フラッシュマンは敵キャラのデザインが好きです。
ジェフ・ホーナセック
アイオワ州立大出身で、86年のドラフト2巡目第46位でサンズ入り。着実に活躍の場を増やし、3年目にはスターターに定着。ケビン・ジョンソンとともにチームの中心選手となった。キャリアハイの平均19.1点をマークした91~92シーズンにはオールスターにも出場している。
92年オフ、チャールズ・バークリーとのトレードでティム・ペリー、アンドリュー・ラングらとともにシクサーズへ移籍。ハーシー・ホーキンスがいたため、PGとしてプレイし、自己最高のアシスト数を稼ぐなど健闘した。しかし、勝利には繋がらず、しかも、シクサーズはホーナセックの望む内容の契約延長をする気がなく、93~94シーズンの半ばにジェフ・マローン、複数のドラフト指名権と交換でジャズへ移籍。これはホーナセックにとって良いトレードで、これ以降、00年のオフに引退するまでストックトン&マローンに次ぐ第3の得点源であった。
ボールを持っていないときの動きが上手いシューターで、キャリア通算でFG成功率50%・3P成功率40%・FT成功率80%をクリアしているのは見事。身体能力は高くないが、巧さがあった。94年11月の試合では3P8本ノーミス成功という当時のリーグ記録を樹立。FTを打つ際に頬を3度なぞる仕草も有名で、これは3人の息子たちに向けたメッセージだったという。愛称は「ホーニー」。背番号14がジャズの永久欠番である。
ドウェイン・ポリー
高校時代に華々しい活躍をした選手で、ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナ(当時のクリッパーズのホームアリーナ)史上最高の1万4123人もの観客が入った試合で、43点をあげるパフォーマンスを魅せた。
しかしピークはこのときで、その後、UNLVとペパーダイン大を経て86年のドラフト3巡目第54位で地元クリッパーズに指名されるも、僅か1試合で解雇されてしまった。
アンドレ・ターナー
5フィート1インチのPG。メンフィス州立大出身で、カレッジ時代は「リトル・ジェネラル」と呼ばれていた。85年にはキース・リー、ウィリアム・ベッドフォードらとともにチームをファイナル4まで牽引。その中でもターナーは勝負を決めるシュートを決めるなど、まさにチームの中心であった。
86年のドラフトでは3巡目第68位でレイカーズから指名されるが、1年目は3試合のみセルティックスでプレイ。そして翌シーズンはロケッツ、88~89シーズンはバックス、89~90シーズンはクリッパーズとホーネッツと渡り歩くが、いずれのチームでも10試合前後しか出番はなかった。ただ、90~91シーズンはシクサーズ、91~92シーズンはブレッツでそれぞれ70試合程度起用されており、強いて言えばこの2シーズンがキャリアのハイライトであろう。NBAでプレイする合間にCBAでもプレイしている。
アンソニー・フレデリック
86年のドラフト6巡目第133位でナゲッツに指名された、6フィート7インチのF。カレッジはサンタ・モニカ・カレッジとペパーダイン大で過ごしている。NBAデビューは88~89シーズンのペイサーズ。特に見せ場はなかったが、1シーズン生き残った。次は90~91シーズン中盤、キングスに10日間契約で加入91~92シーズンをホーネッツで過ごし、NBAでのキャリアは終わった。ホーネッツでは、66試合中26試合でスターターを務めるなど、決して悪くはなかった。
03年、心臓発作で逝去。車を運転中だったという。
ウィリアム・ベッドフォード
86年のドラフト1巡目第6位でメンフィス大からサンズ入り。7フッターで、将来を期待されたが、ドラッグの問題があったためか、キャリアと能力を台無しにしてしまった。サンズで不本意なルーキーイヤーを過ごし、直後のオフには88年のドラフト1巡目指名権と交換でピストンズへ移籍。92年まで在籍したが(88~89シーズンはプレイせず)、安定した出場機会を得るまでに至らず、92~93シーズンをスパーズで過ごし、リーグを去った。
当時としては珍しい、動ける7フッター。アウトサイドから打てる器用さもあり、潜在能力の高さは、ピストンズでチームメイトだったデニス・ロドマンもその著書の中で認めていた。