ビル・ウォルトン
ルーク・ウォルトンの父親であり、殿堂入りも果たした名C。UCLA出身で、同大が72・73年と連覇したときの中心選手。この2年のUCLAの強さは圧倒的で、両シーズンともに30勝0敗で終えるなど無敵であった(同大が保持している88連勝というNCAA記録の一部)。個人としてももちろん素晴らしく、73年には名だたる賞を複数受賞している。
そして74年のドラフトでは1巡目第1位でブレイザーズ入り。70年に誕生したばかりだったブレイザーズにとって期待のスターだったが、最初の2シーズンは故障に泣かされ、半分程度しかプレイできず、チームもプレイオフにすら進めなかった。
転機となったのはジャック・ラムジーがHCに就任した、3年目の76~77シーズン。初めて健康に過ごしたウォルトンは(それでも17試合を休んだが)、リバウンドとブロックでチームをリード。怪我で出場はしなかったがオールスターのメンバーにも選出された。因みにオールNBA2ndチームとオール・ディフェンシブ1stチームにも選ばれている。
プレイオフではカンファレンス・ファイナルで、UCLAの先輩であるジャバー率いるレイカーズをスウィープ。シクサーズとのファイナルでは最初の2戦を落とすが、そこから4連勝で優勝。ウォルトンはMVPに輝いた。
翌77~78シーズンもその勢いでブレイザーズは強さを見せるが、50勝10敗というところでウォルトンが足を骨折。シーズンの残りを欠場し、プレイオフでは一旦復帰するも、復帰2戦目で再度故障。結局6試合でソニックスに敗れてしまった。このシーズンはウォルトンがキャリアで唯一オールスターでプレイしたシーズンであり、またオールNBA1stチームとオール・ディフェンシブ1stチームにも選ばれており、それだけに残念な結果となった。
そのオフ、ウォルトンは故障時のチームの対応を不服としてトレードを要求。しかしそれは受け入れられず、ブレイザーズの一員として78~79シーズンを全休したのち、クリッパーズへ移籍した。ここでは更に故障に苦戦。移籍1年目は68試合を欠場し、続く2シーズンは全休。82~83シーズンに復帰するも、33試合にしか出られなかった。チームがフランチャイズをロサンゼルスに移した84~85シーズンに初めてフルタイムで健康な姿を見せるが(といっても67試合の出場)、このときはもうスターターではなかった。
85年オフ。度重なる怪我で信頼を失っていたウォルトンに声をかけたのはレイカーズとセルティックスという東西の強豪であった。ただ、レイカーズはウォルトンの故障を気にしてあまり積極的ではなかったようで、一方のセルティックスはラリー・バードが獲得をレッド・アワーバックに進言するなど前向きにアプローチ。結果的にセドリック・マクスウェル&ドラフト1巡目指名権と交換で、ウォルトンはセルティックスの一員となった。セルティックスでプレイするのが子供の頃からの夢だったというウォルトンは、懸念された数々の不安をよそになんと6マン・アワードを受賞。翌86~87シーズンは再び故障に見舞われ、そこでキャリアを終えるのだが、それでも最後に見事な再起を見せたと言えるだろう。因みに90年頃、復帰を目指したこともあったとか。
キャリアを通して足の故障に苦しみ、引退時には両足首が限界だったようで、繰り返し治療した医者のことを引退後も批判していた。13シーズンのキャリアのうち3シーズンを全休し、総試合数の約半分しかプレイしていないことから評価が割れることもあるようだが、96年には偉大な50人のひとりに選ばれている。攻守にバランスのとれたCで、パスやスティールもこなせた。若い頃は髭に長髪で、それをヘッドバンドで束ねたヒッピー風なスタイルでも知られた。背番号32はブレイザーズの欠番。
引退後は解説者として活躍。ユニークなコメントや極端なコメントをすることで有名。カリフォルニア育ちだがセルティックスのことを大事にしており、「たとえレイカーズの土地で育ったとしてもセルティックスが自分のチームなんだ」としている。自宅に昔のボストン・ガーデンの床板を一枚飾っているとか。
ジャマール・ウィルクス
レイカーズとウォリアーズで計4度の優勝を経験したSF。UCLAの黄金期の主力で、当時はジャクソン・キース・ウィルクスといった。74年のドラフト1巡目第11位でプロ入りする頃、イスラム教の関係でジャマール・アブドゥル・ラティーフと改名している。
スムーズ且つ堅実なプレイが売りで、愛称の「シルク」もその滑らかなプレイスタイルに由来。ルーキーシーズンは新人王を獲得し、チームもNBAチャンピオンに輝いた。のちにレイカーズでも80・82・85年とリングを獲得。レイカーズは84年にもファイナルに進んでいるが、このときは故障のためにプレイできず、チームもセルティックスに敗れた。
シュートフォームは独特だが正確で、特にコーナーからのジャンプショットは「20フィートのレイアップ」とチック・ハーンが名付けたほどだった。オールスターに3度、オール・ディフェンシブ・チームに2度選ばれており、背番号52はレイカーズの欠番となっている。
ブライアン・ウィンタース
サウスカロライナ大出身で、6フィート4インチのスウィングマン。74年のドラフト1巡目第12位でレイカーズに入団し、オール・ルーキー・チームに選出された。しかし、オフにはレイカーズがカリーム・アブドゥル-ジャバーを獲得するためのトレードの一部としてバックスに移籍。そこから8シーズンを同チームで過ごした。75~79シーズンが個人としてはキャリアの最盛期で、この期間の得点アベレージは19点を上回った。パスも上手く、背番号32は欠番となっている。
引退後はプリンストン大のピート・キャリルHCのもとで働いたのち、NBAでレニー・ウィルケンスのACを9シーズン務めた(キャブスで7シーズン、ホークスで2シーズン)。95年に新興チームであったバンクーバー・グリズリーズの初代HCに就任。創設1年目のチームは開幕2連勝を飾るが、その後は負けが込み、リーグ最低成績でシーズン終了。翌シーズンもまったく改善が見えず、シーズン途中で解任された。ウォリアーズで暫定的にHCを務めたこともあるが、NBAでの通算勝率は2割にも満たない。WNBAでもHC経験がある。現役時代は立派な顎髭と口髭を生やしていた。
モーリス・ルーカス
6フィート9インチのPFでマーケット大出身。74年のドラフト1巡目第14位でブルズから指名されるが、ABAのスピリッツ・オブ・セントルイスに入団。プロキャリアをスタートした。オール・ルーキー2ndチームに選ばれたルーカスは、翌シーズン途中にカーネルズに移籍。この年はオールスターに選出された。
76年にABAが消滅。それに伴ってディスパーサル・ドラフトが行われた際、ブレイザーズはジェフ・ペトリー&スティーブ・ハウズを出して同ドラフト2位指名権を獲得。それによってルーカスはブレイザーズの一員となった。NBA1年目のルーカスは得点・出場時間など多くのカテゴリーでチームをリード。ビル・ウォルトンとともにブレイザーズをチーム史上初のプレイオフに導き、そのままNBAチャンピオンとなった。シクサーズとのファイナルでは0勝2敗からの逆転優勝。第2戦で乱闘騒ぎがあり、このときルーカスはダリル・ドーキンスとやり合って双方退場になっているが、このルーカスのファイトでブレイザーズが精神的に持ち直したという見方もあるという。
キャリア終盤は移籍が多く、79~80シーズン途中にネッツへ移籍し、そこから81~82シーズンをニックス、82~85シーズンをサンズ、85~86シーズンをレイカーズ、86~87シーズンをソニックスと渡り歩いた。最後に87~88シーズンを古巣ブレイザーズで過ごして現役を引退。
NBAでも4度オールスターに選ばれており、78年にはオール・ディフェンシブ1stチームとオールNBA2ndチーム、79年にもオール・ディフェンシブ2ndチームに選出されている。背番号20はブレイザーズの頁岩。元チームメイトのウォルトンはルーカスを尊敬しており、息子にルーク(ルーカスの愛称)と名付けたという。
トラック・ロビンソン
本名はレオナルド・ロビンソン。「トラック」の愛称で親しまれ、SF並の機動力を持ったPFとして有名だったロビンソンは、テネシー州立大の出身。74年のドラフトでは2巡目第4位でブレッツに入団した。当時のチームにはエルビン・ヘイズらがおり、あまり活躍できず、2年目には成長を見せるも3年目の76~77シーズン途中にはホークスへ放出されてしまった。
しかし、ここでいきなり平均20点・10リバウンドを上回るスタッツをマーク。ジャズへトレードされて迎えた翌77~78シーズンには出場時間・リバウンドでリーグ首位に立ち、オールスターとオールNBA1stチームに選ばれるなどキャリア最高の活躍を見せた。ただ、いずれのシーズンもチームの成績は奮わず、翌シーズン途中には(前のシーズン上回る成績を残していたにもかかわらず)サンズへトレードされた。
当時のサンズは、ロビンソンが過去に在籍してきたチームに比べると層が厚く、プレイングタイムをはじめとして数字は下降したが、貢献度は高く、主力のひとりとして活躍。81年には再びオールスターにも選ばれた。
81~82シーズン終了後、モーリス・ルーカスとのトレードでニックスへ移籍。当時31歳だったロビンソンは移籍1年目を大乱調のまま終えると、そのまま復活することなく、84~85シーズンの開幕直後に2試合だけプレイしたのを最後に現役を引退した。ニックスでは「4輪がパンクしたトラックだ」とファンから批判されるなど、いいところがなかった模様。