オーラパワーがほしい!
ケビン・ギャンブル
6フィート5インチのスウィングマン。リンカーン・カレッジで2年、アイオワ大で2年過ごし、ドラフト3巡目第63位でブレイザーズに指名された。アイオワ大が85年にリクルートした選手のひとりで、同期にはBJ・アームストロングらがいる。ブレイザーズで9試合出ただけで解雇され、シーズンの残りはCBAでプレイした。NBA定着のきっかけとなったのは、翌シーズン序盤にセルティックスに拾われたこと。ラリー・バードの戦線離脱を受けての動きであった。
そのシーズンは一端のベンチ・プレイヤーだったが、少しずつ存在感を示し、3年目にはスターターに定着。平均15.6点をマークしただけでなく、ウィングの選手としては驚異的な60%近いFG成功率をマークした。主力の高齢化やレジー・ルイスの急逝など戦力下降気味のチームで、貴重なロールプレイヤーとして活躍していた。94年オフにヒートへ移籍し、翌シーズンのトレード期限にはキングスにトレード。96~97シーズン終了後にキャリアを終えた。
セルティックスを離れてからは、老け込むような年齢でもなかったが出場機会は限られ、あまり目立たなかった。最盛期は非常に精度の高いシューターで、キャリアを重ねるに連れて3Pもレパートリーに加わった。
スコッティ・ピッペン
史上最高のオールラウンダーと称されるSF。ブルズで6度の優勝を経験しており、オール・ディフェンシブ・チームに8度、オールNBA1stチームに3度、オールスターに7度選出され、94年にはオールスターMVPを受賞した。NBAの偉大な50人にも選ばれ、ブルズ史上永久欠番となった4人目の選手でもある。セントラル大アーカンソー校の出身で、入学当時は6フィート1インチしかなく、用具係だったという話は有名である。
4年間で6フィート8インチまで背が伸びたピッペンは選手としても成長を見せ、ドラフト前のワークアウトでも幾つかのチームから高い評価を得た。なかでも強く関心を持ったのが、8位指名権を持っていたブルズのジェリー・クラウスGMで、獲得を画策。クラウスは、6位指名権を持つキングスもピッペンを狙っていることを知って、5位指名権のソニックスと取引。こうしてピッペンは1巡目第5位でソニックスに指名され、直後にブルズにトレード、入団に至った。
ルーキーイヤーはバックアップFだったが、プレイオフでスターターとして起用され、過去10年で初の1stラウンド突破に貢献。翌シーズン序盤にはスターティングSFに定着し、3年目にはオールスター初出場も果たした。ピッペンの成長に比例するようにチームも強くなり、89・90年と2年連続でカンファレンス・ファイナルまで進出。どちらの年も王者ピストンズをあと一歩というところまで苦しめた、ただ、ピッペンは2年連続で肝心な第7戦で不発。精神的にヤワというレッテルを貼られてしまう。
これらに次ぐ90~91シーズン、ピッペンはオールスターには選ばれなかったが一回り成長を見せ、リーグ屈指のディフェンダー兼ジョーダンに次ぐオフェンスの脅威として台頭、プレイオフでも堂々とプレイした。3年連続の顔合わせとなったピストンズとのカンファレンス・ファイナルではデニス・ロドマンのラフプレイにも動じず、チームもスウィープで勝利。レイカーズとのファイナルではマジック・ジョンソン相手に好ディフェンスを見せ、ディフェンダーとしての評価を高めた。
91年のチャンピオンとなったブルズは続く2年も優勝し、3ピートを達成。92年の夏にはドリーム・チームⅠのメンバーとしてバルセロナ・オリンピックで金メダルをも獲得している。そして93~94シーズンのトレーニング・キャンプ直前にはジョーダンが現役引退を表明。ブルズはピッペンのチームとなった。ピッペンはシーズンMVPの投票で2位に食い込むほどの活躍を見せ、オールスターではMVPを受賞。スティール王にも輝いた。
ブルズはジョーダンが抜けたにもかかわらず前年比マイナス2勝の55勝をマーク。フィル・ジャクソンHCは「この年はスコッティがMVPをとるべきだった」とコメントしている。ただ、この年はニックスとのカンファレンス・セミファイナルで有名なボイコット事件を起こしており、オフには同期入団で仲の良かったホーレス・グラントがフロントと揉めてマジックに移籍してしまうなど、微妙な時期でもあった。ソニックスのショーン・ケンプとのトレードの噂が出たり、クーコッチとの不仲が噂されたのもこの頃である。
グラントを失った94~95シーズンのブルズは序盤から苦しい戦いが続いたが、シーズン終盤にジョーダンが復帰。勝率5割そこそこだったチームはジョーダンの復帰で13勝4敗とスパートをかけた。プレイオフではマジックに敗れるが、ブルズはそのオフにロドマンを獲得。ピッペンとの関係等、ロドマンの加入は様々な懸念を抱かせたが、ジョーダン、ピッペン、ロドマンの3人はジャクソンHCの元で絶妙なバスケットを展開し、史上最高勝率となる72勝10敗をマークし、見事チャンピオンになった。
ファイナルでのピッペンはシュートタッチが悪く、ロドマンの方が目立ったが、ファイナル直後の夏はアトランタ・オリンピックに出場して金メダルを獲得。翌シーズンはロドマンやクーコッチらが安定しなかったこともあってシーズン通してフル稼働し、リーグ史上2位タイの69勝13敗、2連覇に貢献した。しかし、97年オフにクラウスGMとの確執が表面化。元々関係はよくなかったが、ピッペンは自身のサラリーの低さなどを理由に正当な評価を受けていないとフロントを批判し、一方でトレードの噂も浮上した。
こうした中でピッペンはトレーニング・キャンプ直前に手術を行い、シーズン最初の2ヶ月ほどを欠場することが決定。オフに入ってすぐ手術していれば開幕に間に合ったと言われ、おまけに開幕直後には公にトレードを要求した。結局そのシーズンは移籍せず、ブルズで復帰して2度目の3ピートを達成するのだが、過去2年に比して苦戦を強いられた。そして、ファイナル終了から間もなくジャクソンHCがチームを去り、ロックアウトを挟んでジョーダンが2度目の引退を表明。次はピッペンの番だった。
ピッペンはサイン&トレードでロケッツに移籍。望み通りの大型契約を結び、また、移籍先も希望通りで、このときばかりはクラウスに感謝したとか。オラジュワン、バークリーと新たなビッグ3を形成したロケッツは98~99シーズン注目のチームとなったが、ピッペンはフィットせず、1stラウンド敗退と不本意なシーズンとなってしまう。オラジュワン、バークリーのアイソレーション中心のオフェンスはピッペンには合わなかった。そしてオフにはバークリーと仲違いが発生。
ピッペンはトレードを要求し、バークリーがそれに噛みついて泥沼化。最終的にはピッペンは大型トレードでブレイザーズへトレードされた。デイモン・ストウダマイヤー、スティーブ・スミス、ラシード・ウォレスらにピッペンが加わってリーグ屈指の層の厚さとなったブレイザーズは、開幕から絶好調。プレイオフではカンファレンス・ファイナルでレイカーズに惜敗するが、セミファイナルではジャズをスウィープするなどインパクトを残した。
しかし、ブレイザーズはこのときがピークで、ピッペンのキャリアもここから下降。02~03シーズンにはPGとして起用され、従来のPGであるストウダイマイヤー以上の働きを見せるなど、選手としての格の高さはさすがだったが、毎年のように故障がついて回るようになり、03~04シーズンを古巣ブルズで過ごして現役を引退した。最後のシーズンは23試合しかプレイしていない。05年12月9日のレイカーズ@ブルズ戦ではハーフタイム中に永久欠番セレモニーが行われた。
ハンドリングと状況判断がよく、キャリアを通じてPG的役割を任されることも多かった。シューターとして不安定だが平均20点以上稼げる得点力もある。ブルズ時代は△オフェンスの潤滑油的存在で、システムの中で非常に効果的な働きを見せていた。また、ディフェンスの評価はオフェンス以上に高く、リーグ史上でみても有数のディフェンダーである。PG~PFまでマッチアップが可能で、「ワンマン・レスキュー」と言われるほどヘルプ・ディフェンスも上手かった。
「ジョーダンの陰」など厳しい評価を受けることもあったが、そのジョーダンが「僕を止められるのはスコッティだけ」「スコッティが僕を最高の選手にしてくれた」と最大級の賛辞を送っている。因みに引退後の08年、1試合だけスウェーデンでプレイしたことがある。
テリス・フランク
ドラフト1巡目第14位でウェスタン・ケンタッキー大からウォリアーズ入りした、6フィート10インチのF/C。1年目は78試合中29試合でスターターを務めるなど、積極的に起用されたが、結果を残せず、2年目は出場機会が大きく制限された。89年オフにヒートへ移籍し、創設2年目のチームでキャリア最高の成績を残すが、オフには解雇。翌90~91シーズンはNBAでプレイしなかった。ヨーロッパでの1年を挟み、91~92シーズン、93~94シーズンにウルブズでもプレイしている。
95年にはキャブスと契約を結ぶが、開幕前に解雇された。
クリス・ダドリー
オフェンス全般が不得手ながら、ディフェンスとリバウンドで16シーズン生き残ったC。エール大出身で、ドラフト4巡目第75位でキャブスに入団。当時はリーグ唯一の糖尿病の選手であった。3年目の途中にネッツへトレードされ、93年には更にブレイザーズへ移籍。94~95シーズンには初めて全82試合でスターターを務めた。97年にはユーイングのニックスへ移籍。(恐らく)年齢的な衰えと若手の台頭で出場機会は減少したが、当時のニックスのチームカラーには合っていた。
00年には◇トレードでサンズへ移籍。サンズで1年プレイした後、古巣ブレイザーズで2年過ごし、現役を引退した。最後のシーズンは3試合しか出ていない。キャリアのピーク時はリバウンドとブロックが光ったが、それもリーグリーダーになるほどではなかった。ただ、その献身的なスタイルはチームへの貢献度が高く、スターC不在のネッツ、ブレイザーズ時代はスターターとして起用されることが多かった。キャリア晩年にダドリーを指導したモーリス・チークスは「本当のプロだよ」と絶賛している。
不格好なFTは有名で、90年4月14日の試合では13本連続を含む、18本中17本のFTを外したこともあった。
ホーレス・グラント
ブルズが91~93年に3ピートしたときのスターティングPF。クレムソン大出身で、ハーベイ・グラントの双子の兄でもある。ドラフト1巡目第10位でブルズに入団。チャールズ・オークリーのバックアップとしてキャリアをスタートした。89年にそのオークリーがニックスへトレードされるとスターターに昇格。すぐにチーム1位のリバウンダーとなり、得点でもチーム3位となるなど期待に応えた。当時のブルズは激しいプレス・ディフェンスが売りのひとつで、PFながらスピードのあるグラントの存在は貴重だった。
ジョーダンが現役を引退した93~94シーズンはオールスターにも初選出されるが、そのオフに再契約の交渉でフロントと揉めて決別。FAとしてマジックに移籍した。優勝を狙える環境を考えてマジックを選択したというグラントは、マジックにフィット。シャック&ペニーを上手くサポート&リードし、いきなりチーム史上初のファイナル進出に貢献した。カンファレンス・セミファイナルでは古巣ブルズを下しており、そのときはチームメイトに担がれてタオルを振り回すなど、グラントの存在は大きかった。
しかし、シャックの移籍やペニーの故障でマジックの状況も変わり、再建期に入った99年オフ、ドラフト当日のトレードでソニックスへ移籍した。ここではチーム事情からCとして起用された。00~01シーズンはレイカーズでプレイ。さすがに衰えは明らかだったがスターティングPFとして1シーズン過ごし、連覇に貢献している。01年オフには古巣マジックと契約を結ぶがドック・リバースHCと揉め、翌シーズンの開幕直後に解雇。一度はここで現役を退くが、03年オフにレイカーズと契約。
フィル・ジャクソンHCのもと、シャック&コービーに加え、カール・マローン、ゲーリー・ペイトンが加わった豪華な布陣のなかで最後のシーズンを過ごした。愛称は「ジェネラル」。ゴーグルがトレードマークだが、これを着用するようになったのは5年目くらいからである。レイカーズ時代はサングラス型のモノをつけていた。シャックが「一緒にプレイした中で最高のPF」、ロドマンが「ブルズのハートだった」と評するなど、そのプレイに対する評価は高い。
ブルズ時代はジョーダン、ピッペンに次ぐ3rdオプションであることに不満もあったようで、また、ジョーダンに「ホーレスは僕のことを尊敬していないようだ」とコメントされたり、ジャクソンHCとの関係が良好ではないと言われたりしたこともあった。攻守にバランスのとれたPFで、オール・ディフェンシブ・チームに4度選出されたことがある一方、ミドルレンジのジャンパーなどオフェンスの精度も高かった。
ジョー・ウルフ
名門ノースカロライナ大出身のPFで、ドラフト1巡目第13位でクリッパーズ入り。1年目は42試合中26試合でスターターを務めたが、平均7.6点・FG成功率40.7%に終わるなど期待外れで、90年にはナゲッツに移籍した。移籍1年目はチーム事情から主にCとして積極的に起用され、自己最高のシーズンを過ごすが、翌年はムトンボの加入でトーンダウン。オフにはセルティックスへ移籍した。しかし、開幕直後にすぐ放出され、ブレイザーズへ移籍。計23試合の出場に終わり、翌シーズンはNBAを離れた。
94~95シーズンにホーネッツでNBAに戻ってくるが、それ以降は現役最後の98~99シーズンまで、ほぼ1シーズンずつ移籍を繰り返した。96~97シーズンには故郷に近いバックスでもプレイしている(ウィスコンシン州の生まれ)。余談だが、そのシーズンのブルズ戦でデニス・ロドマンに股間を叩かれたことがある(ロドマンは1試合の出場停止)。高校時代は地元のスターで、カレッジ時代も、機動力があり、3Pも打てるビッグマンとして活躍した。ただ、そうしたプレイの幅の広さは、NBAではたいした脅威とならなかったよう。
ビンセント・アスキュー
メンフィス州立大出身のスウィングマン。在学中にカンザス大に移ることを考えたが、NCAAの規定違反を犯してしまい、同大に残った。カンザス大訪問中にアスキューの祖母が亡くなり、当時同大のHCだったラリー・ブラウンにメンフィスに帰るための飛行機のチケットを渡されたのだが、それが不当な勧誘に相当してしまったというのがその理由だという。アスキューは3年次終了後にアーリー・エントリーを表明するが、評価は高くなく、ドラフト2巡目第39位でシクサーズに指名された。
各チームのスカウトは、アスキューの多彩さを評価していたモノのNBAで生き残っていける選手かは疑わしい、とみていたとか。実際、シクサーズからはシーズン序盤のうちに解雇され、その後の3週間をブレッツで過ごすが、ここでは1試合も起用されないまま解雇、CBAに移った。転機となったのは90~91シーズン終盤にウォリアーズに拾われたこと。10日間契約ではあったが、そのまま生き残り、翌シーズンはバックアップながら80試合に出場した。
92~93シーズンはキングスで開幕を迎えるが、すぐにソニックスにトレード。複数のポジションをこなせるアスキューはソニックス自慢のベンチ陣の一角となった。当時は、「リーグで5本の指に入る6マン」と高く評価する見方もあるほどだった。しかし、95~96シーズン終盤(プレイオフ?)、自身の起用法に文句を付けて不満分子と化すと、オフにはネッツへ移籍。迎えた96~97シーズンは、開幕戦をプレイしただけでペイサーズへトレードされ、トレード期限には更にナゲッツへ放出された。
ペイサーズでは数年を経てブラウンHCと再会。ブラウンはアスキューのディフェンスとアンセルフィッシュさを評価していた。ナゲッツでは1試合しかプレイしていない。オフにはブレイザーズと契約するが、途中で解雇。これが最後のプレイとなった。アウトサイド・シュートは精度が低いが、ポストでもペリメーターでもプレイでき、ディフェンスに長けた、使い勝手の良い選手。CBAで2年連続MVPを受賞した、史上唯一の選手でもある(90・91年)。
引退後は母校メンフィス大に戻ってジョン・カリパリの下で働いたり、ソニックス時代のHCであるジョージ・カールの勧めで海外に行ったりとコーチ業に勤しんでいるが、トラブルを起こすなどあまり順調ではない様子。