービングは、高校時代に付けられた「Dr.J」という愛称で親しまれ、68年にはNCAA史上5人しかいない、平均20点以上・20リバウンド以上をマーク。そして71年、ABAのヴァージニア・スクワイアーズに入団した。プロ入り後のアービングはすぐに存在感をアピールし、平均27点を上回るアベレージをマーク。オール・ルーキー・チームとオールABA2ndチームに選出された(新人王はアーティス・ギルモア)。
その後、NBAのドラフトに掛かる権利を得、72年のドラフト1巡目第12位でバックスに指名されのだが、ここでアービングはホークスと契約。エキシビジョンを3試合プレイするが、ここで法的な命令が下り、ABA(スクワイアーズ)に戻ることになってしまう。因みにこの3試合、アービングはピート・マラビッチとチームメイトであった。
スクワイアーズに戻ったアービングは更に活躍。しかし、チームの財政事情は厳しく、73年、アービングはネッツに放出されてしまう。ネッツは創設以来6シーズンも低迷が続いていたが、アービングが加入するといきなり強くなり、すぐに優勝(74年)。アービングのお陰でネッツは、ABAでも大事なフランチャイズのひとつとなった。しかし、今度は財政難などを理由として、75~76シーズンを最後にABAが消滅。ネッツは、その前にNBA参入を試みたのだが認められず、ABA最後のシーズンもアービングを中心にチャンピオンに輝いた。
こうして76~77シーズンからネッツ、ナゲッツ、ペイサーズ、スパーズがNBAに参入するのだが、このときニックスが、フランチャイズの重なるネッツのNBA入りに好意的ではなく、「NBAに来るなら4800万ドルを払うように」と要請。これを受けたネッツのオーナー、ロイ・ボーは、アービングの昇給という約束を果たすことが難しくなり、アービング自身もこうした状況下でプレイすることに難色を示し、やむを得ずエービングの契約をシクサーズに売却した。もしこれがなければ、ネッツはキングスから獲得したタイニー・アーチボルドとアービングを軸にした魅力的なチームになるはずであった。
アービングは移籍1年目から活躍を見せ、いきなりファイナルまで進出(ブレイザーズに敗れる)。その後、ラリー・バードの加入でセルティックスが強くなり、イーストはシクサーズとセルティックスの2強体制となった。実際、当時4シーズンに渡ってこの2チームはカンファレンス・ファイナルで激突している。80年にはシクサーズがファイナルに進出。マジック・ジョンソンの活躍でシリーズはレイカーズが制するが、アービングがこのシリーズで見せた芸術的なリバース・レイアップはのちのちまでハイライト・フィルムで使用される印象的なプレイとなった。このショットを間近で見たマジックは、「あの瞬間は口を開けたまま見入ってしまった。彼にボールを渡して『もう1回やってくれよ』て頼もうかと思ったくらいだった」といった旨のコメントを残している。
81年にはシーズンMVPを受賞するがプレイオフではセルティックスに敗れ、翌年もファイナルでレイカーズに負けてしまう。しかし、82年オフにモーゼス・マローンが加わったことで戦力アップに成功。今度はレイカーズをスウィープで下し、チャンピオンに輝いた。アービングはここから衰えを見せ始め、86年夏に86~87シーズン終了後の引退を宣言。最後のシーズンは、シクサーズが行くほぼすべてのアリーナでチケットが売り切れていたそうである。
背番号6はシクサーズ、32番はネッツの永久欠番。引退後はビジネスマンやTV解説者を経て、97年にマジックのフロント入り。当時、故障や人間関係で苦しんでいたペニー・ハーダウェイに協力的で、99年オフにはペニーのためを思ってサンズへのトレードを後押しした。04年にラプターズのGMが解任されたときには、ビンス・カーターがアービングの就任を望んだという話もある。
アービングを有名にしたのはやはりダンク。アービング以前にもFTラインからダンクを決めることができる選手はいたが、76年のABAのスラムダンク・コンテストで見せたFTラインからのダンクは別格であった。83年のシーズン中のレイカーズ戦では、マイケル・クーパーの上から叩き込んだダンクは、ボールを掴んだ右腕を一回転して決めた様から、「クレイドル」と名付けられた。シクサーズのHCだったビリー・カニングハムは「バスケット選手としてのジュリアスはリーグにとって初のスポークスマンと言える選手だった。彼は自分の役割を理解していたし、リーグにとって自分がいかに大事な存在であるかも理解していた。私が知る限り『ドクター』と呼ばれた最初の選手だ」としている。
クリス・フォード
6フィート5インチのGで、NBA史上初めて3Pを決めた選手(79年10月12日のロケッツ戦@ボストン・ガーデン)。ヴィラノバ大出身で、72年のドラフト2巡目第17位でピストンズ入り。5年目くらいから出場機会が増え、78~79シーズン途中にはアール・テイタムと交換でドラフト指名権とともにセルティックスへ移籍した。ここには81~82シーズンまで在籍し、優勝も経験している。
引退後は90年に古巣セルティックスのHCに就任。かつてのビッグ3が衰えたチームで若手を中心に再建を狙ったが、戦力の低下に歯止めをかけることは出来ず、94~95シーズン終了後に職を退いた。96年にバックスのHCとなり、再び低迷チームの再建を託されるが、2年連続でシーズン終盤に失速してプレイオフ進出に失敗。98年オフに解任され、直後にクリッパーズのHCに就任した。しかし、かつてない弱小チームを変えることは出来ず、99~00シーズン中盤に解任。03~04シーズンにはシクサーズのHCになるが、成績がふるわなかった上にアレン・アイバーソンとうまくいかず、30試合ほどで解任されてしまった。セルティックス、バックス、クリッパーズではシャーマン・ダグラスを指導している。
ジョビー・ライト
インディアナ大出身のF/C(6フィート8インチ・220ポンド)で、72年のドラフト2巡目第18位でソニックス入り。プロ1年目は77試合に出場したが、翌73~74シーズンはABAのメンフィス・タムズで3試合だけプレイした。74~75シーズンはNBAでもABAでもプレイせず、75~76シーズンにサンディエゴ・セイルズとヴァージニア・スクワイアーズで計23試合に出場。現役を終えた。目立った成績は残していない。引退後はカレッジでコーチを務めたりしていた模様。
ケビン・ポーター
6フィートのPG。72年のドラフト3巡目第9位でブレッツに入団し、以降10シーズンをプレイした。当時のリーグ史上最も才能のあったパッサーのひとりで、75・78・79・81年の計4度、総アシスト数とアシストのアベレージでリーグ首位に立っている。のちにスコット・スカイルズに破られるまで、一試合29アシストというNBA記録も保持していた。
75年にブレッツがファイナルに進んだときの主要選手である。