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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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昭和42年ドラフト組①

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「ウルトラセブン」を「ウルトラマンセブン」と呼ぶ人を許せません。笑

 

 

アール・モンロー

 

ドリブル、パス、プレイメイクなどの巧さで知られたG。「アール・ザ・パール」という愛称が有名だが、地元フィラデルフィアでは「ブラック・ジーザス」と呼ばれていたという。また、かつてはプレイグラウンドの伝説としても知られ、高校時代には多くの独自のムーブを使うことから「トーマス・エディソン」という愛称もあったとか。

67年のドラフト1巡目第2位で、ウィンストン・セーラム大からブレッツに入団。ルーキー・シーズンはレイカーズ戦で56点(ルーキー史上第3位、チーム史上第2位)をマークするなど大活躍を見せ、新人王に輝いた。モンローとCのウェス・アンセルドは強力な2枚看板で、モンローの、スピードとアクロバティックな魅力を兼ね備えたプレイはファンの心を掴み、あっという間に地元のヒーローとなった。モンローは自身のプレイに関して、「自分が何をしようとしているかは僕にもわからないんだ。ただひとつ確かなのは、僕をマークしている選手も、これから何が起こるかわからないのさ」とコメントしている。ブレッツ時代には、ひとつのオーバータイムで13点を挙げるという記録も作った(のちにギルバート・アリーナスが更新)。

71年にはトレードでニックスへ移籍。ここで形成されたウォルト・フレイジャーとのバックコート・コンビはリーグ史上で見ても強力で、ニックスが73年に優勝したひとつの要因となった。4度オールスターに選出されたモンローは、80年に膝の怪我で引退(35歳ではあったが)。ピート・マラビッチと共に、NBAのゲームをエキサイティングなものにした選手とも言えるかもしれない。背番号15は86年にニックスの永久欠番になっている。

05年にABAに誕生したボルチモア・パールズはモンローに敬意を表したネーミングである。90年に殿堂入り。スパイク・リーがレイ・アレン主演で映画を撮った際、アレンの演じた役はモンローに因んで「ジーザス」という名であった。

 

トム・ワークマン

 

シアトル大出身。6フィート7インチ・218ポンドのF/C。67年のドラフト1巡目第8位でホークスに入団した。1年目はいいところがなく、シーズン途中でブレッツに移籍した。翌68~69シーズンも21試合しかプレイできず、オフにはピストンズへ移籍。ここでも出番はなく、シーズン中にABAのロサンゼルス・スターズと契約を結んだ。

ビル・シャーマンがHCを務めていたスターズでは、26試合の出場ながら平均20分近く起用されて平均11.9点をマーク。ようやく戦力となった。しかし、フランチャイズの移転でユタ・スターズとなった70~71シーズンは役割が減少。シーズン途中にデンバー・ロケッツ(現ナゲッツ)に移り、このシーズン限りでキャリアを終えた。

 

メル・ダニエルズ

 

6フィート9インチのCでニューメキシコ大出身。67年のドラフト1巡目第9位でロイヤルズから指名されるが、新しいリーグであるABAのミネソタ・マスキーズからも指名され、ダニエルズはマスキーズを選んだ。

ダニエルズはABAの初代新人王を受賞。オフにはペイサーズへトレードされ、翌69年と71年にはMVPをも受賞した。ペイサーズがABA時代に3度優勝したときの中心選手であり、オールスターにも7度出場。71年にはオールスターMVPにも輝いた。74~75シーズンをメンフィス・サウンズ、75~76シーズンをイタリアで過ごし、76~77シーズンにネッツでプレイして現役を引退。

その後はインディアナ州立大のコーチング・スタッフとなり、86年にはペイサーズのフロント入り。ABAを代表する名選手のひとりで背番号34はペイサーズの永久欠番だが、殿堂入りには時間が掛かり、2012年に殿堂入りを果たした。

 

トゥルーパー・ワシントン

 

本名はトーマス・ワシントン。6フィート7インチ・215ポンドのF/Cで、チェイニー大ペンシルバニア校というマイナーなカレッジ出身。67年のドラフト5巡目第50位でロイヤルズから指名冴えるが、67~73年をABAでプレイした。

ABA最初のシーズンでもあった67~68シーズンは、ピッツバーグ・パイパーズでコニー・ホーキンスらと優勝を経験。平均11.6点・10.7リバウンドをマークしただけでなく、FG成功率ではリーグ首位に立った。フランチャイズがミネソタに移った翌シーズンは更に成績を伸ばし、オールスターにも選出されたが、69年オフにホーキンスがNBAへ去るとチーム力が大きくダウン。フランチャイズをピッツバーグに戻した69~70シーズンは開幕から苦しみ、ワシントンもシーズン赤羽にスターズへ移籍した。70~71シーズンはザ・フロリディアンズ、71~73シーズンをネッツで過ごし、現役を引退。通算は平均10.6点・10.0リバウンド。NBAではプレイしなかった。

 

コニー・ホーキンス

 

ニューヨークのプレイグラウンドで「伝説」と言われた選手。跳躍力があり、アクロバティックなプレイが魅力で、片手でダンクを叩き込むことが出来た最初のひとりとしても知られている。

はじめはハーレム・グローブトロッターズであちこちを周り、19歳のときにABLのピッツバーグ・レンズでプレイ。ここでMVPに輝くと、ABAが始動した67~68シーズンにピッツバーグ・パイパーズに加入した。ホーキンスは得点王となり、シーズンMVPとプレイオフMVPを両方受賞するなど大活躍。パイパーズも54勝24敗とリーグトップの成績を残した。その後はNBAに移り、サンズ、レイカーズ、ホークスで計7シーズンをプレイ。4度オールスターに選出され、70年にはオールNBA1stチームにも選ばれた。背番号42はサンズの永久欠番で、92年には殿堂入りも果たしている。

名将ラリー・ブラウンは、6フィート8インチのホーキンスを「ジュリアスの前のジュリアス、エルジンの前のエルジン、マイケルの前のマイケルだった。私が見た中で最も偉大な選手のひとりだよ」としている。

ところで、ホーキンスを語る上では避けられない話題として、「八百長騒動」がある。ホーキンスがアイオワ大1年のときにNCAAの八百長騒動があり、このときホーキンスに繋がりのあった関係者がリストアップされたことで、ホーキンスは騒動の渦中にある人物となってしまった。ホーキンスは無実で、逮捕も起訴もされなかったが、アイオワ大からは追い出され、NBAでプレイすることを禁止されてしまう。これがハーレム・グローブトロッターズでキャリアをスタートさせた理由である。因みにホーキンスはNBAを告訴し、これにNBAが最終的に同意したことで、NBAでのプレイが可能になった。


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