秋に弦楽四重奏でポップスを演奏する機会があるんですが、選曲に悩みます。
レン・バイアス
6フィート9インチ。心臓の病気を患っていた選手で、86年のドラフト1巡目第2位でセルティックスに指名され、そこから2日も経たないうちにコカインの摂取過多により、メリーランド大の寄宿舎で亡くなってしまった。因みに、そのときが初めての使用だったそうである。
メリーランド州出身で、地元の高校を卒業後、メリーランド大に進んだスター。バイアスは身体能力に恵まれ、跳躍力、フィジカル面の強さ、クリエイティブさ、などによって魅力的な選手であった。カレッジ時代の評価は非常に高く、これまでで最も魅力的な選手のひとりとする見方もあれば、マイケル・ジョーダンと比較する評価もあったという。実際、マイク・シャシェフスキーとディーン・スミスは、ACC史上最高の選手はジョーダンとバイアスだとしていた。スティーブ・フランシスも、子供の頃に好きだった選手としてバイアスの名前を挙げている。
もしバイアスがセルティックスでプレイしていたら…というのは誰もが気になる、たられば。バイアスがいたら、セルティックスの90年代の低迷はなかったかもしれない。因みに元々は85年のドラフトにエントリーする可能性もあったようだが、故障への懸念などから取りやめたとか。
クリス・ウォッシュバーン
6フィート11インチのC。高校時代から注目される存在で、84年にはジョン・ウィリアムス、ダニー・マニングと並び、高く評価されていた。ノースカロライナ州立大では、ネイト・マクミラン、ビニー・デルネグロらとプレイ。恵まれたサイズと、それに似つかわしくないスピードとテクニックを持ち、才能に溢れた選手だったという。
ただ、高校時代から素行の悪さでも有名で、授業に出ないために試合出場が危うくなったり、窃盗で逮捕・拘留されたりするなど、問題児でもあった。そのため、ノースカロライナ州立大進学時、実力の割に評価は高くなく、同大のファンはトラブルや、それによって大学のプログラムが乱されることを危惧していたという。しかし、いざ入学すると潜在能力の高さを見せ、ジム・バルベイノHCのもと、チャッキー・ブラウンやチャールズ・シャックルフォードらとチームを牽引し、ブラッド・ドアティー率いるノースカロライナ大を破るなど、インパクトを残した。
2年のカレッジ生活を経て、86年のドラフトにエントリー。ドラフト当時、各チームのスカウトたちはそのスキルの高さに驚いたという。カール・マローンにも喩えられる体格がありながら、インサイドでもアウトサイドでもプレイできたからである。
そして1巡目第3位でウォリアーズに入団するのだが、ウォッシュバーンは見事にその期待を裏切ってしまう。その大きな原因がドラッグの問題だった。高校時代に飲酒とマリファナをはじめ、カレッジ時代にはコカインに手を出していたウォッシュバーンは、ドラフト直後のバイアスの事件を受けて、コカインの使用をやめたと言った。しかし、ウォリアーズの本拠地、オークランドは麻薬中毒者の町と呼ばれており、それは長続きしなかった。チームはジョー・バリー・キャロルにウォッシュバーンのメンターとして役割を求めたが、それもあまり機能しなかった。ルーキーにありがちな荷物運びなどをせねばならず、練習後のシューティング・コンテストに勝っても賭け金が払われないなど、ウォッシュバーンにとってはあまり良い環境ではなかったようである。
開幕から2試合連続でスターターとして起用されるのだが、すぐベンチへ降格。そして、試合当日、ティップオフの数分前に会場に到着したり、練習をすっぽかしたりするなどの問題行動が目立つようになり、開幕から3ヶ月もしないうちにリハビリ施設へ入った。シーズン終盤には復帰するが、施設でのサポートはあまり助けにならず、ウォッシュバーンはドラッグをやめなかったという。
ウォッシュバーン2年目の前にドン・ネルソンがウォリアーズ入り。ネルソンはウォッシュバーンを充分にみて、「彼を出したらチームは良くなる」とHCのジョージ・カールにアドバイス。そして、87年12月、ウォッシュバーンはドラフト指名権と交換でホークスへトレードされた。ネルソンは「怠け者で態度も悪い。彼のレベルなら、もしちゃんと正しいことをしたら良くなったと思うが、彼は何も正しいことをしなかった」としている。
アトランタは中毒者にとっての場所ではなく、しかし、それがプラスに作用するわけでもなく、ホークスでは計29試合しかプレイせず、89年6月、NBAでのキャリアは終わった。3年間で3度目のドラッグ・テストに引っ掛かり、リーグから追放されたのである。キャリア平均は3.1点・2.4リバウンドであった。その後、90年代半ばまで、刑務所に入っていないときは、海外などでキャリアを続けていたようである。
カレッジ時代のチームメイトであるネイト・マクミランは、のちにシャックを比較に出し、ウォッシュバーンのことを「オールスターになれるだけの能力が確実にあっただろう」としている。ルーキーイヤーのHCだったカールも、「トレーニング・キャンプの最初の日を覚えているよ。彼はベストだった。でも、次第に問題があるとわかっていたんだ」と回顧。本人も「殿堂入りすら出来る可能性が自分にはあったけど、自分は最低のドラフト指名のひとりだし、失敗だし、恥だと理解しているよ」とコメントしている。
因みにウォッシュバーンを助けようとした人も少なくなかったようで、ジュリアス・アービングもそのひとりだったという。シクサーズとウォリアーズが対戦するとき、アービングは試合前にわざわざホテルに訪ねてきたという。そのときウォッシュバーンは丁度ハイになっており、ドアは開けなかったようだが。
すべての問題が片付いたのは2000年になってからだとか。誰も助けようとしなくなっていた頃、ウォッシュバーンを幾つもの施設に連れて行くなど、力になったのはジョン・ルーカスであった。
スカイ・ウォーカー
「スカイ」は愛称で、ケニー・ウォーカーとも呼ばれた選手。6フィート8インチのF。82年にジョージア州のMr.バスケットボールに選出され、ケンタッキー大へ進んだ。カレッジ時代は華々しく、86年のドラフトでは1巡目第5位でニックスに入団。1年目からスターターとして起用され、平均10.4点・5リバウンドをマークした。しかし、2年目に成績を伸ばせず、3年目はジョニー・ニューマンにポジションを奪われてしまう。結局、90~91シーズンまで在籍したが、最大のハイライトは89年2月のスラムダンク・コンテストで、このときは父親が逝去したばかりだったのだが、ウォーカーは見事チャンピオンになった。
膝の故障などもあったようだが、実戦であまり活躍できないウォーカーは、91~93年はスペインでプレイ。93年にブレッツと契約してNBAに復帰するが、ベンチ・プレイヤーとして2シーズン過ごして終わった。引退する前には日本でもプレイしたことがある。
身体能力が高く、馬とレースをして勝ったことがあるとか。
ピート・マイヤーズ
6フィート6インチのSG。アーカンソー大リトルロック校の出身で、86年のドラフトでは6巡目第120位でブルズに入団した。
所謂ジャーニーマンで、プロ入りから毎年のように違うチームでプレイ(CBAなども含む)。最初の5シーズンは、NBAではどこのチームでも戦力にならなかったが、イタリアで2シーズンプレイしたのを挟み、93年秋にブルズと契約を結んでキャリアが開ける。
当時のブルズはジョーダンが一度目の引退を発表したばかりだったが、それが10月頭だったために目立った補強が出来ず、マイヤーズとの契約は応急処置のようなものであった。しかし、マイヤーズはなんと全82試合に出場して、うち81試合でスタート。球離れの良さと、多くのチームを渡り歩いてきたことによる順応性の高さが△オフェンスにフィットしたのであった。翌94~95シーズンも(ロン・ハーパーの加入やジョーダンの復帰で出場機会は減ったが、ハーパーがフィットしなかったこともあり)、まだローテーションには入っていた。
95年オフにはホーネッツへ移籍。しかし、開幕当日にアロンゾ・モーニング、グレン・ライスを絡めた大型トレードでヒートへ放出され、シーズン半ばに解雇され、またホーネッツに戻るという忙しいシーズンを過ごした。96~97シーズンはNBAでプレイせず、97~98シーズンに9試合だけプレイしてキャリアを終えた。01年にはコーチング・スタッフとしてブルズに復帰している。
93~94シーズン、最初の試合の選手紹介で「ノースカロライナ大出身のG、6フィート6インチ…ピート・マイヤーズ!」紹介された。