字余りみたいになってしまったんですが、この年の選手たちの元ネタが数人余っていたので追加です。
今年のファイナル悔しかったなぁ…
マイク・オッコーレン
1巡目第6位でネッツ入りしたSF。最初の6シーズンをネッツで過ごした後、ブレッツに移籍するが、すぐ古巣ネッツに出戻り、そのシーズンを最後にキャリアを終えたマイナーな選手。ただ、引退後にネッツのチーム解説者として長く働いており、99年にはACとしてコーチングスタッフにも入るなどネッツ界隈では有名かもしれない。キャリア平均8.5点で、キャリアハイは平均11.4点であった。ノースカロライナ大の出身で、当時は4年間スターターを務めていたとか。
ケニー・ナット
ルイジアナ大モンロー校出身のG。高校時代はバスケットと陸上のスターで、カレッジでは1~3年次はパッとしなかったが、4年次に目覚ましい成長を見せた。ドラフトでは2巡目第30位でペイサーズに入団。しかし、19試合しか出られず、翌シーズンはCBAで過ごした。82~83シーズンはジャズでNBAに復帰するが、翌シーズンは再びCBAへ。NBAでは84~85シーズンにジャズ、キングスでプレイしたのが見納めとなった。
引退後は、89年にWBLのチームで選手の管理者やスカウトに就任。以降、CBAやカナダのチームでコーチを務め、94~95シーズンにはヤングスタウン州立大でACに就任した。95年からは古巣ジャズでジェリー・スローンのコーチング・スタッフに参加。スカウトの仕事なども含め、精力的に活動した。ジャズで同時期にACを務めたフィル・ジョンソンは、現役時代、キングスでプレイしたときのHCであもる。兄はカルビン・ナットで、こちらはオールスターFであった。
リック・マホーン
2巡目第35位で、無名校ハンプトン大からNBA入りしたビッグマン。同大史上初のNBA選手で、同大出身の選手は2016年現在もマホーンを含めて2人しかいない。最初の5シーズンはブレッツでプレイ。名を馳せた、と言えるほどの結果は残せなかったが、ジェフ・ルーランドの巨漢コンビでチームを支えた。85年オフにはダン・ラウンドフィールドとのトレードでピストンズへ移籍。ここでマホーンは、バッドボーイズを象徴するプレイヤーのひとりとして存在感を見せ、89年のチーム初優勝に貢献した。
バッドボーイズならではのフィジカルなスタイルはもちろんだったが、ディフェンスは良く、このシーズンはオール・ディフェンシブ・チーム入りを果たしている。しかし、優勝から僅か20日後、マホーンはエクスパンション・ドラフトの際にプロテクトされず、新チームのウルブズに指名されてしまう。マホーンはウルブズ行きを嫌がり、開幕直前にシクサーズへのトレードが成立。
ここではチャールズ・バークリーとチームメイトとなるが、残念ながら優勝を狙えるようなチームではなく、2年連続でセミファイナルでブルズに敗退。移籍2年目は、不得手なCとしてプレイしなければならなかった。91~92シーズンはイタリアでプレイし、92~93シーズンの開幕直後にネッツと契約。当時のネッツは恩師チャック・デイリーがHCに就任したばかりであった。大ベテランの域に入ってきたマホーンはこの頃から、成績が急激に下降するが、その人望からか4シーズンもネッツに籍を置いた。
96~98年を古巣ピストンズ、98~99シーズンをもうひとつの古巣シクサーズで過ごして現役を引退。バッドボーイズ時代にはビル・レインビアからも頼りにされていたようで、キャリア終盤も若手たちにとってよきベテランだったようである。引退後のマホーンは、すぐにCBAのロックフォード・ライトニングでHCに就任。いきなり2度のコーチ・オブ・ザ・マンスを受賞するなど、光る手腕を見せ、直後にはロン・クルーガーのコーチング・スタッフとしてNBAのACとなった。
ラリー・スミス
リバウンダー。しつこくリバウンドに絡むスタイルが特徴的で、「ミスター・ミーン」の愛称で知られた。デビューから9シーズンをウォリアーズで過ごし、続く3シーズンをロケッツでプレイ。最後の92~93シーズンはスパーズに在籍していた。ルーキーのときにいきなりリーグ3位のリバウンド・アベレージを記録するのだが、ルーキーがこの快挙を成し遂げたのは、当時カリーム・アブドゥル‐ジャバー以来のことであった。オール・ルーキー1stチームに選出されたのも納得であろう。
引退後は古巣ロケッツでACに就任。現役時代は優勝争いに縁のないキャリアだったが、ACとしてはロケッツの連覇に貢献している。NBA史上でも数少ないアルコーン州立大の出身。