流行語大賞は「そだねー」。今年はちゃんと知ってる言葉でよかったです。笑
ジミー・ウォーカー
6フィート3インチのGで、ジェイレン・ローズの父親(ローズが生まれる前にローズの母親と別れた)。ボストンのストリートでプレイしていたウォーカーは、高校時代に既にサム・ジョーンズに一目置かれており、従兄弟がプロビデンス大にリクルートされたときには、従兄弟自身が同大のHCに「あなたは私の従兄弟のジミーを見るべきだ」と言ったという。
カレッジ時代、そのプレイは当時まだ現役だったオスカー・ロバートソンと比較されるほどで、ボブ・クージー率いるボストン・カレッジ相手に50点稼いだこともある。この頃のプロビデンス大は強く、ウォーカー3年目のシーズンは、ボブ・スペンサー、マイク・リョーダンらをスターターに並べていた。しかし、Cのデクスター・ウェストブルックが学業不振で退学になると戦力はダウン。タイトルを獲得するチャンスもなくなってしまった。僅か3シーズンの通算得点は同大史上2位の記録である(一位はライアン・ゴメス)。
67年のドラフトでは1巡目第1位でピストンズに指名された。この年はテリトリアル・ピックが廃止されて初のドラフトで、もし廃止されていなかったら、ウォーカーはセルティックス入りしていたと言われているとか。因みにこの年、NFLのニューオリンズ・セインツからも指名されている(カレッジでフットボールはプレイしていない)。
プロでのウォーカーは、オールスターに2度出場し、キャリア平均は約17点を誇る。しかし、クイックネスが売りとされるプレイスタイルなのに体重の問題があると見られたり、ピストンズ時代はデイブ・ビング、ロイヤルズ時代はタイニー・アーチボルドといったスターとチームメイトだったから目立っていたという評価があったり、印象は分かれるようだ。
バイロン・ベック
6フィート9インチのF/C。デンバー大出身で、ABAとNBAを通してナゲッツ一筋でプレイした。67年のドラフトでは3巡目でブルズに指名されたが、ABAのデンバー・ロケッツ(のちにナゲッツに改名)入りを選択した。運動能力が優れているわけではなかったが、堅実なリバウンドと精度の高いフックショットで知られ、69年と76年にはオールスターにも選ばれた。
ABAが消滅してNBAに参入した76~77シーズン、1シーズンだけNBAでプレイして現役を引退。背番号40は77年にチーム史上初の永久欠番となっている。
フィル・ジャクソン
高校時代、フットボールと野球(ピッチャー)をやっていたジャクソンは、次第に野球でスカウトの注目を集めるようになった。その中にビル・フィッチがいた。フィッチは野球のHC経験があり、且つアトランタ・ブレーブスのスカウトもしており、更に当時はノースダコタ大のバスケットのHCであった。ジャクソンはフィッチの勧誘を受け、同大へ進む。
そして67年のドラフト2巡目第5位でニックス入り(因みにニックスは1巡目でウォルト・フレイジャーを指名していた)。ジャクソンはプロ入り後、自分のスキルがプロでは通じないことに気付く。アスリートとしては悪くなかったが、腕が非常に長く、オフェンスで出来ることが限られていたのである。その弱点を、ジャクソンはハードワークとディフェンス、頭の良さで補っていく。アグレッシブなスタイルのためか、75年にはバックスのボブ・ダンドリッジと共にファウル数でリーグ首位に立ったこともある。しかし、73年にニックスが優勝したときには6マンとしてチームに貢献(70年は故障でプレイせず)。控え選手としてファンの人気も高かったようである。
この後、主力の引退や移籍を受け、一時的に先発となったジャクソンだったが、目立った結果は残せず、78年にはネッツへ移籍。80年に現役を引退した。
引退後はまずCBAでHCに就任。チームを優勝に導くなど早速手腕を発揮した。しかし、現役時代、反伝統的なものに理解と関心を示していたこと、髪と髭を伸ばしたヒッピー風の外見、ニューヨークにいた頃にはLSDを使用していたこと…といった印象がマイナスに作用し、NBAからのオファーはなかなか来なかったという。それでもジャクソンに魅力を感じたのが、ブルズのGMだったジェリー・クラウスであり(後に犬猿の仲となるが)、ジャクソンは紆余曲折を経て87年にブルズのACとなり、89年にはHCに就任した。
ジャクソンのコーチングの特徴は、ACのテックス・ウィンターが考案したトライアングル・オフェンスと全体主義の精神である。特に後者は禅の要素を取り入れた独自のものであり、これが「禅マスター」と呼ばれる所以でもあろう。こうしたチームの調和とメンタル面を重視するジャクソンのやり方は、ブルズに8年間で6回の優勝・2度の3連覇というリーグ史上に残る栄光をもたらした。
あのマイケル・ジョーダンと信頼関係を築いたのもジャクソンならではだったが、その一方でフロント、特にクラウスとの関係は悪化の一途を辿っていった。当時、クラウスと関係が悪かったのはジャクソンだけではなかったが(有名なのはピッペンとの確執)、97~98シーズン前にジャクソンが1年契約を結んだ際、クラウスは「たとえ82勝0敗でシーズンを終えたとしても再契約はない」と言い切った。ジョーダンは「フィルが辞めるなら僕も辞める」として、こうして2度目の3連覇を達成したところで強いブルズは解体した。
そして1シーズンのブランクを空け、ジャクソンはレイカーズのHCとして復帰。ジャクソンはシャックを中心とし、ロバート・オーリーらロールプレイヤーたちを巧みに使い、またしても3連覇を達成した。04年オフに一度チームを去るが、1シーズンのブランクを空けて再びレイカーズのHCに復帰。ジャクソンは、以前はコービー・ブライアントとの関係が微妙で、その著書の中でコービーのことを「コーチできないタイプの選手」として批判したほどだった。しかし、今度はそのコービーと良好な関係を築き、07~08シーズン途中のパウ・ガソル獲得などもあり、09・10年と連覇を達成した。
07年1月には史上最速で通算900勝を達成。HCとしては歴代最多となる11度のチャンピオンになっている。ジョーダンやシャック、コービーといった史上屈指のスターだけでなく、デニス・ロドマンなど「才能はあるが扱いが難しい」とされる選手を指導することも多かった。かつての恩師、フィッチは「フィルは頭が良すぎるからコーチには向かないと思った」とコメントしていたとか。偉大なHCであると同時に、最も個性的なHCのひとりとも言えるかも知れない。
ボブ・ルール
6フィート9インチのC。コロラド州立大の出身で、67年のドラフト2巡目で新チームのソニックスに入団。すぐに活躍を見せ、ソニックスにとって最初のスター選手となった。ルーキーでマークした平均18.1点は、ケビン・デュラントに抜かれるまで、ルーキーとしてはチーム史上1位だった。また、ルーキー・シーズンにはレイカーズ戦で47点をあげるなど印象的な試合もあり、当然のようにオール・ルーキー・チームに選出されている。
2年目・3年目も着実に成績を伸ばし、その3年目にはオールスターにも出場。リーグ屈指のビッグマンのひとりであった。しかし、4シーズン目の開幕4試合目にアキレス腱を負傷。シーズンの残りを全休し、翌71~72シーズンに復帰しても故障前の状態には戻らなかった。ルールが欠場している間にスペンサー・ヘイウッドが加入したことも影響しているかもしれない。こうしてルールはシクサーズへトレードされた。
このシーズンの残りはまずまずの成績を残したが、翌72~73シーズンは再び故障に泣き、シーズン半ばにキャブスへ移籍。74~75シーズンに1試合だけバックスでプレイして現役を終えた。問題の4年目のシーズン、怪我をするまでは平均29.8点・11.5リバウンドをマークしていた。
アート・ウィリアムス
本名はアーサー・T・ウィリアムス。6フィート1インチ・180ポンドのGでカリフォルニア州立ポリーテクニック大パモナ校の出身。カレッジ卒業後、少しの間を置いた28歳のときにロケッツと契約を結んだ。ロケッツは創設1年目のシーズンを迎えるところであった。
ルーキーシーズンは79試合に出場。ジョン・バーンヒルと役割を分け合いながらも、チーム1位の平均4.9アシストをマークした。3年目の69~70シーズンに、スチュ・ランツの台頭で出場機会が減少。それでもアシストはチーム1位だったが、シーズンが終わるとセルティックスへ移籍した。
69~70シーズンのセルティックスはプレイオフ進出を逃しており、ウィリアムスが加わった70~71シーズンも、44勝38敗ではあったがプレイオフに進むことが出来なかった。しかし、ジョン・ハブリチェック、デイブ・コーウェンス、ジョジョ・ホワイトら蒼々たるメンバーとチームメイトになったウィリアムスは、堅実な控えとして貢献。チームは再び強くなり、74年にはNBAチャンピオンとなった。ウィリアムスはここでチームを離れ、翌シーズンはABAのサンディエゴ・コンキステイダーズで7試合だけプレイ。そして現役を引退した。