個人的には、レブロンは「初優勝した」という感じ。ヒート時代の優勝ってなんか印象が薄いんですよね。
ハーブ・ウィリアムス
18シーズンという長いキャリアを過ごした6フィート10インチ・242ポンドのビッグマン。オハイオ州立大の出身で、4年間スターターとしてプレイしたウィリアムスは得点でチーム史上1位(卒業当時)、リバウンドで2位(ジェリー・ルーカスに次ぐ)、ブロックで2位という記録を残している。ドラフトでは1巡目第14位でペイサーズに入団。ルーキーイヤーから出場したほとんどの試合でスターターを務めるなど、チームの中心としてプレイした。
しかし、この当時のペイサーズはパッとせず、翌年以降のドラフトで有望な若手を指名しても、故障などもあってか確かな戦力アップにはならなかった。85~86シーズンにはキャリアハイの平均19.9点をあげたが、それも勝ち星には繋がっていない。転機となったのは86~87シーズン、HCがジャック・ラムジーに代わり、ルーキーのチャック・パーソンが新人王を受賞する活躍を見せ、チームは6シーズン振りにプレイオフ進出を果たした。
しかし、2年目のウェイマン・ティズデイルが台頭したことでウィリアムスの役割は減少し、88~89シーズン半ばにはデトレフ・シュレンプとのトレードでマブスへ放出された。マブスでは主にバックアップとしてプレイ。この頃のマブスは、90年代前半の地獄の低迷期に向けて戦力を落とし始めたときであった。92年には強豪ニックスと契約。ニックスではピーク時のパトリック・ユーイングのバックアップとなったため、出場機会・役割ともに大きく減少した。
95~96シーズン途中には一度ラプターズへトレードされるのだが、1試合プレイしただけで解雇されてニックスに帰還。41歳となる98~99シーズンまでニックスで現役を続けた。96年からHCを務めたジェフ・ヴァンガンディには人格を評価されており、チームの精神的なリーダーだったと見ることもできるだろう。引退から4年後、今度はACとしてニックスに復帰。ドン・チェイニーとレニー・ウィルケンスのACを務め、04~05シーズン途中にウィルケンス解任されたときは暫定HCをも務めた。
翌シーズンにラリー・ブラウンがニックスのHCになったときも、その後、HCがアイザイア・トーマスに交代したときも、マイク・ダントーニになってからもずっとコーチング・スタッフに入っている。
レイ・トルバート
インディアナ大出身。6フィート9インチのPFで、ドラフト1巡目第18位でネッツ入り。ルーキーイヤーの途中にソニックスにトレードされ、更に82~83シーズンの半ばにはドラフト2巡目指名権と交換でピストンズに移籍、1シーズン半過ごした。84年に契約を破棄されてからはしばらくNBAでプレイできなかったが、87年にニックスと契約。すぐに解雇されるが、今度は強豪レイカーズに拾われた。88~89シーズンにホークスでプレイしたのを最後に現役を引退。
キャリア通算は261試合で平均3.6点。FTは苦手である。
オーランド・ウールリッジ
ノートルダム大出身のF。78年のファイナル4では1年生としてビル・レインビアらとプレイした。同大は80・81年もNCAAファイナルに進んでおり、81年にヴァージニア大の連勝記録を止めたのはウールリッジの決勝シュートであった。ドラフトでは1巡目第6位でブルズに入団。1年目はバックアップであまり目立たず、2年目は平均16.5点をあげた一方で25試合を欠場した。大きく飛躍したのはスターターに定着した3年目で、チームの稼ぎ頭に成長。4年目には平均22.9点をマークした。
しかし、その4年目はマイケル・ジョーダンが入団した年でもあり、チームはジョーダン中心にシフト。ジョーダンとの不和が囁かれたりもした。翌85~86シーズンはそのジョーダンが足首の骨折で長期離脱を強いられるが、そこで逆にスターターを外されたり、無断でチームを離れたりするなどチームを牽引できず、86年オフにはドラフト指名権と交換でネッツに放出されてしまう。ネッツでの1年目は平均20.7点を稼いだが、2年目にリーグの薬物規定に違反して出場停止、キャリアは危機に瀕した。
しかし、ウールリッジはここから立ち直り、88~90年はレイカーズでプレイ。ここでは6マン的な起用をされ、ベンチから爆発力をもたらす存在として活躍した。身体能力の高いウールリッジは、マジック・ジョンソンのパスの受け手として悪くなかった。
90~91シーズンはナゲッツで平均25.1点・6.8リバウンドと、個人スタッツとしてはキャリアハイをマーク。ただ、これはポール・ウェストヘッドHCによるオフェンス重視のスタイルが影響しており、チームは弱く(20勝62敗)、また、ウールリッジは目の怪我でシーズンの半分近くを欠場した。91年オフにはピストンズへトレードされ、レインビアと再会。スターターとして起用されたが、峠を過ぎたバッドボーイズを蘇らせることは出来ず、92~93シーズン途中にはバックスへ放出された。
93~94シーズンをシクサーズで過ごした後は渡欧。94~95シーズンはマイク・ダントーニがHCを務めるイタリアのベネトン・トレビソでプレイしている。95年のマクドナルド選手権では、決勝でロケッツと対戦している。95~96シーズンを最後に現役を引退。6フィート9インチ・215ポンドで、身体能力の高い選手。オープン・コートではアンストッパブルで、ダンクも見応えがあった。ただ、プレイが一元的なのでエースとしても2番手としても物足りない。引退後はWNBAのスパークスでHCを務めたこともある。
ケリー・トリピューカ
ノートルダム大出身のスコアリングF。ドラフト1巡目第12位でピストンズに入り、ルーキーイヤーからスコアラーとして活躍。2年目には24試合を欠場しながらも平均26.5点をマーク。平均38.8分のプレイングタイムはリーグ1位であった。86年には同じくスコアラーのエイドリアン・ダントリーとのトレードでジャズに移籍。しかし、当時のジャズはジョン・ストックトン、カール・マローンを中心にチームを作り始めており、得点力はあるが協調性に欠けるトリピューカは歓迎されなかった。
移籍1年目こそ故障明けのダレル・グリフィスからスターターの座を奪ったが、翌年は出場機会を制限されてしまう。HCのフランク・レイデンとも衝突し、結局88年オフにエクスパンション・ドラフトでホーネッツに拾われた。ここでも1年目は平均22.6点をマークするなど錆び付いていないことを示したが、次第に若手に活躍の場を奪われ、90~91シーズンを最後に現役を引退。その後、チャック・デイリーがHCに就任したネッツ行きの噂などもあったようだが、実現には至らなかった。
89年に行われたホーネッツとジャズの試合で、マローンはレイデンが解任されて間もなかったことを受けて、シューズの踵に「フランク」と書いてプレイしたのだが、これを受けてトリピューカは自分のシューズに「ディック」と書いてプレイしたという(当時のホーネッツのHCはディック・ハーター)。シュートの上手いスコアラーで、プレイオフ初のロードゲームで40点をあげたというリーグ・タイ記録を保持している。また、ピストンズ史上1試合40点以上をあげた選手は、他に4人しかいない。
ディフェンスが弱いことでも有名。
マイク・マギー
ミシガン大出身のスウィングマン。1巡目第19位でレイカーズに入団した。層の厚い強豪に入ったことで最初2年間は出番がなかったが、ノーム・ニクソンが去った83~84シーズンは開幕からスターターとしてプレイ。シーズン中盤にはバイロン・スコットにその座を奪われたが、以降も貴重な控えとして貢献した。15分足らずのプレイングタイムながら平均10点前後を稼ぐなど、ショータイム時代のレイカーズを陰で支え、82・85年には優勝を経験している。
86年にはホークスへ移籍し、翌シーズンの序盤には更にキングスへトレードで移籍。88~89シーズンはネッツで過ごし、このときはキャリアハイの平均13点をマークしている。NBAでプレイしたのは89~90シーズンのサンズが最後。フィリピンでもプレイしたことがある。そのチームへの貢献度の高さはマジック・ジョンソンも評価するほどであったが、唯一FTは精度が悪く、Gなのに6割に届かない。
バック・ウィリアムス
本名はチャールズ・リンウッド・ウィリアムス。6フィート8インチ・215ポンドとNBAのF/Cとしてはやや小柄だったが、3度のオールスター選出、新人王、オール・ルーキー・チームへの選出、オール・ディフェンシブ・チームへの選出、オールNBAチームへの選出など多くの実績を残した。83~84シーズンにオフェンス・リバウンドの総数でリーグ首位をマークしたのも、84~85シーズンにリーグ首位の3182分プレイしたのも、地味ながら素晴らしい成績である。
メリーランド大の出身で、当時から特にリバウンドで強さを発揮。出場こそしなかったが、80年のモスクワ・オリンピックの代表メンバーに選ばれている。3年次終了後にアーリー・エントリーを表明し、ドラフト1巡目第3位でネッツ入り。マーク・アグワイア、アイザイア・トーマスに次ぐ指名であった。1年目はラリー・ブラウンHCの下、Cのレン・エルモアとともに全82試合でスタートし、平均15.5点・12.3リバウンドをマーク。チームは前年度+20勝(44勝38敗)をあげ、新人王を受賞した。
2年目の82~83シーズンは、ダリル・ドーキンス、マイケル・レイ・リチャードソンが加わるなど戦力は充実。チームは49勝33敗をあげ、ウィリアムスもオールNBAチームに選出された。ただ、このシーズンは、ブラウンHCが「シーズン終盤にカンザス大のHC職を受諾した」ということでシーズン終了までの出場停止処分を喰らってしまい、チームは残り6試合というところでHCを交代。チームはここから立ち直れず、プレイオフでは下位シードのニックスに敗れてしまった。
翌83~84シーズンは、ネッツにとって、76年にNBAに参入して以来初となるプレイオフ1stラウンドを果たすが、ここをピークにチーム力は下降(因みにネッツが次に1stラウンドを突破するのは02年)。リチャードソンがドラッグ問題でチームを去った86~87シーズン以降は、ウィリアムスがどんなに活躍しようとも低迷。そして、88~89シーズンを最後にサム・ブゥイ&ドラフト指名権とのトレードでブレイザーズへと放出された。
ブレイザーズは4年連続1stラウンド敗退中の中堅チームだったが、ウィリアムス加入の影響か、前年度+20勝となる59勝23敗をマークし、なんとファイナルに進出。ピストンズに負けたが、大躍進のシーズンだった。ブレイザーズ移籍によって個人成績は軒並みダウンしたが貢献度は高く、91・92年には60%FG成功率でリーグ首位を記録。チームは92年もファイナルに進んでいる(ブルズに敗れる)。その後、主力の高齢化などでブレイザーズも戦力ダウン。96年にはニックスへ移籍した。
この頃にはさすがに衰えが顕著だったが、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリーのバックアップとして手堅くプレイ。しかし、移籍2年目の97~98シーズンは膝の故障で41試合を欠場し、ロックアウト解除直後の99年1月末、現役引退を表明した。因みに1シーズンに12シーズン以上欠場したのは初めてのことだった。引退から間もない99年4月には古巣ネッツが、ウィリアムスの背番号52を永久欠番としている。
プロ入りから最初の6シーズン連続で平均12本を上回るリバウンド数でリーグのトップ3にランクイン。故障も少なく、実に12シーズンで80試合以上に出場した。人望も厚く、94~97年には選手協会の会長も務めている。
アルバート・キング
1巡目第10位でネッツに指名されたスウィングマン。メリーランド大。ルーキー時代から主にスターターとして起用され、2年目にはキャリアハイの平均17.0点をマークしている。87年にはシクサーズ、88年には更にスパーズへ移り、89~91年はNBAでプレイせず。91年にはブレッツと契約を結ぶが、開幕から6試合に出たところで解雇されてしまった。スコアラーとして有名なバーナード・キングの弟で、91~92シーズンにはチームメイトであった(バーナードの故障のため、ともにコートには立っていない)。
アル・ウッド
1巡目第4位でホークス入りした、ノースカロライナ大出身のスウィングマン。ルーキーイヤーの途中にクリッパーズにトレードされて開花。83年にソニックスに移籍するとスターターに定着し、3シーズンに渡って主力として活躍した。しかし、当時のソニックスはかろうじてプレイオフに滑り込めるくらいの戦力しかなく、ゼイビア・マクダニエル、トム・チェンバーすら好選手の加入によって出番は減少。86~87シーズンにマブスに在籍したのを最後に現役を引退した。
キャリアは短かったが、通算で平均11.8点は悪くない。