タロウのopの弦楽五重奏版を(色んなアレンジを参考にしながら笑)つくったんですけど、クオリティは今ひとつです。
ラリー・ケノン
メンフィス州立大出身のF(6フィート9インチ)。72~73シーズンにはNCAAトーナメントの決勝までチームを牽引した(ビル・ウォルトンのUCLAに敗退)。73年のドラフト3巡目第15位でピストンズから指名されるが、ABAのメンフィス・タムズからも指名され、その指名権は直後にネッツへ。プロデビューはジュリアス・アービング率いるネッツでとなった。
ケノンはルーキー・シーズンから得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージを残し、いきなり優勝に貢献した。75年オフにはスウェン・ネイターと交換でスパーズへ移籍し、80年まで在籍(その間にスパーズはNBAへ参入)。ここではジョージ・ガービンとスコアリング・デュオを形成。チームがNBAに移ってからの4シーズンは、2人とも最低20点以上のアベレージをマークしていた(ケノンはリバウンドも平均10.7本以上)。80年オフにはブルズと契約。移籍1年目こそまずまずだったがプレイングタイムは減少し、82~83シーズンにブルズ、ウォリアーズ、キャブスと3チームを渡り歩き、30歳にして現役を終えた。
メンフィス州立大では永久欠番となっており、愛称は「スペシャルK」「スペシャリティーズ」。片手でリバウンドをもぎ取る姿が印象的であった一方、1試合11スティールという記録も持っている(のちにケンドール・ギルも達成)。ABAで3度、NBAで2度オールスターにも選出されている。
ML・カー
ギルフォード大出身のF/G。73年にキングスからドラフト5巡目第7位で指名され、ABAのケンタッキー・カーネルズからも指名を受けるが、故障のためにすぐプレイできないことがわかると放出されてしまう。プロデビューは故障が癒えた74~75シーズンで、イスラエルであった。このときは得点でリーグ首位、リバウンドでリーグ2位となり、MVPを受賞。チームも優勝した。
75~76シーズン、ABAのスピリッツ・オブ・セントルイスでアメリカ・デビュー。まずまずの活躍でオール・ルーキー・チームに選ばれると翌シーズンはNBAのピストンズへ加入した。個人成績で見た場合は、78~79シーズンがベスト。平均18.7点・7.4リバウンドをあげ、スティール王にもなり、オール・ディフェンシブ2ndチームにも入った。
79年オフにはボブ・マッカドゥーとのトレードで、2つのドラフト1巡目指名権とともにセルティックスへ移籍。しかし、ここではラリー・バード、ケビン・マクヘイルらのデビュー時期と重なったせいか、出場機会は次第に制限されたものとなり、84~85シーズンを最後に現役を引退した。目立った成績は残していないが、ディフェンスやリバウンドを頑張るエネルギッシュな選手で、84年のファイナル第4戦で見せたスティールからのダンクは、キャリアのハイライトかもしれない。
引退後は94年にセルティックスのGMとなり、95~96シーズンにはHCに就任。しかし、結果を残せなかったどころか、96~97シーズンにはチーム史上最低成績(15勝67敗)を記録するなどいいところがなく、僅か2シーズンで解雇された。尤も、スター選手不在の上、故障者が続出するなど同情の余地は多々あるのだが。
その後はフロントに戻り、WNBAチームのフロントなどで働いている。
ジョン・ウィリアムソン
6フィート2インチ・185ポンドのSG。コネチカット州のウィルバー・クロス・ハイスクール時代から印象的な活躍を見せており、最高学年次には平均38.7点をマーク。ニューメキシコ州立大に進んだ後もスコアラーとして活躍した。因みに高校時代にチームメイトだったアレックス・スコット、クリント・ディビスとは大学でも共にプレイした。
73年のドラフトでは6巡目第10位でホークスに指名されるが、それを蹴ってABAのネッツと契約。ウィリアムソン1年目のネッツはは開幕から4勝10敗と躓くが、ウィリアムソンが先発に入ると調子がよくなり、最終的には優勝。自身は、ラリー・ケノンやスウェン・ネイターらとオール・ルーキー・チームに選出された。ウィリアムソンはネッツでプレイを続け、ABA最後のシーズンとなった76年のファイナル第6戦でも顕著な活躍を見せており、28点をマーク。特に4Qには16点をあげており、22点差からの逆転勝ちに貢献、ネッツはABA最後のチャンピオンとなった。
NBA参入後の76~77シーズン途中にペイサーズへ移籍。しかし、翌77~78シーズンの途中には古巣ネッツへトレードで復帰した。このときは復帰後の33試合でキャリアハイの平均29.5点をあげている。個人成績に衰えが見られた79~80シーズンの半ばにはブレッツへ移籍。80~81シーズンに9試合だけプレイし、8年間のキャリアに終止符を打った。
得点力が高く、どこからでも点を取れるスコアラー。様々なカテゴリーでネッツのチーム記録を保持しており、その中にはFT最多試投数24本も含んでいる(のちにビンス・カーターとデビン・ハリスがタイ記録を保持)。背番号23は90年12月7日に永久欠番となっており、ABA時代のネッツでプレイした欠番選手4人のうちひとり。
スリック・ワッツ
ニューヨークのストリート・バスケットで伝説的選手のひとり。スキンヘッドにヘッドバンドという当時(70年代)としては新しいファッションでファンの人気を集めたPGである。
73年にドラフト外でソニックス入り。年々成績を伸ばし、76年には総アシスト数・平均アシスト・総スティール数・平均スティールでリーグの首位になり、オール・ディフェンシブ1stチームに選ばれた。因みにこの歳はJウォルター・ケネディ・シップ・アワードも受賞している。しかし、その後は故障に悩まされ、僅か6シーズンの短いキャリアを終えるのであった。最後のシーズンはロケッツに所属していた。ジャマール・クロフォードがヘッドバンドをしていたのは輪厚に憧れていたからだとか。ニックネームの「スリック」はそのスキンヘッドから付けられた愛称で「ワッツの頭はハエがとまっても滑り落ちる」と言われていた。