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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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昭和51年ドラフト組②

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先日、弦楽四重奏でサウスポーをやったら意外と好評でした。

 

 

スコット・メイ

 

6フィート7インチのFで、無敗で知られた76年のインディアナ大の主力メンバー。ボビー・ナイトの元でNCAAチャンピオンに輝き、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー、76年のオリンピックの金メダルを獲得。76年のドラフトでは1巡目第2位でブルズに指名された。

最初2シーズンはまずまずだったが、3年目は故障で大きくブレーキ。4年目は持ち直すが、80~81シーズンになると、ラリー・ケノンの加入などがあってか出番が減少。81~82シーズンはバックス、82~83シーズンはピストンズで9試合だけプレイしてキャリアを終えた。カレッジ時代の活躍とドラフト指名順位を考えると期待外れであった。

息子が2人おり、ひとりはNBAでプレイしたショーン・メイである。

 

ロバート・パリッシュ

 

センテナリー大出身。80年代にセルティックスが強かったときのスターティングCである。76年のドラフト1巡目第8位でウォリアーズ入り。80年にセルティックスへトレードされ、パリッシュはこの移籍を「屋外便所からビルの最上階に行くようなものだ」と表現した。ここではラリー・バード、ケビン・マクヘイルと強力なフロントラインを形成し、3度の優勝に貢献した。

7フッターながら機動力とスキルがあり、速攻に絡むことも出来たし、ジャンプショットも上手かった。アーチが高く、独特なシュートではあったのだが。93~94シーズンまでセルティックスで過ごし、94~96年をホーネッツ、96~97シーズンをブルズでプレイし、43歳で現役を引退した(計21シーズン)。NBA史上3番目の最高齢でプレイした選手だが、1位のナット・ヒッキー(46歳)は47~48シーズンに2試合プレイしただけのキャリアで、2位のケビン・ウィリス(44歳)も、43歳のシーズンはプレイしていなかった。キャリアを通じて大きな故障に見舞われたこともなく、総試合出場数は歴代1位である。これだけ長くプレイできたのは、ウォリアーズ時代にクリフォード・レイから体のメンテナンスを教わったからだとか。

セルティックスに在籍した最後のシーズンは40歳だったが、スターティングCを務め、ホーネッツでの2シーズンも主力として精力的にプレイした。ブルズでの最後のシーズンは出番が限られ、キャリアで初めて1シーズンに11試合欠場したが、それでも控えの中ではベストのCであった。ここで自身4つ目のチャンピオン・リングを獲得するが、「このチーム(ブルズ)も強いけど、86年のセルティックスの方が上だろうね。あのチームはフロントラインが充実していた」とコメント。因みに、当時のブルズのHC、フィル・ジャクソンは、パリッシュがデビューしたときはまだ現役選手だった。

タフな選手で、87年プレイオフのピストンズとのシリーズで、ビル・レインビアをフロアに倒したのは有名か。ビル・ウォルトンは「歴代最高のシューティング・ビッグマン」と評している。背番号00はセルティックスの永久欠番で、もちろん殿堂入りも果たしている。愛称の「チーフ」は、セルティックスでチームメイトだったセドリック・マクスウェルに名付けられた。

 

デニス・ジョンソン

 

DJの愛称で知られた6フィート4インチのG。プロ入り当初はSGとして苦闘する姿が見られたが、のちにPGとして大成功のキャリアを収めた。

高校時代は6フィートもなく、出番もほとんどなかったという。その後、ジュニア・カレッジ、ペパーダイン大で実績を積み、76年のドラフトにエントリーするが、評価はそれほど高くなく、ソニックスが2巡目第29位で指名。ジュニア・カレッジ時代にコーチと衝突したり、それがきっかけでチームから追い出されたりと、プレイ以外のマイナス要素も足を引っ張ったようである。

4年契約を結んだジョンソンは、フレッド・ブラウン、スリック・ワッツのバックアップとしてキャリアをスタート。1年目のHCはビル・ラッセルであった。2年目、ボブ・ホプキンス新HCを迎えるが、チームは5勝17敗と低迷。しかし、ここでホプキンスが解任され、レニー・ウィルケンスがHCに就任すると状況は一気に好転。ジョンソンとガス・ウィリアムスを積極的に起用するなどウィルケンスのプランは当たり、最終的に47勝35敗をマーク。プレイオフではレイカーズ、ディフェンディング・チャンピオンのブレイザーズ、ナゲッツを破り、なんとファイナルまで進出した。ファイナルではソニックスが3勝2敗で先に王手をかけるが、最終第7戦まで縺れた末に敗退。ジョンソンはこの最終戦で14本のFGをすべて外すなど精彩を欠き、戦犯となってしまった。のちに「このときは本当に息が詰まりそうだった。でも、この経験が自分を成長させてくれたよ」と語っている。

そして、この言葉通り一皮むけたジョンソンは、翌79年ファイナルで大活躍。持ち前の得点力だけでなく、5試合で14ブロックをマークするなど攻守に渡って素晴らしいプレイを見せ、ソニックスは優勝。ファイナルMVPに輝いた。しかし、79~80シーズンは、引き続き戦力的には整っていたにもかかわらず、カンファレンス・ファイナルでルーキーのマジック・ジョンソンがいたレイカーズに敗戦(のちにジョンソンは、この敗戦をキャリアで最も大きな失望としている)。また、ジョンソンはHCのレニー・ウィルケンスとの衝突が続いており、その影響もあってか、80年オフ、ポール・ウェストファル+ドラフト指名権と交換でサンズへ放出された。

ジョンソンはサンズでも攻守に渡って大活躍。得点ではリーディング・スコアラーとしてチームを引っ張った(因みに、ジョンソンが去った80~81シーズンのソニックスは勝ち星を22も減らしている)。最初の2年は、カンファレンス・ファイナルに進むなど悪くなかったのだが、82~83シーズンに1stラウンドで負けてしまうと、ソニックス時代と似たような状況になってしまう。ジョンソンは、ここでもHCのジョン・マックロードと衝突を繰り返しており、GMのジェリー・コランジェロによってリッキー・ロビー+ドラフト指名権と交換でセルティックスへ放出されてしまった(因みにジョンソンが83~84シーズンのサンズは勝ち星を12減らすことになる)。

当時のセルティックスはシクサーズ相手に苦戦しており、その理由のひとつがアンドリュー・トゥーニーを止められないということであった。オール・ディフェンシブ・チーム常連のジョンソンの加入はこの問題を解決すると期待され、ジョンソン自身もこの移籍を「夢が叶った」と喜んだ。ジョンソン加入1年目のセルティックスは早速ファイナルに進出。4勝3敗でレイカーズを破り、チャンピオンに輝いた。ジョンソンはそれまでのようにスコアラーとしてではなく、PGとしてチームに貢献。マジック・ジョンソンを抑えたディフェンスも光り、逆にマジックはシリーズ中に何度か判断ミスを犯して「トラジック・ジョンソン」と呼ばれるようになった。

翌84~85シーズンもセルティックスはファイナルでレイカーズと激突。ジョンソンはゲーム5で勝負を決めるブザービーターを決めるなど貢献したが、このときは38歳のカリーム・アブドゥル-ジャバーを止められずに2勝4敗で敗戦。ジョンソンはのちに「最もタフな負けのひとつだった」とコメントしている。

しかし、セルティックスは翌85~86シーズンもファイナルに進出。ツインタワー擁するロケッツを4勝2敗で退け、ジョンソンは自身3つめのチャンピオン・リングを獲得した。

続く86~87シーズン、セルティックスはセミファイナルでバックスに苦戦。最終第7戦の終盤、アウト・オブ・バウンズになりかけたボールをジョンソンが客席にダイブしてティップし、それがジャック・シクマにぶつかってラインを割り、ボールをキープしたプレイがセルティックスの勝利に繋がった。そして、カンファレンス・ファイナルではピストンズとタフな戦いを繰り広げることになる。

ジョンソンの見せ場はゲーム5。残り時間6秒で、アイザイア・トーマスが入れたインバウンズ・パスをバードがスティールしてジョンソンにパス。ジョンソンは難しい体制からレイアップを決め、チームを逆転勝利に導いた。この瞬間、実況担当のジョニー・モストが叫んだのは有名だろうか。ジョンソンもお気に入りの瞬間だという。また、ゲーム6・7ではデニス・ロドマンと挑発し合うなど、別の持ち味も出している。結局、この年もファイナルに進むのだが、2年ぶりの再戦となったレイカーズに勝てず、2勝4敗で敗れてしまった。

そして翌87~88シーズン、セルティックスの戦力は落ちており、カンファレンス・ファイナルでピストンズに敗退。88~89シーズンはバード不在もあって1stラウンドで敗れてしまい、ジョンソンにとって最後となった89~90シーズンも1stラウンドで姿を消した。衰えは隠せなかったが、HCのジミー・ロジャースは「うちのチームの繋ぎ役だね」と評価。背番号3は永久欠番となった。引退セレモニーでは、マジック・ジョンソンが「史上最も偉大なバックコートのディフェンダー」と賛辞を送り、バードも「最高のチームメイト」と賞賛している。

キャリア通算でオールスターに5度、オールNBAチームに2度、オール・ディフェンシブ・チームに9年連続選出。若い頃は果敢にダンクを狙うなど積極的なプレイで知られ、セルティックスでは理性的なGとして名を馳せた。競争心の強い選手としても有名だった。勝負強さから「マネー・プレイヤー(金を稼げる選手)」とも呼ばれたとか。

引退後は93年にセルティックスのスカウトに就任。しかし同年のうちにACとなり、97年まで務めた。03年にはアルビン・ジェントリーの後を継いで24試合だけクリッパーズのHCを務めた。これ以外にブレイザーズのスカウトやNBDLのHCも務めている。

07年に心臓発作で他界。そこから3年後の2010年に殿堂入りを果たした。殿堂入りまで時間が掛かった理由として、トラブルメイカーとしての一面が邪魔をしたという評価もあるようだが、真偽の程は不明。因みにジョンソンが亡くなったときには、ダニー・エインジは「歴代で最も過小評価されていた選手だよ」とコメントも。また、ビル・レインビアは「偉大なチームの偉大な選手だ」と呼んだ。

 

フライ・ウィリアムス

 

本名はジェームス・ウィリアムス。元々は野球をやっており、ピッチャーだったが、野球でやっていくには背が高くなりすぎたと助言されてバスケットへ転向。ストリート・バスケットに頻繁に参加するようになり、ワールド・B・フリーら素晴らしい選手たちと共に腕を磨いた。高校1年で6フィート5インチまで背の伸びたウィリアムスは活躍。そのプレイング・スタイルから「フライ」という愛称を授かったのもこの頃だった。

出席率が悪かったウィリアムスは大学進学予備校を経て高校を卒業し、オースティン・ペイ州立大に進学。のちにウィザーズのHCとなるレオナード・ハミルトンに勧誘されてのことだった。入学時、空中に「フライ」と書くというデモンストレーションを含む大歓迎で迎えられたウィリアムスは、いきなり全米5位となる平均29.4点をマーク。チームはNCAAトーナメントに進んだ(2回戦で敗退)。そして、2年次が終わると生活の苦しさを理由にプロ入りを決意。74年、ABAのナゲッツに指名を受け、その後、スピリッツ・オブ・セントルイスに売られた。

プロデビューとなった74~75シーズンは平均9.4点。得点力というよりはショー的要素で知られたウィリアムスは、一貫した活躍が出来なかったようだ。そして、翌シーズンはプレイしなかった。75~76シーズン終了後にはABAが消滅し、4チームがNBAに吸収合併。ウィリアムスはCBAでキャリアを続けた。

しかし、NBAのチームから魅力的なオファーはなく、次はイスラエルでプレイ。それでもNBAのチームに注目されることはなかった。ウィリアムスはのちに、自分の気性の荒さが、オファーがなかった理由だとしている。

カレッジ時代は本当にスターで、ファンからの人気も高い選手だった。背番号35は2009年にオースティン・ペイ州立大の永久欠番となっている。


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