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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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昭和58年ドラフト組④

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基本的に主人公を好きにならないタイプでして、キン肉マンも、キン肉マン以外の超人が好きでした。

 

 

ラルフ・サンプソン

 

ヴァージニア大出身のC。カレッジ史上3人しかいない、ネイスミス・アワードとナショナル・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを3度受賞した選手のひとり(あと2人はビル・ウォルトンとシェリル・ミラー)。また、ウッデン・アワードを2度受賞したのは唯一である。

82~83シーズンの終盤、幾つかのチームが「サンプソン獲得のためにワザと負けているのでは?」と囁かれたほど注目された選手で、83年のドラフトではもちろん1巡目第1位でロケッツに入団。軽々とダンクできる7フィート4インチというサイズがありながら、ガードのようにボールを運ぶことも出来、当時としては稀有なインサイド・プレイヤーであった。2年目には本格派Cのアキーム・オラジュワンが加入し、ツインタワーを形成。このシーズンはオールスターでMVPにも輝いており、マジック・ジョンソンは「彼が自分のチームにいたらと思うよ」と賛辞を送っている。

サンプソン加入前のロケッツは僅か14勝しかできず、サンプソンのルーキーイヤーも29勝止まりだったが、ツインタワー結成後は急な飛躍を見せ、86年にはなんとファイナル進出を果たした。しかし、サンプソンのキャリアはここから下降線を辿っていく。

まず、サンプソンはHCのビル・フィッチとの関係が良好ではなかった。従来のビッグマンとはまったく異なるサンプソンのスタイルはフィッチに信頼されなかったという。また、86~87シーズン中盤に膝を負傷。サンプソンは重傷にも関わらず復帰を優先し、これが仇となった。翌87~88シーズンになっても故障前の状態には戻れず、19試合プレイしたところでウォリアーズへトレード。このシーズンも34試合の欠場を強いられた。HCがドン・ネルソンに代わった88~89シーズンはシーズン中盤からベンチ・スタートが多くなり、成績は平均6.4点・5.0リバウンドまでダウン。続く2シーズンを過ごしたキングスでは、トータル51試合しか出られず、91~92シーズンをブレッツでプレイして現役を引退した。最後のシーズンは10試合で平均2.2点・3.0リバウンドという寂しいものであった。

オールスターには4度出場。2年目にしてMVP投票で10位に食い込み、オールNBA2ndチームにも選出された。故障前は非常に見応えのある選手だったが、肝心なときに活躍できないという批判もあり、「最盛期ですら、実力を出し切れていなかった」とする見方もあるという。スタッツで見るとターンオーバーとファウルが多いのも難点か。

 

アントワン・カー

 

6フィート9インチのF/C。愛称は「ビッグドッグ」。ウィチタ州立大出身で、当時はゼイビア・マクダニエルやクリフ・レビングストンらとチームメイトだった。

83年のドラフト1巡目第8位でピストンズに指名されるが、その年はイタリアのオリンピア・ミラノでプレイ。翌84年夏、ダン・ラウンドフィールドと交換で、元チームメイトであるレビングストン、86・87年のドラフト2巡目指名権と共にホークスへ移籍し、NBAデビューとなった。決して悪くはなかったが、インサイドの層が厚かったために出番は限定的で、89~90シーズン半ばにケニー・スミスと交換でキングスに放出されたところでブレイク。そのシーズンの残りは控えながら平均18点を上回る数字をマーク。翌90~91シーズンは先発に定着し、キャリアハイの平均20.1点をあげた。

91年にはスパーズへ移籍。デビッド・ロビンソン、テリー・カミングスらのバックアップを務めることが多かったが貢献度は高く、そのシーズンのプレイオフ1stラウンドでは、手を骨折して欠場したロビンソンの代役として見事なプレイを披露した(シリーズには敗れた)。94~95シーズンの開幕直前にはジャズと契約。ここでは主に控えだったが、重要な場面ではコートに立つことも多く、98年のファイナル第5戦でブルズの地元優勝を防いだ活躍は印象的であった。その後、ロケッツとグリズリーズで1シーズンずつ過ごして現役を引退。

目を負傷したあとはサングラスを付けてプレイ。Cとしては小さく、最盛期でもリバウンドは少なかった。ジャンプショットは精度が高く、キャリア終盤でも武器であった。弟のヘンリー・カーは87年のドラフトでクリッパーズに指名されている。

 

ジェフ・マローン

 

得点力のあるSG。ミシシッピ州立大出身で、83年のドラフト1巡目第10位でブレッツ入り。1年目は主に控えだったが、2年目にはソニックスから加入したガス・ウィリアムスと先発バックコートを組み、平均18.9点を記録。3年目の翌85~86シーズンには平均22.4点をあげている。チームはプレイオフ1stラウンド止まりだったが、この年と翌年はオールスターにも選ばれた。

89~90シーズンにキャリアハイの平均24.3点をあげたのを最後にジャズへ移籍。ジャズではカール・マローンに次ぐ得点源として活躍した。93~94シーズンのトレード期限にはジェフ・ホーナセックと交換でシクサーズ移籍。持ち前の得点力は健在だったが、94~95シーズンは足の怪我で19試合しか出られず、95~96シーズン途中に解雇されてしまう。シーズン後半にヒートに拾われるが出番はほとんど無かった。

精度の高いシューター。3Pはほとんど打たないが、FG成功率48%、FT成功率87%を誇る。シュート力や得点力で評価されることの多い選手だが、マイケル・ジョーダンはマローンのディフェンスを高く評価しており、ミスも少ない。84年1月3日のピストンズ戦で決めた3Pの劇的なブザービーターはキャリアのハイライト。

引退後はNBADLのHCなど、コーチ業に勤しんでいる模様。

 

ランディ・ウィットマン

 

6フィート6インチのSG。インディアナポリス出身でインディアナ大に進み、名将ボビー・ナイトの指導を受けた。アイザイア・トーマスは当時からの友人である。81年に同大がNCAAチャンピオンになったときの主力で、83年にはカンファレンスのプレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞。同大の殿堂入りも果たしている。

83年のドラフトでは1巡目第22位でブレッツに指名され、直後にホークスへ移籍。3年目の85~86シーズンから87~88シーズンまでの大半で先発を務め、その間に平均12点・3.5アシストをマークした。

88年オフにキングスに移籍するが、ロドニー・マックレイ、ハロルド・プレッシーらの控えに留まり、出場機会は激減。シーズン半ばに故郷インディアナのペイサーズへトレードされ、91~92シーズンまで3シーズン半を過ごした。ここでも出場機会は少なく、プレイングタイムは平均10分にも満たなかったが。

92年、引退してすぐにペイサーズのACに就任。翌シーズンはマブスとマジックを渡り、94~99年はウルブズでACを務めた。99年にはキャブスで初めてHCを務めるが、再建途中のチームは荷が重く、2シーズンで解任(62勝102敗)。その後、マジックのACを経て、06~07シーズンには再度ウルブズへ移り、シーズン半ばにはドゥエン・ケイシーの後を継いでHCに就任した。

しかし、ウィットマン就任後、チームの成績は下降。オフにはガーネットがチームを去り、07~08シーズン序盤、ウィットマンは解任された。このときはオーナーのグレン・テイラーが、それまでフロントにいたケビン・マクヘイルにHCになるよう頼んだようである。因みにマクヘイル就任後、成績は上向いた。ウィットマンはその後、ウィザーズでもHCを務めている。

 

スチュアート・グランジャー

 

カナダ出身。モントリオールで育ち、高校からニューヨーク州ブルックリンへ。79年と81年にはそれぞれ別の高校を州チャンピオンに導いた。因みに、その両方のチームで、同じくカナダ人であり、のちにNBAでプレイするビル・ウェニントンとチームメイトであった。

ヴィラノバ大を経て、83年のドラフト1巡目第24位でキャブス入り。2年目はホークスに移籍し、86~87シーズン、ニックスで15試合プレイしたのを最後にNBAを離れた。

USBLでは1stチームにも選ばれたことがあり、オールスターにも出場している。フィリピンなどでも研鑽を積んだ。

 

ドック・リバース

 

「ドック」は愛称で、グレン・リバースの名でも知られた。82年の世界選手権でアメリカ代表として優勝を経験し、トーナメントのMVPにも選出された。マーケット大を経てプロ入り。83年のドラフト2巡目第31位でホークス入り。エディ・ジョンソンの故障もあってシーズン半ばに先発に昇格。ここで結果を残し、翌シーズン以降7シーズンに渡ってホークスの先発PGを務めた。年々成績をアップさせ、86~87シーズンには平均12.4点・10アシストをマーク。翌88年にはオールスターにも選ばれた。この頃をピークとしてアシストが減っていくのだが、当時はTOも少なく、FG成功率も高く、リーグ有数のPGであった。

91~92シーズンはクリッパーズで過ごすが故障もあって満足に力を発揮できず、オフにはニックスへ移籍。移籍1年目はグレッグ・アンソニーらとプレイングタイムを分け合い、93~94シーズンは膝の故障で63試合を欠場。チームはファイナルに進んだが、リバースはそこでプレイすることは出来なかった。そして翌94~95シーズン、3試合プレイしたところで解雇され、直後にスパーズと契約。リバースは、優勝を狙えるチームと契約したかったようで、ニックスがトレードではなく解雇してくれたことに感謝したという。結局、スパーズではファイナルに進むことも出来なかったのだが、2シーズン過ごして現役を引退した。

引退後のリバースは99年にマジックのHCに就任。当時のマジックはペニー・ハーダウェイらそれまでの主力をごっそり放出して再建モードに入ったときだったが、ダレル・アームストロングを中心としてロールプレイヤーを上手く起用し、41勝41敗をマーク。プレイオフにこそ出られなかったが、リバースはコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞した。オフにはグラント・ヒル、Tマックを加え、大幅な戦力アップが期待されるが、ヒルが故障でシーズンの大半を欠場。ヒルの故障は長引き、リバースは以降3シーズンに渡って、Tマックとロールプレイヤーで戦わねばならない苦境を強いられた。プレイオフには3年連続で進んだが、いずれも下位シードであり、1stラウンドで負けている。そして、壊滅的なスタートを切った03~04シーズン序盤に解任。リバースはヒルを常に庇い、Tマックもリバースへの信頼を見せるなど、選手達との関係は悪くなかったようだが、結果には繋がらなかった。

シーズンの残りはコメンテーターを務め、そのオフにはセルティックスのHCに就任。当時はアントワン・ウォーカー放出などで戦力が低下しており、再建モードだったが、「ダニー・エインジ(GM)の熱意に打たれた」として契約。就任後しばらくは戦力が上がらず、チーム唯一のスターであるポール・ピアースとの不和も噂されるなど芳しくない状態が続いた。

しかし、07年オフにケビン・ガーネットとレイ・アレンが加入して、リーグ屈指の強豪に一気にステップアップ。セルティックスは優勝し、リバースは自身二度目のコーチ・オブ・ザ・イヤーに輝いた。ビッグ3の起用法など、コーチングには多少の疑問符がついている印象もあったが、2010年にもファイナルに進んでおり、2度のファイナル進出は立派。2013年からはクリッパーズのHCを務めている。オースティン・リバースの父。


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