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Indiana Pacers 67年オフ:創設

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P67年オフ:創設

 

67年、6人の投資家グループが共同出資してチームを購入。

このうちのひとり、リチャード・ティンカムはABAの共同創始者でもあります。

 

そして、このグループにはチャック・バーンズというスポーツ・エージェントもいたんですが、この人はカーレーサーのマネージャーを務める傍ら、競馬の愛好家でもあり、その奥さんが”ペイサーズ”という名前を提案。

 

”インディアナ・ペイサーズ”か”インディアナポリス・ペイサーズ”かで意見が割れたようですが、インディアナポリスを拠点としてインディアナ州内で試合を行う構想があったことから、インディアナ・ペイサーズとなりました。

 

”ペイサーズ”という名前は、ハーネスレース(競馬の一種)のペースカー、インディアナポリス500(モータースポーツのイベント名)のペースカーに由来。

ペースカーとはF1などで事故が起きた際に、レースを先導する車のことで、”ABAという新リーグのペースを作っていく”といった意味が込められました。
 

【HCとGM】

 

ティンカムは、初代GMにマイク・ストーレンを雇いました。

 

ストーレンは60年代序盤にNBAのブレッツのスタッフとして働き、ロイヤルズのフロント業を経て、ペイサーズにやってきました。

ストーレンはインディアナ州の出身で、カレッジもノートルダム大(卒業後に海軍でティンカムと知り合ったそう)。

チーム名やロゴ、チームカラーを決めるのにも携わっており、ペイサーズ黎明期の重要人物です。

 

そして、そのストーレンは初代HCにラリー・ステイバーマンを任命。

ステイバーマンは58年から64年にかけてNBAで5シーズン、ABLで1シーズン、選手としてプレイ。

直近の2年は、ノートルダム大でACを務めていました。

 

現役時代にロイヤルズに在籍していた時期があるので、今回はその縁があるかもしれません。

 

【ドラフト】

 

ドラフト指名した中でロスターに残ったのは、ジミー・ドーソン、ボブ・ネトリッキーの2人。

 

ドーソンはイリノイ大出身のPGで、この年のNBAドラフトではブルズからも16巡目で指名されています。

 

ネトリッキーはドレイク大出身のPF(6フィート9インチ)。

NBAのドラフトでは2巡目でロケッツから指名されていましたが、ペイサーズを選びました。

 

【初契約】

 

ペイサーズが最初に契約したのはロジャー・ブラウンというSFでした。

 

ペイサーズの首脳陣は、地元のスターであるオスカー・ロバートソンをチームに誘うんですが、ロバートソンはこれを拒否(ロバートソンはNBAで7年目のシーズンを終えたところ)。

ただ、オハイオ州のデイトンにいい選手がいるというアドバイスをくれました。

ロバートソンはカレッジ時代にピックアップ・ゲームでブラウンと対戦したことがあったんですね。

 

ブラウンは、”ニューヨークのプレイグラウンドの伝説”とされるうちのひとり。

コニー・ホーキンスはこの頃から凌ぎを削った仲で、高校時代の直接対決は世間の注目を集めるものでした。

 

60年にデイトン大に進み、期待されますが、61年に発覚した八百長スキャンダルに巻き込まれ、キャリアが変わってしまいます。

 

八百長行為の首謀者はジャック・モリナスジョー・ハッケンというギャンブラー(モリナスは元選手)。

このとき取り調べを受けた学生は20人ほどいたんですが、ブラウンとホーキンスが、モリナスたちと他の学生たちとの仲介的な役割をしていたと疑われてしまうんですね。

 

ブラウンとホーキンスは、行為自体はしていませんでしたが(証拠がなく、告訴もされず。首謀者たちもこの2人の関与を否定)、高校生だった60年当時からモリナスと交流があったのが既にまずかったんですね(モリナスは、試合後に2人にお金をあげたり車を貸したり、一緒に遊びに行ったりしていたとか)。

これが原因となって2人はNCAAから追放、更にはNBAでプレイすることも禁じられてしまいます(当時、NCAAでは1年生にプレイ資格がなかったので、デイトン大での記録はありません)。

 

ブラウンはデイトンに残り、下宿してゼネラル・モータースの工場で働きますが、AAUでプレイすると活躍。

62年にはAAUのオール・アメリカンに選出されますが、スキャンダルのイメージが足を引っ張り、大事な試合でプレイできなかったり、更には64年の東京オリンピックのトライアウトを受けることが出来なかったりと、不遇な時期が続きました。

 

こうした出来事があったため、ロバートソンのアドバイスを受けてペイサーズがルーキー・キャンプへの招待を送った際も、当初のブラウンは消極的。

結婚して一歳の子供がいたこと、新リーグに対する不安もあったようで、ようやくプロでプレイできるチャンスにも簡単には飛びつきませんでした。

 

【選手集め】

 

NBA経験組はロン・ボンハム、フレディー・ルイス、ジェリー・ハークネスの3人。

 

ボンハムは64年にセルティックスでデビュー。

バックアップのスウィングマンとして、いきなり2度の優勝を経験しますが、ミニッツは平均9分。

昨シーズンはどこのチームでもプレイしていませんでした(引退していたとも)。

この人はインディアナ州出身で、高校もインディアナです(カレッジはシンシナティ大)。

 

ルイスは6フィートのGで、昨シーズン、ロイヤルズでデビュー。

こちらも出場機会は少なかったですが、ロバートソンから多くのことを教わったそうです。

このオフ、エクスパンション・ドラフトでロケッツから指名されていたんですが、ペイサーズ入りを選びました。

 

ハークネスは6フィート2インチのPG。

63~64シーズンにニックスで5試合だけプレイし、その後の3シーズンはNABLというリーグで過ごしていました。

そこでは活躍していたようです。

 

~~~~~~~~~~~

 

ネトリッキー、ブラウン、ルイスの獲得は大成功。

この3人は97年のABA All-Time Team(偉大な30人)に選出されており、ブラウンはのちにペイサーズの永久欠番になり、殿堂入りを果たすほどの選手になります。


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