あけましておめでとうございます!
オースティン・カー
高校時代の67年にアーティス・ギルモアらとともにオール・アメリカンに選出され、ノートルダム大に進んだ。6フィート4インチのSGで、ピート・マラビッチに次いで1シーズン1000点以上を稼いだり、NCAAのプレイオフで平均50点(未だに記録)をマークしたりと高い得点力を誇っていた。
71年のドラフトでは創設2年目のキャブスから1巡目第1位で指名されて入団。因みにABAのヴァージニア・スクワイアーズからも指名を受けていた。ルーキーシーズンは、プレシーズンで足を骨折して最初の1ヶ月ほどを欠場。一旦は復帰するが再度足を負傷して7週間ほど欠場するなど、出場時にはそれなりに活躍していたが、厳しいシーズンとなった。そのオフ、ベテランのレニー・ウィルケンスが加入したことで、強力なバックコートが完成。カーは翌73~74シーズンにはオールスターにも初選出された、74~75シーズンには今度は膝を故障するが、翌75~76シーズンに復帰し、キャブスもチーム史上初めてプレイオフに進出。ウィルケンスはもういなかったが、ようやく最初の低迷期を脱した。
80~81シーズンをマブスとブレッツで過ごして引退。背番号34はキャブスの永久欠番である。
シドニー・ウィックス
UCLA出身。高校時代の学業成績が悪く、サンタモニカ・カレッジで1年間過ごしてからUCLAへ。同大ではスター選手で、69~71年まで3年連続でNCAAのチャンピオンシップまで導いている。因みに71年にはアカデミック・オール・アメリカンも受賞した。
6フィート8インチ・225ポンドのFで、71年のドラフトでは1巡目第2位でブレイザーズ入り。創設2年目のブレイザーズはウィックスの加入くらいでは強くならず、18勝64敗と苦しんだが、ウィックスは全82試合に出場して平均24.5点・11.5リバウンドをマーク。オールスターにも選ばれ、新人王にも輝いた(因みに前シーズンにはチームメイトのジェフ・ペトリーも新人王を受賞しており、ブレイザーズは創設から2年連続で新人王を輩出した史上唯一のチームである)。
2年目以降も平均20点・10リバウンド前後の成績をキープし、74年にはビル・ウォルトンという強力なチームメイトも加入。同年には選手権HCとしてレニー・ウィルケンスも加わったが、ウィックスの在籍中にチームはプレイオフに進めなかった。
76年オフにはセルティックスへ移籍。デイブ・コーウェンスと強力なフロントラインを形成した。しかし、翌シーズンにはカーミット・ワシントンの加入もあってか役割が減少。チームも低迷し、78年オフにはそのワシントンとともにクリッパーズへ移籍した。ここではあまりパッとせず、3シーズン過ごした後に現役を引退。79~80シーズンにはウォルトンもクリッパーズに来たが、そのウォルトンは故障で鳴かず飛ばず。僅か14試合に出場したのみで、80~81シーズンは全休した。
ブレイザーズ時代には4度オールスターに選ばれたが、ルーキーシーズンがピークだった感もある。サイズは大きくなかったが、ピーク時はリバウンドにも強かった。ウィックスが移籍した翌年、ブレイザーズは優勝している。
フィル・シュニアー
6フィート3インチのG。カリフォルニア大バークレー校を卒業後、71年のドラフト1巡目第4位でブレッツに入団。チームがキャピタル・ブレッツ、ワシントン・ブレッツと移り変わる時代を過ごし、78年には優勝を経験。ただ、シュニアーは故障のためにシーズンの半分以上を欠場し、プレイオフでもプレイしなかった。
79~80シーズン中にペイサーズにトレードで移籍。80~81シーズンに9試合だけウォリアーズでプレイし、現役生活を終えた。
ピーク時には得点力の高さだけでなく、スティールも上手かった。ブレッツ時代に3度オールスターに出場している。
スペンサー・ヘイウッド
68年のオリンピック代表メンバーで金メダリスト。デトロイト大出身で、68~69シーズンに平均30点・20リバウンドを上回る成績を残し、すぐにプロ入りを希望。当時のNBAはアーリー・エントリーを認めていなかったため、ABAのデンバー・ロケッツに入団した(のちのナゲッツ)。
ヘイウッドはすぐに大活躍を見せ、新人王とMVPを同時受賞。平均リバウンドはABA記録で、オールスターのMVPにも輝いた。
しかし、2年目のシーズンを迎えるにあたって、ロケッツと契約問題が生じたことなどもあってか、なんとNBAのソニックスと契約。当時、NBAはアーリー・エントリーを認めていなかったため、騒動となった。「ヘイウッドは大学で4年間プレイしていない」という周囲からの批判と、「既にABAでプレイしたのだから、そのルールの対象にはならない」というヘイウッド側の主張が対立。最終的には法的措置を経て、ヘイウッド側の主張が認められることとなった。
NBAでも活躍は続き、72~75年にはオールNBAチームに選出されており、オールスターにも4度出場。75年にニックスに移籍すると、その後はジャズ、レイカーズ、ブレッツと渡り歩くが、80年にはレイカーズで優勝を経験している。
背番号24はソニックスの永久欠番。マジック・ジョンソンは、「あいつの頭の中はお花畑だ」とヘイウッドの性格を評している。アーリー・エントリーが認められるようになったきっかけを作った選手と言えるが、当の本人は「もしやり直せるなら同じことはしない。あんな面倒くさいことはごめんだよ」としていた。因みに、その騒動のため、既にソニックスに在籍していたにもかかわらず、71年のドラフトでブレーブスから指名されている。
ランディ・スミス
72~82年にかけて、906試合連続出場という記録を作った鉄人。97年にAC・グリーンが記録を塗り替えるが、それでも歴代2位の大記録である。
バッファロー州立大の出身。優秀なアスリートだったようだが、チームはディビジョンⅢだったためか注目度は低く、71年のドラフト7巡目でようやく地元のブレーブスから指名されたのであった。
そんなスミスはトレーニング・キャンプで早速ブレイク。6フィート3インチと小柄ながらもポジションを掴み、1年目から平均13.4点をマーク。その後もスピードとクイックネス、跳躍力を活かしたスミスは成長を続け、76年にはオールスターとオールNBA2ndチームに選出されるまでになった。ディフェンスの評価も高く、スコアラーのワールド・B・フリーも賛辞を送っていたという。78年にもオールスターに出場しており、このときはベンチ・スタートながら27点をあげてMVPに輝いている。
79年にキャブスにトレードで移籍し、キャプテンとして2シーズンプレイ。その後、ニックス、古巣クリッパーズで1シーズンずつ過ごし、キャリアを終えた。魅せる選手でもあり、カレッジ時代は試合前のウォームアップでダンクを披露して観衆を楽しませていたという(当時、試合中はダンクが禁止されていた)。
アーティス・ギルモア
7フィート2インチのC。ジャクソンビル大出身で、71年のドラフト7巡目でブルズから指名されるが、ABAのケンタッキー・カーネルズに加入。1年目から大活躍を見せ、新人王とMVPをダブル受賞した。その後も、オールABA1stチームに5年連続、ディフェンシブ・チームに4度、オールスターMVPに2度選出されるなど、ABAを代表する選手のひとりとしてプレイ。リバウンド王に4度、ブロック王に2度輝き、FG成功率でも2度リーグ首位に立つなど、個人成績も素晴らしかった。75年にチームが優勝したときにはプレイオフのMVPも受賞している。
76年にABAが消滅すると、ディスパーサル・ドラフトの1巡目でブルズ入り。82年ににトレードでスパーズへ移籍し、87年までプレイ。87~88シーズンをセルティックス、89年をイタリアで過ごし、キャリアを終えた。
NBAでもオールスターに6度選出され、FG成功率で4度首位に立つなど立派な実績を残しているが、ABA選手に対する評価が厳しいためか、殿堂入りには時間が掛かった。
ネイト・ウィリアムス
本名はナタニエル・ラッセル・ウィリアムス。ユタ州立大出身で、6フィート7インチのスウィングマン。ドラフトにはかからず、71~72シーズンにシンシナティ・ロイヤルズでデビュー。当時のHCはあのボブ・クージーだった。
ルーキーシーズンは81試合に出場して平均11.9点をマーク。チームメイトのタイニー・アーチボルドが史上唯一の得点王&アシスト王に輝いた次のシーズンも、1年目に近い成績を残した。3年目の73~74シーズンは、個人としては多くの部門で自己最高のスタッツを残すが、アーチボルドが故障に苦しむなどチームは低迷。クージーも解任され、翌74~75シーズンの途中にはジャズへ移籍した。
ジャズでもしばらくは安定した成績を残していたが、77~78シーズン途中にはウォリアーズへ移籍。翌シーズン終了後(79年オフ)、28歳の若さでキャリアを終えた。怪我が少なく、現役8シーズンのうち6シーズンで80試合以上プレイしている。所属チームに恵まれず、プレイオフでは一度もプレイできなかった。