この番組、8期・9期の頃が好きでしたw
カルロス・ロジャース
6フィート11インチのF/C。身体能力が高く、スピードとクイックネスを兼ね備えている。ドラフト1巡目第11位でソニックスに指名され、直後にウォリアーズへトレード。カレッジ時代はアーカンソー大リトルロック校とテネシー大で過ごした。2年目にラプターズへ移籍したのを機にプチブレイク。翌96~97シーズンには3Pもオフェンスのバリエーションに加え、ベンチ・スタートながら貢献度は高かった。しかし、97~98シーズン途中にブレイザーズへトレードされると一気に出場機会が激減。
層の厚いベテランのチームに出番はなく、おまけに故障もあり、1シーズン半で5試合しかプレイできなかった。99年オフにスコッティ・ピッペン絡みのトレードでロケッツに移籍すると復活、ローテーション入りして2シーズン生き残ったが、ペイサーズに移籍した01~02シーズンは再び出場機会を失った。技術的には荒削り。
グレッグ・マイナー
ルイビル大出身のスウィングマン。ドラフトでは1巡目第25位でクリッパーズに指名され、数日後にペイサーズへトレードされるのだが、1巡目指名のルーキーにもかかわらず、プレシーズン前に解雇。直後の10月半ばにセルティックスと契約を結んだ。ポジションの割にシュートエリアは狭いが、堅実なプレイでチームに貢献。2年目にはシーズンの約半分でスターターを務めるなど、成長を見せた。しかし、3年目は故障で60試合近くを欠場。
翌シーズンはロスターがほぼ一新されてしまい、復帰したマイナーに以前のような居場所はなかった。94~99年まで、5年間のキャリアだったが、スタッツだけ見るとベンチ・プレイヤーとしては悪くない。
インカ・ダーレ
ナイジェリア出身の7フッター(270ポンド)。91年にラゴスを訪れていた際、ナイジェリア出身の弁護士によって発見されてバスケットを始め、それから渡米したという変わり種。バスケットの前はテニスをやっていたとか。渡米後、ジョージ・ワシントン大に進んだダーレはすぐにチームの主力となり、1年目の92~93シーズン、同大は16年ぶりとなるNCAAトーナメント進出を果たした。2年過ごしたダーレは得点&リバウンドでダブルダブル、ブロックでは2本を超えるアベレージを残している。
アーリー・エントリーを表明したダーレは、1巡目第14位でネッツに指名され、6年間900万ドルという契約をゲット。期待の大きさが伺えた。しかし、1年目は3分(1試合)プレイした後、故障によってシーズンの残りを欠場。オフのエクスパンション・ドラフトでは、ネッツからプロテクトされなかったにもかかわらず、ラプターズからもグリズリーズからも指名されなかった。ネッツに残って迎えた2年目は自己ベストとなる58試合に出場するが、内容は記録的に凄まじく、なんとシーズン通算0アシストを達成。
その一方で72回のTOを犯しており、ダーレは「アシスト無しでの連続最多出場時間」というリーグ記録を持っている。当時はダーレからボールをもらってシュートを外す選手に対して、ファンがブーイングするほどであった。3年目の96~97シーズン中盤、77試合・770分を経過してようやくキャリア初アシストを達成。ダーレは初アシストを喜び、試合後にタオルを配り始めたという。そして、こうした散々なパフォーマンスやその言動から、ダーレは周囲からバカにされることもしばしばだった。
チームメイトだったジェイソン・ウィリアムスは初アシストを決めて喜ぶダーレを笑われ、ケニー・アンダーソンには「スティンカ・ダーレ(スティンカは臭いという意味)」と呼ばれ、頻繁なTOでボールを失うために「ブラックホール」とも言われた。また、ドラフト時に「シャックは爆発力があるけど僕もだ」「僕がベストを尽くせば、これまでの最高のビッグマンたちの何人かには勝ってるね」「数年以内にオールスターになって、リーグでベストCになるよ」といったコメントを残したのも、からかわれる理由だったかもしれない。
3年目のシーズン途中にはブロックバスター・トレードでマブスに放出されそうになったが、ネッツがトレード要員にダーレを提示したところ、マブス側が「ダーレをエド・オバノンに代えて欲しい」と拒否したという話もある。この頃にはエージェントがHCのジョン・カリパリに「ダーレをトレードするか解雇するかプレイさせろ」と激昂したそうだが、カリパリは笑っていたという。4年目の途中、遂にマジックへトレードされるが、直後に解雇され、それ以降NBAでプレイすることはなかった。
プロキャリアは03年まで。そして引退直後の04年、心臓発作で亡くなった。ケリー・キトルズらネッツ時代のチームメイト、カレッジ時代の師であるマイク・ジャービスらが追悼のコメントを寄せている。NBAでの通算は4シーズンで110試合をプレイし、4アシスト・96TO。アシスト/TOの比率は最悪の部類に入る。
ダーリン・ハンコック
ドラフト2巡目第38位でホーネッツ入りしたSF。コミュニティ・カレッジを経てカンザス大に進むが、学業上の問題などで同大からインディアナ州立大に移ることを選択。ところが、程なくして考えを変え、フランスへ渡り、一足先にプロデビューした。ホーネッツでは2シーズン過ごし、ちょっとした戦力になっていたが、3年目は3チームに籍を置き、その後はアメリカ国内の様々なリーグを転々としながら。05年までキャリアを続けた。
身体能力が高く、高校時代にはフリースロー・ラインから跳んでダンクを決めることが出来た。キャリアのハイライトは95~96シーズン終盤のブルズ戦で、この試合でハンコックは13点をマーク。72勝をあげたブルズにホームでのシーズン初黒星をつけている。シュートはお粗末。
セルゲイ・バザレイビッチ
ロシア人PG。モスクワ出身で、83年に地元のCSKAモスクワでプロデビュー。88~92年はダイナモ・モスクワで過ごし、92~94年はトルコでプレイした。94年オフにホークスと契約を結ぶが、特に戦力にはなれず、10試合プレイしただけで解雇されている。解雇直後はスペインへ渡り、翌シーズンはダイナモに復帰。以降、ダイナモ・モスクワ、CSKAモスクワ、イタリアなどを渡り歩き、01年に現役を引退した。母国のクラブ・チームでは優勝を経験するなど、輝かしいキャリアを過ごした模様。
もちろんナショナル・チームのメンバーとしてもプレイしており、世界選手権で2度の銀メダルを獲得。メダルには手が届かなかったが、バルセロナ・オリンピック、シドニー・オリンピックでも代表チームの一員としてプレイした。髭が印象的。
ブライアン・グラント
ゼイビア大出身のPF。ドラフト1巡目第8位でキングス入りし、いきなり5年間2900万ドルの契約を結んだ。オール・ルーキー1stチームに選ばれるなど1年目から活躍を見せるが、96~97シーズンの半分以上を故障で棒に振ると、そのオフにはオプションを行使してFAとなり、ブレイザーズと契約。6年間6700万ドルという大型契約だった。ここでのハイライトは98~99シーズン。プレイオフで強豪ジャズを破る原動力となったのがグラントで、カール・マローンとのマッチアップは印象深い。
しかし、99~00シーズンはピッペンの加入や自身の故障、ラシード・ウォレスの成長などでバックアップに回り、出場機会も減少。移籍を希望して再びFAとなり(オプションを行使した)、サイン&トレードでヒートへ移籍した。このときは7年間8600万ドルという、更なる大型契約であった。このオフにはエディ・ジョーンズもヒートに加入しており、2人は大きな期待を背負うが、トレーニング・キャンプ直前に主砲モーニングの腎疾患が発覚し、復帰時期未定で戦線離脱。ヒートは一気に苦しくなった。
モーニング以外にスターターを任せられるCがいなかったヒートは、グラントをCとして起用。グラントはキャリア最高のシーズンを過ごし、期待に応えた。しかし、モーニングが復帰して従来のPFに戻るとパッとせず、以降03~04シーズンまでヒートで過ごすのだが、契約当初の期待には応えられなかった。04年オフにはシャキール・オニールを獲得するための大型トレードでレイカーズへ移籍。しかし、故障もあってほとんど貢献できず、オフにはアラン・ヒューストンの例外条項で解雇された。
05~06シーズンはサンズで過ごすが、プレイしたのは僅かに21試合。シーズン終了後にセルティックスへ放出され、間もなく解雇、そのまま現役を引退した。愛称は「ザ・ジェネラル」。ブレイザーズに在籍していた頃から、ボブ・マーリーに肖ってドレッド・ヘアーにするようになった。
トレバー・ラフィン
ハワイ大出身のPG。94年にドラフト外でサンズと契約を結び、95年オフにシクサーズと契約。ここで得点力の高さを見せるなどブレイクし、チームが弱かったとはいえ、ベテランのバーノン・マクスウェルとポジションを分け合うほどの健闘を見せた。しかし、翌オフにネッツと契約を結ぶが開幕前に解雇されてしまい、それ以降NBAではプレイしなかった。短時間で多くの得点を稼げるインスタント・スコアラー的な要素を持った選手。ルーキーイヤーにはルーキー・オールスターでもプレイしている。
エリック・モブリー
6フィート11インチのC。カレッジ時代はコミュニティ・カレッジとピッツバーグ大で過ごした。ドラフト1巡目第18位でバックスに入団、1年目は故障もあって46試合の出場に終わったが、将来への期待と層の薄さから26試合でスターターとして起用された。しかし、2年目の開幕直後にグリズリーズへトレードされると、似たような若手が多いエクスパンション・チームでは目立つことも出来ず、翌96~97シーズンを最後にNBAを去った。
ビル・カーリー
ドラフト1巡目第22位でスパーズに指名された6フィート9インチの白人PF。高校時代からスター選手で、故障で2年生のシーズンを全休したにもかかわらず、カレッジ進学時は引く手数多の有望株であった。デューク大やノースカロライナ大など名だたる名門からリクルートを受けたが、故郷にあるボストン・カレッジで奨学金をもらってプレイすることを選択。カレッジ時代の活躍もめざましく、HCのジム・オブライエン曰く「ボストン・カレッジ史上最高の選手のひとり」だとか。
ドラフト直後のトレードでピストンズへ放出され、デビュー。その後、ブレイザーズ、ウルブズ、ロケッツ、ウォリアーズ、マブス、ウォリアーズと渡り歩いた。ウルブズに在籍していた95~97シーズンの2年間は故障のために全休しており、復帰直後の97~98シーズンも11試合しかプレイしなかった。
ジュリアス・ヌウォス
ナイジェリア出身のC。NBAでは94~95シーズンにスパーズでプレイしたが、まったく戦力にならなかった。バックス、セルティックス、ラプターズ、ソニックス、ジャズの契約下にあったこともあるが、いずれも開幕ロスターには生き残れていない。カレッジはアメリカのリバティ大出身。14年間のプロキャリアで14カ国でプレイをした正真正銘のジャーニーマンである。98年には母国の代表として世界選手権でプレイしたが、大会途中にドーピングが発覚して出場停止処分を喰らったことがある。