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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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平成6年ドラフト組①

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最近、情報番組おおいですよね?!テレビ好きなんですけど、情報番組は見ないんですよね。行列のできるお店とか便利グッズとか、視聴率取れるんですかね。




マイケル・スミス


通称「アニマル」。プロビデンス大出身のPFで、ドラフト2巡目第35位でキングスに入団した。サウスポーで、鼻に付けたテーピングがトレードマーク。やや上背に欠けるが、数字に表れない体を張ったプレイが評価されたのか、2巡目指名のルーキーとしては珍しく全82試合で起用された。97~98シーズンのトレード期限にグリズリーズへ移籍。99年には更にウィザーズへトレードされた。NBAで過ごしたのは00~01シーズンが最後。

ウィザーズ時代、フロントに入ったジョーダンが「スミスを欲しいというオファーは多い」と明かしていたことがあるが、20代後半にしてNBAでの居場所を失った。FT成功率が50%前後など、オフェンスは苦手。


モンティ・ウィリアムス


ノートルダム大出身のSF。心臓に先天的な病を患っていたようだが、ドラフト1巡目第24位でニックスに入団した。層の厚いベテラン・チームに入ったためか出場機会は限定的で、2年目の途中にはスパーズへ移籍。翌96~97シーズンには、主力に怪我人が続出した恩恵を受けてキャリア最高の成績を残している。98~99シーズンはナゲッツで1試合しかプレイできなかったが、99~02年に在籍したマジックでは貴重なバックアップとして渋く貢献した。

02~03シーズンにシクサーズでプレイしたのを最後に現役を引退。FTの精度が今ひとつなのも含めてシュートエリアが狭いが、ペイントエリア内では意外な巧さを見せる。引退後はコーチ業を務めており、ブレイザーズのACがそのスタートであった。因みに、コーチ就任のために力を貸してくれたのは、現役時代に起用法を批判したグレッグ・ポポビッチだという。


チャーリー・ウォード


フロリダ州立大出身のPG。カレッジ時代はフットボールもプレイしており、93年にはアフリカ系アメリカ人としては史上2人目となるハインズマン・トロフィーを受賞。また、カレッジで野球をやっていなかったにもかかわらず、93年にブリューワーズ、94年にはヤンキースからも指名を受けている。卒業後、NFLのドラフト1巡目で指名されないことがわかると、ウォードはNBAへ行くことを希望。そして、1巡目第26位でニックスから指名を受けた(意思を表明したため、NFLのドラフトには掛からなかった)。

プロ入り後は、「司令塔としては不十分」といった批判も受けつつ、次第にスターターに定着。ニックスにいる間は頻繁にトレードの噂が流れたり、PGのグレードアップが必要だと言われたり、スターティングPGとしては今ひとつな扱いを受けていたが、アラン・ヒューストンやラトレル・スプリーウェルとの相性は悪くなかった。03~04シーズン中にサンズへトレードされ、直後に解雇されたのを挟み、スパーズへ移籍。翌04~05シーズンをロケッツで過ごし、現役を引退した。

得点力、ゲームメイク力ともに平均的だが3Pはまずまずで、98年には3Pコンテストに出場している。ディフェンスは悪くない。ニックス時代はヒューストンと仲が良かったとか。97年のプレイオフ、カンファレンス・セミファイナルでヒートのPJ・ブラウンと起こした乱闘騒ぎはプレイオフ史に残る大乱闘であった。


エリック・モントロス


ノースカロライナ大出身の7フッター。93年に同大がミシガン大を破ってNCAAチャンピオンになったときのコアメンバーである。ドラフトでは1巡目第9位でセルティックスへ入団。ルーキーイヤーはまずまずの成績を残し、ルーキー・オールスターとオール・ルーキー2ndチームに選出された。しかし、そのパフォーマンスはここからキャリアを経るごとに下降。ピストンズに在籍した99~00シーズンには平均0.8点をマークするなど惨憺たる有様だった。

01~02シーズン終了後、足の故障で1シーズン休むが復帰の目処が立たず、03年オフに現役を引退。3年目以降見るべき成績、活躍は残していないが、通算で出場した465試合中263試合でスターターとして起用されており、このことは「リーグにいかにCが不足しているか」を表しているかもしれない。身長だけでなく幅もあり、Cとしては恵まれた体格をしているが、動きが遅く、技術も乏しい。FTが苦手で、FTが苦手な選手を「モントロシア」と揶揄することがあった。


トニー・デュマス


1巡目第19位でマブス入りしたSG。プロ2年目の95~96シーズンに平均20分に満たない出場時間で平均11,6点をマークし、48分換算ではリーグの得点王となった。しかし、3年目はチームの層が厚くなったこともあってシーズン序盤にサンズへトレードされ、すぐに解雇。97~98シーズンに少しだけキャブスでプレイしたのを最後に二度とNBAではプレイしなかった。ミズーリ・カンザスシティ大出身で、同大からNBAのドラフトにかかった選手は、今のところデュマスだけである。

身体能力が高く、得点力もあるが、FTやジャンプシュートの精度に難がある。キャリアハイは39点。


アントニオ・ラング


91・92年とデューク大が2連覇したときのメンバー(ファイナル4には3度進出)。ドラフト2巡目第29位でサンズに入団するが、1年目は膝の故障もあって満足にプレイできず、オフにはキャブスへトレード。ここでは2シーズン過ごすが見せ場はなかった。翌シーズン以降、ヒート、キャブス、ラプターズ、シクサーズにも少しずつ在籍しているが、いずれも短命に終わっている。CBAやフィリピンでもプレイ経験があり、01年からはJBLの三菱でプレイしていた。

足の故障によって06年に現役を引退。その後はそのまま三菱のACを務めていたとか。


トム・ホーバス


6フィート8インチ・205ポンドの白人F。ペンシルバニア州立大の出身で、94~95シーズンにドラフト外でホークス入り。しかし、2試合、計4分だけの出場で解雇されてしまった。ヒートとのトレードで、ケビン・ウィリスを出してスティーブ・スミス、グラント・ロングが加入したばかりだったので、ロスター調整の意味合いがあったのかもしれない、その後、日本でプレイしていたこともあってか、NBA出身の選手という肩書きで、TVのNBA特集などでゲストとして呼ばれることもあった。


ジム・マッキルベイン


7フィート1インチのショットブロッカー。高校時代は得点・リバウンド・ブロックであわやトリプルダブルというアベレージを残しており、マーケット大では同大史上1位の通算ブロック数を残している。ドラフトでは2巡目第32位でブレッツに入団。2シーズン在籍したここではジョージ・ミュアサンのバックアップだったが、限られた出場機会の中でもブロックショットはそこそこ目立っていた。そして、96年オフにFAとなってソニックスと契約を結ぶ。それは7年間3360万ドルという破格のものであった。

当時、ファイナルでブルズに敗れたばかりであったソニックスは、弱点のCを補強するためにマッキルベイン獲得に動いたのだが、この人事にエースのショーン・ケンプが激怒。ブロックショットが売りとはいえ、平均2.3点・2.9リバウンドの選手が自分よりも大きな契約を結んだことに怒った(昇給を頼んだが、チームがそれを断ってマッキルベインを優先したとか)。この後、ケンプはトレーニング・キャンプを欠席するなど抗議の態度をとっている。

そして肝心のマッキルベインは強豪ソニックスのスターティングCとなったが、プレイはブレッツ時代とほぼ変わらず、プレイオフではスターターから外される始末。オフには不満を持ち続けたケンプがチームを去った。ソニックスでの2年目は(一応)キャリア最高の成績を残したが、周囲を納得させるプレイにはほど遠く、オフにはネッツへトレード。移籍当初はステファン・マーベリーに「俺と組めばヤツはオフェンスだって貢献できる」など、まだ期待もあったようだが、それに応えることはなかった。

3度にわたる故障もあってかキャリアは悪化し、01年に契約をバイアウトされて現役を引退。個人的にはソニックスが崩壊するきっかけをつくった選手だと思う。ただ、ブロックだけならリーグ上位に食い込む実力があり、契約が適切であって、2巡目指名選手であることを考慮すれば悪い選手ではなかった。スキーやドラムが趣味だとか。


ブルックス・トンプソン


サウスポーの白人PG。カレッジ時代はテキサスA&Mとオクラホマ州立大で過ごした。ドラフト1巡目第27位でマジックに入団し、2年過ごした後、ジャズへ移籍。ここではすぐに解雇されてしまうが、直後に拾われたナゲッツでは一定のプレイングタイムを確保し、多少の活躍を見せた。シュートは上手く、96年11月のサンズ戦では26点を稼いだこともある。97~98シーズンをサンズ、ニックスで過ごしたのがNBAでの見納め。引退後はカレッジなどでコーチをしているよう。


平成6年ドラフト組②

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年の瀬ですね~こんにちは。


歌番組みていていつも思うんですが、テレビ朝日(Mステ)のカメラワークやステージのセット?がいちばん好きです。個人的にうまいな~ちゃんとしてるな~すごいな~と思います。

いちばんアレだなと思うのは・・・




BJ・タイラー


スピードのあるPG。テキサス大オースティン校の出身で、当時はテレンス・レンチャーと小型バックコートを組んでいた。ドラフトでは1巡目第20位でシクサーズに指名され、ルーキーイヤーはディナ・バロスのバックアップとして55試合に出場した。そのオフにはエクスパンション・ドラフトでラプターズに移籍するが、膝の故障で95~96シーズンを全休し、そのままリーグを去った。あるジャーナリストの著書によれば、アイシングで膝が不活発になってしまい、引退せざるを得なくなったとのことである。


エルドリッジ・リカズナー


6フィート3インチのコンボガード。ワシントン大を卒業後、ドラフトにはかからず、94~95シーズン途中に10日間契約でナゲッツに加入。3試合だけだがプレイした。転機となったのがロケッツに移籍した2年目。シーズン序盤はいつ解雇されてもおかしくないような状況だったが、主力の相次ぐ故障を受けて、出場機会が増加、アウトサイド・シュートを武器にいいつなぎを見せた。この活躍を買われてか、そのオフにはホークスと契約。98年には更にホーネッツへ移籍した。

2年目以降は流れを変えるインスタント・スコアラー的な働きを見せていたが、99~00シーズンを故障などで75試合休むとキャリアは急降下。因みにこのときの怪我は、チームメイトのデリック・コールマンの運転する車に乗っていて事故に巻き込まれたのが原因で、なんとも不運であった(コールマンは故障者リスト入りせず)。翌シーズンはバロン・ディビスの台頭などでもはや居場所はなく、01~02シーズン開幕直後に解雇。クリッパーズにもいったん拾われるが、ここでもすぐに解雇されている。

通算の3P成功率は40%超えるシューターで、スピードもある。CBAあがりで成功した一例。


クリス・チャイルズ


タフなPG。ボーズ州立大を卒業するが89年のドラフトにかからず、CBAでプロ・キャリアをスタートした。ここでは最初の3シーズンで5チームを渡り歩くなど苦難の船出だったが、最後に在籍したクアドシティー・サンダーには定着。94年にはリーグのタイトルとMVPを受賞した。そして、94年にネッツと契約。2年目の95~96シーズンには契約問題などで精彩を欠くケニー・アンダーソンから出場機会を奪い、そのアンダーソンがシーズン途中にトレードされてからはスターターとして活躍した。

これで評価を上げたチャイルズは、そのオフ、優勝を狙うニックスと契約を結び、スターティングPGを任された。期待通りの働きを見せることができず、シーズン終了後に「ベンチ・スターにとして欲しい」とジェフ・ヴァンガンディHCに直訴、チャーリー・ウォードのバックアップとなるが、この頃がチャイルズのプライムタイムであった。小手先でプレイしないタフなスタイルは、この当時のニックスのカラーにフィットしており、99年のファイナル進出時の主力でもある。

00~01シーズンのトレード期限にはラプターズへ移籍。若いチームにおいてチャイルズの経験とタフさは非常に効果的であった。02年には古巣ネッツと契約を結ぶが、開幕時にオーバーウェイトでコンディショニングができておらずに不評を買い、まさかの出場停止処分。復帰後のプレイも散々で、僅か12試合プレイしただけで解雇され、そのまま現役を引退した。オール・インタビュー・チームに選ばれたり、グッド・ガイ・アワードを受賞したりするなど、オフコートでも活躍していた。

鼻っ柱の強い選手で、レジー・ミラーやコービー・ブライアントといったスターに喧嘩を売ることもあった。ただ、勝負度胸はあるおのの、プレイの精度やゲームメイク、状況判断は今ひとつである。


クリフォード・ロズィアー


1巡目第16位でウォリアーズ入り。ノースカロライナ大とルイビル大でプレイした6フィート11インチのビッグマンである。キャリア最高のシーズンはプロ1年目。このときは成績だけでなく、サンズ戦でバークリーを相手に見事なディフェンスを見せ、インパクトを残すことに成功した。しかし、2年目以降はあまりいいところがなく、3年目に解雇。直後にラプターズに拾われ、翌シーズンもウルブズと契約を結んだが、いずれも短期間であった。スピードとパワーを兼ね備えているが、技術に欠けた。


ジェイミー・ワトソン


ドラフト2巡目第47位でジャズ入りしたスウィングマン。1年目はスラムダンク・コンテストに出場したのが恐らく唯一の見せ場で、実戦では結果を残すことができなかった。しかし、2年目はブライオン・ラッセルの台頭やクリス・モリスの加入のためか、そこから状況が悪化。僅か16試合しか出られず、3年目の開幕後に解雇された。直後に弱小マブスに拾われるが、ここでも生き残ることはできなかった。98~99シーズンには3試合だけヒートでもプレイしている。


ドントニオ・ウィングフィールド


ドラフト2巡目第37位でソニックス入りしたSF。シンシナティ大で1年プレイした後のアーリー・エントリーで、94~95シーズンの最年少選手となった。SFとしてはやや大きく、一方で3Pも打てるなどマルチな選手として期待されたが、1シーズン(20試合)だけで見切りを付けられ、オフのエクスパンション・ドラフトではプロテクトされなかった。このときはラプターズに指名されるが開幕前に解雇されてしまい、最終的にブレイザーズと契約。しかし、まったく結果を残せず、97~98シーズン終盤に解雇された。

98年夏にはガールフレンドへの暴力で逮捕され、1年の実刑を下されている。


アーロン・マッキー


01年にシクサーズがファイナルに進んだときの主力。PG~SFまで3つのポジションをこなすことが出来る。テンプル大出身で、3年次終了後にアーリー・エントリー。3年間はすべての試合を務めており、当時はエディ・ジョーンズとチームメイトであった。そしてドラフト1巡目第17位でブレイザーズ入り。1年目は序盤こそ故障で出遅れたが、クライド・ドレクスラーの移籍以降は出番も増え、スターターにも名を連ねるようになった。

96~97シーズン序盤にはピストンズへトレードされ、翌シーズンの半ばには更にシクサーズへトレード。この当時はあまり目立たなかったが、98~99シーズンにエリック・スノウとアレン・アイバーソンのバックコートが確立されてから少しずつ役割が拡大。チームに欠かせない6マンとなり、チームがファイナルに進んだ00~01シーズンには、シクサーズでは83年のボビー・ジョーンズ以来となる6マン・アワードを受賞した。このシーズンは2試合連続トリプルダブルもマークしている。

しかし、翌01~02シーズン以降は、チームが補強の失敗や主力の故障で上手く機能せず、マッキーも少しずつトーンダウン。04~05シーズンには若手の加入もあってチームの構想から外れ、05年8月、新労使協定の一部であるアムネスティ・ルールによって解雇されてしまった。まだ32歳だったマッキーは、同オフ、レイカーズと契約を結ぶが、ここでは故障とフィル・ジャクソンHCの方針から2年間で14試合しか出られず、07年に現役を引退した。

引退後はすぐに古巣シクサーズのACに就任。余談だが、マッキーは公式に引退をリーグに伝えていなかったため、AC就任後も選手としての登録が残っており、08年2月にレイカーズとグリズリーズの間でトレードが行われた際、クワミ・ブラウンやジャバリス・クリッテントンと一緒にグリズリーズへ放出された。これはルールの裏を突いたやり方で、直後にマブスも同様の手を使ったためにちょっとした議論になった。もちろんプレイはしていない。

複数のポジションに入れることが最大の長所で、スノウ&アイバーソンと一緒にプレイすることでマッキーの良さも引き出されていた印象。リバウンドやディフェンスも良く、ラリー・ブラウンには重宝されていた。シュートはモーションが遅く、若い頃はあまり良くなかったが、キャリアを経るごとに確実性を増していった。


アンソニー・タッカー


ウェイクフォレスト大出身のやや大柄なSF。当時はロドニー・ロジャースらとチームメイトだった。92年に同大を卒業するがNBAのドラフトにかからず、念願のNBAデビューは94~95シーズンのブレッツであった。成績は目立ったモノではなかったが、主力の故障などからスターターとしても起用されるなど一定の出場機会を確保、ルーキー・オールスターにも出場した。ただ、シーズン終盤に解雇されており、翌シーズン以降はCBAへ。NBAへ戻ってくることはなかった。


ライアン・ロースリッジ


ジャクソン州立大出身のG(6フィート4インチ・190ポンド)。95年の年明け頃にウォリアーズと10日間契約を結び、シーズンの残りをプレイした。加入当初はキース・ジェニングスとバックアップGの座を争っていたが、シーズン終盤はティム・ハーダウェイの欠場で出場機会が増え、4月の得点アベレージが2桁を超えるなど、健闘を見せた。シーズン通算では平均7.4点。サウスポー。NBAでプレイしたのはこのシーズンだけである。


イバノ・ニュービル


スローなPF。ジョージア工科大出身。ドラフトにはかからず、94年オフにピストンズと契約。FG成功率・FT成功率ともに40%に届かないなど散々な出来だったが、何とか1シーズン生き残った。1シーズン空いて、96年にはホークスと契約。紙のように層が薄かったホークスでは72試合に起用されるなど、キャリア最高のシーズンを過ごした。翌97~98シーズンをグリズリーズで過ごしたのがNBAでの最後。カレッジ時代も特筆すべき成績は残していない。

平成6年ドラフト組③

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この番組、8期・9期の頃が好きでしたw




カルロス・ロジャース


6フィート11インチのF/C。身体能力が高く、スピードとクイックネスを兼ね備えている。ドラフト1巡目第11位でソニックスに指名され、直後にウォリアーズへトレード。カレッジ時代はアーカンソー大リトルロック校とテネシー大で過ごした。2年目にラプターズへ移籍したのを機にプチブレイク。翌96~97シーズンには3Pもオフェンスのバリエーションに加え、ベンチ・スタートながら貢献度は高かった。しかし、97~98シーズン途中にブレイザーズへトレードされると一気に出場機会が激減。

層の厚いベテランのチームに出番はなく、おまけに故障もあり、1シーズン半で5試合しかプレイできなかった。99年オフにスコッティ・ピッペン絡みのトレードでロケッツに移籍すると復活、ローテーション入りして2シーズン生き残ったが、ペイサーズに移籍した01~02シーズンは再び出場機会を失った。技術的には荒削り。


グレッグ・マイナー


ルイビル大出身のスウィングマン。ドラフトでは1巡目第25位でクリッパーズに指名され、数日後にペイサーズへトレードされるのだが、1巡目指名のルーキーにもかかわらず、プレシーズン前に解雇。直後の10月半ばにセルティックスと契約を結んだ。ポジションの割にシュートエリアは狭いが、堅実なプレイでチームに貢献。2年目にはシーズンの約半分でスターターを務めるなど、成長を見せた。しかし、3年目は故障で60試合近くを欠場。

翌シーズンはロスターがほぼ一新されてしまい、復帰したマイナーに以前のような居場所はなかった。94~99年まで、5年間のキャリアだったが、スタッツだけ見るとベンチ・プレイヤーとしては悪くない。


インカ・ダーレ


ナイジェリア出身の7フッター(270ポンド)。91年にラゴスを訪れていた際、ナイジェリア出身の弁護士によって発見されてバスケットを始め、それから渡米したという変わり種。バスケットの前はテニスをやっていたとか。渡米後、ジョージ・ワシントン大に進んだダーレはすぐにチームの主力となり、1年目の92~93シーズン、同大は16年ぶりとなるNCAAトーナメント進出を果たした。2年過ごしたダーレは得点&リバウンドでダブルダブル、ブロックでは2本を超えるアベレージを残している。

アーリー・エントリーを表明したダーレは、1巡目第14位でネッツに指名され、6年間900万ドルという契約をゲット。期待の大きさが伺えた。しかし、1年目は3分(1試合)プレイした後、故障によってシーズンの残りを欠場。オフのエクスパンション・ドラフトでは、ネッツからプロテクトされなかったにもかかわらず、ラプターズからもグリズリーズからも指名されなかった。ネッツに残って迎えた2年目は自己ベストとなる58試合に出場するが、内容は記録的に凄まじく、なんとシーズン通算0アシストを達成。

その一方で72回のTOを犯しており、ダーレは「アシスト無しでの連続最多出場時間」というリーグ記録を持っている。当時はダーレからボールをもらってシュートを外す選手に対して、ファンがブーイングするほどであった。3年目の96~97シーズン中盤、77試合・770分を経過してようやくキャリア初アシストを達成。ダーレは初アシストを喜び、試合後にタオルを配り始めたという。そして、こうした散々なパフォーマンスやその言動から、ダーレは周囲からバカにされることもしばしばだった。

チームメイトだったジェイソン・ウィリアムスは初アシストを決めて喜ぶダーレを笑われ、ケニー・アンダーソンには「スティンカ・ダーレ(スティンカは臭いという意味)」と呼ばれ、頻繁なTOでボールを失うために「ブラックホール」とも言われた。また、ドラフト時に「シャックは爆発力があるけど僕もだ」「僕がベストを尽くせば、これまでの最高のビッグマンたちの何人かには勝ってるね」「数年以内にオールスターになって、リーグでベストCになるよ」といったコメントを残したのも、からかわれる理由だったかもしれない。

3年目のシーズン途中にはブロックバスター・トレードでマブスに放出されそうになったが、ネッツがトレード要員にダーレを提示したところ、マブス側が「ダーレをエド・オバノンに代えて欲しい」と拒否したという話もある。この頃にはエージェントがHCのジョン・カリパリに「ダーレをトレードするか解雇するかプレイさせろ」と激昂したそうだが、カリパリは笑っていたという。4年目の途中、遂にマジックへトレードされるが、直後に解雇され、それ以降NBAでプレイすることはなかった。

プロキャリアは03年まで。そして引退直後の04年、心臓発作で亡くなった。ケリー・キトルズらネッツ時代のチームメイト、カレッジ時代の師であるマイク・ジャービスらが追悼のコメントを寄せている。NBAでの通算は4シーズンで110試合をプレイし、4アシスト・96TO。アシスト/TOの比率は最悪の部類に入る。


ダーリン・ハンコック


ドラフト2巡目第38位でホーネッツ入りしたSF。コミュニティ・カレッジを経てカンザス大に進むが、学業上の問題などで同大からインディアナ州立大に移ることを選択。ところが、程なくして考えを変え、フランスへ渡り、一足先にプロデビューした。ホーネッツでは2シーズン過ごし、ちょっとした戦力になっていたが、3年目は3チームに籍を置き、その後はアメリカ国内の様々なリーグを転々としながら。05年までキャリアを続けた。

身体能力が高く、高校時代にはフリースロー・ラインから跳んでダンクを決めることが出来た。キャリアのハイライトは95~96シーズン終盤のブルズ戦で、この試合でハンコックは13点をマーク。72勝をあげたブルズにホームでのシーズン初黒星をつけている。シュートはお粗末。


セルゲイ・バザレイビッチ


ロシア人PG。モスクワ出身で、83年に地元のCSKAモスクワでプロデビュー。88~92年はダイナモ・モスクワで過ごし、92~94年はトルコでプレイした。94年オフにホークスと契約を結ぶが、特に戦力にはなれず、10試合プレイしただけで解雇されている。解雇直後はスペインへ渡り、翌シーズンはダイナモに復帰。以降、ダイナモ・モスクワ、CSKAモスクワ、イタリアなどを渡り歩き、01年に現役を引退した。母国のクラブ・チームでは優勝を経験するなど、輝かしいキャリアを過ごした模様。

もちろんナショナル・チームのメンバーとしてもプレイしており、世界選手権で2度の銀メダルを獲得。メダルには手が届かなかったが、バルセロナ・オリンピック、シドニー・オリンピックでも代表チームの一員としてプレイした。髭が印象的。


ブライアン・グラント


ゼイビア大出身のPF。ドラフト1巡目第8位でキングス入りし、いきなり5年間2900万ドルの契約を結んだ。オール・ルーキー1stチームに選ばれるなど1年目から活躍を見せるが、96~97シーズンの半分以上を故障で棒に振ると、そのオフにはオプションを行使してFAとなり、ブレイザーズと契約。6年間6700万ドルという大型契約だった。ここでのハイライトは98~99シーズン。プレイオフで強豪ジャズを破る原動力となったのがグラントで、カール・マローンとのマッチアップは印象深い。

しかし、99~00シーズンはピッペンの加入や自身の故障、ラシード・ウォレスの成長などでバックアップに回り、出場機会も減少。移籍を希望して再びFAとなり(オプションを行使した)、サイン&トレードでヒートへ移籍した。このときは7年間8600万ドルという、更なる大型契約であった。このオフにはエディ・ジョーンズもヒートに加入しており、2人は大きな期待を背負うが、トレーニング・キャンプ直前に主砲モーニングの腎疾患が発覚し、復帰時期未定で戦線離脱。ヒートは一気に苦しくなった。

モーニング以外にスターターを任せられるCがいなかったヒートは、グラントをCとして起用。グラントはキャリア最高のシーズンを過ごし、期待に応えた。しかし、モーニングが復帰して従来のPFに戻るとパッとせず、以降03~04シーズンまでヒートで過ごすのだが、契約当初の期待には応えられなかった。04年オフにはシャキール・オニールを獲得するための大型トレードでレイカーズへ移籍。しかし、故障もあってほとんど貢献できず、オフにはアラン・ヒューストンの例外条項で解雇された。

05~06シーズンはサンズで過ごすが、プレイしたのは僅かに21試合。シーズン終了後にセルティックスへ放出され、間もなく解雇、そのまま現役を引退した。愛称は「ザ・ジェネラル」。ブレイザーズに在籍していた頃から、ボブ・マーリーに肖ってドレッド・ヘアーにするようになった。


トレバー・ラフィン


ハワイ大出身のPG。94年にドラフト外でサンズと契約を結び、95年オフにシクサーズと契約。ここで得点力の高さを見せるなどブレイクし、チームが弱かったとはいえ、ベテランのバーノン・マクスウェルとポジションを分け合うほどの健闘を見せた。しかし、翌オフにネッツと契約を結ぶが開幕前に解雇されてしまい、それ以降NBAではプレイしなかった。短時間で多くの得点を稼げるインスタント・スコアラー的な要素を持った選手。ルーキーイヤーにはルーキー・オールスターでもプレイしている。


エリック・モブリー


6フィート11インチのC。カレッジ時代はコミュニティ・カレッジとピッツバーグ大で過ごした。ドラフト1巡目第18位でバックスに入団、1年目は故障もあって46試合の出場に終わったが、将来への期待と層の薄さから26試合でスターターとして起用された。しかし、2年目の開幕直後にグリズリーズへトレードされると、似たような若手が多いエクスパンション・チームでは目立つことも出来ず、翌96~97シーズンを最後にNBAを去った。


ビル・カーリー


ドラフト1巡目第22位でスパーズに指名された6フィート9インチの白人PF。高校時代からスター選手で、故障で2年生のシーズンを全休したにもかかわらず、カレッジ進学時は引く手数多の有望株であった。デューク大やノースカロライナ大など名だたる名門からリクルートを受けたが、故郷にあるボストン・カレッジで奨学金をもらってプレイすることを選択。カレッジ時代の活躍もめざましく、HCのジム・オブライエン曰く「ボストン・カレッジ史上最高の選手のひとり」だとか。

ドラフト直後のトレードでピストンズへ放出され、デビュー。その後、ブレイザーズ、ウルブズ、ロケッツ、ウォリアーズ、マブス、ウォリアーズと渡り歩いた。ウルブズに在籍していた95~97シーズンの2年間は故障のために全休しており、復帰直後の97~98シーズンも11試合しかプレイしなかった。


ジュリアス・ヌウォス


ナイジェリア出身のC。NBAでは94~95シーズンにスパーズでプレイしたが、まったく戦力にならなかった。バックス、セルティックス、ラプターズ、ソニックス、ジャズの契約下にあったこともあるが、いずれも開幕ロスターには生き残れていない。カレッジはアメリカのリバティ大出身。14年間のプロキャリアで14カ国でプレイをした正真正銘のジャーニーマンである。98年には母国の代表として世界選手権でプレイしたが、大会途中にドーピングが発覚して出場停止処分を喰らったことがある。

平成10年以降ドラフト組

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どうも大変ご無沙汰しております。

新年あけましてめでとうございます&新年度ですねこんにちはm(_ _)m


年末から少々立て込んでいたり、体調を崩したり、パソコンが勝手に?ウィンドウズ10にアップデートされてアメブロやりにくくなったり・・・

諸般の事情でブログ放置しておりましたm(_ _)m


またぼちぼり書いていこうと思っているので、よかったらお付きあいくださいませm(_ _)m



トッド・マカロック


カナダ人の7フッター。ワシントン大出身。遺伝子の神経異常によって足に悪影響があることがわかり(あってる?)、僅か4シーズンで引退を強いられた。99年のドラフト2巡目第47位でシクサーズに入団。最初の2シーズンはバックアップCとして出場機会が限られていたが、一応ルーキー・チャレンジにも出場した。01年オフにネッツへ移籍し、ジェイソン・キッドのお陰もあって、ここでプチブレイク。スターティングCとしての力量が(一応)あることを示した。

しかし、02年オフに古巣シクサーズへ出戻ると精彩を欠き、シーズン中盤には故障者リスト入り。そして先述の病気が発覚、03~04シーズンを1年間故障者リストで過ごし、現役を引退した。サイズがいちばんの武器。自ら攻撃のチャンスを創り出す力には欠ける。シドニー・オリンピックでは母国の代表としてプレイしており、ユーゴスラビアを破るアップセットに大きく貢献した。


ロショーン・マクラウド


99年のドラフト1巡目第20位でホークス入りしたSF。カレッジはセントジョンズ大を経てデューク大に移り、エルトン・ブランドやシェーン・バティエらとともにプレイした。マクラウド入団当時のホークスはSFが穴だったが、故障もあって2シーズンで116試合しかプレイできなかった。3年目の00~01シーズンにはスターターに定着し、キャリア最高の成績を残していたが、トレード期限にシクサーズへ放出されると沈黙。シーズンの残りは1試合しか出られず、そのままキャリアを終えた。

得点力のあるスウィングマンだが、シュートエリアは狭い。


ジェラルド・キング


NBA史上唯一となるニコルズ州立大出身の選手。F。06年にはルイジアナ州のバスケットの殿堂入りを果たしている。卒業後、NBAのドラフトにはかからず、95年の秋にレイカーズと契約を結んだこともあったが、開幕まで生き残ることが出来なかった。NBAデビューはロックアウト直後の98~99シーズン。スパーズと契約を結び、出番こそ少なかったが、いきなりチャンピオンリングを獲得した。99~01シーズンは低迷するウィザーズでプレイしている。

98年には世界選手権でプレイしており、銅メダルを獲得している。


ブライス・ドリュー


バルパライソ大というマイナーなカレッジ出身のPG。インディアナ州バルパライソの高校を卒業後、幾つものカレッジからリクルートされたが、それらを蹴ってバルパライソ大に進んだ。同大が98年のNCAAトーナメントに進んだときには、印象的な快進撃を牽引。1stラウンドでは「ザ・ショット」と呼ばれる劇的なブザービーターを沈めて第4シードのミシシッピ大を破り(バルパライソ大は第13シード)、次のラウンドでも第12シードのフロリダ大をオーバータイムの末に破る原動力となった。

ドラフトでは、同大史上初のドラフト1巡目指名選手として、98年の1巡目第16位でロケッツ入り。ただ、同期入団のカッティノ・モブリーが予想外の働きを見せたこともあって影は薄く、翌オフにスティーブ・フランシスが加入すると、早くもチームに居場所はなかった。00年のオフにはドラフト指名権と交換でブルズに移籍。再建モード真っ只中でPG不在のチームではスターターの座を確保するが、故障もあって48試合の出場に終わった。

01年にはホーネッツと3年契約を締結。しかし、故障や層の厚さの影響で満足にプレイできず、3シーズンで僅か109試合しか出番がなかった。04年オフに解雇され、1シーズン海外でプレイしたのち引退。05年には母校バルパライソ大のACに就任している。高校時代に、心拍数が早まる病気を患っていたとか。


エバン・エシュメイヤー


99年のドラフト2巡目第34位でネッツ入りしたC。ノースウェスタン大出身。99~03年まで4シーズンに渡ってNBAでプレイした。ネッツではジェイソン・ウィリアムスの故障やジム・マッキルベインの不出来などでスターターの座が転がり込んできた。期待には応えられなかったが。01年からはマブスでプレイするが、さすが強豪チームでローテーションに入ることは出来ず、03年のオフに解雇。そして翌04年10月に慢性的な膝の故障もあって現役を引退した。


デドリック・ウィロビー


6フィート3インチのSG。アイオワ州立大出身(ニューオリンズ大にも在籍歴あり)。99~00シーズンの開幕近くに、カレッジ時代の恩師ティム・フロイドがHCを務めるブルズと契約。ベンチ・スタートながら、ドラフト外ルーキーとしては健闘を見せた。ただ、年明けには呆気なく解雇されている。平均7.6点は悪くないがFG成功率は35%にも届いておらず、層の薄い再建チームだからこそ2ヶ月「も」生き残れたのかもしれない。


マイケル・ディッカーソン


デビッド・ウェズリーの従兄弟。アリゾナ大出身のSGで、98年のドラフト1巡目第14位でロケッツに入団した。さほど注目された存在ではなかったが、HCのルディ・トムジャノビッチは「足が速い」という理由で開幕からスターターとして起用。全50試合でスターターを務め、オール・ルーキー2ndチームに選ばれた。オフにはスティーブ・フランシスのわがままに巻き込まれ、グリズリーズへトレードされるが、これはカレッジ時代のチームメイトであるマイク・ビビーと再会。

チーム成績にこそ反映されなかったが移籍1年目から大きく成績をアップさせ、翌00~01シーズンも得点源のひとりとして活躍した。しかし、チームがフランチャイズをメンフィスに移した01~02シーズン、足の故障のために78試合を欠場すると、翌シーズンも76試合を欠場。故障は深刻で、完全復活が望めないことがわかると03年にはチームから放出され、27歳の若さで現役を引退した。


ジョナサン・ベンダー


ミシシッピ州立大に進学するという口約束を蹴って、高卒でアーリー・エントリーを宣言。99年のドラフト1巡目第5位でラプターズに指名され、直後にアントニオ・ディビスとのトレードでペイサーズへ移籍した。6フィート11インチというサイズ、それに似つかわしくない身体能力の高さを兼ね備えていたが、即戦力ではなく、ルーキーイヤーは戦力になれなかった。2年目以降は出場機会も多少増え、ポテンシャルの高さを見せることもあったが、ドラフト時の期待にこたえるレベルではなく、停滞。

その後は故障にも悩まされ、05~06シーズン途中に慢性的な膝の故障を原因として現役を引退した。まだ25歳であった。数年後、ニックスで短期間だけ復帰するのだが、長くは続かなかった。故障前、ペイサーズのベテラン選手たちは「練習ではあいつに敵う奴はいないよ。何でもできるんだ」と評していたが、それを実戦で見せることはほぼなく、ドラフト史上に残る失敗指名選手のひとりである。高校時代はかなり有名な選手だったようだが。

01年のダンク・コンテストではフリースロー・ラインからのダンクを披露。このダンクを決めた選手は何人かいるが、左手で決めたのはベンダーのみである。プロ3年目からは3Pもオフェンスのバリエーションに加えるなど、身体能力だけの選手ではなかったが、キャリアで一度も2桁の得点アベレージを残せなかった。モーリス・ピーターソンは従兄弟。


クリス・ヘレン


99年のドラフト2巡目第33位でナゲッツ入り。6フィート2インチのPGで、NBAではナゲッツとセルティックスで計2シーズン過ごした。カレッジ時代はボストン・カレッジとフレズノ州立大を渡り歩き、フレズノ州立大では名将ジェリー・ターカニアンの指導を受けている。素行に難があったようで、04年12月、ヘロイン所持と、飲酒もしくはドラッグの問題で取り消されていた免許で運転していたことが原因で逮捕されている。


エディ・グリフィン


フィラデルフィア出身の選手としては、ウィルト・チェンバレン以来のスターと謳われた選手。シートンホール大では1年目から評判に違わぬ活躍を見せて注目を集めていたが、その一方でチームメイトと揉めるなど素行の悪さも目立ち、そうしたオフコートでの要素が懸念され、01年のドラフトでは1巡目第7位に留まった。因みにこのときはネッツに指名され、直後にロケッツへトレードされている。プロ入り後は素質の高さを垣間見せるモノのパフォーマンスは安定せず、おまけにオフコートのトラブルが頻発。

アルコール中毒に悩まされ、3年目の03~04シーズン中には練習とフライトをすっぽかしたことがきっかけとなって解雇されてしまった。直後にネッツと契約を結ぶが、このシーズンの残りはアルコールのリハビリに取り組むために全休。そして、オフにはウルブズと契約を結んだ。このときはXファクター的な要素を果たし、シーズン終了後には3年契約をゲット。05~06シーズンにはスターターとして起用されるようにもなり、主に3Pとブロックで存在感を見せた。

しかし、それでもオフコートのトラブルはなくならず、06~07シーズン途中にはウルブズからも解雇。そして07年夏、自動車で電車と接触し、亡くなった。トラブルなどがなければ、01年のドラフト1巡目第1位はグリフィンだったかもしれない。


アントワン・リゴドー


フランス出身。7歳(78年)の時からクラブチームでプレイしていた強者で、97年にはイタリアのチームへ移籍。そして、02年の夏にマブススと契約を結んだ。ここでは1シーズン在籍したが、層の厚いマブスではまったく戦力になれず、オフにウォリアーズへ放出され、直後に解雇、ヨーロッパへと戻った。現役引退は05年。ヨーロッパでの功績は素晴らしく、優勝を何度も経験しているほか、フランス・リーグのMVPを5度も受賞している。

フランスのナショナル・チームの中心選手でシドニー・オリンピックでは銀メダルを獲得。サウスポーの中距離シューターといったところか。

昭和55年ドラフト組①

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最近、東京MXで快獣ブースカ見てます。

ちゃんと見るの初めてなんですが、「今やったらクレーム来るんだろうな」みたいなところがあって、面白いです。だから特撮は昭和派です。




ケビン・マクヘイル


リーグ史に残るPFのひとり。ミネソタ大出身。プロではセルティックス一筋でプレイし、ラリー・バード、ロバート・パリッシュとともに「ビッグ3」を形成。5度のファイナル進出に3度の優勝(81・84・86)を経験した。84~91年までオールスターに選出されたほか、87・88年は60%を超える高確率でリーグ1位のFG成功率をマーク。ディフェンスにも定評があり、オール・ディフェンシブ・チームにも6度選ばれた。キャリア最初の5年間はベンチ・スタートが多く、84・85年には6マン・アワードも受賞している。

80年のドラフト直前、セルティックスのGMだったレッド・アワーバックが1位指名権をウォリアーズにあげて、3位指名権とパリッシュを獲得し、その3位指名権でマクヘイルを獲得したのは有名な名人事である。因みにマクヘイルが大型契約を望んで契約交渉が難航し、もう少しでイタリアに行くかもしれなかった、というのはあまり有名ではないかもしれない。ともあれ、無事?3年契約を結んだマクヘイルはバードとセドリック・マクスウェルのバックアップとしてキャリアをスタートした。

1年目はオール・ルーキー1stチームに選ばれ、チームもリーグ首位の勝率をマーク、NBAチャンピオンに輝いた。82~83シーズン終了後、マクヘイルはより高額な契約を求めてニックスのオファー・シートにサインするが、アワーバックがニックスのトップ3選手とオファー・シートにサインしたことで、ニックスはマクヘイル獲得を断念。トップ3選手の残留を優先させ、マクヘイルはセルティックスと(当時)リーグ史上4番目に大きな契約を結ぶに至った。

迎えた83~84シーズンは、デニス・ジョンソンが加入し、HCにKC・ジョーンズが就任。チームは再びリーグ最高勝率&NBAチャンピオンの合わせ技を決め、マクヘイルは自身初となる6マン・アワードを受賞した。84~85シーズンは、シーズン終盤にマクスウェルの故障によってスターターとして起用されると、その直後の試合でなんと56点をマーク。その2日後のニックス戦でも42点をあげるなど、能力の高さを見せつけている。

85~86シーズンのセルティックスはリーグ史上でも最高のチームのひとつに数えられるほど強く、マクヘイルは初めてシーズン通してスターターとしてプレイ。チームは16度目となるNBAチャンピオンに輝いた。因みにこのシーズン、プレイオフまで通してホームでの戦績は50勝1敗であった(唯一負けたのはブレイザーズ)。翌86~87シーズンは個人成績でみればキャリア最高のシーズンで、リーグ史上初となるFG成功率60%・FT成功率80%も達成。オールNBA1stチームにも選ばれた。

ただ、このシーズンの終盤には右足を故障。マクヘイルは「キャリアを脅かしかねない」という医者の忠告を無視してプレイを続けるのだが、それがケチのつき始めになってしまう。88~89シーズンはバードがシーズンの大半を欠場し、チームもプレイオフ進出がやっと。翌シーズンは、故障前のように試合を支配しようとするバードと、マクヘイルらチームメイトとの間に軋轢が生じた。最終的にはディビジョン2位でプレイオフに臨むが、プレイオフでは1stラウンドでニックスに負けてしまう。

シーズン終了後、マクヘイルは故障のために引退を考えるが、現役続行を選択。しかし、故障は慢性的なものになっており、92年にバードが引退。1年後にマクヘイルも現役を引退した。最後のシーズンは足と背中の痛みに悩まされていたという。サイズがある上に手足が長く、技術も兼ね備え、チャールズ・バークリーが対戦するのを嫌がったほど、ポストプレイはアンストッパブルだった。背番号32はもちろん永久欠番で、偉大な50人に選ばれた他、殿堂入りも果たしている。

引退後はウルブズのTV解説者を経てGMに就任。いきなり高卒のケビン・ガーネットを指名するというファインプレイを見せた。ただ、その後は、そのガーネットと前代未聞の大型契約を結んだために補強が手詰まりになったり、00年にはジョー・スミスとの契約違反で数年分のドラフト指名権を剥奪されたりするなど、あまりいいところがなかった。マクヘイルがGMだった時代にウルブズがプレイオフの1stラウンドを突破したのは一度しかない。

ただ、HCとしての才覚はあるようで、ロケッツのHCとしてはまずまずの結果を残している。


カート・ランビス


ショータイム時代のレイカーズのメンバー。サンタクララ大出身のPFで、ドラフト3巡目第58位でニックスから指名された。しかし、入団は出来ず、プロ1年目はギリシャでプレイ。そこでチャンピオンシップを獲得し、81年、レイカーズと契約を結んだ。2年目にはスターターに定着し、20分程度のプレイングタイムながら体を張ったプレイで貢献した。86~87シーズンからはAC・グリーンのバックアップにシフト。この頃から出場機会が減少し、88年にはエクスパンション・ドラフトでホーネッツヘ移籍した。

新天地での1年目は出た試合すべてでスターターを務め、キャリアハイのスタッツをマーク。そして、翌シーズン序盤にはサンズへトレードされた。ここでは、当初はトム・チェンバースと併用されるなど、健闘していたが、92~93シーズンの開幕直後に解雇。すぐキングスに拾われ、93~95年はレイカーズに戻り、現役を引退した。レイカーズで4度の優勝を経験しており、成績は平凡だったが、ハッスルプレイとゴーグルはインパクトがあった。

チック・ハーンが、ランビスをクラーク・ケントに似ているとして「スーパーマン」と名付けたのは有名か。マジック・ジョンソン・オールスターズの一員として来日したこともあり、そのときは現役時代には見せなかった3Pを決めていた。引退後はコーチとして働いており、98~99シーズンにレイカーズで暫定HC、00年代後半にはウルブズでHCを務めている。00~02年にフィル・ジャクソンのACを務めたためか、ウルブズでも△オフェンスを導入していたが上手く機能しなかった。


マイク・ジミンスキー


髭の白人C。77~80年までをデューク大で過ごし、その当時、同大の得点・リバウンド・ブロックの記録を保持していた。背番号43は永久欠番である。ドラフト1巡目第7位でネッツに入団。まずまずの1年目を過ごすが、翌年にバック・ウィリアムス、翌々年にはダリル・ドーキンスが加入するなど2年目から4年目は出場機会があまり得られなかった。84~85シーズンにドーキンスの故障もあってかようやく出場機会が増え、85~86シーズンから3年間が(たぶん)キャリアのピーク。

平均16点・9リバウンド・1ブロックをマークし、その活躍を買われてか、87~88シーズン途中にはシクサーズへ移籍した。90年代に入ると故障もあってか30代前半にして衰えが顕著になり、ホーネッツ、バックスと移って現役を引退した。身体能力は低いがスマートな選手。通算のFT成功率が80%を超えるなど、シュートが上手かった。リバウンドやブロックはあまり多くない。


キキ・ヴァンダウェイ


スコアラー。UCLA出身でラリー・ブラウンの教え子。「キキ」は愛称で、本名はアーネスト・モーリス・ヴァンダウェイⅢである。ドラフト1巡目第11位でエクスパンション・チームのマブスに指名されるが入団を拒否し、トレードを要求。同年12月にナゲッツへトレードされた。2年目にスターターに定着すると、平均20点を上回るなどブレイク。3年目にはオールスターにも選ばれ、4年目には平均29.4点をマークした。84年にはブレイザーズへトレードで移籍。

ここではクライド・ドレクスラーと強力なスコアリング・デュオを形成した。しかし、背中を故障してしまい、87~88シーズンを半分以上休むと、翌シーズンも1月まで欠場。その間に成長著しいジェローム・カーシーにポジションを奪われ、復帰して1ヶ月ちょいプレイしたところでニックスへトレードされた。しかし、この後も故障に泣かされ続け、パット・ライリーがHCになった91~92シーズンは出場機会が激減。オフにクリッパーズへトレードされ、1年プレイして現役を引退した。

シューター型のスコアラーで、最盛期にはペリメーターを主戦場としながらも55%前後の高いFG成功率をマークしていた。86~87シーズンには本数こそ少ないが、3P成功率でリーグ首位にも立っている。「キキ・ムーブ」と呼ばれたステップも有名である。難点は得点をとること以外。身体能力は低く、スピードもなく、ディフェンスやリバウンドは期待できなかった。引退後はナゲッツとネッツのフロントでの仕事がたぶん有名。

ナゲッツ時代にはカーメロ・アンソニーやマーカス・キャンビーを獲得。90年代から00年代前半にかけて、良くて勝率5割程度だったチームをプレイオフ常連チームにまで建て直した。


ジェフ・ルーランド


6フィート10インチの巨漢C。アイオナ・カレッジの出身で、同大がチーム史上最高の成績をマークしたときの主力である。ドラフトでは1巡目第25位でウォリアーズに指名されるが、プロ1年目はスペインでプレイし、その間にブレッツへトレードされた。81~82シーズンにNBAデビュー。ルーキーイヤーはスペンサー・ヘイウッドらのバックアップだったが、スターターと遜色のない成績を残し、チームがカンファレンス・セミファイナルまで進むのに貢献した。

2年目にはシーズンの半分以上でスターターとして起用され、平均19点・11リバウンドをマーク。3年目にはリック・マホーンとともに「マクフィルシー&マクネイスティ」と呼ばれる強力タッグを形成し、自身も平均22点・12リバウンド・4アシストと縦横無尽の活躍を見せた。オールスターにも選ばれている。プレイオフでは、(シリーズには負けてしまうが)この年優勝するセルティックスを苦しめた。しかし、翌84~85シーズンに足を負傷したところからキャリアは一転してしまう。

このシーズン、1月中旬以降1試合しかプレイできず(プレイオフには一応復帰)、翌シーズンは開幕からプレイするが、最終的に52試合を欠場(プレイオフでは一応復帰)。86年オフには何故かモーゼス・マローンとのトレードでシクサーズに移籍するが、もうまともにプレイできる状態ではなく、5試合だけプレイして現役を引退した。5年後の92年、シクサーズで突然現役復帰を果たし、その翌年もピストンズでプレイするが、かつての姿にはほど遠く、93年に1月に改めて現役を引退した。

若い頃から中年太りのおじさんのような見た目だったが、実際は器用なCで、シュートもパスも上手く、FT成功率は70%を上回っていた。オフェンス・リバウンドにも強い。引退後はコーチになっている。


ジャワン・オールドハム


シアトル大出身の7フッター。ドラフト2巡目第41位でナゲッツ入りするが、1年目は4試合に出たのみで、ロケッツに移籍した2年目も22試合のみの出場と、故障やドラッグの問題などもあってか、満足にプレイできなかった。しかし、82年にブルズに移籍してからは徐々に出場機会を増やし、ショットブロッカーとしてチームに貢献。85~86シーズンにはリーグ6位の平均2.6ブロックをマークしている。86年オフ、ニックスのオファーシートにサインするが、ブルズがマッチ。

結局、86~87シーズンの開幕前日にドラフト指名権と交換でニックスに放出された。しかし、1シーズンしかプレイせず、翌シーズンはキングスへ移籍。ここでもブロックで存在感を見せるが、シーズン終盤に膝を負傷。これが長引き、88~89シーズンは全休した。89~90シーズンをマジック&レイカーズ、90~91シーズンをペイサーズで少しずつプレイして現役を引退。引退後はドゥバイにバスケットボール・トレーニング・アカデミーを解説したとか。


ロリー・スパロウ


ヒートのチーム史上最初のシュートを決めたPG。ヴィラノバ大出身。ドラフト4巡目第75位でネッツに指名されるがキャンプでカットされてCBAへ。そこでの活躍が認められてすぐにネッツに呼び戻されるが、出場機会は限られており、オフにはドラフト1巡目指名権とのトレードでホークスへ放出された。ホークスではケビン・ロッカリーによってすぐにスターターとして起用され、まずまずの結果を残した。翌シーズンの半ばにはスコット・ヘイスティングスとのトレードでニックスへ移籍。

パッとしない時期ではあったが、ニックスには5シーズンあまり在籍。86年まではここでもスターターとして起用された。その後はチームがPGの補強を進めたために居場所がなくなり、ブルズに放出され、88年オフには更にFAとしてエクスパンション・チームのヒートと契約を結んだ。ここではベテランとして若いチームをリードし、個人としてはベストのシーズンを過ごした。因みにヒート史上初のトリプルダブルをマークしたのもスパロウである。

翌シーズンはルーキーのシャーマン・ダグラスの控えに回り、90年オフにはキングスへ移籍。ここでもなんとスターターとして起用された。91~92シーズンをブルズ、レイカーズでプレイしたのを最後に現役を引退。FG成功率の高さとミスの少なさは評価できる。スターターの器ではないが、PG不足のチームに在籍することが多かったためか、出場機会には恵まれていた。


ダーウィン・クック


ポートランド大出身の6フィート3インチのG。因みに同大出身の選手は少なく、知名度の高い選手もほぼいない。ドラフト4巡目第70位でピストンズに指名され、そのオフのうちにネッツへトレード。1年目は、ドラフト下位指名ながら平均11.2点・1.7スティールをマークした。その後、85~86シーズンまでネッツに在籍。ネッツにいた6シーズン中3シーズンで、平均スティールがリーグのトップ10に入るなど渋い働きを見せている。

86~87シーズンをブレッツで過ごすと、翌シーズンはイタリアへ。88~89シーズンをNBAに戻ってナゲッツとスパーズでプレイしたが、その後再び渡欧した。

昭和55年ドラフト組②

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レイカーズがプレイオフに出ないとどこが勝ってもいいんで気楽にプレイオフを楽しめるんですが、そろそろハラハラしたいなとも思ったりします。



ビル・ハンズリック


6フィート7インチのスウィングマン。ノートルダム大出身で、そこではビル・レインビア、オーランド・ウールリッジらとチームメイトだった。ドラフトでは1巡目第20位でソニックスに入団。得点力はそれほどでもないがディフェンスが良く、ガス・ウィリアムスとバックコートを形成した。82年にナゲッツに移籍してからは、主に控えだったが、2桁の得点アベレージをマークしたり、オール・ディフェンシブ2ndチームに入ったりするなど、主要メンバーのひとりとして貢献。活躍した。

80年代終盤になるとチームの補強の影響か、出場機会が少なくなり、90年オフに現役を引退。すぐにACとして働き始めた。97年オフには古巣ナゲッツのHCに就任(直前にナゲッツでACを務めていた)。しかし、ルーキーを多く抱えた、若すぎるチームの指揮を執るのはあまり酷で、11勝71敗でシーズンを終了。すぐに解任された。これはHC1年目の最低勝率の記録である。


カール・ニックス


インディアナ州立大出身のPG。1巡目第23位でナゲッツに入団。現在、同大からNBAのチームにドラフトされた最後の選手である。同大での1年次はパッとしなかったが、ACのアドバイスを受けてジュニア・カレッジで1年過ごしたことでスキルアップに成功、78~79シーズンに同大に戻ると見違えるような活躍を見せ、ラリー・バードとともにチームを牽引した。このシーズン、チームはNCAAトーナメントの決勝まで進んでいる。バードが去った翌79~80シーズンは更に数字を伸ばした。

ただ、NBAでは大成せず。ルーキーシーズンの途中にジャズへ移籍し、シーズン半在籍。82~83シーズンを最後にNBAではプレイしなかった。出場機会の割にミスが多く、FTを含めシュートに難もあった。


マイク・ウッドソン


インディアナ大出身で、名将ボビー・ナイトの秘蔵っ子。79年にはチームの得点王であった。6フィート5インチのスウィングマンで、ドラフト1巡目第12位でニックス入り。ルーキーイヤーは81試合に出たが結果を残せず、オフにはネッツへ移籍し、2年目のシーズンが始まって間もなく、更にキングスへトレードされた。しかし、ここで平均16.1点と成長を見せ、翌シーズン以降は6マンとして活躍。82~83シーズンには平均18.2点をマークしており、これはベンチ出場が主な選手のなかでトップの成績であった。

86~88年は弱小クリッパーズでチーム随一の得点源としてプレイ。88年からはロケッツで過ごすが、ミッチェル・ウィギンスにスターターの座を奪われるなど出場機会は減っていき、91~92シーズンの開幕直後にトレードでキャブスへ移籍。しかしすぐに解雇され、現役を引退した。キャリア平均は14点。ピーク時にはFG成功率50%、FT成功率80%を超えた。83年2月のロケッツ戦では24本中22本のシュートを決めてキャリアハイの48点をあげている。また、ディフェンスも良く、スティールが多い。

引退後は96年にバックスのACに就任。クリス・フォード、ジョージ・カールの下で計3シーズンACを務めた。その後キャブスを経て、ラリー・ブラウンのACとなり、ピストンズで04年の優勝を経験。そして、テリー・ストッツの後任としてホークスのHCに就任した。1年目は僅か13勝に終わったが、年々成績を上げて07~08シーズンには9年ぶりのプレイオフ進出を達成。当時はジョッシュ・スミスとの確執が騒がれるなど必ずしも評判は芳しくなかったが、一応の結果は残した。

ニックスでもHC経験がある。ホークス時代にウッドソンの指導を受けたロレンゼン・ライトは「素晴らしいプレイヤーズ・コーチ」と評していた。趣味は魚釣りとゴルフ。


ウェス・マシューズ


ウェスリー・マシューズの父。ウィスコンシン大出身で、6フィート1インチ・170ポンドの小さなPG。1巡目第14位でブレッツに入団し、開幕からスターターとしてプレイ。シーズン途中にはホークスに放出されるも好調を維持し、キャリアハイの平均12.4点をマークした。しかし、2年目にロリー・スパロウにスターターの座を奪われると、以降はバックアップとしてキャリアを全う。シクサーズ、ブルズ、スパーズ、レイカーズと渡り歩き、89~90シーズンに1試合だけ古巣ホークスでプレイしたのがNBAでの最後となった。

レイカーズでは10分強のプレイングタイムながら貴重な戦力で、その質の高さはマジック・ジョンソンも認めるほどであった。FG成功率が高く、小柄ながらダンクを見せることもあった。シュートが全く回転しない独特なモノであったことも有名か。ジュリアス・アービング、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソンとチームメイトだったことがある。NBAを離れた後はフィリピンで少しだけプレイした。


ブッチ・カーター


本名は「クレアレンス・ユージーン・カーター」。高校時代から有名な選手で、76年にはオハイオ州のベスト・プレイヤーに選ばれている。76~80年は名称ボビー・ナイト率いるインディアナ大でプレイ。79年のNITの決勝では決勝シュートを決めて、チームメイトのレイ・トルバートとともにトーナメントのMVPに選ばれた。ただ、プロからの評価はさほど高くなく、2巡目第37位でレイカーズに入団。バックアップのSGとして54試合に出場した。

2年目からはペイサーズでプレイ。83~84シーズンには73試合中54試合でスターターとして起用されて平均13点を上回るなど、キャリア最高の成績を残している。84~85シーズンをニックス、85~86シーズンをニックス&シクサーズで過ごし、現役を引退。引退後はすぐに母校の高校でHCに就任し、低迷していたチームをすぐ立て直すことに成功。2年連続で州の最優秀HCに選ばれた。その後、カレッジのACを経て、91年にバックスのACに就任。

バックスではフランク・ハンブレンやマイク・ダンリービーの下で働き、96~97シーズンにはスカウトも務めた。97~98シーズンには創設間もないラプターズのACとなり、シーズン途中にダレル・ウォーカーが解任されたことを受けてHCに昇格。このシーズンは5勝28敗と無残な成績に終わったが、翌シーズンはルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したビンス・カーターら有望な若手と、チャールズ・オークリーらベテランに恵まれ、勝率を3割も上乗せした。

翌99~00シーズンには45勝37敗と、自身初の勝ち越し・チーム史上初の勝ち越し・チーム史上初のプレイオフ進出を経験。1stラウンドでニックスに一蹴されてしまったが、一応の結果を残した。ウォーカー前HCと上手くいっていなかった若きトレイシー・マクグレディを支えたことでも有名か。


デビッド・ブリットン


テキサスA&M大の出身で、NCAAトーナメントのMVPを受賞したことがある選手。79~80シーズンの同大は26連勝というチーム記録を樹立するなど強く、ルディ・ウッズ、バーノン・スミス、デイブ・ゴフらとチームを引っ張った。しかし、プロからの評価は低く、3巡目第57位でマブスから指名を受ける。しかも契約には至らず、ブレッツで4試合・通算9分プレイしただけでNBAのキャリアは終わった。引退後はボランティアでコーチを務めるなどしていたが、スキャンダルに巻き込まれ、途絶えた。


ドン・コリンズ


6フィート6インチのスウィングマン。ワシントン州立大出身で、当時は平均23点をマークしていた。ドラフト1巡目第18位でホークスに指名され、プロ入り。トレード期限にブレッツへ放出されながらも好調を維持し、3シーズンに渡って6マン的な役割を担った。しかし、83~84シーズンにウォリアーズでプレイしたのを最後にキャリアは一変。85~86シーズンはブレッツ、86~87シーズンはバックスでいずれも10日間契約でのプレイとなり、CBAとNBAを行き来した後、キャリアを終えた。

CBAでの活躍が有名な選手で、CBAの50周年記念チームのメンバーにも選出。マイナー・リーグ史上最も素晴らしいスコアラーのひとりとして考えられている。丁度NBAでのキャリアが危うくなってきた86年にはCBAとUSBL、それぞれのリーグで1試合63点をマーク。この年はCBAのオールスターMVPも受賞している。因みに当時のHCはビル・マッセルマンだった。フランスやスイスでプレイした経験もある。


サム・ウォーゼン


マーケット大出身のG。2巡目第26位でブルズ入りするが、1シーズン過ごした後に解雇。翌81~82シーズンにジャズで5試合プレイしたのを最後にNBAを去った。選手としてのキャリアは短かったが、85年にUSBLのチームで選手兼HCとなったのを契機として、同リーグやCBAのチームを幾つも渡り歩いた。08年にはハーレム・グローブトロッターズに負け続ける、悪役のワシントン・ジェネラルズのHCに就任。NBDLのチームでACを務めていたこともある。

昭和55年ドラフト組③

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字余りみたいになってしまったんですが、この年の選手たちの元ネタが数人余っていたので追加です。

今年のファイナル悔しかったなぁ…




マイク・オッコーレン


1巡目第6位でネッツ入りしたSF。最初の6シーズンをネッツで過ごした後、ブレッツに移籍するが、すぐ古巣ネッツに出戻り、そのシーズンを最後にキャリアを終えたマイナーな選手。ただ、引退後にネッツのチーム解説者として長く働いており、99年にはACとしてコーチングスタッフにも入るなどネッツ界隈では有名かもしれない。キャリア平均8.5点で、キャリアハイは平均11.4点であった。ノースカロライナ大の出身で、当時は4年間スターターを務めていたとか。


ケニー・ナット


ルイジアナ大モンロー校出身のG。高校時代はバスケットと陸上のスターで、カレッジでは1~3年次はパッとしなかったが、4年次に目覚ましい成長を見せた。ドラフトでは2巡目第30位でペイサーズに入団。しかし、19試合しか出られず、翌シーズンはCBAで過ごした。82~83シーズンはジャズでNBAに復帰するが、翌シーズンは再びCBAへ。NBAでは84~85シーズンにジャズ、キングスでプレイしたのが見納めとなった。

引退後は、89年にWBLのチームで選手の管理者やスカウトに就任。以降、CBAやカナダのチームでコーチを務め、94~95シーズンにはヤングスタウン州立大でACに就任した。95年からは古巣ジャズでジェリー・スローンのコーチング・スタッフに参加。スカウトの仕事なども含め、精力的に活動した。ジャズで同時期にACを務めたフィル・ジョンソンは、現役時代、キングスでプレイしたときのHCであもる。兄はカルビン・ナットで、こちらはオールスターFであった。


リック・マホーン


2巡目第35位で、無名校ハンプトン大からNBA入りしたビッグマン。同大史上初のNBA選手で、同大出身の選手は2016年現在もマホーンを含めて2人しかいない。最初の5シーズンはブレッツでプレイ。名を馳せた、と言えるほどの結果は残せなかったが、ジェフ・ルーランドの巨漢コンビでチームを支えた。85年オフにはダン・ラウンドフィールドとのトレードでピストンズへ移籍。ここでマホーンは、バッドボーイズを象徴するプレイヤーのひとりとして存在感を見せ、89年のチーム初優勝に貢献した。

バッドボーイズならではのフィジカルなスタイルはもちろんだったが、ディフェンスは良く、このシーズンはオール・ディフェンシブ・チーム入りを果たしている。しかし、優勝から僅か20日後、マホーンはエクスパンション・ドラフトの際にプロテクトされず、新チームのウルブズに指名されてしまう。マホーンはウルブズ行きを嫌がり、開幕直前にシクサーズへのトレードが成立。

ここではチャールズ・バークリーとチームメイトとなるが、残念ながら優勝を狙えるようなチームではなく、2年連続でセミファイナルでブルズに敗退。移籍2年目は、不得手なCとしてプレイしなければならなかった。91~92シーズンはイタリアでプレイし、92~93シーズンの開幕直後にネッツと契約。当時のネッツは恩師チャック・デイリーがHCに就任したばかりであった。大ベテランの域に入ってきたマホーンはこの頃から、成績が急激に下降するが、その人望からか4シーズンもネッツに籍を置いた。

96~98年を古巣ピストンズ、98~99シーズンをもうひとつの古巣シクサーズで過ごして現役を引退。バッドボーイズ時代にはビル・レインビアからも頼りにされていたようで、キャリア終盤も若手たちにとってよきベテランだったようである。引退後のマホーンは、すぐにCBAのロックフォード・ライトニングでHCに就任。いきなり2度のコーチ・オブ・ザ・マンスを受賞するなど、光る手腕を見せ、直後にはロン・クルーガーのコーチング・スタッフとしてNBAのACとなった。


ラリー・スミス


リバウンダー。しつこくリバウンドに絡むスタイルが特徴的で、「ミスター・ミーン」の愛称で知られた。デビューから9シーズンをウォリアーズで過ごし、続く3シーズンをロケッツでプレイ。最後の92~93シーズンはスパーズに在籍していた。ルーキーのときにいきなりリーグ3位のリバウンド・アベレージを記録するのだが、ルーキーがこの快挙を成し遂げたのは、当時カリーム・アブドゥル‐ジャバー以来のことであった。オール・ルーキー1stチームに選出されたのも納得であろう。

引退後は古巣ロケッツでACに就任。現役時代は優勝争いに縁のないキャリアだったが、ACとしてはロケッツの連覇に貢献している。NBA史上でも数少ないアルコーン州立大の出身。

昭和56年ドラフト組①

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個人的には、レブロンは「初優勝した」という感じ。ヒート時代の優勝ってなんか印象が薄いんですよね。



ハーブ・ウィリアムス


18シーズンという長いキャリアを過ごした6フィート10インチ・242ポンドのビッグマン。オハイオ州立大の出身で、4年間スターターとしてプレイしたウィリアムスは得点でチーム史上1位(卒業当時)、リバウンドで2位(ジェリー・ルーカスに次ぐ)、ブロックで2位という記録を残している。ドラフトでは1巡目第14位でペイサーズに入団。ルーキーイヤーから出場したほとんどの試合でスターターを務めるなど、チームの中心としてプレイした。

しかし、この当時のペイサーズはパッとせず、翌年以降のドラフトで有望な若手を指名しても、故障などもあってか確かな戦力アップにはならなかった。85~86シーズンにはキャリアハイの平均19.9点をあげたが、それも勝ち星には繋がっていない。転機となったのは86~87シーズン、HCがジャック・ラムジーに代わり、ルーキーのチャック・パーソンが新人王を受賞する活躍を見せ、チームは6シーズン振りにプレイオフ進出を果たした。

しかし、2年目のウェイマン・ティズデイルが台頭したことでウィリアムスの役割は減少し、88~89シーズン半ばにはデトレフ・シュレンプとのトレードでマブスへ放出された。マブスでは主にバックアップとしてプレイ。この頃のマブスは、90年代前半の地獄の低迷期に向けて戦力を落とし始めたときであった。92年には強豪ニックスと契約。ニックスではピーク時のパトリック・ユーイングのバックアップとなったため、出場機会・役割ともに大きく減少した。

95~96シーズン途中には一度ラプターズへトレードされるのだが、1試合プレイしただけで解雇されてニックスに帰還。41歳となる98~99シーズンまでニックスで現役を続けた。96年からHCを務めたジェフ・ヴァンガンディには人格を評価されており、チームの精神的なリーダーだったと見ることもできるだろう。引退から4年後、今度はACとしてニックスに復帰。ドン・チェイニーとレニー・ウィルケンスのACを務め、04~05シーズン途中にウィルケンス解任されたときは暫定HCをも務めた。

翌シーズンにラリー・ブラウンがニックスのHCになったときも、その後、HCがアイザイア・トーマスに交代したときも、マイク・ダントーニになってからもずっとコーチング・スタッフに入っている。


レイ・トルバート


インディアナ大出身。6フィート9インチのPFで、ドラフト1巡目第18位でネッツ入り。ルーキーイヤーの途中にソニックスにトレードされ、更に82~83シーズンの半ばにはドラフト2巡目指名権と交換でピストンズに移籍、1シーズン半過ごした。84年に契約を破棄されてからはしばらくNBAでプレイできなかったが、87年にニックスと契約。すぐに解雇されるが、今度は強豪レイカーズに拾われた。88~89シーズンにホークスでプレイしたのを最後に現役を引退。

キャリア通算は261試合で平均3.6点。FTは苦手である。


オーランド・ウールリッジ


ノートルダム大出身のF。78年のファイナル4では1年生としてビル・レインビアらとプレイした。同大は80・81年もNCAAファイナルに進んでおり、81年にヴァージニア大の連勝記録を止めたのはウールリッジの決勝シュートであった。ドラフトでは1巡目第6位でブルズに入団。1年目はバックアップであまり目立たず、2年目は平均16.5点をあげた一方で25試合を欠場した。大きく飛躍したのはスターターに定着した3年目で、チームの稼ぎ頭に成長。4年目には平均22.9点をマークした。

しかし、その4年目はマイケル・ジョーダンが入団した年でもあり、チームはジョーダン中心にシフト。ジョーダンとの不和が囁かれたりもした。翌85~86シーズンはそのジョーダンが足首の骨折で長期離脱を強いられるが、そこで逆にスターターを外されたり、無断でチームを離れたりするなどチームを牽引できず、86年オフにはドラフト指名権と交換でネッツに放出されてしまう。ネッツでの1年目は平均20.7点を稼いだが、2年目にリーグの薬物規定に違反して出場停止、キャリアは危機に瀕した。

しかし、ウールリッジはここから立ち直り、88~90年はレイカーズでプレイ。ここでは6マン的な起用をされ、ベンチから爆発力をもたらす存在として活躍した。身体能力の高いウールリッジは、マジック・ジョンソンのパスの受け手として悪くなかった。

90~91シーズンはナゲッツで平均25.1点・6.8リバウンドと、個人スタッツとしてはキャリアハイをマーク。ただ、これはポール・ウェストヘッドHCによるオフェンス重視のスタイルが影響しており、チームは弱く(20勝62敗)、また、ウールリッジは目の怪我でシーズンの半分近くを欠場した。91年オフにはピストンズへトレードされ、レインビアと再会。スターターとして起用されたが、峠を過ぎたバッドボーイズを蘇らせることは出来ず、92~93シーズン途中にはバックスへ放出された。

93~94シーズンをシクサーズで過ごした後は渡欧。94~95シーズンはマイク・ダントーニがHCを務めるイタリアのベネトン・トレビソでプレイしている。95年のマクドナルド選手権では、決勝でロケッツと対戦している。95~96シーズンを最後に現役を引退。6フィート9インチ・215ポンドで、身体能力の高い選手。オープン・コートではアンストッパブルで、ダンクも見応えがあった。ただ、プレイが一元的なのでエースとしても2番手としても物足りない。引退後はWNBAのスパークスでHCを務めたこともある。


ケリー・トリピューカ


ノートルダム大出身のスコアリングF。ドラフト1巡目第12位でピストンズに入り、ルーキーイヤーからスコアラーとして活躍。2年目には24試合を欠場しながらも平均26.5点をマーク。平均38.8分のプレイングタイムはリーグ1位であった。86年には同じくスコアラーのエイドリアン・ダントリーとのトレードでジャズに移籍。しかし、当時のジャズはジョン・ストックトン、カール・マローンを中心にチームを作り始めており、得点力はあるが協調性に欠けるトリピューカは歓迎されなかった。

移籍1年目こそ故障明けのダレル・グリフィスからスターターの座を奪ったが、翌年は出場機会を制限されてしまう。HCのフランク・レイデンとも衝突し、結局88年オフにエクスパンション・ドラフトでホーネッツに拾われた。ここでも1年目は平均22.6点をマークするなど錆び付いていないことを示したが、次第に若手に活躍の場を奪われ、90~91シーズンを最後に現役を引退。その後、チャック・デイリーがHCに就任したネッツ行きの噂などもあったようだが、実現には至らなかった。

89年に行われたホーネッツとジャズの試合で、マローンはレイデンが解任されて間もなかったことを受けて、シューズの踵に「フランク」と書いてプレイしたのだが、これを受けてトリピューカは自分のシューズに「ディック」と書いてプレイしたという(当時のホーネッツのHCはディック・ハーター)。シュートの上手いスコアラーで、プレイオフ初のロードゲームで40点をあげたというリーグ・タイ記録を保持している。また、ピストンズ史上1試合40点以上をあげた選手は、他に4人しかいない。

ディフェンスが弱いことでも有名。


マイク・マギー


ミシガン大出身のスウィングマン。1巡目第19位でレイカーズに入団した。層の厚い強豪に入ったことで最初2年間は出番がなかったが、ノーム・ニクソンが去った83~84シーズンは開幕からスターターとしてプレイ。シーズン中盤にはバイロン・スコットにその座を奪われたが、以降も貴重な控えとして貢献した。15分足らずのプレイングタイムながら平均10点前後を稼ぐなど、ショータイム時代のレイカーズを陰で支え、82・85年には優勝を経験している。

86年にはホークスへ移籍し、翌シーズンの序盤には更にキングスへトレードで移籍。88~89シーズンはネッツで過ごし、このときはキャリアハイの平均13点をマークしている。NBAでプレイしたのは89~90シーズンのサンズが最後。フィリピンでもプレイしたことがある。そのチームへの貢献度の高さはマジック・ジョンソンも評価するほどであったが、唯一FTは精度が悪く、Gなのに6割に届かない。


バック・ウィリアムス


本名はチャールズ・リンウッド・ウィリアムス。6フィート8インチ・215ポンドとNBAのF/Cとしてはやや小柄だったが、3度のオールスター選出、新人王、オール・ルーキー・チームへの選出、オール・ディフェンシブ・チームへの選出、オールNBAチームへの選出など多くの実績を残した。83~84シーズンにオフェンス・リバウンドの総数でリーグ首位をマークしたのも、84~85シーズンにリーグ首位の3182分プレイしたのも、地味ながら素晴らしい成績である。

メリーランド大の出身で、当時から特にリバウンドで強さを発揮。出場こそしなかったが、80年のモスクワ・オリンピックの代表メンバーに選ばれている。3年次終了後にアーリー・エントリーを表明し、ドラフト1巡目第3位でネッツ入り。マーク・アグワイア、アイザイア・トーマスに次ぐ指名であった。1年目はラリー・ブラウンHCの下、Cのレン・エルモアとともに全82試合でスタートし、平均15.5点・12.3リバウンドをマーク。チームは前年度+20勝(44勝38敗)をあげ、新人王を受賞した。

2年目の82~83シーズンは、ダリル・ドーキンス、マイケル・レイ・リチャードソンが加わるなど戦力は充実。チームは49勝33敗をあげ、ウィリアムスもオールNBAチームに選出された。ただ、このシーズンは、ブラウンHCが「シーズン終盤にカンザス大のHC職を受諾した」ということでシーズン終了までの出場停止処分を喰らってしまい、チームは残り6試合というところでHCを交代。チームはここから立ち直れず、プレイオフでは下位シードのニックスに敗れてしまった。

翌83~84シーズンは、ネッツにとって、76年にNBAに参入して以来初となるプレイオフ1stラウンドを果たすが、ここをピークにチーム力は下降(因みにネッツが次に1stラウンドを突破するのは02年)。リチャードソンがドラッグ問題でチームを去った86~87シーズン以降は、ウィリアムスがどんなに活躍しようとも低迷。そして、88~89シーズンを最後にサム・ブゥイ&ドラフト指名権とのトレードでブレイザーズへと放出された。

ブレイザーズは4年連続1stラウンド敗退中の中堅チームだったが、ウィリアムス加入の影響か、前年度+20勝となる59勝23敗をマークし、なんとファイナルに進出。ピストンズに負けたが、大躍進のシーズンだった。ブレイザーズ移籍によって個人成績は軒並みダウンしたが貢献度は高く、91・92年には60%FG成功率でリーグ首位を記録。チームは92年もファイナルに進んでいる(ブルズに敗れる)。その後、主力の高齢化などでブレイザーズも戦力ダウン。96年にはニックスへ移籍した。

この頃にはさすがに衰えが顕著だったが、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリーのバックアップとして手堅くプレイ。しかし、移籍2年目の97~98シーズンは膝の故障で41試合を欠場し、ロックアウト解除直後の99年1月末、現役引退を表明した。因みに1シーズンに12シーズン以上欠場したのは初めてのことだった。引退から間もない99年4月には古巣ネッツが、ウィリアムスの背番号52を永久欠番としている。

プロ入りから最初の6シーズン連続で平均12本を上回るリバウンド数でリーグのトップ3にランクイン。故障も少なく、実に12シーズンで80試合以上に出場した。人望も厚く、94~97年には選手協会の会長も務めている。


アルバート・キング


1巡目第10位でネッツに指名されたスウィングマン。メリーランド大。ルーキー時代から主にスターターとして起用され、2年目にはキャリアハイの平均17.0点をマークしている。87年にはシクサーズ、88年には更にスパーズへ移り、89~91年はNBAでプレイせず。91年にはブレッツと契約を結ぶが、開幕から6試合に出たところで解雇されてしまった。スコアラーとして有名なバーナード・キングの弟で、91~92シーズンにはチームメイトであった(バーナードの故障のため、ともにコートには立っていない)。


アル・ウッド


1巡目第4位でホークス入りした、ノースカロライナ大出身のスウィングマン。ルーキーイヤーの途中にクリッパーズにトレードされて開花。83年にソニックスに移籍するとスターターに定着し、3シーズンに渡って主力として活躍した。しかし、当時のソニックスはかろうじてプレイオフに滑り込めるくらいの戦力しかなく、ゼイビア・マクダニエル、トム・チェンバーすら好選手の加入によって出番は減少。86~87シーズンにマブスに在籍したのを最後に現役を引退した。

キャリアは短かったが、通算で平均11.8点は悪くない。


昭和56年ドラフト組②

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レイカーズがブランドン・イングラムを指名するぽく、わくわくしております。ホーフォードは来てくれないと予想。




マーク・アグワイア


80年代を代表するスコアラーのひとり。デポール大のスターSFで、カレッジ時代はテリー・カミングスとチームを牽引していた。ドラフト1巡目第1位でマブス入り。当時のマブスは創設2年目の若いチームだったが、同じくルーキーのローランド・ブラックマン、ジェイ・ビンセントとともに即戦力となった。アグワイアは31試合を休んだがチーム2位の得点アベレージをマークし、チームも28勝をあげて最下位は回避。創設2年目としては悪くないシーズンであった。

翌シーズンは平均24点をあげ、チームは38勝。そして3年目の83~84シーズン、リーグ2位の平均29.5点をマーク。チームも、創設以来の巧みなドラフトのお陰で層が厚く、3年目にして43勝・プレイオフ初進出を達成した。プレイオフでもセミファイナルまで進んでいる(レイカーズに敗れる)。84~86年はアグワイアもチームも伸び悩むが、86~88年は2年連続でオールスターに出場するなど持ち直し、チームも50勝以上をマーク。88年にはフランチャイズ記録となる53勝をあげた。

この年はプレイオフでも熱く、ロケッツとジャズを破り、カンファレンス・ファイナルではレイカーズをゲーム7まで追い詰めた。この当時のレイカーズをここまで苦しめたチームはそう多くない。アグワイアは得点パターンが豊富で、スピン・ムーブにジャンパー、ドライブにアウトサイド・シュートとあらゆる方法で高得点を稼ぎ出せるスコアラーだったが、そのスタイルには気分屋で自己中心的といった批判もあり、地元ダラスのファンもときには手厳しかったようである。

そして88~89シーズン途中、エイドリアン・ダントリー&将来のドラフト1巡目指名権と交換でピストンズへ移籍。マブスで数々の実績を残したにもかかわらず、ダラスの記者はこのトレードを喜び、「チーム史上最もすばらしい日」と評するコラムニストさえいた。また、このトレードが成立したのは「ピストンズにアグワイアと友人のアイザイア・トーマスがいたから」とも言われ、ダントリーの親がトーマスに怒ったという話もある。

トレード当初は、チームを重視するピストンズのスタイルにアグワイアが順応できるのか、といった懸念があったが、上手くフィット。6マン的な起用をされることもあったため、出場機会は少なくなり、スタッツも落ちたが、貢献度は高く、89・90年の2連覇に貢献。エースであろうとなかろうとアグワイアがオフェンスの脅威であることに変わりはなかった。その後、ポジションの重なるデニス・ロドマンの成長、チームの崩壊、自身の衰えなどからキャリアは下降線を辿ったが、93年までピストンズでプレイ。

93~94シーズンをクリッパーズで過ごして現役を引退した。必ずしも知名度は高くないが、80年代の優秀なスコアラーのひとり。


アルトン・リスター


ドラフト1巡目第21位でバックスに入団した、アリゾナ大出身の7フッター。16シーズンに渡って5つのチームでプレイしたが、常に53番を着用していた。83~85シーズンは主にスターターとしてプレイし、ブロックではそれなりの結果を残した。85~86シーズンは数字こそ大きな変化はなかったが、スターターの座をランディ・ブリューワーに奪われ、86年のオフにはソニックスへ移籍。ここでは他にめぼしいCがいなかったこともあり、88~89シーズンまで主にスターターとして起用された。

89年にはウォリアーズへ移籍し、バックス時代の師であるドン・ネルソンHCと再会。当時のウォリアーズはその頃には珍しいスモール・ラインナップを用いるチームで、リスターはそんなチーム唯一の正統派Cであった。93年のオフに一度現役を引退するも、翌94年のオフには古巣バックスと契約を結んで36歳にして現役復帰。95~96シーズン途中にはセルティックスへトレードされ、翌シーズンまで在籍。97~98シーズンにブレイザーズで7試合だけプレイし、2度目の引退をした。

NBA50周年のとき、当時60歳のウィルト・チェンバレンが「アルトン・リスターが復帰しただろ?俺だってやろうと思えばまだやれるよ(笑)」とコメントしていた。得点とリバウンドでダブルダブルに迫るアベレージを残した86~87シーズンが恐らく自己最高のシーズン。在籍したチームにいいCがいないケースが多かった。引退後はマイナーリーグのコーチなどを務めた模様。


ジェイ・ビンセント


ミシガン大出身。6フィート7インチのF。ミシガン州立大の出身で、79年にはマジック・ジョンソン、グレッグ・ケルサーらとともにNCAAチャンピオンに輝いている。ドラフトでは2巡目第24位で創設2年目のマブスに入団。すぐスターターに定着し、平均21.4点・7.0リバウンドをマークしてオール・ルーキー1stチームに選出された。3年目以降はベンチ・スタートとなる機会が増えたが、持ち前の得点力で6マン的な働きを見せていた。

しかし、86年オフにブレッツに移籍すると、翌87年オフには更にナゲッツへ移籍。この当時もベンチの得点源として活躍をしていたが、88~89シーズンの開幕前に故障し、年末に復帰するとすぐにスパーズへトレードされた。89~90シーズンをシクサーズとレイカーズで過ごしてNBAでのキャリアは終了。奇しくも最後はマジック・ジョンソンとチームメイトであった。その後はイタリアのクラブ・チームなどを経て現役を引退。キャリア平均15.2点は、ベンチ・スタートの多かった選手としては合格点か。

サム・ビンセントは実の兄弟である。


ダニー・エインジ


MLBのトロント・ブルージェイズでもプレイした選手。高校時代はフットボールでオール・アメリカンに選出され、ブリガムヤング大ではバスケットをプレイ。77年にはアマチュアを対象としたドラフト?でブルージェイズに指名され、一方でバスケットに専念。81年にはジョン・R・ウッデン・アワードを受賞し、今度はNBAのドラフトで、2巡目第31位でセルティックスに指名された。セルティックスはブルージェイズの契約を買い取らなければならなかったが、エインジは晴れてセルティックスの一員となった。

デビュー当時のエインジは順調ではなかったようで、ラリー・バードによればチームメイトはエインジのシュート成功率の低さをからかい、「バスケットのシュート成功率より打率の方がいいのでは?」とさえ言った。しかし、そこから次第に重要な戦力となり、84年と86年にチームが優勝した時には主力として活躍するまでに成長。得点だけでなく、ディフェンスでも貢献度は高かった。89年には高齢化・故障が懸念されたフロントライン補強のためにキングスへトレードで移籍。

エインジが加入してもキングスは弱いままだったが、個人としては平均20点を超える大活躍を見せた。90年には強豪ブレイザーズへ移籍。ベンチ・スタートとなったが存在は大きく、92年にチームがファイナルに進んだときは、ファイナルのオーバータイムにおける最多得点(9点)をあげるなど活躍を見せた。その直後の92年オフにはFAとしてサンズと契約。当初は残留する旨のコメントをしていたが、契約解禁初日に移籍を決めた。

このシーズンのサンズはロゴとアリーナを一新し、ポール・ウェストファルがHCに就任し、チャールズ・バークリーも加わるなど新たなスタートを切っており、エインジはそのチームを何度も救って見せた。サンズはそのシーズン、ファイナルに進んでおり、エインジにとっては2シーズン連続、異なるチームでのファイナル進出となった(ともにブルズに敗れる)。その後、95年に現役を引退。現役時代は短気で熱くなりやすく、「パブリック・エネミー」と呼ばれることもあったとか。

引退後はTVコメンテーターを経て、96年、古巣サンズのACに就任。そして迎えた96~97シーズン、エインジはコットン・フィッシモンズHCが開幕早々に辞任したことを受け、すぐHCとなった。サンズは開幕13連敗という不甲斐ないスタートを切るのだが、エインジはそこから少しずつ立て直し、シーズン終盤には2桁の連勝をマークするなど猛ラッシュ。第7シードでのプレイオフ進出を決めた。このときのエインジは、Gを3~4人同時に使う、通称「スモール・ボール作戦」を用い、これが功を奏していた。

ディフェンス偏重型のチームが多く、ロースコアなゲームが多かった時代にこのスタイルは刺激的であったが、プレイオフを勝ち進むまでには至らず、99~00シーズンの開幕直後に「家族と過ごす時間がほしい」という理由で、HC職を退いた。03年には古巣セルティックスのフロント入り。しばらくはアントワン・ウォーカーの放出など、思い切った人事の効果が見られずしばしば批判を浴びたが、07年にレイ・アレン、ケビン・ガーネットを獲得して優勝したことで評価は高まった。


フランク・ブリコウスキー


ペンシルバニア州立大出身。ドラフト3巡目第57位でニックスに指名されるが、チームに「まだNBAでプレイする準備はできていない」と判断され、81~82シーズンをイタリア、82~83シーズンをフランス、83~84シーズンをイスラエル(マッカビ・テル・アビブ)でプレイした。83年にはニックスから交渉権を手放されてしまうが、84年オフ、ソニックスと契約を結び、ようやくNBAデビューを果たした。しかし、ほとんど戦力にならず、86年にレイカーズと契約。そしてシーズン半ばには更にスパーズへトレードされた。

このシーズンの残りは7試合しかプレイしなかったブリコウスキーだったが、翌87~88シーズンは平均16.0点・6.9リバウンドとブレイク。スターターとしても通用する力があることを示した。しかし、その後はデビッド・ロビンソンの加入やサラリーの問題で、90年、バックスへ移籍。故障したラリー・クリストコビアックの穴を埋めて余りある活躍を見せ、チームの中心として健闘。この頃がキャリアの最盛期であった。93~94シーズン半ばにはホーネッツへトレード。

ここでは故障したアロンゾ・モーニングの穴を埋めることを期待されていた。94年にはキングスに加入するも、肩の故障によって全休。翌95~96シーズンは古巣ソニックスで自身初となるファイナルを経験。第1戦と第3戦でデニス・ロドマンを挑発して、逆にテクニカル・ファウルを吹かれて退場になったシーンは印象深い。96~97シーズンにセルティックスで17試合だけプレイし、現役を引退した。30代前半にキャリアのピークを迎えた遅咲きの選手。

サイズ的にはやや小さいが、チーム事情からCとして起用されることが多かった。シュートが上手く、特に96年にソニックスに在籍した時には、本数こそ少なかったが精度の高い3Pでの貢献も見せた。バックス時代はドラッグのカウンセリングを受けるなどオフコートでのトラブルもあったとか。


スティーブ・ジョンソン


ローポストの効果的なオフェンス、お粗末なディフェンスとリバウンド、ファウルの多さで知られたF/C。ラルフ・ミラーが指揮していたオレゴン州立大の出身で、80~81シーズンにはNCAA記録となる74.6%というFG成功率を記録した。ドラフトでは1巡目第7位でキングスに指名され、1年目から平均12.8点をマーク。FG成功率61.3%はリーグ2位であった。ただ、ファウル数もリーグ首位だったが。2年目もリーグ2位のFG成功率をマークしたジョンソンは3年目の途中にブルズへトレードされた。

ブルズ時代はマイケル・ジョーダンの公式戦デビューでともにスターターとしてプレイしている。85年にはスパーズへ移籍し、ここでは63.2%という高いFG成功率で初めてリーグ首位に立った。86年にはマイカル・トンプソンとのトレードでブレイザーズへ移籍。チームはディフェンス志向のサム・ブゥイとオフェンス志向のジョンソンが組ませることでフロントラインの強化を目論んでいたようだが、この計画はブゥイの怪我によって白紙になってしまう。

ジョンソンはCとして起用されてキャリア最高のシーズンを過ごし、オールスターにも出場するが、翌シーズンはブゥイに続いてジョンソン自身も故障してしまい、その間にケビン・ダックワースにポジションを奪われてしまうのであった。89年オフにはエクスパンション・ドラフトでウルブズに移籍するも、開幕直後に今度はソニックスへトレード。90~91シーズンにウォリアーズでプレイしたのを最後に現役を引退した。引退時、NBAでの通算FG成功率は史上4位であった(NCAAは史上1位)。


トム・チェンバース


ユタ大出身の白人PF。80年代後半~90年代前半にかけてのサンズのスターで、ケビン・ジョンソンとのピック&ロールは強力な武器であった。ドラフト1巡目第8位で、クリッパーズに入団(当時のフランチャイズはサンディエゴであった)。いきなり平均17点を上回るなど活躍を見せたが、バック・ウィリアムス、ケリー・トリピューカらの壁は厚く、オール・ルーキー・チームには選出されなかった(当時は2ndチームがなかった)。

83年にソニックスに移籍するとスコアラーとして開花。平均20点を超えるようになり、デイル・エリス、ゼイビア・マクダニエルらとともにチームを牽引。初出場となった87年の地元シアトルでのオールスターでは、代替出場&ベンチ・スタートながらMVPを受賞した。因みにこのときはマジック・ジョンソンが積極的にチェンバースにボールを送り続けたという。88年にはNBA史上初のFAとしてサンズへ移籍。新天地ではソニックス時代を上回る活躍をみせ、キャリアのピークを迎えた。

89~90シーズンには平均27.2点をマーク。先述のようにケビン・ジョンソンとのコンビは強力であった。しかし、次第に故障やロスターの入れ替わりで衰えがみられるようになり、チャールズ・バークリーが加入した92~93シーズンは、キャリアで初めてバックアップとして1シーズンをプレイ。そのオフにはサンズからオプションを行使されずにFAとなり、ジャズと契約を結んだ。ここでは2シーズン、カール・マローンのバックアップを務めている。

95年にはイスラエルのマッカビ・テル・アビブと契約。当時これは大きな出来事であったが、ここでのチェンバースは大乱調。大事な試合でFT2本の2点に終わるなど、活躍したとは言い難かったようである。96~97シーズンはNBAに戻ってホーネッツでプレイ。97年オフには古巣サンズと契約するがフロントと揉め、1試合も出ないうちにシクサーズへトレード。ここで1試合だけプレイして現役を引退した。最後2シーズン、チェンバースにかつての面影は見られなかった。

強力な白人スコアラー。通算のFT成功率が80%を超えるなど確かな技術を持っていたのに加え、機動力にも優れていた。リバウンドはあまり強くない。

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大変ご無沙汰しております。とてもひさしぶりに書いてみました。

といっても、活動休止前と変わらないんですが。。

 

 

マーク・アイヴァローニ

 

ヴァージニア大出身のF。ドラフト3巡目でニックスに指名されるが開幕ロスターには残れず、NBAデビューは82~83シーズンまで待たなければならなかった。因みにNBA入りするまでの間はイタリアでプレイした他、OBとして母校のACを務めたこともある。NBAでの1年目はシクサーズでいきなり優勝を経験。このときはジュリアス・アービング、モーリス・チークスらに混じってスターターとして起用されていた。当時のシクサーズはNBA歴代トップ10のチームのひとつとしてみなされている。

3年目の途中にスパーズに移籍し、その翌シーズンの途中には更にジャズへ移籍。ジャズでもスターターとして起用されることが多かった。89年を最後にNBAを去り、その後スペインでプレイして91年に現役を引退。引退後はすぐにボウリング・グリーン州立大のACとなってコーチとしてのキャリアをスタート。その後、ヴァージニア州のラジオの解説者を経て、97年、マイク・フラテロのACとしてキャブス入り。2シーズン過ごした後、ヒートのコーチング・スタッフに入っている。

 

フリーマン・ウィリアムス

 

6フィート4インチ・190ポンドのスウィングマン。77・78年のNCAA得点王で、ポートランド州立大の歴代トップの得点をもマークしている。NCAAディビジョンⅠの歴代総得点は、ピート・マラビッチに次ぐ2位である。NBAでは78~79シーズンにクリッパーズでキャリアをスタート。1年目はバックアップだったが、79年オフにランディ・スミスの移籍などを受けてスターターに昇格。平均18.6点を稼ぐなど、ワールド・B・フリーに次ぐチームの得点源となった。

フリーが移籍した80~81シーズンはチームトップの平均19.3点をマーク。この2シーズンのプレイングタイムは平均25分程度であった。アウトサイド・シュートが上手く、80~82年まで3シーズン連続で、3P成功数はリーグのトップ10にランクイン。80年12月には、クリッパーズ史上初のプレイヤー・オブ・ザ・マンスも受賞している(因みに、クリッパーズでこの賞を受賞する選手は、これ以降、25年後のエルトン・ブランドまでひとりもいなかった)。

81~82シーズンの半ばにはホークスへ移籍するが、ここではG陣の層が厚かったためか出場機会が減少。82年オフには同オフにドラフト指名されたばかりのドミニク・ウィルキンスとのトレードで、ジョン・ドリュー、金銭とともにジャズへ移籍した。しかし、82~83シーズンは18試合しかプレイできず、83~85年の2年間はNBAでプレイすることもできなかった。85~86シーズンに9試合だけブレッツでプレイして、現役を退いた。

引退後、映画に出演したことがある。

 

レジー・セウス

 

6フィート・7インチのG。76~78年にジェリー・ターカニアン指揮するUNLVでプレイしたセウスは、同大史上最高の選手とまで言われた。背番号はもちろん永久欠番である。

78年のドラフトでは1巡目第9位でブルズ入り。1年目から活躍を見せて新人王の候補にもなり、2年目には更に成績をアップさせた。ただ、「ラッシュ・ストリート・レジー」と呼ばれた当時のセウスは、シカゴのストリートに住んでいたためか夜の生活が派手だったようである。

81年と83年にはオールスターにも出場したセウスだったが、83~84シーズンにケビン・ロッカリーが新HCとなるとシーズン序盤にスターターから外され、その少し後にはスティーブ・ジョンソン&3つのドラフト指名権と交換でキングスに放出されてしまう。これはシカゴのファンも残念がったという。

キングス移籍後もそれまで通りのプレイを維持したセウスは、ホークス、マジック、ネッツでもプレイ。91~92シーズンをイタリアでプレイして現役を引退した。07年にはキングスのHCに就任している。

 

デイブ・コージーン

 

シカゴ出身。高校もシカゴで、大学も地元のデポール大に進み、78年のドラフト1巡目第18位でブレッツに入団した。出番の少ない2シーズンを過ごした後、スパーズへ移籍。ここではブロックショットなどで貢献し、得点アベレージも2桁に乗った。

82年オフにはブルズへ移籍。以降、88~89シーズンまで7シーズンに渡ってプレイした。マイケル・ジョーダン入団以降は控えに回ることが増え、若手の台頭などもあって出番は制限されたが、ジョーダンと上手くプレイすることができた数少ないCのひとりだったようで、のちにウィル・パデューがアドバイスを求めたことがあるという(パデューは88年にブルズ入り)。エクスパンション・ドラフトでマジックに移り、90~91シーズンをソニックスでプレイして現役を引退した。引退後はデポール大のラジオ解説者などを務めた模様。

 

クレモン・ジョンソン

 

6フィート10インチ・240ポンドの巨漢F。フロリダA&Mの出身。78年のドラフト2巡目第22位でブレイザーズに入り、翌オフにはペイサーズへ移籍。そして82~83シーズン途中にシクサーズへトレードされ、そのシーズン、チャンピオン・リングを獲得する幸運に恵まれた。シクサーズには85~86シーズンまで在籍。続く2シーズンをソニックスでプレイし、現役を引退した。個人成績で見るとペイサーズ時代がピークか。オフェンスはあまり期待できない。引退後は経済学の教師になったり、アラスカ大のHCになったりしたそう。

 

パット・カミングス

 

6フィート9インチでシュートの上手いビッグマン。ニックスやマブスなどで計12シーズンをプレイした選手で、そのうち4シーズンで平均12点以上・8リバウンド以上を記録したことがある。

シンシナティ大の出身で、78年のドラフト3巡目第59位でバックスに指名された(セルティックスがラリー・バードを指名したときに適応されたのと同じルールで、カミングスが78~79シーズンも大学に残ることをわかっての指名であった)。79年にデビューするが、当時のチームにはボブ・レニアーやハーベイ・キャッチングスらベテランがおり、3シーズン在籍するも、出番は限られていた。82年には2つのドラフト指名権と交換で創設2年目のマブスへトレード。ここではスターターとして起用され、2年後の84年オフにはニックスへ移籍した。

ニックスでの1年目が恐らくキャリア最高のシーズン。ただ、翌85~86シーズンは足を故障し、また、パトリック・ユーイングの加入などもあって再び出場機会は減少。88年には新興チームのヒートと、FAとして契約。ロニー・サイカリーを支えた。89~90シーズン終盤に解雇され、90~91シーズンを4試合だけジャズでプレイし、34歳で現役を終えた。

 

マイケル・クーパー

 

78年のドラフト3巡目第60位でニューメキシコ大からレイカーズ入り。「クープ」の愛称で親しまれ。80年代のショウタイム・レイカーズでは主にベンチスタートながら、主力として活躍した。ディフェンスに定評があり、12年のキャリアで8度オール・ディフェンシブ・チームに選出され、87年にはディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞。

PG~SFまで3つのポジションを必要に応じてこなし、相手チームのベスト・プレイヤーをマークすることが多かった。ラリー・バードは「対戦した中で最高のディフェンダーはクーパーだ」とコメントしている。地元ファンからの人気も高く、ザ・フォーラムではクーパーがボールをコントロールすると「クーーープ」という声があがり、クーパーの絡んだアリウープは「クープ・ア・ループ」と呼ばれた。

引退後は3シーズンアシスタントGMを務めた後、コーチ業に勤しんでいる。

昭和53年ドラフト組②

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サザン・オールスターズはあまり聴かないんですけど、何曲か好きです。

 

 

ラリー・バード

 

歴代で最も偉大な選手のひとり。子供の頃はとても貧しく、両親は75年に離婚。その後、父は自殺している。バードの活躍は高校時代から目覚ましく、程なくして当時のガールフレンドと結婚(11ヶ月で離婚)。娘を授かった。その娘(コリー)は98年に自らがバードの娘であることを告白。高校ではバスケットをプレイしたそうで、大学の卒業式にバードを招待するもバードは欠席。因みにバードは89年に再婚して、2人の子供がいるそうである。

74年。奨学金を得てインディアナ大に入学。当時の同大はボビー・ナイト率いる名門校だったが、バードはホームシックと大学の規模の大きさに一ヶ月余りで故郷に帰ってしまった。そして、ボブ・キング率いるインディアナ州立大に編入する。バードの加入したチームは強くなり、(末永くライバルとなる)マジック・ジョンソンのいたミシガン州立大に1敗した以外は負けなかった。79年のカレッジ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞しており、平均得点はNCAA歴代5位である。

バードは78年当時、プロ入りするかそのまま大学に残るか、不確かな状況であった。しかし、それでもセルティックスはバードを指名した(当時はドラフトで指名された選手が大学に残ることを選択しても、1年以内に契約を結べばよかった)。そして1年後、当時のルーキーとしては破格の契約金でセルティックスに入団するのであった。バードの影響は絶大で、前年度僅か29勝だったチームは61勝まで勝ち星を増やし、いきなりリーグ最高勝率のチームとなった。同年、マジック・ジョンソンも強力なシーズンを過ごしていたが、オールスターにはファン投票で選ばれ、新人王も獲得。プレイオフではシクサーズにアップセットを喰らうも、チームは変わりつつあった。そのオフにはロバート・パリッシュとケビン・マクヘイルが加入。直後の80~81シーズンには早速ファイナルまで進み、優勝を飾った。

バードはこれ以降84年・86年も優勝。84年には初のファイナルMVPを受賞した。86年のチームには将来の殿堂入り選手、ビル・ウォルトンの加入という大きな補強があったのだが、ウォルトンの獲得を進言したのがバードだった。故障の多かったウォルトンはレイカーズへの入団を断られ、セルティックスのGMだったレッド・アワーバックも当初は故障のリスクを懸念したが、バードがチームのオフィスに押し掛けてウォルトンの獲得を希望。このときバードは「彼が、自分は充分プレイできると感じているならそれで充分だよ」としている。因みにこのシーズンのバードは3度目のシーズンMVP、2度目のファイナルMVPを受賞している。

しかし、翌86~87シーズンがバードにとって最後のファイナルとなる。ピストンズやバックスの台頭に苦しみ、ファイナルでは宿敵レイカーズに敗戦。そして87~88シーズンはカンファレンス・ファイナルでピストンズに敗れた。

88~89シーズンは踵の故障でなんと76試合を欠場。89~90シーズンには復帰するが、このときには慢性的な背中の痛みも抱えており、一定の個人成績こそ残していたが、チーム共々下降線を辿っていった。90~91シーズンは29勝5敗という好スタートを切るも、その直後に背中の故障で長期離脱。翌91~92シーズンも37試合を欠場し、プレイオフでもカンファレンス・セミファイナルで7試合中4試合を休んだ(チームはキャブスに敗れた)。92年夏のバルセロナ・オリンピックでドリーム・チームⅠの一員として金メダルを獲得したのを最後に現役を引退。背番号33はすぐに永久欠番となった。

引退後はセルティックスのフロントのスペシャル・アシスタントを経て、97年にペイサーズのHCに就任。前年プレイオフに進めなかったチームを立て直し、いきなりコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞。00年にはチームをファイナルまで導いた。選手の自主性を尊重するそのスタイルはテックス・ウィンターも評価しており、ジェイレン・ローズ、オースティン・クロージェアらはバードの下で花開いたと言えるだろう。因みにパット・ライリーをHCのお手本としていたという。その後一度チームを離れるが、03年にフロント入りした。

両Fで一流のプレイを見せたバードはオールスターに12度選出。シュートが上手く、タフなメンタルも兼ね備え、勝負強さには定評があった。プロ入り後、最初のHCだったビル・フィッチはバードのことを「コダック」と呼んだ。リバウンドやアシストも上手く、トリプルダブルの通算回数は59回。ディフェンスは、スピードとクイックネスがなかったのでマンツーマンでは厳しい面もあったが、相手の動きを読むのが上手く、パスカットや相手のミスを誘発することに長けていた。オール・ディフェンシブ2ndチームに3度選出されている。リーダーとしての評価も高く、チームメイトからは「そのチームプレイとリーダーシップでチームを一段階上まで引き上げてくれる」と評された。リーグ有数のトラッシュ・トーカーとしても有名で、チャック・パーソンとやり合った話など、エピソードは数多い。

マイケル・ジョーダンは嘗て、「ここぞという場面で、あなたなら誰に打たせるか?」と聞かれ、質問が終わるのを待たずに「ラリー・バード」と即答。また、ブレッツやブルズなどで指揮を執ったケビン・ロッカリーは「バードは彼自身のリーグでプレイしている。たぶんそのリーグでプレイできる選手は他にいないよ」とコメントした。マジック・ジョンソンとはよきライバルであり、よき友人である。

 

マイカル・トンプソン

 

6フィート10インチのビッグマン。バハマ出身で78年のドラフト1巡目第1位でブレイザーズ入り。外国出身の選手としては史上初の快挙であった。ブレイザーズでは8シーズンをプレイ(1シーズンは故障で全休)。79年にはオール・ルーキー・チームに選ばれ、82年には平均20点・11リバウンドをマークするなど活躍した。

86年のオフにスティーブ・ジョンソンと交換でスパーズへ移籍。しかし、86~87シーズン途中にはフランク・ブリコウスキー&90年のドラフト1巡目指名権と交換ですぐレイカーズへ放出されてしまう。これは、レイカーズ側に、ジャバーのバックアップが欲しかった、ライバルのセルティックスと戦う際にケビン・マクヘイルとマッチアップできる選手が欲しかった、という目的があった。この働きが功を奏してか、レイカーズは87・88年と連覇を達成している。

現役時代はお喋りな選手として知られ、記者からの人気も高かった。息子はクレイ・トンプソン。

 

フィル・フォード

 

6フィート2インチのPG。名門ノースカロライナ大出身で、学生時代にはアメリカ代表として76年のオリンピックで金メダルを獲得している。カレッジ時代は76年から3年連続でオール・アメリカンに選出され、78年にはカレッジ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞。2290点という総得点はノースカロライナ大史上最多の記録である。

78年のドラフトでは1巡目第2位でキングス入りし、新人王を獲得。しかしこのときはピークで、4年目になるとマイク・ウッドソンらの加入で出場機会が減少。82年オフにはネッツに移籍し、82~83シーズン開幕直後には更にバックスへトレードされ、83年オフにはロケッツへ移った。そして84~85シーズンに25試合だけプレイしたのを最後に、28歳の若さで現役を引退した。

引退後は88年に母校ノースカロライナ大のACに就任。00年まで務めていた。その後はニックス、ボブキャッツなどNBAでACとなっている。

 

マイケル・レイ・リチャードソン

 

78年のドラフト1巡目第4位でニックス入り。「ネクスト・ウォルト・フレイジャー」と期待されたリチャードソンは、2年目に史上初めてアシストとスティールの2部門でリーグ首位に立つ快挙を成し遂げた。

その後、バーナード・キングとの契約を優先したチームによってウォリアーズへ放出されてしまうが、程なくして再度トレードされたネッツではオールスターに選ばれるほどの活躍を見せた。因みに、オールスターでマイケル・ジョーダンがフリーズ・アウトしたとされるメンバーのひとりでもある。84年のプレイオフでは、ディフェンディング・チャンピオンのシクサーズを破るアップセットの立役者と言える活躍。ニックスがキングの故障で思うように勝てないのと対照的であった。

しかし、86年オフ。デビッド・スターン・コミッショナーはドラッグの規定に3度違反したリチャードソンを追放。当初は88年に復帰する権利があったのだが、その後もコカイン・テストに2度引っ掛かるなど二度とリーグに戻ってこなかった。リチャードソンは、当時、この処分に不満を漏らし、アルコール中毒だったクリス・マリンの件を引き合いに出し、リーグは黒人を差別しているとしていたとか。NBA追放後はCBA、USBL、ヨーロッパなどで現役を続けた。ニックネームは「シュガー」。

 

ブッチ・リー

 

プエルトリコ人初のNBA選手。本名はアルフレッド・リー。マーケット大出身で、77年のファイナル4進出に大きく貢献。最優秀選手に選ばれており、背番号は同大の永久欠番である。因みに同大に入学した年にはプエルトリコ代表としてプレイし、アメリカ戦では敗れはしたものの35点をマーク。94対95とあと一歩というところまで迫った。

しかしNBAでは上手くいかなかった。ドラフト1巡目第10位でホークスに入団するが、1シーズン待たずにキャブスへトレード。翌79~80シーズン、開幕から3試合過ぎたところで故障。これがキャリアを左右するほどの大怪我だったようで、直後にレイカーズへトレード。11試合だけプレイして現役を終えた。レイカーズで優勝を経験したのが唯一の救いかも。引退後はプエルトリコでコーチ職に従事していた様子。

 

マイク・ミッチェル

 

6フィート7インチのSF。オールスターには1度しか出場していないが、平均19.8点・5.6リバウンド、FG成功率49%、FT成功率78%をキャリアでマークした隠れた名選手だ。

オーバーン大出身で、78年のドラフト1巡目第15位でキャブス入り。2年目から得点源として開花し、チームの中心として活躍。81~82シーズン途中にスパーズにトレードされた後もそのまま活躍し、85年にはチームの得点王となった。ジョージ・ガービンのスパーズ在籍時、ガービンがチームの得点王にならなかったのはこのシーズンのみである。キャリア終盤となる86~88年頃は故障などもあり、次第に出番が減っていたが、それでも得点力の高さは健在であった。

昭和57年ドラフト組①

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ニュースを見てると相撲って謎が多いです。

 

 

トニー・ブラウン

 

アーカンソー大出身のF。ドラフト4巡目でネッツから指名されるが、NBAデビューは84~85シーズン、ペイサーズでとなった。ルーキーイヤーは全82試合に出場するも、そこからジャーニーマンとしてキャリアがスタート。91~92シーズンを最後に引退するまでに9チームを渡り歩いた。キャリアベストはネッツに在籍した86~87シーズンで、このときは主にスターターとして起用されて平均11.3点をマーク。エキシビジョン・ゲームでレフェリーと衝突して右アキレス腱を断裂し、翌シーズンを全休したのが悔やまれる。

CBAでの経験も豊富で、プロデビューとなった82~83シーズンは平均21.9点をマーク。オール・ディフェンシブ2ndチームにも選ばれている。NBAを離れた後はイタリアでも2シーズンプレイしている。引退後はコーチとして働いている。

 

テリー・カミングス

 

6フィート9インチのPF。デポール大出身で、82年のドラフト1巡目第2位でクリッパーズ(当時はまだサンディエゴ)に入団した。1年目にいきなり平均23.7点・10.6リバウンドをマークして新人王を受賞(ともにキャリアハイ)。84年オフにはバックスへトレードされ、ここでも活躍。85年と89年にはオールスターにも出場した。この当時はリーグ有数のPFのひとりとして数えられるほどであった。89年にはスパーズへ移籍。個人成績は若干落ちたが、デビッド・ロビンソンを支え、チームの躍進に一役買った。

厳しかったのは92~93シーズン。このシーズンは新任のジェリー・ターカニアンHCに先発から外され(ターカニアンはすぐ解任)、その直後のマブス戦で膝を故障。そのままシーズンの残りを欠場した。プレイオフには戻ってくるが、故障以前のレベルではなく、翌シーズンからはデニス・ロドマンの控えとしてプレイ。95~96シーズンは古巣バックスに戻った。

96~97シーズンは開幕後にインサイドが人手不足だったソニックスと契約。主にCとして起用された。97年オフにはシクサーズと契約。アレン・アイバーソンら若手のメンターとしてベテランの味を見せていたが、トレード期限にニックスへ移籍。オフには更にウォリアーズへトレードされた。00年に現役を引退。

キャリア晩年の衰えは顕著だったが、不慣れなCでもいいプレイを見せていた。難点はディフェンスでリバウンドも少ない。ショーン・エリオットの結婚式で牧師を務めたこともある。

 

ドミニク・ウィルキンス

 

「ニーク」「ヒューマン・ハイライトフィルム」の愛称で知られた殿堂入り選手。リーグ史に残るスコアラー、ダンカーであり、背番号21はホークスの永久欠番でもある。

パリ生まれのウィルキンスは高校時代からスターで、ジョージア大に進学。そして82年のドラフト1巡目第3位でジャズに指名された。しかし、ジャズの金銭的な事情とウィルキンスがユタでのプレイに乗り気でなかったことから、ドラフトの数ヶ月後にはジョン・ドリュー、フリーマン・ウィリアムス、金銭と交換でホークスへトレード。そして、ここから約11シーズンをアトランタで過ごすのである。

ルーキー・シーズンはまずまずの活躍でオール・ルーキー1stチーム入り。2年目には得点・リバウンド・スティールでチームをリードし、3年連続となるプレイオフ進出に貢献した(1stラウンドで敗退)。因みにこのときのHCは、チーム5代目のHC、マイク・フラテロである。3年目はインディアナポリスで行われたスラムダンク・コンテストで優勝し、スコアラーとしても成長していくが、チームは34勝しかできず、プレイオフにも出られなかった。

飛躍の年となったのは翌85~86シーズン。スラムダンク・チャンピオンはチームメイトのスパッド・ウェッブに譲ったが、平均30点オーバーで初の得点王となり、オールスターとオールNBA1stチームに初選出。チームも50勝をあげ、プレイオフでも1stラウンドを突破した(ピストンズを撃破)。セミファイナルではセルティックスに歯が立たなかったが、実りのあるシーズンであった。

86~87シーズンは、ホークスの選手としては81年のエディ・ジョンソン以来となるオールスター先発出場を達成。チームもフランチャイズ記録となる57勝をあげた。ただ、プレイオフでは結果を残せず、またしてもセミファイナルで姿を消している(ピストンズに敗れた)。87~88シーズンはチーム史上初めて1シーズンに3度プレイヤー・オブ・ザ・ウィークに選ばれた選手となり、オールNBA2ndチーム入り。しかしチームは再びセミファイナルで、今度はセルティックスに敗れてしまう。ゲーム7ではウィルキンスが47点、ラリー・バードが34点中20点を第4Qにあげる激戦となったが、ホークスはあと一歩及ばなかった。ウィルキンスはこの試合について「ゴールが井戸のように見えたよ。俺もバードもミスできなかった。今まで最高のゲームに入るね。お互い本当に負けたくなかったんだ」とコメントしている。

88~89シーズン。より上を目指すためにモーゼス・マローンとレジー・セウスを獲得するが、ケビン・ウィリスが足を骨折してシーズン全休となってしまい、結果1stラウンド敗退。翌89~90シーズンは勝率5割止まりでプレイオフには出られず、フラテロは解任された。ハイライトはウィルキンスが2度目のスランダンク・チャンピオンになったことくらいだろうか(決勝の相手はケニー・スミス)。

90~91シーズン、ウィルキンスはリバウンド、アシスト、3Pでキャリアハイを更新。チームも2シーズン振りのプレイオフ進出を果たすが、またしても1stラウンドを突破できなかった。翌91~92シーズンはアキレス腱の怪我によりシーズンの約半分を欠場。それは92年1月28日のシクサーズ戦での出来事で、多くの人は「これでウィルキンスのキャリアは終わった」と考えた。このシーズンは、1試合でFT23本をすべてミスなしで成功させた(リーグ記録)他、シーズン最多の52点に通算2万得点をマーク。オールスターにも選出されており、惜しまれる怪我だった。

しかし、ウィルキンスはここから復活。翌92~93シーズンは故障前を上回る成績を残し、ボブ・ペティットの保持していたチームの通算得点記録を更新。オールNBA2ndチームにも選ばれた。ところが続く93~94シーズン、ウィルキンスは例年通りのスタッツを残し、チームも36勝16敗と好調だったにもかかわらず、シーズン途中にダニー・マニングと交換でクリッパーズに放出されてしまう。ウィルキンスには、チームを勝利に導けない・スコアラーとしては一流だがそれ以外が物足りない・ディフェンスに難がある、といった評価があったようで、また、新任のレニー・ウィルケンスHCはマニングの方がより多彩でチームを助けてくれると踏んでいたようでもある(ホークスはこの後イーストの第1シードを奪取するがセミファイナルで敗退。オフにはマニングも移籍する)。

移籍後のウィルキンスは、低迷するチームとは対照的に好調を維持。そしてオフに契約が切れるとセルティックスと契約を結んだ。当時のセルティックスは若手とベテランが入り交じった状態で、ウィルキンスの役割も微妙。95年のオフにはギリシャのパナシナイコスに移籍した。ここでは、なんとキャリアを通して初めて優勝を経験。「どんなレベルであっても優勝するのは素晴らしい」と喜びを語っている。

96年オフ、強豪スパーズと契約してNBAに復帰。NBAでも優勝に近づくかと思われたが、このシーズンのスパーズは主力の故障が相次ぐ非常事態で、チームは下位に落ち、峠を過ぎたウィルキンスがチームの得点王となるなど、予期せぬ結果となった。翌97~98シーズンはNBAを再び離れ、ロックアウト明けの98~99シーズンをマジックで過ごして引退。このときは見るからにオーバーウェイトでキレがなく、戦力にはなっていなかった。実弟のジェラルドとチームメイトになったのが唯一のトピックであろう。

あらゆるスタイルで得点を稼ぐ生粋のスコアラー。NBAでは優勝に縁がなかったが、その実力は誰もが認めるところであり、96年に発表されたNBAの偉大な50人から漏れた際には、マイケル・ジョーダンをはじめとした多くの関係者から疑問の声が上がった。また先にも述べたが、ウィルキンスの真骨頂といえるのがパワフルなダンク。片手・両手のどちらでもできたウィンドミルなど、バリーエーションも豊富だった。

94年にはドリーム・チームⅡの一員として金メダルも獲得(世界選手権)。また、「キャリア最後の957試合でファウル・アウトなし」という歴代3位の記録も持っている(1位はモーゼス・マローン、2位はウィルト・チェンバレン)。

 

クインティン・デイリー

 

サンフランシスコ大出身で6フィート3インチのG。キャリアの多くをオフコートの問題で台無しにした選手のひとり。まずひとつはレイプ問題。この件に関しての世間の目は厳しく、82年のドラフト1巡目第7位でブルズがデイリーを指名した際、チームのチケット・オフィスに女性のための国際組織から抗議があったという。そしてもうひとつがドラッグ問題。これによってデイリーは多くの試合を欠場しており、84~85シーズン中にはコカインの使用がきっかけで病院に運ばれたこともあった。健康なときはいい選手でもあったのだが…

SGとしては小さかったが得点力が高く、1年目は控えながら平均15.1点をマーク。オール・ルーキー1stチームに選ばれた。2年目にはシーズンの半分を控えとしてプレイしながら、平均18点を上回る成績を残している。86年オフにはクリッパーズに移籍。2シーズンを控えとして過ごし、88~89シーズンには先発としてもやれることを示した。しかし89年に移籍したソニックスでは、故障やドラッグの問題などで多くの試合を欠場。3シーズンで僅かに71試合しかプレイしなかった。通算得点は7470点。

 

キース・エドモンソン

 

6フィート5インチのSGでパデュー大出身。1巡目第10という高順位で指名されるも期待に応えることはできず、1年目が終わるとスパーズへ移籍。2年目のシーズン途中には更にナゲッツに移籍した。スパーズでは平均8.7点・FG成功率49%と悪くはなかったが、ナゲッツはいいところがなく、短いNBAキャリアを終えた。

 

デビッド・サードキル

 

ドラフト1巡目第15位でサンズ入り。ブラッドリー大出身のSFで、82~87年まで5シーズンをNBAでプレイした。83年オフに2つのドラフト2巡目指名権と交換でピストンズに移籍すると出番は激減。3年目の84~85シーズンはピストンズ、バックス、スパーズと渡り歩いた。85年オフにはセルティックスと契約。この年のセルティックスはリーグ史に残るチャンピオン・チームであり、あまり戦力とはならなかったが、その一員となったのはハイライトであろう。NBAでは1度も1シーズンに50試合以上プレイしたことがない。87年にはイタリアへ飛び、その後はイスラエルなどでプレイ。96年に現役を引退した。

昭和57年ドラフト組②

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大長編ドラえもん、夢幻三剣士まではどれも好きです。

 

 

レスター・コナー

 

6フィート4インチのPG。ロス・メダノス・ジュニア・カレッジ、チャボット・カレッジで計2シーズンを過ごした後、ラルフ・ミラーHC率いるオレゴン州立大に進学。80~81シーズンのチームは強く、優勝はできなかったが、シーズンの大半で全米ランキング1位であった。コナーは94年にオレゴン州立大の殿堂入りを果たしている。

82年のドラフトでは1巡目第14位でウォリアーズに入団。1年目は控えだったが2年目には全82試合で先発出場を果たし、同期入団のスリーピー・フロイド(本来はPG)と先発バックコートを形成した。しかし、3年目、4年目と補強や自身の故障の影響で役割は減少していき、86~87シーズンは全休。87年オフにはロケッツへ移籍した。ここでもパッとしなかったが、88年オフにネッツへ移籍して復活。全82試合に出場しただけでなく、開幕19試合でジョン・バグリーから先発の座を奪い、残る63試合で先発を務めた。

翌89~90シーズンはルーキーのムーキー・ブレイロックと出場機会を分け合い、90~91シーズンはブレイロックの成長を受けてシーズン半ばにバックスへ移籍。92年夏にチームを離れるとキャリアは末期で、シーズン途中で10日間契約を結ぶスタイルとなり、94~95シーズンにレイカーズで2試合だけプレイし、現役を引退した。

引退後はコーチへ。マジック・ジョンソン・オールスターズで5年間ACを務めたほか、95年・96年にはロサンゼルスのサマー・プロ・リーグでもコーチをした。97年にはヒートにスカウトされ、98年1月23日にはセルティックス入り。リック・ピティーノのACとなった。その後、バックスでテリー・ストッツのACとなるが、07~08シーズン終盤にストッツが解任された後にチームを去った。ジム・オブライエンを信頼しているようで、01~04シーズンのセルティックス、04~05シーズンのシクサーズ(ACのトップ)、07年からのペイサーズでスタッフとなっている。

 

ロッド・ヒギンズ

 

カリフォルニア州立大フレズノ校出身、6フィート7インチのF。82年のドラフト2巡目第31位でブルズ入り。1年目は全82試合に出場し、そのうち約半分で先発を務め、平均10.3点をあげるなど順調なスタートを切った。しかし、以降は失速していき、85年オフには遂に解雇。85~86シーズンはソニックス、スパーズ、ネッツと渡り歩き、シーズン終盤には古巣ブルズに10日間契約で復帰するも、再び解雇されてしまう。

転機となったのは86年オフ、ウォリアーズへの移籍だった。シーズン中盤には先発に定着し、翌シーズンはキャリアハイの平均15.5点をマーク。88年にドン・ネルソンがHCとなると、主に6マンとしてプレイ。変則的なラインナップを組むネルソンの下では、相手チームのビッグマンとマッチアップすることもあった。92~93シーズンをキングス、93~94シーズンをキャブスで過ごし、94~95シーズンの序盤に5試合だけプレイしたのを最後に現役生活を終えた。

引退後はまず00年まで、低迷するウォリアーズのACを務め、その後、マイケル・ジョーダンの勧誘をでウィザーズのアシスタントGMとなった。04年5月20日には嘗てのチームメイトであるクリス・マリンと共にウォリアーズのフロント入り。07年5月31日にはボブキャッツのフロントに入り、再びジョーダンと仕事をすることになった。

 

クリフ・レビングストン

 

ウィチタ州立大出身。82年のドラフト1巡目第9位でピストンズに指名された。84年オフ、ダン・ラウンドフィールドと交換でアントワン・カー&2つのドラフト2巡目指名権と交換でホークスへ移籍。力強いディフェンスとリバウンドでチームに貢献し、地味ではあったが、80年代のホークスを支えた。90年オフにはブルズと契約。ホークス時代に比べて出場機会は半減したが、その賢明なプレイスタイルから、フィル・ジャクソンHCの信頼は厚かった。91・92年と優勝を経験するが、ジェリー・クラウスGMとはあまり関係がよくなかったようで、92年に契約が切れるとヨーロッパへ。94~95シーズンにナゲッツでNBAに復帰し、それを最後に現役を終えた。00年以降はコーチ職を転々としつつ、指導者としての素質を磨いている。

6フィート8インチのPF。ムードメーカー的なタイプで、例えばブルズ時代にはウィル・パデューら当時の若手を鼓舞したり、盛り上げたりする姿が見られた。ブルズでは試合前のハドルで「What time is it?」とレビングストンが叫び、チームメイトが「It's game time!」と応えるという儀式をはじめ、それは後々ランディ・ブラウンらに引き継がれた。FTが苦手で「ハウス」と呼ばれることもあったとか(FTを外したときのガン!という音が、煉瓦をぶつけたときの音に似ているということから)。

 

フレッド・ロバーツ

 

7チームを渡り歩いたジャーニーマン。ひょろっとした白人Fでシュートが上手く、通算のFG成功率は50%、FT成功率は80%を超える。ブリガムヤング代の出身で、当時はダニー・エインジ、グレッグ・カイトとチームメイトだった。

ドラフト2巡目第27位でバックスに指名されるが、1年目はイタリアのボローニャでプレイ。この間(82年11月)にロバーツの権利は、フィル・フォード&将来のドラフト2巡目指名権と交換でネッツへトレードされ、83年のオフには更にコーチのスタン・アルベックと交換でスパーズへ放出。NBAデビューは83~84シーズンのスパーズとなった。

2年目のシーズン序盤には2つのドラフト2巡目指名権と交換でジャズへ移籍。86~87シーズンの開幕前にはセルティックスから2年契約を提示されるもジャズが一旦それにマッチ。そして、改めて将来のドラフト指名権と交換でセルティックスに移籍した。87・88年と、敗れはしたがファイナルを経験している。

88年オフ。エクスパンション・ドラフトでヒートに指名され、そのオフのうちに更にバックスへトレード。ここでは移籍2年目から先発に昇格し、なんとそのまま3シーズンに渡ってスターティングFとして起用された。チームが再建モードに切り替わった92~93シーズンは若手に出場機会を奪われ、オフに契約が切れるとスペイン・リーグへ移籍。その後、CBAも経て、94~95シーズン終盤に10日間契約でタイロン・ヒルが故障したキャブスに拾われた。

95年オフにはレイカーズと契約。シーズン半ばにマジック・ジョンソンが電撃復帰し、それによって出番はなくなったが、「ラリー・バードとマジック・ジョンソンの両方とプレイした経験のある選手」となった。翌96~97シーズンはマブスに加入。シーズン中盤にドン・ネルソンがフロントに入ってすぐに解雇されるが、その後もスペインで少しだけ現役を続けた。

 

スコット・ヘイスティングス

 

6フィート10インチの白人ビッグマン。78~82年をアーカンソー大で少し、82年のドラフト2巡目第29位でニックスに入団した。ルーキーシーズンの途中にホークスへ移籍し、87~88シーズンまで控えCとしてプレイ。ただ、目立った活躍はできず、位置付け的には第3のCであった。88年オフ、エクスパンション・ドラフトでヒートに入団。翌年には更にピストンズに移籍し、ここで出番は超限定的だったが、優勝を経験した。91~93年をナゲッツで過ごして現役引退。

長所はシュート・タッチの良さで、FTの成功率は通算で8割を超える。そのためか、当時のビッグマンとしては3Pを打つことも多かった。89~90シーズンのシクサーズ戦で、ビル・レインビアとチャールズ・バークリーが小競り合いになった際、ヘイスティングスがバークリーにパンチを繰り出し、大乱闘になったことがある。65試合連続スティールなしという珍記録も持っている(89~92年にかけて)。

引退後はラジオ番組をやったり、ケーブルTVでナゲッツ戦の解説者を務めたり。

 

ラス・スコーン

 

テネシー大チャタヌーガ校出身で、6フィート10インチのF/C。ドラフト2巡目第45位でシクサーズ入り。しかし、シーズン半ばにはペイサーズに放出され、そこから3シーズンNBAではプレイしなかった。86年オフにはソニックスと契約。3年間バックアップとして在籍した。

サイズの割にシュートが上手く、88~89シーズンには42本の3Pを38%の確率で決めている。

昭和57年ドラフト組③

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80は全話見たことないんですよね。MXでやらんかな。

 

 

トレント・タッカー

 

ミネソタ大出身のSG。82年のドラフト1巡目第6位でニックス入り。指名された瞬間、ファンからはブーイングが出たという。ルーキーシーズンは78試合中59試合で先発を務めたが、2年目以降は90~91シーズンまで控えとして活躍。79年に3Pが導入されたNBAにおいては、最初の3Pシューターのひとりで、本数こそ少ないが4割を超える高確率を誇った。86年にはチーム史上初めてオールスターのシュートアウトにも出場している。

91年オフにスパーズへ移籍するが、ここでは2月下旬まで欠場。ブルズで過ごした92~93シーズンに念願のチャンピオン・リングを獲得し、現役を引退した。通算の3P成功率は40.8%。

90年1月、ブルズ戦の残り0.1秒でタッカーはブザービーターを決めてチームを勝利に導いた。しかしその後、リーグはシュートを打つには最低でも0.3秒が必要だとし、その後は0.3秒以下しか時間が残っていないときは0.3秒まで時間が戻されるのが通例となった。俗に「トレント・タッカー・ルール」と呼ばれる。

 

ラファイエット・レバー

 

82年のドラフト1巡目第11位でアリゾナ州立大からブレイザーズに入団。最初の2シーズンは控えPGに過ぎなかったが、84年オフにナゲッツに移籍すると開花。6シーズンに渡って出場した全試合で先発を務め、ダグ・モーHCのハイスコアリング・ゲームを支えた。

レバーの魅力は得点とアシストだけでなく、6フィート3インチという身長にもかかわらずリバウンドにも強く、トリプルダブルが多かったこと。86~87シーズンから4シーズンは平均9本前後をマークし、チームのリバウンド王であった。スティールも多い。

90年オフ。90年のドラフト1巡目第9位の指名権&91年のドラフト1巡目指名権と交換でマブスへ移籍(ナゲッツはこの9位指名権と元々持っていた15位指名権をヒートに送り、3位指名権を獲得している)。移籍1年目は故障で78試合を欠場。翌シーズンも51試合を休み、92~93シーズンは全休。93~94シーズンを最後に現役を引退した。

通算スティール数でナゲッツの歴代1位、アシスト数で同2位。リーグ史上3人しかいない、プレイオフにおける一試合15点以上・15リバウンド以上・15アシスト以上を記録した選手のひとりでもある(あと2人はウィルト・チェンバレンとジェイソン・キッド)。オールスターにも2度出場し、87年にはオールNBA2ndチーム、88年にはオール・ディフェンシブ2ndチーム入り。愛称は「ファット」。

 

ジェームス・ウォージー

 

6フィート9インチのSF。高校時代から注目を集めていたウォージーはノースカロライナ大に進み、そこでマイケル・ジョーダン、サム・パーキンスらとプレイ。82年にはNCAAチャンピオンになった。優勝を決めた試合でジョーダンが逆転のシュートを決めたのは有名だが、その直後のプレイでウォージーが、相手のフレッド・ブラウンからスティールしたのはあまり知られていない。

82年のドラフト1巡目第1位でレイカーズに入団。控えだったが活躍を見せ、オール・ルーキー1stチームに選出された。FG成功率57.9%はレイカーズの新人記録。2年目の途中から先発に定着し、4年目にはオールスターに出場(キャリアを通して7度出場)。85・87・88年は優勝にも貢献した。88年には第6戦と第7戦の活躍を評価され、ファイナルMVPを受賞している。

ウォージーの魅力はそのスピードと得点力の高さ。特にファストブレイクで見せるマジック・ジョンソンとのホットラインはファンを熱狂させ、中でも片手でボールを高く掲げて全身を伸ばす「リバティ・ダンク」はトレードマークだった。ベースライン際のポストプレイも上手く、スピードを生かしたスピンやターンアラウンド・ジャンパーは止めるのが難しかった。

しかし、91年にマジックが引退するとウォージーのキャリアも冴えなくなっていく。91年のファイナル(マジックの引退前だが)で足の故障で満足にプレイできなかったのを皮切りに、91~92シーズンは膝の故障で28試合を欠場。翌シーズンは全82試合に出たが、持ち味のスピードや跳躍力は失われ、平均得点は15点を割った。93~94シーズンは若手に出場機会を奪われ、94~95シーズンの開幕直前に現役を引退した。

愛称はチック・ハーンが名付けた「ビッグ・ゲーム・ジェームス」。03年に殿堂入りを果たし、背番号42はもちろんレイカーズの永久欠番である。「SFでウォージーのスピードを持ったヤツはいない」とマジックに評されたが、「その活躍はマジックがいたから」と見る人もおり、96円にリーグの偉大な50人に選出された際には「他に相応しい選手がいるのでは?」と疑問の声もあった。因みに意外?なところでは、90年にヒューストンで売春の容疑で逮捕されたことがある。そのときは一年間の執行猶予と40時間の福祉活動が義務付けられた。

 

マイク・サンダース

 

6フィート6インチのスウィングマン。82年のドラフト4巡目第74位でUCLAからキングスに指名された。プロ1年目はスパーズで26試合に出場。平均7.0点はまずまず。

転機となったのが83~84シーズンで、開幕後の12月19日にサンズと契約。移籍2年目に21試合の出場ながら平均10.2点をマークし、翌85~86シーズンには控えとして全82試合に出場した。87~88シーズンのトレード期限にはケビン・ジョンソン、マーク・ウェスト、タイロン・コービンらと交換で、ラリー・ナンスらと共にキャブスへ移籍。88~89シーズンは全82試合で先発を務めた。89年オフには一度ペイサーズへ移籍するが、91~92シーズン開幕直後に解雇され、シーズン終盤にキャブスへ復帰。ここでは21試合中20試合で先発を務め、余力のあることを示した。93年に現役を引退。

引退後はIBA、USBLでHCを務め、ボブキャッツのACにもなった。

 

JJ・アンダーソン

 

本名はミッチェル・キース・アンダーソン。6フィート8インチ・195ポンドと細身のF。ブラッドリー大の出身で、同大で永久欠番となった7人のうちのひとりである(12番)。

82年のドラフト2巡目第36位でシクサーズに入団。しかし出番はなく、開幕後すぐにジャズへ移籍した。ここでは平均8.9点をあげるなど計算できる控えだったが、翌シーズン以降は出場機会が激減し、そのまま84~85シーズン終了後にNBAを離れた。その後はヨーロッパへ渡り、イタリアやスペインなどで計11シーズンをプレイ。93年には優勝を経験した。

引退後はIBLのHCを務めたりした模様。

 

ドワイト・アンダーソン

 

78~80年をケンタッキー大、81~82シーズンをサザン・カリフォルニア大でプレイしたPG。82年のドラフト2巡目第41位でブレッツに指名されるが、NBAでプレイしたのは82~83シーズンのナゲッツで5試合のみ。85年にはフィリピンのクラブ・チームで活躍した。愛称は「ライトニング」。

昭和57年ドラフト組④

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嵐を最後にジャニーズはもういいや、と思っていたけど、舞祭組は好きです。

 

 

ビル・ガーネット

 

6フィート9インチのF。ワイオミング大出身で、82年のドラフト1巡目第4位でマブスに入団した。創設間もないマブスには2シーズン在籍し、先発で起用されることもあったが、成績は今ひとつ。84年にペイサーズに移籍した後も状況は変わらず、僅か4シーズンでNBAを去った。86~89年にかけてイタリアのクラブ・チームを渡り歩き、現役を引退した。

 

ラサール・トンプソン

 

6フィート10インチのF/C。テキサス大出身で「タンク」と呼ばれたトンプソンは、82年のドラフトで同大史上最高順位となる第5位でキングスに入団した(のちにラマーカス・オルドリッジが2位で更新)。ここでは主にCを務め、3年目には得点とリバウンドでダブルダブルのアベレージをマーク。オーティス・ソープが抜けた88~89シーズンは開幕から先発PFとなり、キャリアハイの平均15点を稼いだが、シーズン半ばにトレードでペイサーズへ移籍した。デイル・ディビスが加入した91~92シーズン頃から控えに回る機会が増え、その後アントニオ・ディビスが加入すると年齢的な衰えも重なってか、個人スタッツは急降下。95~96シーズンはシクサーズで過ごした。

96~97シーズンはナゲッツで開幕を迎えるが、トレード期限にマーク・ジャクソンらと交換でペイサーズへ帰還。シーズン終了後に現役を引退した。

息の長いキャリアを送ったが、ドラフト時の期待に応えられたかは微妙。キャリア終盤は若手を支えるベテランとしてチームに貢献する姿が見られ、特にペイサーズにいた94年には陰で大事な役割を担っていた。

 

ジョン・バグリー

 

6フィートのPGで愛称は「バグス」。ボストン・カレッジ出身で、当時は大活躍。平均20点前後をマークしており、2年次・3年次にはチームをNCAAトーナメントまで牽引した。81年には国際大会でもプレイしている。

82年のドラフトでは1巡目第12位でキャブスに指名され、同年9月28日に3年契約を締結。当初は控えだったが、3年目くらいから出場機会が増え、85~86シーズンには不動の先発として平均11.7点・9.4アシストをマークした。翌86~87シーズンもキャリアハイのFT成功率・3P成功率を記録するなど結果を残したが、マーク・プライスの加入が影響したのか、全体的に成績はダウン。シーズン終了後にダリル・ドーキンスらと交換でネッツへ放出された。

移籍1年目はチームで唯一全82試合に出場し、キャリアハイの平均12点をあげた。その活躍が認められて88年9月6日には複数年の契約延長を勝ち取るが、翌88~89シーズンは故障や補強の影響でトーンダウン。先発の座もレスター・コナーに奪われ、結果として89年10月5日にセルティックスへ放出された。このときの見返りは2つのドラフト指名権と金銭であった。

コネチカット州生まれで、ボストン・カレッジ出身のバグリーにとってボストン・ガーデンでプレイするのはハイライト。ただ、2年目の90~91シーズンは全休。右膝の腱炎で故障者リストに登録されたままシーズンをスタートし、91年3月には関節鏡視下手術を受け、1試合も出ることができなかった。91~92シーズンは復帰して、出場した試合のほとんどで先発を務めたが(ブライアン・ショウのトレード後が主だったが)、92~93シーズンの開幕時には所属先がなかった。開幕から2ヶ月近く経った12月末にようやくセルティックスと再契約を結ぶが、10試合しか出られず、シーズン終了後にFAとなったバグリーはCBAへ。93~94シーズン、ホークスで3試合だけ出たところで解雇され(93年12月13日)、事実上引退となった。

95年にはボストン・カレッジの殿堂入り。ミスの少ないPGだが、アウトサイド・シュートの精度に難があった。また、PGとしては幅があるが、その分スピードは欠ける。引退後は高校や大学やセミプロ相手にコーチをしている模様。

 

ロブ・ウィリアムス

 

本名はロバート・アーロン・ウィリアムス。ヒューストン大出身のPGで、82年のドラフト1巡目第19位でナゲッツ入りした。最初のトレーニング・キャンプのとき、体系が出来上がっておらず、ダグ・モーHCに「小太りの豚」と名付けられたという。

ウィリアムスのハイライトはプロ入り前。ヒューストンにある高校でスターだったウィリアムスはヒューストン大でも大活躍。82年にファイナル4に進んだときの主力であった。当時の同大は「ファイ・スラマ・ジャマ」と呼ばれ、他にアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、マイケル・ヤング、ベニー・アンダース、ラリー・ミショウらがいた。

NBAではプロ2年目に79試合中66試合で先発を務め、平均10.2点・5.9アシストをあげたが、このシーズンがNBAでの見納め。84年以降はCBA、イタリア、オーストラリア、フィリピンなどを転々としてキャリアを続けた。86年にはフィリピンで、在籍したレインフォースド・カンファレンスのタンドゥアイ-ラムをチーム史上初の優勝に導いている。元々このカンファレンスには外国人選手をプレイさせることに制約があったようなのだが、ウィリアムスのお陰で6フィート3インチ以下の2人の外国人にプレイする許可がうまれたとか(ウィリアムスは6フィート2インチ)。シーズンが終わると、オープン・カンファレンスは2人の外国人(1人は6フィート6インチ以下、もうひとりは6フィート3インチ以下)にプレイすることを許可。ウィリアムスは再びタンドゥアイ-ラムに雇われ、カレッジ時代のチームメイトであるアンダースとペアを組んだ。しかし、アンダースは体系が維持できておらずに僅か1試合で解雇され、アンディ・トンプソンが招聘された(マイカル・トンプソンの兄)。この年はヒネブラ・サン-ミゲル(ビリー・レイ・ベイツ、マイケル・ハッケットらが在籍)とマニラ・ビア(マイケル・ヤングとハロルド・キーリングらが在籍)に次ぐ3位となっている。

05年5月のヒューストン・クロニクルが、「ウィリアムスが現役時代にドラッグを使用していたと認めた」と記載。98年1月には不整脈を患うが、現在はその後遺症と闘いながら、奥さんと養護施設を営んでいるという。

 

ブライアン・ウォーリック

 

6フィート5インチ・218ポンドのGでセントジョセフ大出身。82年のドラフト2巡目第25位でブレッツに入団。リッキー・ソバースの欠場などもあってか、43試合中20試合で先発として起用された。2シーズン在籍したのち、84~85シーズンはクリッパーズでプレイ。そして85~86シーズンをバックスとペイサーズで過ごしてNBAでのキャリアを終えた。

 

マーク・イートン

 

7フィート4インチという巨体を活かしたディフェンスが持ち味のサウスポーC。もともとは自動車のメカニックだったが、偶然の流れからジュニア・カレッジに進み、80年にはUCLAに編入した。しかし、2年在籍したものの出番は非常に少なく、特に2年目はシーズンを通して42分しか起用されなかったという。このためドラフト時に関心を示すチームはほとんどなかったが、ジャズは潜在的なディフェンダーとしての素質を買い、82年のドラフト4巡目第72位でイートンを指名した(のちに当時のHC、フランク・レイデンは「身長はコーチできない」とこの指名を説明している)。

そんなイートンはデビュー後すぐに活躍を見せ、ダニー・シェイズから先発の座を奪取。一試合平均のブロック・ショットでルーキーながらリーグ3位に入った。2年目には早くもブロック王に輝き、3年目には、73~74シーズンのエルモア・スミスを抜いてリーグ記録となるシーズン通算456ブロックを記録(平均5.56ブロック)。この年はリバウンドでもキャリアハイの平均11.3リバウンドをマークし、オール・ディフェンシブ・1stチームに選出。ディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞した。

オフェンスでできることは限られていたが、チームはブロックとリバウンドを信頼しており、特にティップ・ダンクは当時のジャズの武器であった。87年と88年にもブロック王になり、89年には2度目のディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞。その89年にはオールスターにも出場した。

キャリア最後の数シーズンは膝と背中の故障から動きがスローになり(もとから足は遅かったが)、得意のブロックやリバウンドは少しずつ衰えを見せたが、それでも引退するまでジャズ一筋で現役生活を全うした。イートンの存在を活かしたファストブレイクとプレス・ディフェンスを組み合わせたスタイルが、一時期ではあったが、ジャズの持ち味であった。通算ブロック数は、引退時にはカリーム・アブドゥル-ジャバーに次ぐ歴代2位で(のちにアキーム・オラジュワンが首位になる)、平均3.5ブロックは歴代1位である。背番号53はジャズの永久欠番だ。


昭和52年ドラフト組①

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ルパンの「ちゃんと言わなきゃ愛さない」、好きなんですよね。

 

 

ジャック・シクマ

 

77年のドラフト1巡目第8位でソニックス入りしたC。オール・ルーキー・チームに選出され、79~85年まで7度オールスターにも出場し、79年にソニックスが優勝したときには主軸として活躍した。当時のチームメイトにはデニス・ジョンソン、ガス・ウィリアムス、ポール・サイラスらがいた。キャリアを通して得点アベレージは常に二桁で、それはキャリア終盤、バックスに移籍してからも変わらなかった。

リーグ史上最もシュートの上手いCのひとりで、87~88シーズンには92.2%の高確率でFTを決め、リーグ首位に立った。3P成功率も通算で33%をマークしており、当時のCとしては上出来。もちろんインサイドでも強く、82年と84年にはディフェンス・リバウンドでリーグ首位となった。07年にはロケッツのACに就任。

 

グレッグ・バラード

 

ドラフト1巡目第4位でオレゴン大からブレッツ入り。ルーキーの年にいきなりNBAチャンピオンとなった。8シーズン在籍したのち、85年6月にウォリアーズへトレードされた。イタリア、CBAを挟んでソニックスでもプレイ(88~89シーズン)。89~90シーズンはACを務めるために再びイタリアへ戻った。因みにこのときのチームにはブライアン・ショウとダニー・フェリーがいた。

NBAでの通算は802試合で平均12.4点。NBAに戻ってからは、まず弱小マブスでクイン・バックナーのACに就任。94年9月にはウルブズのコーチング・スタッフとなり、ランディ・ウィットマンを支えた。

野球の才能もあったようで、73年にモントリオール・エクスポズから指名されたこともある。ポジションはピッチャーだった。

 

トム・ラガード

 

ノースカロライナ大出身。77年のドラフト1巡目第9位でナゲッツに入団。6フィート10インチのF/Cで、78~80シーズンはソニックスで過ごした。80年にはエクスパンション・ドラフトでマブスに移籍。創設1年目のチームで唯一全82試合に出場した。このシーズンはリバウンドとブロックでチームをリードし、得点でもジム・スパナーケルに次ぐチーム2位であった。しかし、翌シーズンは一気に出場機会が減少し、その後イタリアへ。84~85シーズンにネッツと契約を結び、NBA復帰を果たすが、故障のために僅か1試合しかプレイできず、そのまま現役生活を終えた。

 

レイ・ウィリアムス

 

6フィート3インチ・188ポンドのG。ジュニア・カレッジを経てミネソタ大でプレイし、77年のドラフト1巡目第10位でニックスに入団。1年目はアール・モンローやブッチ・ベアードらベテランの影にいたが、2年目にはベテランの衰えもあってか役割が激増。平均17.3点をあげてチームの得点王となった(但し、シーズン途中に移籍したボブ・マッカドゥー、スペンサー・ヘイウッドを含めるとチーム3位)。この頃のニックスは強くはなかったが、78年にマイケル・レイ・リチャードソン、79年にビル・カートライトをドラフトで指名するなど有望な若手を獲得。80~81シーズンには8年ぶりに50勝をあげ、ウィリアムスはそのチームの得点源として活躍した。81~82シーズンはネッツでチーム1位の得点とアシストを記録し、キングスに移籍した82~83シーズンには平均15.4点を稼いだだけでなく、キャリアハイの平均7.9アシストもあげている。TO総数でリーグ首位に立つという不名誉な記録も残したが。83~84シーズンは古巣ニックスで活躍し、84~85シーズンは強豪セルティックスへ。59試合を休んだが、自身初のファイナルを経験した。因みにこのときはレイカーズに負けている。

85~86シーズンはホークスでシーズンをスタート。主に先発として起用されるが、シーズン途中にはスパーズへ放出され、終盤には更にネッツへ移籍した。翌86~87シーズンを最後に現役を引退した。

得点力があるだけでなく、サイズの割にリバウンドにも強かった。スティールも多い。NBAでの通算は平均15.5点・5.8アシスト。ブレッツなどでプレイしたガス・ウィリアムスの弟。

 

トゥリー・ロリンズ

 

本名はウェイン・ロリンズ。7フィート1インチのCで、オフェンスはあまり期待できない反面、ブロックで知られた選手である。クレムソン大出身で、77年のドラフトでは1巡目第14位でホークスに指名された。以降、87~88シーズンまで11シーズンに渡って、平均20分程度のプレイングタイムではあったが、インサイドを支えた。最初の9シーズンはブロックで必ずリーグのトップ10に入っており、特に82~83シーズンには平均4.3ブロックでブロック王になった。

ホークスを離れた後は移籍を繰り返し、88~90シーズンをキャブス、90~91シーズンのピストンズ、91~93シーズンをロケッツ、93~95シーズンをマジックで過ごした。キャリア終盤はほとんど戦力になっていなかったが、最後のシーズンはシャックのバックアップを務める傍ら、ACも兼任した。オール・ディフェンシブ・チームには、1stに1回、2ndに1回選ばれたことがある。引退時、通算ブロック数は歴代4位だった。

引退後はマジックやウィザーズのAC、NBDLでコーチを務め、07年2月にはリッチー・アドゥバトの後を継いでWNBAのワシントン・ミスティックスのHCに就任。そのシーズン、チームは過去最高となる18勝16敗という成績を収めた。

 

ブラッド・ディビス

 

メリーランド大卒業後、77年のドラフト1巡目第15位でレイカーズから指名を受けた。その後CBAを含め、移籍を繰り返し、80年にエクスパンション・チームのマブスと契約。以降、引退するまでマブスでプレイした。キャリアの平均得点は2桁に届かず、主にベンチ・スタートではあったが、ハッスルプレイとチームに対する愛情でファンの支持を受けた。92年に引退すると背番号15は永久欠番となった。引退後もマブスに携わっていた模様。

 

エディ・ジョーダン

 

ラトガース大出身で同大のアシストとスティールの記録を保持。77年のドラフトでは2巡目第33位でキャブスに入団し、ルーキー・シーズンの中盤にはトレードでネッツに移籍した。学生時代から定評のあるスティールはプロでも通用し、79・80年には総スティール数でリーグ首位に立っている。80年にはレイカーズに移籍して、4シーズン在籍。82年には優勝を経験した。83~84シーズンをブレイザーズでプレイして引退。現役生活は7シーズンであった。

引退後はまず母校ラトガース大のACにボランティアで就任。当時HCだったトム・ヤングは、のちにジョーダンがウィザーズのHCになったときにACとなる。その後、オールド・ドミニオン大、ボストン・カレッジ(HCはジム・オブライエン)、ラトガース大のACを経て、92年にキングスのコーチング・スタッフ入り。96~97シーズン終盤にはゲーリー・セントジーンの後を継いでHCとなった。

翌97~98シーズンはフルシーズンで指揮を執るが成績はふるわず、オフに解雇。98~99シーズンの途中に今度はネッツのACとなった。ネッツではスタッフの中心として活動し、ネッツがファイナルに進んだ際にはバイロン・スコットを、特にオフェンス面でサポートした。

そしてその働きを評価され、03年にウィザーズのHCに就任。1年目は25勝に終わるが、翌年は20勝上乗せし、78~79シーズン以来の好成績に導いた。このときは96~97シーズン以来のプレイオフ進出、82年以来の1stラウンド突破も果たしている。07年には、ウィザーズのHCとしては79年のディック・モッタ以来となるオールスターでのHCも経験した。のちにシクサーズのHCも務めるが、このときは失敗している。

 

マーク・ランズバーガー

 

6フィート8インチのF/C。77年のドラフト2巡目第35位でブルズに入団。79年1月28日のナゲッツ戦では、当時チーム史上3番目の記録となる29リバウンドを稼いだ。80年2月にはオリバー・マック、2つのドラフト2巡目指名権と交換でレイカーズへ放出された。ここでは83年までプレイし、控えではあったが80年と82年に優勝を経験している。83~84シーズンをホークスで過ごしたのち、90年までヨーロッパでプレイし、現役を引退した。

余談だが、レイカーズに在籍していた頃、フェニックスでチーム・ジャージのままでライターたちと食事をしていたとき、チョコレート・シェイクをこぼしてしまい、しかし遠征中だったために替えがなく、それを着て試合に出場していたことがある。

昭和52年ドラフト組②

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プレイオフもいよいよカンファレンス・ファイナル。正直どこが勝ってもいいけど、一応ウォリアーズとキャブスを応援することにしました。

 

 

ジェフ・ウィルキンス

 

6フィート11インチ・230ポンドのC/Fで、イリノイ大出身。77年のドラフトでは2巡目第37位でスパーズから指名された。その7月には一旦契約を結ぶが、開幕前には解雇。NBAデビューは80~81シーズンまで待たなければならなかった。

80年オフにジャズと契約。2年目には全82試合に出場して、そのうち62試合で先発を務めるなど成長。翌82~83シーズンにはキャリアハイの平均11.5点・7.4リバウンドをマークした。しかし、同シーズンに加入したマーク・イートンが徐々に出場機会を増やし、先発の機会は減少。83~84シーズンからは完全に控えに回った。85~86シーズンの半ばにトレードでスパーズに移籍して、シーズン終了後に現役を引退。85年のプレイオフでは平均12.9点を稼いでいる。

 

TR・ダン

 

「TR」は「セオドア・ルーズベルト」の略。6フィート4インチのG/Fで、アラバマ大時代はスターだった。そして77年のドラフトでは2巡目第41位でブレイザーズに指名される。ここではあまりパッとしなかったが、ナゲッツに移籍した80~81シーズンからキャリアが開花。ラン&ガン主体のオフェンスでリーグ史に残るオフェンシブなチームだったナゲッツで、主にスターティングGとして活躍した。

得点力は低く、キャリアを通じて一度も二桁の得点アベレージをマークしなかったが、ディフェンスと(Gとしては希有な)リバウンドの強さで先発の座を掴んだ。バックコート・コンビを組んだファット・レバーとともに、リーグ史上最もリバウンドに強かったコンビかもしれない(地味ながら)。しかし、チームの方はプレイオフで結果を出せず、87~88シーズンに先発の座をマイケル・アダムスに奪われると、翌シーズンはサンズへ。ここではローテーションにも入れず、1年で古巣ナゲッツへ帰還した。

90~91シーズン終了後に引退。82~85年までオール・ディフェンシブ2ndチームに選出されている。引退後は91~97年まで主にアラン・ブリストウのコーチング・スタッフとして働き、WNBAのシャーロット・スティングのHC、アラバマ大のAC、キングスのACなどコーチとして研鑽を積んでいるようだ。

 

ジェームス・エドワーズ

 

「ブッダ」の愛称で知られたC。ワシントン大出身の7フッターで、77年のドラフト3巡目第2位でレイカーズに入団した。ルーキー・シーズンは途中でペイサーズへ放出されるが、平均で二桁得点を記録するなどまずまず。数シーズンを過ごし、81年オフにキャブスへ移籍した。82~83シーズン途中にはサンズへトレード。ここでも安定したプレイ振りを見せるが、86~87シーズンは故障で14試合しか出られず、翌87~88シーズン中にはピストンズへトレードされてしまう。

ピストンズでは移籍直後こそ出番が限られていたが、88~89シーズンになるとビル・レインビア、リック・マホーンらのバックアップとして台頭。チームの優勝に貢献し、マホーンが移籍した翌シーズンにはスターティングFとして連覇に貢献した。こうしてバッドボーイズの主力として名を馳せたが、その解体と共にエドワーズも移籍。91~92シーズンはクリッパーズでプレイし、92年オフには古巣レイカーズへ。しかし、このときは年齢的な衰えもあってか出場機会は激減してしまった。94~95シーズンをブレイザーズ、95~96シーズンをブルズでプレイして、40歳で現役を引退。最後のシーズンに自身3つめとなるチャンピオン・リングを獲得した。エドワーズをドラフトしたのは、当時レイカーズのフロントにいたジェリー・クラウスで、キャリア最後のブルズ入りはクラウスとの繋がりが理由だとか。

どこのチームでも計算できるローポストのスコアラーで、ターン・アラウンド・ジャンパーが得意だった。所謂ジャーニーマンだが、在籍した8チーム中7チームでプレイオフに進んでおり、これはNBA記録である。

 

トム・シェフラー

 

パデュー大出身。77年のドラフト6巡目第7位でペイサーズに指名されるが、契約には至らず、NBAでプレイしたのは84~85シーズンの39試合のみであった(ブレイザーズにて)。キャリアの大半はヨーロッパで過ごしており、イタリア、スペイン、ギリシャなどでプレイしたが、ハイライトはフランス時代。86・87年とチームの優勝に貢献している。

弟のスティーブ・シェフラーもNBA選手で、90年代にソニックスなどでプレイしたが、やはり?12番目の選手であった。引退後はスイスの英会話スクールで働いていたとか。

 

ウォルター・ディビス

 

6フィート6インチのスウィングマン。ノースカロライナ大出身で、76年のオリンピックでは恩師ディーン・スミスの指揮するアメリカ代表チームの一員として、金メダルを獲得した。

77年のドラフトでは1巡目第5位でサンズに入団。一年目から高い得点力を見せ、新人王とオールNBA2ndチームに選出された。これ以降、最初の10シーズンで6度20点以上のアベレージをマークし、オールスターにも6回出場。スピーディ且つしなやかで、力強さをも感じさせるプレイスタイルから「グレイハウンド(猟犬の一種)」と呼ばれ、またサンズ専属のアナウンサーは「スウィートD」「キャンディマン」とも呼んでいた。サンズ史上最多記録を持つスコアラーであり、フランチャイズ史上最高のシューターとも言えるかもしれない。

ただ、キャリアの終盤は背中の故障とドラッグの問題がついて回った。特に80年代中頃のサンズのドラッグ・スキャンダルにおいては、それ以前にコカインの服用から2度リハビリのためにクリニックに入っていたことで起訴免除という形になり、チームの他の選手のドラッグ使用を証言するために呼ばれたという。

88年に契約が切れると、33歳になっていたディビスはナゲッツと2年契約。90~91シーズン中には△トレードでブレイザーズに移籍し、91年オフに再びナゲッツと契約を結び、現役生活に幕を閉じた。のちにニックスなどでプレイするヒューバート・ディビスは甥にあたり、大学も同じノースカロライナ大であった。

 

バーナード・キング

 

テネシー大出身で77年のドラフト1巡目第10位でネッツ入り。6フィート7インチのSFで、長い腕とクイック・リリースのシュートが特徴的であった。スピードがあったため、速攻でのフィニッシュも上手く、85年には平均30点オーバーで得点王に輝くなど、素晴らしいスコアラーであった。オールNBA1stチームに2度、オールスターには3度選出されている。

ルーキー・シーズンにいきなりシーズン総得点でチーム記録を更新し、83~84シーズンには64年以来となる2試合連続50点以上を記録。84~85シーズンには史上10人目となる1試合60点もあげた。しかし、この絶頂期(85年3月)に膝を故障し、キャリアは下降していく。85~86シーズンを全休するとかつての爆発力は失われ、86~87シーズンに復帰すると数字自体はまずまずであったが、故障前の姿ではなかった。

しかし、87年オフにブレッツに放出されると、年々成績をあげていき、91年には数年ぶりにオールスターに出場。キャリア終盤に見事なカムバックを果たした。91~92シーズンを全休し、92~93シーズンを古巣ネッツでプレイし、現役を引退。

96~97シーズンにリーグ史に残る偉大な50人が発表され、そこにはノミネートされなかったが、60人を選出するのであれば選ばれたと言われる。04年には殿堂入りの候補にも挙がるが、実現はならなかった。故障のために出場試合数が少ない、優勝に縁のないキャリアだったことなどが足枷となったのかもしれない(2013年に殿堂入り)。弟はアルバート・キング。

 

セドリック・マクスウェル

 

「マックス」「コーンブレッド」の愛称で親しまれたF/C。ノースカロライナ大のスターで、77年のドラフトでは1巡目第12位でセルティックスに指名された。2年目の78~79シーズン、ラリー・バードが1年後に加入するのを待ったチームは29勝53敗と低迷するが、そんな中マクスウェルのプレイ振りは今後に期待を抱かせるモノであった。

得点力が高く、個性的な選手でもあり、81年にチームが優勝した際にはバード、マクヘイル、パリッシュといったチームメイトがいながらファイナルMVPを受賞。また84年のレイカーズとのファイナルでは、第7戦の前に「俺の背中に乗れよ、お前ら」とコメントし、実際に24点をあげる活躍。これに加えて、オーバータイムでは、FTを得たジェームス・ウォージーに対して首を絞めるジェスチャーでプレッシャーをかけた。

85年にドラフト指名権と共にビル・ウォルトンとのトレードでクリッパーズへ移籍。1シーズン半を過ごし、86~87シーズン途中には更にロケッツへ移籍した。88年に現役を引退。背番号31はセルティックス史上22番目の永久欠番である。

因みに「コーンブレッド」という愛称は、大学時代のチームメイト、メルビン・ワトキンスが映画「コーンブレッド、アール&ミー」の内容に因んで付けたとか。

 

チャーリー・クリス

 

ニューメキシコ州立大出身で、5フィート8インチのG。NBAのドラフトにはかからず、76年にCBAでプロキャリアをスタート。スクラントン・アポロズでプレイしたクリスはMVPを受賞し、77年オフにホークスと契約を結んだ。

ルーキー・シーズンはいきなり平均2桁得点を稼ぐなど活躍。81年までバックアップとして貢献し、81~82シーズン途中にはクリッパーズへ移籍した。ここでもまずまずだったが、82年オフに契約を結んだバックスでは、途中で解雇され(83~84シーズン途中)、古巣ホークスに帰還。84~85シーズンに4試合だけ出て、NBAでのキャリアを終えた。

現役時代はリーグで最も背の低い選手。ドラフト外の選手としては悪くなかった。引退後はゴルフのインストラクター、バスケットのマイナー・リーグのコーチなどを務めている。

昭和45年ドラフト組①

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万博といえば「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」ですよね。数少ない、泣いた映画です。笑

 

 

ガー・ハード

 

ルイジアナ州の高校、オクラホマ大を経て70年のドラフト3巡目第40位でソニックス入り。6フィート6インチ・219ポンドで鼻っ柱の強いFで、大学時代は通算アベレージは平均15.6点・11.2リバウンドである。

最初の2シーズンをレニー・ウィルケンス率いるソニックス、続く1シーズンをディック・モッタ率いるブルズで過ごし、更にブレーブスへ移籍。ブレーブスでは移籍1年目にはキャリアハイの平均15.3点・11.7リバウンド・2.2ブロックをマークした。75~76シーズンの半ばにはサンズへ移籍。このシーズンはスケジュール上、歴代3位となる86試合に出場している。このシーズンのサンズはファイナルに進んでおり、ゲーム5でトリプル・オーバータイムに持ち込む18フィートのブザービーターを決めたシーンは有名である。ハードはこれによって「ザ・ショット・ハード・アラウンド・ハード」という愛称を得た。

サンズで4シーズンちょいプレイし、80~81シーズンをクリッパーズで過ごして引退。その後は82~83シーズンにアリゾナ州立大のACを務めたのを皮切りにコーチ業をスタート。87年にジョン・マックロードのACとなり、89~90シーズンの途中からはマブスでリッチー・アドゥバトのスタッフ入り。92~93シーズン半ばにはアドゥバトの解任を受け、暫定HCを務めた(9勝44敗)。93~94シーズンにはラリー・ブラウンのACとしてペイサーズへ。4シーズンを過ごし、ブラウンが97年にシクサーズのHCに就いたときには、ハードも同行した。98~99シーズンに、(ブラウンの愛弟子のひとりでもある)アルビン・ジェントリーがピストンズのHCとなったのを受け、ハードはそのACに就任。

99年オフにはウィザーズの新HCに就任。しかし、成績はふるわず、シーズン途中にフロント入りしたばかりのマイケル・ジョーダンによって解任され(ジョーダン初仕事)、00年オフにはホークスの新HC、ロン・クルーガーのACとなった。

 

ジェフ・ピートリー

 

シューター。6フィート4インチのスウィングマンで、まだ3ポイント・ラインのない時代に、それくらい遠くからでもシュートを決めることが出来た。70年のドラフト1巡目第8位でブレイザーズ入り。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し(デイブ・コーウェンスとダブル受賞)、オールスターにもキャリアを通じて2度選出された。05年にデイモン・ストウダマイヤーに更新されるまで、ブレイザーズの1試合最多得点の記録も保持していた(51点)。背番号45は永久欠番でもある。

引退後はキングスのフロントにいたのが有名で、優勝は出来なかったが、強さと楽しさを兼備した魅力的なチームを作った。エグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを2度受賞している。

 

ジム・マクミラン

 

コロンビア大出身。6フィート5インチのFで、マクミラン在籍時の同大は3シーズンで63勝14敗という成績であった。「ジミー・マック」の愛称で知られ、通算1758点・平均22.点はともに同大史上2位の記録である。

70年のドラフトでは1巡目第13位でレイカーズ入り。同年、(当時)ABAのネッツからも指名されたが、レイカーズを選んだ。2年目には、69勝13敗という歴史的な好成績を残したチームで活躍。このシーズンは序盤にエルジン・ベイラーが、故障を理由に引退しており、その後を継いで先発に入ったのがマクミランであった。69勝13敗という成績は、96年にブルズが更新するまでリーグの最多勝記録で、シーズン中に達成した33連勝というのは今でもリーグ記録である。このときは、マクミラン自身もプレイオフで平均19.1点をあげるなど充実していた。

ブレーブス、ニックス、ブレイザーズでもプレイし、80~81年をイタリアで過ごして現役を引退した。

 

ネイト・アーチボルド

 

ニックネームは「タイニー」。6フィート1インチのPGで、見事なペネトレイターであり、パサーであり、レンジの広い優秀なシューターでもあった。当時としても小柄だったが、そのクイックネスと技術は並外れており、守りにくい選手だったという。

テキサス大エルパソ校の出身で、70年のドラフトでは2巡目第19位でキングスに入団(当時はまだシンシナティ・ロイヤルズ)。73年には史上唯一となる、1シーズンで得点王とアシスト王の両方に輝いた(68年にオスカー・ロバートソンも達成しているが、その頃はアベレージではなく、シーズンの通算でリーグ・リーダーが決まっていた)。80~81シーズンには、まだ2年目だったラリー・バードとともに優勝を経験。オールスターには7度選出され、81年にはMVPも受賞した。オールNBAチームの常連でもあり、91年に殿堂入り。96年にはNBAの偉大な50人にも選ばれた。

 

ハウウィー・ライト

 

オースティン・ペイ州立大出身のPG。70~71シーズンにABAのケンタッキー・カーネルズでデビューし、52試合(試合総数は84試合)で平均4.6点をあげた。因みに同期入団に、ダン・イッセルがいる。71~72シーズンは僅か1試合しかプレイせず、NBAのチームでもプレイ経験はない(70年のドラフト2巡目第34位でニックスに指名されているが)。

昭和45年ドラフト組②

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この間テレビで聴いたばかりなのでなんとなく。

 

 

ボブ・レニアー

 

セント・ボナベンチャー大の生んだスターC。カレッジ時代には3度オール・アメリカンに選ばれ、70年には同大をNCAAのファイナル4まで導いた。レニアーは故障のために最後までプレイできず、アーティス・ギルモア率いるジャクソンビル大に敗れるが、その躍進は衝撃的であった。

70年のドラフトでは1巡目第1位でピストンズ入り。新人王は獲れなかったが、オール・ルーキー・チームには選出され、2年目以降は79~80シーズンの半ばにバックスに放出されるまで(ケント・ベンソン&80年のドラフト1巡目指名権と交換)、毎シーズン平均20点以上・10リバウンド以上をクリア。74年にはMVPにも選ばれている。

バックス移籍後は少しずつ衰えが見られるようになったが、それでも攻守における重要人物であり、レニアーが在籍した5シーズンすべてでバックスはディビジョン首位に立った。キャリア最後の83~84シーズンにはチーム内で、オスカー・ロバートソン・リーダーシップ・アワードを受賞している。オールスターには8度選ばれ、殿堂入りも達成。背番号16はピストンズとバックスの両方で欠番となっている。

引退後は、94~95シーズンにバックス時代の恩師、ドン・ネルソンのACに就任。シーズン途中にネルソンが解任されると、37試合だけHCを経験した。12勝25敗と結果は残せなかったが。足のサイズが大きいことで有名で、スプリングフィールドにあるバスケットの殿堂では訪れた人が足のサイズを比べられるようになっている。タイニー・アーチボルド、ディブ・コーウェンスと同じく、サウスポー。

 

ディブ・コーウェンス

 

6フィート8インチと小柄なC。フロリダ州立大出身で、総リバウンド数は同大史上1位。68~69シーズンのLSU戦では史上2位となる31リバウンドをマークしている。

Cとしてはかなり小さいが、70年のドラフト1巡目第4位でセルティックス入り。この指名にはビル・ラッセルの推薦があったと言われる。ルーキー・イヤーはファウル数でリーグ首位になってしまうが、攻守における活躍も確かなモノで、ジェフ・ピートリーと新人王を分け合った。73年にはチームを68勝14敗という好成績に導き、オールスターMVPとシーズンMVPを受賞。キャリアを通して7度オールスターに選ばれており、オールNBAチームとオール・ディフェンシブ・チームにも選出されている。

74年と76年には優勝を経験。非常に積極的且つ情熱的な選手で、コートの端から端まで全力で動き回るスタイルは引退するまで変わることがなかった。オールラウンドなCであり、77~78シーズンは得点・リバウンド・アシスト・ブロック・スティールでチーム首位となった(他にはスコッティ・ピッペンのみ)。

自由奔放な行動でも有名で、74年に優勝した後、ファンや近所の人たちと優勝を祝おうとボストンのダウンタウンを彷徨い歩き、公演のベンチで寝てしまったり、77年頃には「オーバーヒートしてしまった」という理由で突然プレイを辞めてタクシーの運転手をしたこともある。

78~79シーズン、セルティックスにいたコーウェンスは選手権監督してコーチ業をスタート。しかし翌シーズンには選手に専念し、シーズン終了後に現役を引退した。その後、説得されて82~83シーズンにバックスで現役復帰するも、すぐに2度目の引退をしている。

引退後はCBAのHC、NBAのACを経て、96年にホーネッツ(現ペリカンズ)のHCに就任。アロンゾ・モーニング、ラリー・ジョンソンらが相次いで抜け、期待されていなかったチームを逆にチーム史上最高勝率(当時)に導いた。ウォリアーズでもHCの経験があるが、このときは結果を残せなかった。WNBAのシカゴ・スカイ、初代HCでもある。背番号18はセルティックスの永久欠番で、90年には殿堂入りも果たしている。

 

チャーリー・スコット

 

6フィート5インチのスウィングマン。ノースカロライナ大出身で、同大で初めて、黒人で奨学金を得た選手である。卒業後の70年、ドラフト7巡目第106位でセルティックスから指名されるも入団せず、ABAのスクワイアーズを選んだ。

1年目は得点力の高さを発揮して新人王を受賞。翌71~72シーズンにマークした平均34.6点はABA史上最高の数字であった。そして、そのシーズン終了後にサンズに加入し、6試合だけプレイ。以降のキャリアはNBAで過ごした。

サンズには75年まで在籍。ここではスコアラーとして活躍し、オールスターにも毎年出場。75年オフにはかつて指名を受けたセルティックスに移籍し、移籍1年目にいきなり優勝を経験した。しかし、77~78シーズン中にレイカーズにトレードされ、78年にはNBAに参入して間もないナゲッツへ再度移籍。2シーズン過ごし。80年に現役を引退した。

得点力があるが、リバウンドやアシストなどもまずまず。TOが多いのが難点か。68年にはオリンピックで金メダルを獲得している。

 

ダン・イッセル

 

ケンタッキー大出身でアドルフ・ラップのもとで66~70年をプレイした。70年のドラフト8巡目第122位でピストンズから指名されるが、入団はせず、ABAのケンタッキー・カーネルズと契約。ルーキー・イヤーから活躍を見せ、平均29点・13リバウンドをあげて新人王を受賞した。オールABA2ndチームにも選ばれている。2年目には平均30点の大台に乗せてオールスターにも出場し、オールABA1stチーム入り。75年にはシューターのダンピアー、CのギルモアとともにカーネルズをABAチャンピオンに導いた。

しかし、そのオフには金銭と交換でボルチモア・クロウズに売られてしまい、その翌シーズンは更にナゲッツへ移籍する。ABAはここで消滅し、ナゲッツはNBAへ参入。イッセルはそのままナゲッツに在籍した。

イッセルはNBAでも活躍を続け、77年にはいきなりオールスターに出場。84~85シーズンまで現役を続け、通算2万7000点は引退時、カリーム・アブドゥル-ジャバー、ウィルト・チェンバレン、ジュリアス・アービングに次ぐ偉大な記録であった。85年にはJウォーター・ケネディ・シップ賞も受賞している。

引退後は92年からナゲッツのHCに就任。2年目にはプレイオフに進み、第8シードながら第1シードのソニックスを破るという歴史的アップセットを演じた。翌94~95シーズン半ばに職を退くが、98年にGMとしてナゲッツに復帰。99年には再びHCとなった。しかし、このときは選手に練習をボイコットされるなどうまくいかず、01年12月に解任。この人事に関しては、イッセルがタチの悪いファンに「メキシカン野郎はビールでも飲んでろ!」と怒鳴ったことに対してヒスパニック系の団体から抗議があったことも関係している。当初は数試合の出場停止だったが、それが解任となり、以降NBAでコーチは務めていない。

 

ハーブ・ホワイト

 

6フィート2インチ・195ポンドのスウィングマン。高校時代はジョージア州のナンバー1高校生に選ばれ、ジョージア大へ進学。69~70シーズンにはMVPを受賞した。

しかし、NBAからの評価は高くなく、70年のドラフト8巡目第144位で地元ホークスへ入団。ピート・マラビッチと同期入団であった。シーズンが始まると出番は限定的で、シーズン終盤には陸軍に招集されて1年目終了。その後は故障もあり、翌72年にプロキャリアは終わってしまった。

跳躍力のすごさで知られ、ウィルト・チェンバレンによって「試合前のウォーミングアップ中に見た中で最も偉大なダンカー」とされていた。試合前のダンクではMSGの観衆からスタンディング・オベーションを受けたこともあるそうで、のちに「最も過小評価されているダンカー」として、スポーツ・イラストレイティッド誌に選ばれている。

昭和47年ドラフト組①

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ウェストはウォリアーズが勝ち上がるだろうと思っていたので、ゲーム7まで縺れたのが意外でした。

イーストはキャブスが勝ち上がるとは思っていなかったのでびっくりしております。

 

 

ボブ・マッカドゥー

 

ノースカロライナ大出身のC/F。72年のドラフト1巡目第2位でブレーブスに入団し、新人王を獲得。2年目には平均30点・15リバウンドを記録した最後の選手となる活躍を見せ、FG成功率でもリーグ首位となった。オールスターにも出場し、翌74~75シーズンにはシーズンMVPに輝いた。因みにこの年はオールスターのファン投票でリーグ首位となっている。

こうして華やかなスタートを切ったが、その後はニックス、セルティックス、ピストンズ、ネッツで故障のつきまとうシーズンを経験。成績こそそれなりだったが、この当時には多くのアナリストやファンから「終わりに近づいている」と見られていた。この低評価を覆す契機となったのが、キャリア終盤のレイカーズ移籍。82~85年を6マンとしてプレイし、2度の優勝を経験した。

85~86シーズンをシクサーズで過ごしたのを最後にイタリアへ異動。ヨーロッパでプレイした最高のアメリカ人選手のひとりとして大活躍し、所属チームを2度のチャンピオンに導いた。87年にはマクドナルド選手権の第1回に出場し、平均42点をマーク。勝ち目のない試合ではあったが、NBAから参加したバックスとロシアのナショナル・チームに動揺を与えた。92年に41歳で現役を引退。

マッカドゥーのプレイスタイルはその当時としては非常に近代的なもので、6フィート9インチというサイズながらペリメーターから難なくシュートを決めることが出来、得点王を3度経験。オフェンスに関しては右に出る者がいないほどであった。リーグの偉大な50人には選ばれなかったが、00年に殿堂入り。引退後は恩師パット・ライリーのヒートでACを長く務めている。

高校時代にはマーチング・バンドのメンバーに選ばれたり、高跳びのチャンピオンになったりするなど多彩な面もある。因みに高跳びではボビー・ジョーンズと対戦しており、そのジョーンズとはシクサーズでチームメイトとなった。

 

ポール・ウェストファル

 

6フィート4インチ・195ポンドのSG。72年のドラフト1巡目第10位でセルティックス入り。出場機会は多くなかったが、デイブ・コーウェンス、ジョン・ハブリチェック、ドン・ネルソンらと3シーズンプレイし、74年には優勝を経験した。

75年オフ、チャーリー・スコットと交換で2つのドラフト2巡目指名権とともにサンズに移籍したことでブレイク。チーム1位の平均20.5点をあげ、チームは42勝40敗と平凡だったが、プレイオフではファイナルまで進んだ。その第5戦では、残り時間1秒でサンズが110対111で負けていた場面で劇的なプレイが誕生。セルティックスのディフェンスによって思うように動けなかったため、ウェストファルは、既に使い切っていたことを承知の上であえてタイムアウトを要求。これがテクニカル・ファウルとなり、セルティックスはFTを1本決めて2点差とするが、タイムアウトのコールがあったため、コート中央からのインバウンド・パスが可能となり、パスを受けたガー・ハードがブザービーターを決め、トリプル・オーバータイムに突入した(このプレイの結果、NBAはルールを変えている)。因みにこの試合も、シリーズもセルティックスが制している。

翌年はプレイオフに出られないが、ドラフトでウォルター・ディビスを獲得した77~78シーズンは再びプレイオフに復活。ジョン・マクロードHCのもと、チーム史上初の黄金期?を過ごした。80年オフにはデニス・ジョンソンと交換でソニックスに移籍。しかし、故障のために欠場が多く、ニックスに移った81~82シーズンは64試合を欠場。83年オフ、古巣サンズに帰還し、シーズン終了後に現役を引退した。

ピーク時にはリーグトップ10に食い込むほどの得点力があり、オールスターに5度、オールNBA1stチームに3度、オールNBA2ndチームに1度選出。サンズ史上に残る偉大な選手のひとりにも選ばれている。

引退後はコットン・フィッシモンズの下でのACを経て、92年にサンズのHCに就任。新加入のチャールズ・バークリーを軸に、いきなりファイナル進出を果たした。その後もプレイオフには進むが、続く2シーズンはロケッツを倒せず、95~96シーズン途中に解任。このシーズンに関しては補強が功を奏していなかったこともあり、バークリーは「彼のせいではない」と庇ったが、厳しい結果となった。

2年間アリゾナの高校でACを務め、98~99シーズンからソニックスのHCに就任。前任のジョージ・カールのローテーションを崩したり、若手を積極的に起用したり、新しいことを試すも効果はいまいち。エースのゲーリー・ペイトンの信頼も得られず、不振に喘ぐビン・ベイカーの扱いにも苦慮し、00~01シーズン序盤に解任された。

01年秋にはペパーダイン大のHCとなり、就任1年目にNCAAトーナメントまで進出。不振を極めた05~06シーズンまで指揮を執った。07年にはエイブリー・ジョンソンのコーチングスタッフとしてマブス入り。リック・カーライルがHCになった際にはACを辞め、フロント入りした。09年にはキングスのHCとなるが、整わない戦力に加え、問題児デマーカス・カズンズとも上手くいかず、2シーズンほどで解任された。

 

デイブ・トワージック

 

ABAとNBAの両リーグでプレイしたPGで、ブレイザーズが77年に優勝したときのスターティングPGだった。

オールド・ドミニオン大出身で、72年のドラフト2巡目第13位でブレイザーズから指名されるが、このときはABAのヴァージニア・スクワイアーズに行くことを選択。その後、76年にABAが消滅したときにブレイザーズと契約を結んだ。80年に現役を引退。背番号13は永久欠番となっている。

引退後はブレイザーズのフロントを経て、86~89年にペイサーズでACを経験。その後もピストンズ、ホーネッツ、クリッパーズ、ウォリアーズ、ナゲッツなどでACを務めた。03年にはマジックのフロント入りしている。

 

ヘンリー・ビビー

 

マイク・ビビーの父親であり、かつてMLBでプレイしたジム・ビビーとは兄弟。名門UCLAのスターティングPGとして知られ、72年のドラフトでは4巡目第11位でニックス入り。ルーキーシーズンは優勝を経験する幸運に恵まれたが、将来殿堂入りを果たすような蒼々たる面々がいては出番も限られ、74~75シーズン途中にジャズへ放出された(当時はニューオリンズ)。76年オフに移籍したシクサーズで、初めて平均30分以上のプレイングタイムをゲット。優勝はできなかったが、77年と80年のファイナル進出に貢献している。80~81シーズンをクリッパーズ(当時はサンディエゴ)で過ごして現役引退。数字の上で目立つ選手ではなかったが、故障とミスが少なかった。72年にNCAAチャンピオン、73年にNBAチャンピオンになっており、こうした形で選手として連覇を経験しているのはビル・ラッセル(56・57年)、マジック・ジョンソン(78・79年)、ビリー・トンプソン(86・87年)と合わせて4人だけである。

引退後はCBAでコーチ業をスタート。82年と89年には優勝している。96年にはサザン・カリフォルニア大のHCに就任し、9シーズンで3度NCAAトーナメントに進出。05年にWNBAのスパークスのHCに就任したときはうまくいかなかったが(僅か28試合で解任)、直後にシクサーズのACとなった。息子はご存知マイク・ビビー。

 

バーニー・フライヤー

 

高校時代はバスケットとフットボールの両方でオール・アメリカンに選ばれたアスリートで、ブリガムヤング大に進学。72年のドラフトでは7巡目第12位でサンズから指名され、翌73~74シーズンにブレイザーズでNBAデビュー。80試合に出場して平均7.0点をあげ、オール・ルーキー2ndチームに選出された。しかし、ジャズとABAのスピリッツ・オブ・セントルイスでプレイした74~75シーズンを最後に現役を引退。78年からレフェリーとしての活動を始めた。

選手からレフェリーに移行したのはフライヤーが初めてで、その後もレオン・ウッドとヘイウッド・ワークマンしかいない。02年のプレイオフでバロン・ディビスの打ったブザービーターを無効にしたのがフライヤーだったが、実際はブザーの鳴る前に放られており、この一件がきっかけとなってインスタント・リプレイが導入されることになった。07年のNBAファイナル第3戦を最後にレフェリーを引退。

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