オースティン・リバースがウィザーズにトレード。ウォール&ビールの控えならまぁいいんじゃないかなと。
ロイ・タープリー
高い能力を持っていたが、それをドラッグで台無しにした選手。ミシガン大出身で、86年のドラフト1巡目第7位でマブス入り。控えCとして1年目から活躍してオール・ルーキー1stチームにも選ばれた。2年目には控えながら得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、6マン賞を受賞。続く2シーズンは計64試合しか出られなかったが、この当時はチームのガイドブックの表紙を飾るほどの選手であり、特にプレイオフでの活躍は見事だった。
しかし90~91シーズン、リーグのドラッグ規定に違反したことで、開幕直後にリーグから追放。94年に復帰し、94~95シーズンにひさしぶりにNBAでプレイしたが、翌95~96シーズン開幕直後に再び規定に違反して再度追放。今度は永久追放になってしまった。追放後はギリシャなどでプレイ。CBAでもプレイした。
ゴールに正対してプレイすることが出来る器用なCで、ブロックやスティールも上手かった。リバウンドにも強く、このタープリーには、ショータイム時代のレイカーズも手を焼いた。難点はドラッグの問題と怪我の多さ。ゴーグルを付けてプレイすることもあった。
ロン・ハーパー
6フィート6インチのG。マイアミ大出身で、86年のドラフト1巡目第8位でキャブス入り。ルーキーイヤーから平均22.9点をあげ、「お金のないチームのマイケル・ジョーダン」と呼ばれるほどの活躍を見せた。キャブスで3シーズン過ごした後、89~90シーズンの開幕直後にダニー・フェリーの交渉権と交換で、クリッパーズへ移籍。しかし、28試合をプレイしたところで膝の靱帯を負傷。復帰は翌シーズン半ばとなり、復帰後のハーパーはスピードとジャンプ力が落ちていた(成績自体は故障前のレベルを維持していたが)。
94年オフ、ブルズと契約。友人であるスコッティ・ピッペンがクリッパーズ移籍を考えた際、ハーパーがクリッパーズの内情の酷さを説き、共にブルズでプレイすることを選んだという。ブルズは93年にジョーダンが引退をして以来、SGをピート・マイヤーズで補っており、ハーパーは期待された。しかし、トライアングル・オフェンスにフィットせず、50試合を過ぎたあたりでスタメン落ち。シーズン終盤にジョーダンが復帰すると、出番は更に制限された。
転機となったのは95~96シーズン。フィル・ジャクソンの助言を受けたハーパーはディフェンダーとして開花。相手チームのシューター、スコアラーをマークするストッパーとして自分のポジションを見つけ、2度目の3ピートに貢献した。99年オフにはフィル・ジャクソンのHC就任を受けてレイカーズと契約。コービーをサポートするなど、チームを支える良きベテランであった。
01年オフに契約が切れたところでレイカーズ側は再契約の意思を見せず、そのまま引退。05年にはピストンズのACとなった。若い頃は高いオフェンス力を持ったSGで、特にランニング・ゲームや1対1でその力は遺憾なく発揮された。反面、シューターとしてはイマイチで、これがブルズ加入当初に苦しんだ一因と言えそう。長い手足を活かしたディフェンスは効果的で、スピードのある選手にもある程度対応できる巧さがあった。キャリアを通じて5度の優勝を経験。「どもり」に悩んだ時期もあったようだが、人柄が良く、信頼度の高い選手。
デビッド・ウィンゲート
ジョージタウン大出身のスウィングマン。86年のドラフト2巡目第44位でシクサーズ入り。1年目に77試合に出て、平均8.8点をあげたのが指名順位からすると悪くない。89~91シーズンはスパーズでプレイし、91~92シーズンに在籍したブレッツではキャリアで初めて先発に定着。92年オフにホーネッツに移ってからも先発を任される機会が多かった。95年オフには当時ウェスト屈指の強豪だったソニックスへ移籍。キャリア初のファイナル出場を体験した。98~00シーズンはニックスで過ごすが出番はほとんどなく、2シーズンで出場したのは僅か27試合。00~01シーズンにソニックスで1試合だけプレイして現役を引退した。
控えが適当なシューター。キャリア終盤は良きベテランとして重宝され、ニックスではジェフ・ヴァンガンディからの信頼も厚かった。
ブラッド・セラーズ
オハイオ州立大出身の7フッター。86年のドラフト1巡目第9位でブルズに入団した。ドラフト当時、ジェリー・クラウスGMはセラーズの高さとシュート力に魅力を感じていたが、マイケル・ジョーダンをはじめとする周囲の人間は、ジョニー・ドーキンスを指名するよう望んでいた(ドーキンスはデューク大出身のPG)。セラーズは2年目にシーズンの大半でスターターとして起用されるが、そこがピーク。スコッティ・ピッペン、ホーレス・グラントの成長であっという間に居場所がなくなり、89年にその年のドラフト1巡目指名権と交換でソニックスに放出された(因みにこのときの指名権でブルズはBJ・アームストロングを指名)。
ソニックスではローテーションから漏れ、シーズン途中にウルブズへトレード。90~91シーズンはNBAを離れた。91年にピストンズと契約するも出番は限られており、翌シーズン序盤にウルブズへ再度移籍。シーズンが終わるとヨーロッパへ渡り、スペインや、ギリシャ、フランスなどで00年まで現役を続けた。
当時としては珍しい7フッターのF。シュートが上手く、通算のFT成功率は8割近いが、安定した得点力はなく、リバウンドやブロックも少ない。89年のあの「ザ・ショット」のとき、ジョーダンにインバウンド・パスを入れたのが数少ないハイライト。
ジョン・サリー
ジョージア工科大出身のF/C。背番号22は同大の永久欠番である。その手足の長さとディフェンスのスタイルから「スパイダー」と呼ばれ、リーグ史上初めて3つの異なるチームで優勝を経験した選手でもある(のちにロバート・オーリーもこれに該当)。
86年のドラフト1巡目第11位でピストンズに入団。同期入団のデニス・ロドマンと良好な関係にあったことは有名で、また、ベテランのエイドリアン・ダントリーと親しくなり、食生活やトレーニングの仕方など様々なことを教わったという(「先生」と呼んで慕っていたとか)。地味だが攻守に確実なプレイで、6シーズンに渡ってバッドボーイズに在籍。控えながら平均1.5ブロックをマークするなど、2度の優勝に貢献した。
チームが崩壊しつつあった92年オフ、93年のドラフト1巡目指名権とアイザイア・モーリスの交渉権と交換でヒートへ移籍。ここでは出場機会が増えたが、チームが伸び悩んだためか長続きはせず、95年オフのエクスパンション・ドラフトではプロテクトされずにラプターズへ。ラプターズのGMはアイザイア・トーマス、HCはブレンダン・マローン(バッドボーイズ時代のAC)であった。新興チームながら健闘を見せたラプターズは、シーズンが進むにつれて若手を多く起用するようになり、サリーはバイアウトを要求。解雇され、このシーズンに72勝を達成することとなるブルズと契約を結んだ。ブルズにはロドマン、ジェームス・エドワーズと2人もバッドボーイズ時代のチームメイトが在籍していた。サリーはここで自身3つ目のチャンピオン・リングを獲得し、引退するが、直後に撤回してギリシャで数試合プレイ。2シーズンのブランクを空け、99~00シーズンにはフィル・ジャクソンが新HCとなったレイカーズと契約を結んだ。
もうかつてのような動きの良さはなく、出場機会は限られていたが、それでもシャックのバックアップとして、トラビス・ナイトよりは出番があった。キャリア終盤はサングラス型のゴーグル?をつけてプレイすることが多かった。
アレキサンダー・ヴォルコフ
ロシア出身で6フィート10インチ・218ポンドのF。86年のドラフト6巡目第134位でホークスに指名された。82年からプロでプレイしており、ドラフトされた後も88年まで旧ソビエトでプレイ。89年にようやくNBA入りを果たした。90~91シーズンは故障で全休しており、91~92シーズンを最後に今度はギリシャへ。02年までパナシナイコスやオリンピアコスを渡り歩き、現役を引退した。
線が細いが、3Pも打てるなどシュートエリアは広い。愛称は「サーシャ」。