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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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昭和60年ドラフト組②

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前回の記事に派手な間違いがありました・・・

1985年は昭和60年でしたm(_ _)m

エリマキトカゲのブームも1984年の出来事でしたm(_ _)m

失礼いたしました。




ジョー・デュマース


ピストンズ史に残る6フィート3インチのSG。シューター型のSGでディフェンスにも定評があり、その実力はジョーダンも認めるところである。ドラフト1巡目第18位でマクニーズ州立大からピストンズ入り。ルーキーイヤーの終盤にジョン・ロングから出場機会を奪い、2年目にはスターターに定着。アイザイア・トーマスとのバックコート・コンビはピストンズの顔となり、チームは89・90年と2連覇を達成。89年のチーム史上初優勝のときにファイナルMVPに輝いたのはデュマースであった。

「バッドボーイズ」と呼ばれた強いピストンズは91年のプレイオフでブルズに惨敗して崩壊していくが、デュマースは個人成績をアップさせて孤軍奮闘。94年にグラント・ヒルが加入すると、若きスーパースターをサポートする存在としても貢献した。アラン・ヒューストンやリンジー・ハンターにスターターの座を譲った時期もあったが、そのヒューストンが移籍したことで96~97シーズンからスターターに復帰。すると、持ち前のシュート力でまだやれることを示した。

ロックアウトを経て、99年に現役を引退。オールスターに6度、オール・ディフェンシブ1stチームに4度選ばれており、また、その立ち振る舞いから「バッドボーイズの良心」とも言われた。スポーツマンシップ・アワードを初めて受賞した選手でもあり、受賞時のトロフィーは「ジョー・デュマース・トロフィー」とも呼ばれている。背番号4はピストンズの永久欠番。94年にはドリーム・チームⅡの一員として世界選手権でもプレイし、金メダルを獲得した。06年に殿堂入り。

引退後は00年にピストンズのGMに就任。03年にエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを受賞しており、04年のチャンピオン・チームを創った立役者でもある。このときは、強引にスーパースターを獲得するのではなく、他チームから必要とされなくなったような選手を集めており、そのやり方は高く評価されてた。ただ、00年代後半になるとチーム作りに苦戦。成績は伸びず、HCと選手の不和などの問題も表面化し、それらを立て直せないまま職を離れた。

95年頃、ヒルと「ヒルが3Pを決めるのと、自分がダンクを決めるのと、どっちが先か?」という賭けをして勝ったというエピソードがある。


パトリック・ユーイング


名C。ジャマイカのキングストン出身で、アメリカに移り住んだ高校時代からバスケットを始めた。ジョージタウン大では名将ジョン・トンプソンの指導を受け、84年にはヒューストン大を破ってNCAAタイトルを獲得。翌85年はヴィラノバ大にアップセットを喰らってしまうが、当時のカレッジ界で最高の選手はユーイングであった。NBAがドラフトにロッタリー精度を導入したのは、ユーイング獲得のためにワザと負けるチームが続出するのを避けたかったからである。

もちろん1巡目第1位でニックスに指名されたユーイングは、故障に泣かされるもルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。すぐにリーグ屈指のCとして認識されるようになった。最初の3シーズンほどは、特にオフェンスは横ばいの状態が続いたが、少しずつ成長を見せ、89~90シーズンに個人スタッツ上ではキャリア最高のシーズンを過ごした。当時はチーム状態が芳しくなかったが、91年にパット・ライリーがHCに就任するとニックスは強豪チームに転身。王者ブルズとの死闘は有名である。

92年のプレイオフでは、2勝3敗で迎えた第6戦、ユーイングは酷く足を捻ってしまうがコートに戻って勝利に貢献。マーブ・アルバートは「ウィリス・リードをみているようだ」と形容した(シリーズには負けている)。94年には自身初、チームにとっても73年以来となるファイナル進出を達成。ニックスは3勝2敗と先に王手をかけながら優勝できなかった。戦犯としてジョン・スタークスが叩かれたが、ユーイングもあまり良い出来ではなく、オラジュワンに大活躍を許している。

翌95年のプレイオフでは、セミファイナルでペイサーズに敗戦。第7戦の最後のプレイで、同点を狙ったユーイングのフィンガーロールが決まらなかった。95~96シーズンは新HCのドン・ネルソンとチームが合わず、シーズン半ばにネルソンがクビになるなど波乱含み。ユーイングはネルソンに対して好意的だったようだが、勝利には繋がらなかった。96年にはラリー・ジョンソン、アラン・ヒューストンという2人が加わり、ユーイングも喜んだが、結果はセミファイナル止まり。

乱闘騒ぎで主力が出場停止になるという不運もあったが、期待ほどの結果ではなかった。そして翌97~98シーズンの序盤、バックス戦で左手に重傷を負ってしまい、シーズンの残りをすべて欠場。ユーイングはこの怪我から、明らかな衰えが目立つようになってしまう。このときはプレイオフのセミファイナル途中で復帰するが、チームに勝利をもたらすことは出来なかった。翌シーズン、ニックスは史上初めて第8シードからのファイナル進出を決めるが、ユーイングは蚊帳の外状態。

アキレス腱を負傷していたユーイングは出場・欠場を繰り返し、ファイナルは全休。プレイオフを勝ち進んだのは、ヒューストンと新加入のラトレル・スプリーウェル、マーカス・キャンビーらのお陰だった。また、この年のプレイオフ、ペイサーズとのカンファレンス・ファイナルでユーイング不要論が勃発。ニックスはユーイングが出た試合で負け、休んだ試合で勝っている、というのがその根拠であった。実際、スプリーウェルやキャンビーとのプレイの相性はあまり良くなかった。

そして00年オフ、ソニックスへのトレードが成立した。これは、元々はレイカーズ&ピストンズ&ソニックスとの◇トレードだったが、ピストンズが成立寸前に抜けてしまい、一度破談になった後、改めてサンズを絡めて成立した◇トレードであった。2度目のトレードはニックスが見返りを妥協したこともあってか、このトレードは批判を浴びた。特にレジー・ミラーやチャールズ・バークリーといったスーパースターがユーイングを庇い、ニックスを非難していたのが印象的である。

ニックスは、00~01シーズンの開幕戦でシクサーズに大敗した際、ファンに「ユーイング」コールをされるなど、ここから下降線を辿っていくが、ユーイングの凋落はもっと早かった。ソニックスではゲーリー・ペイトン、ビン・ベイカーらとプレイするもチームはプレイオフにも出られず、シーズン終了後にはマジックと契約。ここではスターターを外され、ほとんど戦力にならなかった。シーズン最後のMSGでのニックス戦では、ドック・リバースHCがユーイングをスターターとして起用する気遣いを見せている。

02年9月に現役を引退。オールスターに11度出場し、ドリーム・チームⅠのメンバーでもあり、96年にはリーグの偉大な50人にも選出された。ただ、オラジュワンやデビッド・ロビンソンらと同じ時代に生きた不運か、オールNBA1stチームには一度しか選ばれていない(2ndチーム入りは6度)。背番号33はニックスの永久欠番。独特なフォームから繰り出される、ソフトタッチのジャンパーは確率が高かった。公には7フッターだが、実際は6フィート9インチだとか。

引退後はウィザーズやロケッツなどでACを務めている。NBAでHCになりたいようだが、今のところ噂はない。アロンゾ・モーニング、ディケンベ・ムトンボは大学の後輩で、00年にモーニングが腎疾患を発表したときにはドナーとなることを申し出た(モーニングの身内にドナーがいたため、必要とはならなかった)。


ジョン・ウィリアムス


通称「ホットロッド」・ウィリアムス。6フィート11インチのビッグマンで、テュレーン大の出身。ドラフト2巡目第45位でキャブスに指名されるが、同年3月27日に八百長疑惑で逮捕されており、この裁判のためにすぐNBAでプレイできず、85~86シーズンはUSBLで過ごした(裁判は誤判)。そして86~87シーズンにマーク・プライス、ブラッド・ドアティ、ロン・ハーパーらとともにキャブスでNBAデビュー。出場した80試合すべてでスターターを務め、オール・ルーキー1stチームに選ばれた(ドアティ、ハーパーも)。

2年目以降はラリー・ナンスの加入などもあってベンチ・スタートが多くなるが、攻守に貢献度は高く、複数のポジションをこなせるウィリアムスは貴重であった。95年オフ、インサイドの戦力を必要としていたサンズに、ダン・マーリーと交換で移籍。しかし、ウィリアムスはサンズにフィットせず、チームも成績が下降し、期待を裏切ってしまった。96~97シーズンはダニー・エインジHCが用いたスモールボール作戦で、インサイドの要として活躍。平均8.3リバウンドはキャリアハイであった。

ロックアウトを挟んでマブスに移籍するが、この頃には故障もあってあまり役に立たず、99~00シーズンは全休。00年にはセルティックスにトレードされるが、開幕を迎える前に現役を引退した。手足が長く、ブロックが上手。また、Cとしては機動力があり、若い頃はドライブも武器であった。


エド・ピンクニー


ヴィラノバ大出身で6フィート9インチのPF。同大が85年にジョージタウン大を破って優勝したときの中心選手で、その試合ではパトリック・ユーイング相手に好プレイを見せた。ドラフトでは1巡目第10位でサンズに入るがインパクトを残せず、87年オフに△トレードでキングスへ移籍。88~89シーズンの途中には更にセルティックスへトレードされた。ここではラリー・バードやケビン・マクヘイルら主力が故障に苦しんでいたためか、スターターとして起用されることが多かった。

94~95シーズンをバックスで過ごした後、エクスパンション・ドラフトでラプターズ入り。開幕からスターターとして起用されるなど精力的なプレイを見せたが、すぐシクサーズへトレード。翌シーズンをヒートで過ごして現役を引退した。カレッジ時代はユーイングが「手強かった」と認めるほどの選手だったが、プロで輝きを見せることはなかった。PFとしてはウェイトも含めて小柄で、リバウンドやブロックが少ない。


スパッド・ウェッブ


5フィート7インチながら驚異的なジャンプ力でスラムダンク・コンテストでチャンピオンになったPG。本名はアンソニー・ジェローム・ウェッブ。そのサイズのためか、高校卒業後はコミュニティ・カレッジに進むが、そこでの活躍を評価され、ノースカロライナ州立大に編入した。ドラフトでは4巡目第87位でピストンズに指名され、オフのうちにホークスに移籍した。1年目は短時間ながらバックアップとしてまずまずの働きを見せ、その後も15分強のプレイングタイムを自分のモノにした。

89~90シーズンにドック・リバースの故障で出場機会が拡大すると、スターティングPGとしても通用することをアピール。91年にはPGに飢えていたキングスと契約を結び、個人成績の上ではプライムタイムを迎えた。ここでは、チームは弱かったが4シーズンに渡ってスターターを務めた。95~96シーズンは古巣ホークスへ復帰するが、シーズン半ばにウルブズへトレード。トレード後は再びスターターとして起用されたが、将来的な構想には入っておらず、オフにはチームを離れた。

1シーズン空けて、97~98シーズンに10日間契約でマジックに加入するが、すぐに解雇され、ここで現役を引退した。マグジー・ボーグス、アール・ボイキンスに次ぐ、史上3番目に身長の低い選手。シュートが上手く、サイズを考慮すると45%以上のFG成功率も見事。ミスも少ない。クイックネスとジャンプ力に長けており、先述のように86年のスラムダンク・コンテストで優勝。チームメイトであり、前年のチャンピオンでもあったドミニク・ウィルキンスは、ウェッブのコンテスト参加に驚いたという。

因みに、決勝ラウンドの相手はそのドミニクで、パーフェクトの150ポイントで勝っている。「ダンクの選手」とみられることを嫌っていたようだが、実戦でもダンクを見せることが出来た。


テリー・ポーター


80年代後半~90年代前半のブレイザーズを支えたPG。ミルウォーキーの高校、ウィスコンシン大を経てドラフト1巡目第24位でブレイザーズ入り。2年目からスターターに定着し、3年目には平均アシストで2桁をマークするなど、すぐに結果を残した。90・92年とブレイザーズがファイナルに進んだときの主力であり、91・93年にはオールスターにも選ばれている。しかし、93年にロッド・ストリックランドが加入すると出場機会が減少。

翌シーズンは故障もあって更に影が薄くなり、オフにウルブズへ移籍した。1年目は混迷するチームの仲で埋もれたが、2年目からは若いチームに必要なベテランとして貢献。98年にヒート、99年にはスパーズと強豪チームと相次いで契約するが、優勝には縁がないまま02年に現役を引退した。アウトサイド・シュートの上手いPGで、そのシュート力からSG的な起用をされることもあった。93年にはJウォルター・ケネディ・シップ・アワードを受賞している。

引退後はコーチとして活動しており、結果はいまいちだったが、バックスとサンズでHCを務めたことがある。ジャック・ラムジー、パット・ライリー、グレッグ・ポポビッチの下でプレイした経験がある。


ジェラルド・ウィルキンス


ドミニク・ウィルキンスの弟。ダミアン・ウィルキンスの父親でもある。テネシー大出身のSGで、ドラフト2巡目第46位でニックスに入団した。1年目はFTが50%台に終わるなど難点は多かったが、平均12.5点をマークするなど2巡目指名とは思えない健闘を見せ、2年目には課題のシュートを改善。平均19.1点を稼ぎ、ユーイングに次ぐ得点源となった。しかし、90年代に入ってジョン・スタークスらが加入したことで役割が減少し、ニックスに居場所はないと判断。92年にキャブスと契約を結んだ。

打倒ブルズを目指すキャブスにとって「ジョーダン・ストッパー」とも称されたウィルキンスの加入は期待されたが、結果は特に効果もなく、93年のプレイオフではスウィープで敗退。おまけに90年代前半のキャブスは主力の相次ぐ故障に悩まされており、ウィルキンスも94~95シーズンを全休した。95年にはエクスパンション・ドラフトでグリズリーズへ移籍。しかし、ここでは30試合もプレイできず、忘れられたシーズンとみていいだろう。

再び活躍を見せたのは翌シーズンマジックに移籍してから。移籍2年目・3年目は恐らく衰えもあって精彩を欠いたが、最初の年は6マン的な起用をされ、のびのびとプレイしていた。98~99シーズンを最後に現役を引退。奇しくも最後のシーズンは兄ドミニクとチームメイトであった。このときは背番号21を兄に譲り、自身は9番を着用した。アウトサイド・シュートは今ひとつだが身体能力が高く、86・87年とスラムダンク・コンテストにも出場している。


クリス・マリン


ドリーム・チームⅠのメンバー。サウスポーのSF。セントジョンズ大出身で、ドラフト1巡目第7位でウォリアーズに入団した。余談だが高校時代はマリオ・エリーとチームメイトだったという。プロ入りから最初の数年は、個人の出来としては悪くなかったがカレッジ時代から酒好きだったマリンは、故郷ニューヨークを離れた寂しさもなど重なってか酒におぼれ、アルコール中毒になってしまう。また、オフコートの問題があったり、不満分子のような選手がいたりするなどチーム状態も悪かった。

転機となったのはドン・ネルソンがHC兼GMとなた88年。ネルソンは、ドラフトではミッチ・リッチモンドを指名するなど補強を進め、マリンに対してはアルコール中毒から脱却できるようサポートを惜しまなかった。それらを受けてかマリンは一段上のスター選手へと進化する。その88から93年まで、マリンは毎シーズン平均25点・5リバウンド以上をマーク。これはウォリアーズでは、ウィルト・チェンバレン以来の快挙で、オールスターにも5シーズン連続で選ばれた。

しかし、その93年頃からマリンは故障に悩まされるようになっていく。得点アベレージも20点に届かなくなり、94~95シーズンの途中には恩師ネルソンが解任。HCがリック・アデルマンに代わった95~96シーズンは出場した試合のほとんどがベンチ・スタートであった。97年オフにペイサーズへ移籍するとスターティングSFとして起用され、自慢のシュートタッチを見せるが、最盛期のプレイにはほど遠く、ディフェンスで穴となることも多かった。

移籍3年目の99~00シーズンにはチームがファイナルに進むが、マリンは出場機会も限られており、ファイナルでもほとんど出番がなかった。00~01シーズンを古巣ウォリアーズで過ごして現役を引退。アウトサイド・シュートの名手で、FG成功率が55%を超えていたこともある。チームメイトだったティム・ハーダウェイは「マリンにボールを渡せばアシストになる」とコメントしていた。シュートフォームも美しく、手首のスナップ?は有名である。

身体能力は高くないが、若い頃はリバウンドやパスも良く、ボール運びやドライブもこなすことが出来、完成度の高いバスケット選手であった。ウォリアーズ史上に残る選手で、殿堂入りも果たしている。引退後の00年代後半にウォリアーズでGMも務めた。マリン在任中、チームは13年ぶりのプレイオフ進出を決め、第8シードながら1stラウンドを突破している。先述のように92年にはオリンピックで金メダルを獲得。84年のロサンゼルス・オリンピック以来自身2つ目の金メダルであった。


マヌート・ボル


7フィート7インチ・200ポンドのC。スーダンのディンカ族で、酋長の息子であるボルは「特別な祝福」を意味する「マヌート」という名を付けられた。83年のドラフト5巡目でクリッパーズに指名されるがリーグの規定に引っ掛かってしまい、84~85シーズンはブリッジポート大でプレイ。85年のドラフト2巡目第30位で改めてブレッツから指名された。ルーキーイヤーは80試合中60試合でスターターを務め、NBAのルーキー記録となる397ブロックをマーク。

2年目はモーゼス・マローンの加入で出場機会が減ったが、平均20分に満たないプレイングタイムで平均4本近いブロックを決めていたのは驚異的である。3年目にはNBA史上最も小さいマグジー・ボーグスが加入し、ある意味では歴史的なコンビとなった。88年にはウォリアーズに移籍。あまりに線が細く、他チームのCやFとマッチアップするのが難しかったボルは、なんとこのシーズンから3Pをオフェンスのバリエーションに加える。

精度は高くなかったが、オフェンス時にひたすら3Pラインの外側で待機する独特なスタイルはファンのお気に入りとなった。因みにこのシーズンは、ベンチ・スタートながら平均4.3ブロックでリーグ首位に立っている。90年にはシクサーズに移籍。ここでのハイライトは93年のサンズ戦。この試合では後半のみで得意の?3Pを12本中6本も決め、フェニックスでの試合だったにもかかわらず、アリーナの観客から歓声を浴びた。

93~94シーズンはヒート、ブレッツ、シクサーズと渡り歩き、ジョージ・ミュアサン、ショーン・ブラッドリーと短期間だがチームメイトになっている。NBA最後のシーズンとなった94~95シーズンは古巣ウォリアーズでプレイ。オークランドの復帰初戦では3本中3本の3Pを決め、その1週間後にはひさしぶりにスターターに返り咲いた。しかし、11月下旬のホーネッツ戦で負傷して戦線離脱。以降、NBAでプレイすることはなかったが、CBAやイタリアなどで少しキャリアを続けている。

ブロックのスペシャリスト。キャリア通算で平均3.34ブロックはマーク・イートンに次ぐ歴代2位で、通算4000点以下の選手で、通算2000ブロックをマークした史上唯一の選手でもある。1回のポゼッションで4度のブロックを決めたこともあり、48分換算の平均ブロックはリーグ記録でもある。オフェンスは、強いて言えば、3Pと中途半端な距離から突然放つフックショットが武器。チャールズ・バークリーやクリス・マリンらと親しく、ファンにも愛される選手であった。


平成8年ドラフト組①

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この「年度別ドラフト組エントリー」、昔自分が趣味で書きためていたのを、ほぼコピペしてアップしてるんですが、段々思い出してきました。

「これを書いてる時点でNBAでのキャリアを終えてる選手」という括りで書いてたので、90年代後半はマニアックな選手しかいません。たしか2008年くらいに書いたので・・・




ブライアン・エヴァンス


サウスポーの3Pシューター。6フィート8インチ・220ポンドとシューターとしてはやや大柄で、インディアナ大出身。当時ケンタッキー大のHCを務めていたリック・ピティーノも高く評価していた模様。ドラフト1巡目第27位でマジックに入団するも1年目は出番があまりなく、2年目は開幕からスポット的に起用されるが、肝心のシュートが決まらなかった。2年目の途中にネッツにトレードされ、3年目の途中には更にウルブズへトレード。それ以降はイタリアなどでプレイした。

頭の良い選手だが、スピードがなく、NBAではシューターとしての価値を見せるところまでいかなかった。


ドンテ・ジョーンズ


ミシシッピ州立大出身のSF(コミュニティ・カレッジでも2年プレイ)。96年のSECトーナメントの決勝でケンタッキー大を破ったときの主力で、そのときはトーナメントのMVPに選ばれた。ドラフトでは1巡目第21位でニックス入りするが、1年目は故障のために全休。プレイオフのヒートとのシリーズで、乱闘騒ぎの際にベンチから飛び出して処分を受けたのがハイライトである。翌シーズンの開幕直前にセルティックスへトレードされ、いよいよNBAデビューを果たすが、ほとんど起用されなかった。

翌シーズン以降はギリシャやトルコなど各国のリーグを転々とした模様。跳躍力があり、速攻のフィニッシャーとしては魅力的だが、距離のあるシュートは微妙。「Dontae'」のアポストロフィーは母親が故意に付けたのだそう。


ドナルド・ホワイトサイド


5フィート10インチ・160ポンドのPG。ノース・イリノイ大を卒業後、NBAのドラフトにはかからず、92~93シーズンはNBL(オーストラリアのリーグ)でプレイ。その後はバスケットを離れ、学校の教師を務めていた。しかし、夢を諦めきれずに96年にラプターズのワークアウトを受けて合格。念願のNBAデビューを果たした。ラプターズでは27試合に出たが、初めてスターターを務めた試合の直後に解雇された。97年にはホークスと契約を結ぶが、11月頭にすぐ解雇されている。


ドリュー・バリー


殿堂入り選手であるリック・バリーの三男。ジョン・バリー、ブレント・バリーの弟で、スクーター・バリーの兄である。ジョージア工科大の出身で、アシスト数は同大の歴代トップである。4年次はステフォン・マーベリーの加入で、コンボガード的な役割であった。ドラフトでは2巡目第57位でソニックスに指名されるがロスターに残れず、プロ1年目はCBAとなった。NBAでは翌シーズンから99~00シーズンにかけて解雇・契約を繰り返しながら、幾つかのチームを渡り歩いた。


ロイ・ロジャース


アラバマ大出身のPF。1巡目第22位で創設2年目のグリズリーズに入団した。カレッジ時代からブロックに定評があり、1年目は同ポジションにライバルのいない環境も手伝ってか全82試合に出場。スターターも50試合で務め、ルーキー・オールスターのメンバーにも選ばれた。しかし、ブロック以外では存在感を見せられず、2年目はセルティックスで開幕。トレード期限にはラプターズへトレードされた。このシーズンは2チームで計15試合にしか出ていない。

そのオフにはロケッツ、ブルズと相次いでトレードされた末に解雇。98~99シーズンはNBAでプレイできなかった。99~00シーズンはナゲッツと契約を結ぶが、結果は残せていない。プロとして最後にプレイしたのは03年、ポーランドであった。


ジョン・ウォレス


6フィート8インチ・225ポンドのSF。シラキュース大を卒業後、1巡目第18位でニックスに入団した。カレッジ時代はスター選手で、特にオフェンス面の評価が高く、上位での指名が予想されていたのだが、何故か評価が落ちてしまった。理由については、コンディションが整っていない、母校の先輩であるデリック・コールマンと仲が良い、遅刻してフライトに間に合わなかった(素行)など幾つかの憶測がなされたが、明確な理由は不明である。ウォレスが指名されたとき、ニックスのファンは大喜びであった。

ルーキーイヤーは、ベテランの層が厚い強豪チームに入ったこともあるが、出来は散々。僅か1年で見切りを付けられ、オフにはラプターズへ移籍した。ここでは82試合中36試合でスターターとして起用され、平均14.0点をマークするなど大器の片鱗を見せたかにみえたが、翌シーズンはビンス・カーターらの加入でベンチへ逆戻り。99~00シーズンはニックスに戻り、00年にはマブスを経由してピストンズへ放出された。それぞれ、出番は非常限定的であった。

01~02シーズンをサンズで地味に過ごすと翌シーズンは遂にNBAでプレイできなかった。03~04シーズンをヒートで過ごしたのが見納め。中でプレイするタイプのSF。シュートエリアの狭さとディフェンスが難点か。PFをこなせれば、もっと活躍の場があったかもしれない。


エフティミアス・レンツィアス


6フィート11インチのギリシャ人C。トリカラ出身。プロキャリアのスタートは94~95シーズンで、母国のクラブ・チームであった。95年のワールド・チャンピオンシップでは19歳以下で構成されたナショナル・チームの一員としてプレイし、ステフォン・マーベリーらのいたアメリカを20点差で撃破してトロフィーの奪取に貢献。自身はMVPを受賞した。ドラフトでは1巡目第23位でナゲッツに指名されるが、ギリシャのチームの契約が残っていたためにNBAには行かないことを選択。

97~02年はスペインのFCバルセロナで過ごした。02~03シーズンにシクサーズでようやくNBAデビューとなるが、35試合に出てNBA史上2人目のギリシャ人選手となった以外、特に印象に残るものはなかった。翌シーズン以降は再びヨーロッパへ。キャリアの最後はギリシャに戻りたかったようだが故障してしまい、06年に30歳の若さで引退を強いられた。94・02年の世界選手権と、ギリシャ初参加となった96年のアトランタ・オリンピックではナショナル・チームのメンバーとしてプレイしている。

ヨーロッパのビッグマンらしくシュートが上手く、シュートエリアも広いが、相手の脅威となるほどではなかった。線が細く、NBAのインサイド・プレイヤーとしては小柄。


プリースト・ローダデール


7フィート4インチ・325ポンドの巨漢C。アメリカとブルガリアの国籍を持っている。セントラル州立大で1年プレイした後、カスカスキア・カレッジを経て(プレイはしていない)、95~96シーズンにギリシャでプロデビュー。そして、96年のドラフト1巡目第28位でホークスに指名された変わり種である。ルーキーイヤーは層の薄いホークス、2年目は弱小ナゲッツでプレイする運に恵まれたが、チャンスを活かすことは出来なかった。

00年代に入ってブルガリアでプレイしたのが国籍取得につながったとか。規格外のサイズが武器だが、技術が乏しい上に足が遅く、NBAでは通用しなかった。サウスポー。

平成8年ドラフト組②

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このアニメ、当時小学生の妹が好きでみてたんですが、親がやんわり反対してたんです。

親が反対してた理由はわからなくもないんですが、それを子供に納得させるのは難しいだろうな、と思うようになりました。年ですねw




ケビン・サルバドーリ


ノースカロライナ大出身の7フッター。93年に同大がNCAAチャンピオンになったときのメンバーだが、目立った成績・活躍は残していない。カレッジ4年間、エリック・モントロスとチームメイトだった不運もあったかもしれない。94年のドラフトにはかからなかったが、96年にキングスと契約。2シーズン過ごした。95年にはペイサーズとも一度契約しているが、開幕まで残れなかった。父のアル・サルバドーリは67年のドラフト4巡目でブレッツに指名されている(ABAのオークランド・オークスで1シーズンプレイした)。


ベン・ディビス


名門オークヒル・アカデミー高校出身のPF。カレッジはカンザス大→フロリダ大(プレイせず)→ハッチンソン・コミュニティ・カレッジ→アリゾナ大と渡り歩いた。94年にはジュニア・カレッジのチャンピオンになっている(ハッチンソン時代)。ドラフト2巡目第43位でサンズに入るが、途中で解雇。97~99シーズンをニックス、99~00シーズンを再びサンズで一応過ごしている。ヒートやロケッツと契約したこともある。最後にプレイしたのは06年のウルグアイであった。


ジェローム・ウィリアムス


6フィート9インチ・206ポンドのPF。ドラフト1巡目第26位でジョージタウン大からピストンズに入団した。カレッジ時代はあまり注目されなかったが、プレドラフト・キャンプなどで評価を高めたようである。1年目はほぼ戦力外だったが、2年目にはインサイドの人材難も手伝って出場機会が増加。主にディフェンスで貢献し、主要なベンチ・プレイヤーに成長した。00~01シーズン半ばにはラプターズへトレード。このとき、ウィリアムスはデトロイトからトロントにすぐ車を走らせたそうである。

ラプターズではスターターとして起用される機会も増え、賢明にプレイするスタイルでファンのお気に入りとなった。02~03シーズンにはキャリアハイの平均9.7点をマークしている。03~04シーズン序盤にはブルズへトレードされ、ここでもロールプレイヤーとして良い働きを見せたが、オフにニックスへトレードされると出場機会が減少。

シーズン終了後の05年夏、アラン・ヒューストンの例外条項を用いて解雇され、そこから2日も経たないうちに現役引退を表明した。ハードワークとハッスルプレイが売り。PFとしてはやや小柄だが筋肉質でバランスのとれた体をしており、フィジカルなプレイも厭わない。機動力もあり、ディフェンスでは両Fに対応できる。シュートに難があるが、キャリアを経るごとに得点する術を身につけていった。トロントでの人気が根強く、移籍後も地元ファンに大歓迎されていた。

ニックネームはチームメイトだったリック・マホーンに名付けられた「ジャンクヤード・ドッグ」。現役時代はそれに肖ってか、ロッカールームに犬のぬいぐるみを置いていた。ハイソックスがトレードマーク。


マット・マロニー


アウトサイド・シュートが生命線のPG。ペンシルバニア大出身。95年のドラフトにかからず、ウォリアーズと契約を結ぶも開幕前に解雇、カナダでプロデビューを果たした。そして翌96年のオフにロケッツと契約。ロケッツはチャールズ・バークリー獲得のために多くの選手を手放したために層が薄くなっており、マロニーは生き残ったどころか、スターティングPGに抜擢された。ゲームメイクが今ひとつでベテランに咎められる姿も多くあったが、3Pと賢明なプレイで貢献。ルーキー・オールスターにも出場した。

2年目も同様のプレイを見せていたが、3年目は故障のために35試合を欠場(短縮シーズンのために全50試合)。その間にルーキーたちにポジションを奪われ、翌シーズンは低迷するブルズに移籍した。00~01シーズンと02~03シーズンにはホークスでもプレイしたが、最初の2シーズンのような輝きを見せることはなかった。PGというよりはシューター。97年のプレイオフではマロニーの活躍で勝った試合もあるが、一方で気が弱く、シュートのムラが激しいのも難点。


マーク・ブラッドキー


6フィート10インチのオーストラリア人C。相性は「Hoges」。キャリアのスタートはもちろんNBLで、ソウル・バルセロナ・アトランタ・シドニーとオリンピックは4大会に出場。世界選手権でも2度プレイしている。NBAでは96~97シーズンに36試合だけシクサーズでプレイしている(ドラフトはされていない)。07年に現役を引退。オーストラリア出身の選手で、NBAで1シーズンしかもたなかったのはブラッドキーだけである。NBAでプレイするには技術・身体能力ともに中途半端だった印象。


デビン・グレイ


6フィート7インチ・240ポンドとずんぐりした体型のSF。サウスポー。クレムソン大の出身で、96~97シーズンに短い期間ながらキングスとスパーズでプレイしたのがNBAデビューとなった。99~00シーズン途中には10日間契約でロケッツに加入。主力に怪我人がいた関係ですぐにスターターとして起用されるのだが(BSでも放送されたウルブズ戦)、試合前のスターティング・ラインナップ紹介時の顔写真が間に合わなかったことがある。


トニー・デルク


6フィート1インチのSG。96年にケンタッキー大がNCAAチャンピオンになったときの主力で、そのときはトーナメントのMOPに選ばれた。ドラフトでは1巡目第16位でホーネッツに入団。1年目はシューター揃いのチームであまり起用されず、翌シーズンの開幕直後にウォリアーズへトレード。ここでは出場機会が増え、2シーズンを過ごすが、シュートの精度が上がらないなど苦戦は続いた。キャリアが動いたのはキングスでプレイした99~00シーズン。

シーズン序盤は出番すらないこともしばしばだったが、次第に出場機会を増やしてローテーション入り。ダリック・マーティンのプレイングタイムを奪った。そして、そのオフサンズに移籍するとベンチ・スコアラーとして大活躍。01年年明けのキングス戦では、53点を稼ぐパフォーマンスを見せ、周囲を驚かせた。翌シーズン半ばにはロドニー・ロジャースとともにセルティックスへトレード。2人はロスターを厚くし、プレイオフでも善戦。イーストを制したネッツを(負けはしたが)苦しめた。

しかし、オフになってお金の問題でロジャースが、トレードでケニー・アンダーソンがチームを去るとセルティックスは停滞。デルクはPGを任されるがフィットせず、途中でJR・ブレマーにポジションを奪われた。03~04シーズンはマブスで過ごすが層の厚いマブスでは出番が限られており、04年にはホークスへ移籍。チームはドアマットに沈んだが、ひさしぶりに2桁の得点アベレージを残した。05~06シーズンをホークス、ピストンズでプレイしたのがNBAでの最後。

もう1年だけギリシャでキャリアを続け、07年秋に現役を引退した。カレッジ時代はいい3Pシューターだったが、NBAではその精度に苦しんだ。一方、ミドルレンジからのシュートは高確率で、短時間での2桁得点が可能。身体能力もそれなりに高い。


レジー・ギアリー


リュート・オールソン指揮下のアリゾナ大出身。ギアリー在籍時の同大は強く、94年にはファイナル4にも進んでいる。通算スティール数は同大史上1位であった(卒業時)。ドラフトでは2巡目第56位でキャブスに入団。層が薄いチームだったにもかかわらず、あまり出番を得られなかった。翌シーズンはスパーズに移籍するが、ここでもローテーション入り出来ず、それ以降はCBAやヨーロッパなどでプレイしている。チームプレイヤーでディフェンスも悪くないが、シュートに難がある。

平成8年ドラフト組③

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フェイスブックが荒れてる今日この頃。

読ませる文章・説得力のある文章を書けるひとっていいなぁと思ったりします。




ジェイミー・ファイック


リバウンダー。ドラフト2巡目第48位でミシガン州立大からシクサーズに指名された。カレッジ時代はCだった。開幕直後に解雇され、年明けにホーネッツと契約。ここでもすぐに解雇されるが、直後にスパーズに拾われた。当時のスパーズは怪我人が続出しており、リバウンド力をアピール。10日間契約組の中では輝きを見せた。翌シーズンはバックスでローテーションから外れるが、ロックアウト後98~99シーズン中に△トレードでネッツへ移籍すると出場機会が激増。

残りのシーズンで平均2桁のリバウンド(オフェンス・リバウンドは平均4.3本)を奪取。ジェイソン・ウィリアムス、ロニー・サイカリーらが相次いで戦列を離れたインサイドをひとりで支えた。シーズン終了後には総額1000万ドル近い大型再契約を締結。この頃の評価は高く、すぐに再契約を結ぶ姿勢を見せなかったネッツに対して「理解に苦しむ」といった声もあがるほどであった。翌シーズンはベンチ・スタートとなるが、リバウンドは平均9本を上回り、期待に応えている。

しかし、00~01シーズンを故障で6試合の出場に終わると、続く2シーズンを全休。そしてそのまま引退となってしまった。手足が短く、身体能力も高くないが、リバウンダーとしては優秀。特にオフェンス・リバウンドに強かった。シュートには難がある。


ジミー・カルース


ヴァージニア工科大出身のPF。94年に卒業するがドラフトにかからず、96~97シーズンに10日間契約でバックスに加入した。尤も、カレッジで4年間のスタッツはどの分野においても印象的なものがなく、特にオフェンスはFTが40%台など壊滅的だった。バックスでは4試合だけプレイして解雇されたが、ベンチにいるときに熱心に応援していたり、コートに出るとき・去るときに会場を盛り上げようとしたり、ムードメーカー的な価値はあったのかもしれない。


エマニュエル・ディビス


デラウェア州立大史上唯一のNBA選手。6フィート4インチとやや小柄なSGである。91年のドラフトにかからず、主にCBAでのプレイを経て、96年オフにロケッツと契約を結んだ。層の薄さも手伝ってか、ドラフト外ルーキーながらローテーション入りしたが、開幕13試合目に膝を故障してシーズン終了。翌シーズン復帰しても、たいした活躍はできなかった。99~01シーズンはソニックス、01~03シーズンはホークスでプレイしている。

ソニックス、ホークスではSGにフィットする人材がいなかったお陰で、スターターとして起用されることも少なくなかった。アウトサイド・シュートが武器。


ステビン・スミス


カレッジ時代の八百長スキャンダルで有名な選手。高校時代から目立つ存在だったスミスは、アリゾナ州立大に進学。同大をNCAAトーナメントに導くなど活躍を見せていた。しかし、4年生だった93~94シーズン、チームメイトのアイザック・バートンとともにギャンブルで作ってしまった借金を返済するために、ベニー・シルマンという生徒と、シーズン中のある4試合を調整しようと共謀。これがのちに発覚し、スミスは刑務所に入ってしまう。

ただ、これは当時すぐには明るみに出ず、スミスは大学卒業後プロデビュー。NBAのチームからドラフト指名はされなかったが、ヨーロッパやCBAなどでプレイ。96~97シーズンにはマブスと10日間契約を結び、8試合だけプレイした。97年に先述のスキャンダルが初めて明らかになり、99年12月~00年10月までを刑務所で過ごした。出所後はヨーロッパに戻ってキャリアを継続。フランス、イスラエル、ロシアなどを渡り歩いた。

ニックネームは「ヘダケ(ヘッドエイク)」。イタズラ好きだった子供時代に付けられたという。


レイ・オウズ


やや大柄なSF(6フィート9インチ・224ポンド)。アリゾナ大卒業後、NBAのドラフト(95年)にはかからなかったが、その1年後にウォリアーズのキャンプに参加。開幕ロスターに生き残った。因みにキャンプに参加できたのは、オウズの代理人の友人がウォリアーズのフロントに親しいひとがいたからだという。NBAで唯一のシーズンとなった96~97シーズンは、開幕2試合目でスターターとして起用されるなど、ドラフト外ルーキーながら57試合で起用された。


マーク・ポープ


モヒカン頭の白人F/C。ペイサーズ、バックス、ナゲッツでそれぞれ2シーズン過ごした。96年のドラフト2巡目第52位でペイサーズに指名されるが、入団は1年後。ここでは出番はないに等しかった。バックスではアウトサイド志向で機動力のあるビッグマンという特異性をジョージ・カールHCに評価?され、出場した試合の約半分でスターターとして起用された。カールの指示もあってかアウトサイドから積極的に打っていたが成功率は20%にも届かず、2シーズンで決めた3Pは計9本である。

カレッジでもワシントン大とケンタッキー大で2年ずつプレイ。ケンタッキー大が96年にNCAAチャンピオンになったときのメンバーである。


ウォルター・マッカーティ


6フィート10インチのF。ケンタッキー大が96年のNCAAチャンピオンになったときの主力で、当時はアントワン・ウォーカーやロン・マーサーらとチームメイトであった。ドラフトでは1巡目第19位でニックスに入団。ベテラン主体のニックスでは出番がなく、翌オフにはセルティックスへトレードされた。新天地では大学時代の恩師リック・ピティーノの元、ウォーカー、マーサーらと再会。全82試合に出場して、うち64試合でスターターとして起用されるなど一気に活躍の場が拡がった。

98~99シーズンにポール・ピアースが加入してからはベンチ・スタートとなるが、ディフェンスや3Pでチームに貢献。数字的には地味だが、ガッツ溢れるプレイはファンのお気に入りであった。ピティーノ体制では次第に出場機会が減少していくが、HCがジム・オブライエンに代わってからは再起。シューター的な役割も果たしていた。04~05シーズン半ばにサンズへ移籍し、オフには更にクリッパーズへ移籍。05~06シーズン終了後に現役を引退した。

カレッジ時代は身体能力が高く、スピードのあるPFだったが、プレイスタイルはSF向き。シュートエリアは広いが頼れるほどの安定感はない。ナチュラル・ポジションがわかりにくく、PGを除くすべてのポジションで起用される機会があった印象。引退後はピティーノ率いるルイビル大でACに就任。06年のオールスター・サタデイでは国歌斉唱を務めるなど幅広い才能があるよう。


アレキサンダー・ジョルジェビッチ


セルビア人のPG。92~96年をイタリアのクラブ・チームで過ごし、96年9月にブレイザーズと契約を結んだ。当時はアトランタ・オリンピックの直後で、同大会での活躍が評価されてのNBA入りだったかもしれない。しかし、ブレイザーズでは出番を得られず、96年12月には解雇。僅か8試合しか起用されなかった。その後はイタリアやスペインなどでプレイしている。ヨーロッパのリーグや国際大会では数々の賞を受賞している名PGで、それは数え上げたらキリがないほど。

セルビアとスペインの国籍を持っており、剃り上げた頭が印象的。愛称は「サーシャ」。NBAのドラフトにはかかっていない。

平成9年ドラフト組

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このドラマ好きでみてたんですけど、もしかしたら今はできないかもですね。




シェー・シールズ


タルサ大出身のシューター。同大では永久欠番になっている。ドラフト外でレイカーズと契約し、97~98シーズンに4試合だけプレイした。翌シーズン以降はABA、NBDL、フランスなどでキャリアを続けた。シールズを有名にしたのが96年のアトランタ・オリンピック直前に行われたドリーム・チームⅢと学生選抜の練習試合。この試合、シールズのアウトサイド・シュートが大当たりで、前半は学生選抜が2桁リードを奪う展開となった。

このとき、学生選抜にはティム・ダンカン、ポール・ピアースらがいたが、シールズは彼らを上回るインパクトを残した。


エド・グレイ


カリフォルニア大バークレー校出身のSG。当時はシャリーフ・アブドゥル-ラヒムとチームメイトであった。ドラフト1巡目第22位でホークスに入団。カレッジ時代はハイスコアリングGとして知られ、起爆剤的な役割を期待されたが、30試合に出たのみでFG成功率は40%を切るなど期待には応えられなかった。そして2年目は更に悪化。99年のオフにはブレイザーズ、ロケッツと2度トレードされた末に解雇。二度とNBAでプレイすることはなかった。

爆発力のあるスコアラーだが、NBAのSGとしては小柄(6フィート3インチ)なのが響いたかもしれない。


ラスティ・ラルー


ウェイクフォレスト大出身のPG。バスケットではPG、野球ではピッチャー、フットボールではクォーターバックをやっていたというマルチなアスリートである。高校時代から三足のわらじを履き、そのすべてでノースカロライナ州のオール・ステイトに選出。カレッジではバスケットとフットボールをプレイすることを望んだが、1シーズンだけ野球もプレイしており、同シーズンに3つのスポーツをプレイしたACC史上2人目の選手となった。

フットボールではクォーターバックとして活躍し、カレッジ記録も樹立。一方、バスケットでは同大が4年連続でNCAAトーナメントに進むのに貢献した。96年のドラフトにはかからなかったが、97~98シーズンの開幕直後にスティーブ・カーが故障したブルズと契約。シーズン通して14試合しか出なかったが、契約直後にはクレバーなプレイとアウトサイド・シュートで、ドラフト外ルーキーとは思えない働きを見せた。「彼は頭がいい。シュートも上手いしね」とはフィル・ジャクソンのコメントである。

しかし、ブルズ王朝が崩壊したあとも特に伸びず、チームが本格的な再建期に入った99~00シーズン途中に解雇。翌シーズンはCSKAモスクワで過ごした。01~02シーズンはジャズに加入してそこそこ起用されるが、1シーズンしかもたず、翌シーズンはイタリアへ。03~04シーズンの終盤にもウォリアーズで4試合だけ出場した(開幕前にセルティックスと契約するが解雇されている)。引退後はバスケットとフットボールの両方で、コーチ業を務めている。


ロドリック・ローズ


ディフェンシブなスウィングマン。1巡目第24位でロケッツに入団し、ベテラン揃いのチームでなんとか58試合に出場。シーズン中盤にはまずまず貢献していた。翌シーズンの途中にはディフェンスを強化したかったグリズリーズにトレード。しかし、たいしたインパクトは残せず、99~00シーズンはシクサーズで開幕を迎えるが出番のないまま解雇され、シーズン終盤にマブスと契約。1試合だけプレイした。翌シーズン以降は各国のプロリーグを転々としている。

シュートエリアが狭く、FTにも難あり。もともとケンタッキー大でプレイしていたが、3年次終了後にHCのリック・ピティーノから赤シャツ要員(1年休む)となることを求められて、サザン・カリフォルニア大に移った。


マイケル・スチュアート


フランス出身のC(6フィート10インチ)。愛称の「ヨギ」は、『ヨギ・ベアー』という漫画に因んでいるという。サクラメントの高校を経てカリフォルニア大に進学。得点もリバウンドも特筆すべきものではなかったが、ブロックだけはトップクラスで、その数は同大史上1位である。NBAのドラフトにはかからなかったが、オフの間に地元キングスと契約を結び、開幕ロスター入り。余談だが、子供の頃にキングスのボールボーイをしていたことがあるそう。

ルーキーイヤーはディフェンスで予想外の活躍を見せ、シーズン半ばにはなんとスターターに昇格。オールデン・ポリニスが精彩を欠いていたとはいえ、ドラフト外ルーキーとしては見事な働きで、平均2.4ブロックをマークしている。これを評価され、98~99シーズンに先だってラプターズと6年間2400万ドルの長期契約を締結。しかし、ブロック以外でまったく存在を見せられないこと、インサイドの層が厚かったことなどからすぐに不良債権化してしまい、そのままパッとしない4シーズンを過ごした。

02年にはキャブスにトレードされ、翌03~04シーズン途中にはセルティックスへトレード。04~05シーズンを最後に現役を引退した。


ブッバ・ウェルズ


「ブッバ」はもちろん愛称で、本名はチャールズ・リチャード・ウェルズ。2巡目第35位でオースティンペイ大からマブス入りするが、滅多に起用されず、1年目終了後にサンズ、ブルズとトレードされた末に解雇されてしまった。ウェルズのハイライトは97年12月29日のブルズ戦。この試合、HCのドン・ネルソンはハック・ア・ロドマンを仕掛けるのだが、そのファウル要員に選ばれたのがウェルズだった。ウェルズはHCの指示を忠実に遂行し、僅か3分でファウルアウト。NBA史上最速で退場した選手となった。

因みにこの試合ではロドマンが12本中9本のFTを決めており、作戦は失敗に終わっている。ウェルズの前の記録保持者はナショナルズにいたディック・ファーリーで、56年3月に5分で退場している。


キース・ブース


メリーランド大出身のスウィングマン。同大は90年代前半にボブ・ウェイドというHCがNCAAの規律違反を犯したことで評判を落とし、大学進学を考える多くの高校のスーパースターに避けられていた。その壁を破ったひとりがブースである。ドラフトでは1巡目第28位で王者ブルズに入団。3連覇を目指すブルズではさすがに出番がなく、僅か6試合の出場に終わった。それでもジョーダンはブースの将来性を評価していたようだが、王朝崩壊後も開花せず、2シーズンでNBAのキャリアを終えた。

その後は04年に母校で、恩師ウィリアムスの元でACに就任した。


リック・ブランソン


テンプル大出身のPG。当時はエディ・ジョーンズ、アーロン・マッキーらとチームメイトだった。95年に同大を卒業するがドラフトにはかからず、プロ1年目をオーストラリア、2年目をCBAで過ごした。NBAデビューは97~98シーズンのブレイザーズで、そこから05~06シーズンまで移籍を繰り返しながら生き延びた。キャリアのハイライトはクリッパーズにいた04~05シーズン。主力の負傷とPG不在という状況からスターターとして起用されることも多く、自己最多の80試合に出場した。

所謂ジャーニーマンで、ブレイザーズ、ニックス、ブルズにそれぞれ2度在籍したことがある。ニックス時代にはラトレル・スプリーウェルと仲良くなったとか。サウスポー。

昭和62年ドラフト組①

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ブラック好きだったなぁ。暗くていいんですよねw

仮面ライダーは初代~RXまでしかみてないですが、個人的にはブラックがいちばん好きです。




ジャック・ヘイリー


ジャーニーマンの白人ビッグマン。UCLA出身で、ドラフト4巡目第76位でブルズ入り。個人としては、89~90シーズンの途中から翌シーズンまで過ごしたネッツ時代がピーク。93~95年には、戦力にはなっていなかったが、スパーズでデニス・ロドマンと良好な関係を築いたことで有名になった。95年にロドマンがブルズにトレードされると、ヘイリーも後を追うようにブルズと契約。当時は「ロドマンのベビーシッター」といった表現もしばしば聞かれた。

このタイプのジャーニーマンとしては珍しく、デビューから毎シーズン、最低1試合はNBAでプレイした。端正なルックスと私服のコーディネートがお洒落?なことでも有名。ベンチで熱心に応援したり、タイムアウトのときにベンチに戻ってくるチームメイトを鼓舞したりする姿が印象深い。


ケニー・スミス


94・95年とロケッツが2連覇したときのスターティングPG。ノースカロライナ大出身で、通算768アシストは同大の記録。86年には世界選手権で金メダルを獲得している。ドラフトでは1巡目第6位でキングスに入団。開幕からスターターとして起用され、オール・ルーキー1stチームに選出された。3年目は新HCに評価されず、シーズン半ばにはホークスに放出されるなど微妙な1年となるが、90~91シーズンにロケッツに移籍するとキャリアが復活。そしてピークを迎える。

ここではリーダー的な存在としてアキーム・オラジュワンとチームを牽引。先に触れた連覇に貢献した。しかし、サム・キャセールの台頭やムラの激しさなどから出場機会と役割が次第に減少。96年にはピストンズと契約を結ぶがローテーションにも入れず、シーズン序盤のうちに解雇。直後にマジックと10日間契約を結ぶが、ここでもすぐ解雇され、シーズンの残りはナゲッツでプレイした。引退後はチャールズ・バークリーらと解説者として活躍している。

愛称は「ジェット」。若い頃はダンク・コンテストにも出るなど、身体能力の高さを見せることもあった。アウトサイド・シュートの上手いPGで、特に3Pは95年のファイナル第1戦のように一度波に乗ると手が付けられない半面、シューターとしてもプレイメイカーとしてもやや物足りない感があった。


マーク・ジャクソン


史上最も低い順位での新人王。セントジョンズ大出身のPGで、ドラフト1巡目第18位でニックスに入団。1年目からいきなり得点とアシストでダブルダブルのアベレージを残し、新人王を受賞した。2年目も良いプレイを見せたが、自信過剰な態度、ロッド・ストリックランドの加入、HCの交代などから次第に立場が微妙になり、ベンチ・スタートとなるなど輝きを失っていった。パット・ライリーがHCに就任した5年目にスターターの座を取り返すが、フィットはせず、そのオフにはクリッパーズへと放出された。

クリッパーズではラリー・ブラウンHCのもとで司令塔の役割を果たし、プレイオフ進出に貢献。ブラウンは93年オフにペイサーズのHCとなるが、その1年後、あとを追うようにジャクソンもペイサーズへトレードされた。ペイサーズではエースのレジー・ミラーと相性が良く、ジャクソン合流後のペイサーズはいきなりチーム史上初めてカンファレンス・ファイナルまで進出(ABA時代は除く)。イースト屈指の強豪チームとなった。

96年オフには「トラビス・ベストは準備が出来ている」とブラウンHCが宣言し、ナゲッツへトレード。しかし、ジャクソンが抜けたペイサーズはオフェンスが機能せずに苦戦し、ジャクソンをシーズン半ばに呼び戻すという失態を見せた。因みにナゲッツでは自由にゲームメイクを任され、勝利には繋がらなかったけどアシストを量産。平均12.3アシストをマークし、初めてアシスト王に輝いた。これはジョン・ストックトンの連続アシスト王記録を途切れさせてのモノであった。

00年にはより大きな契約を求めてラプターズと契約するが、ラプターズはPGを必要としていたにもかかわらず今ひとつフィットせず、シーズン半ばに古巣ニックスにトレード。ニックスもPGを探していたのだが、このときもジャクソン加入が戦力アップになることはなかった。02~03シーズンはジャズでストックトンのバックアップとしてプレイ。奇しくもここで通算アシスト数で2位に浮上した。翌シーズン、ロケッツでプレイしたのを最後に現役を引退。

引退後は解説者を経て、ウォリアーズのHCに就任。フロントとの不仲?で解任されてしまったが、ジャクソンのお陰でウォリアーズは良いチームになった。NBAで成功したPGとしては珍しく、ずんぐりした体型。そのためスピードがなく、ディフェンスで穴となることから、特にキャリア終盤は試合終盤に起用されないことも多かった。ただ、その体型を活かした?ポストプレイで攻撃の起点となるなど、ユニークなプレイスタイルも特徴のひとつ。

短時間でアシストを量産することが出来、手は小さいが、ノールックパスなどトリッキーなテクニックを魅せるのも得意としていた。好プレイを決めた後は腕をクロスさせたり、ジャクソン・ジグルと呼ばれたダンスをしたりする一面もあった。オールスターには一度選ばれたのみで、スーパースターという印象はないが、通算アシスト数は殿堂入りしてもおかしくない数字であり、将来どう評価されるか興味深い。


ドナルド・ロイヤル


ドラフト3巡目第52位でキャブスに指名された6フィート8インチのSF。ノートルダム大出身。キャブスには残れず、CBAで2シーズン過ごした後、89~90シーズンの創設1年目のウルブズでNBAデビュー。ここでは生き残れず、翌シーズンはイスラエルでプレイした。しかし、91~92シーズンの序盤にスパーズと契約を結ぶと、92年オフにマジックへ移籍してプチブレイク。層の薄さも手伝ってか出場機会が増加し、ベンチの要となった。

94~95シーズンは出場したほとんどの試合でスターターとしてプレイ。プレイオフの途中でベンチ・スタートとなってからは影が薄くなるが、チーム史上初のファイナル進出メンバーとなった。96~97シーズンの開幕戦直後にウォリアーズへトレードされると途端に役割が縮小し、トレード期限には更にホーネッツヘトレード。こうなるともう需要は少なく、翌シーズンをマジックとホーネッツでプレイしてNBAを去った。3Pはないがシュートの精度が高く、時間効率の良い選手。身体能力もまずまず。


デュアン・ワシントン


デレック・フィッシャーの兄。ジュニア・カレッジを経てミドル・テネシー州立大でプレイし、ドラフト2巡目第36位でブレッツに指名された。因みに同大史上初のNBA選手である。開幕ロスターには残れなかったが、シーズン終盤にネッツと契約し、15試合で起用された。しかし、88年10月にリーグの薬物規定に違反して2年間の出場停止処分を喰らってしまい、そのまま解雇。処分期間が終わった後もすぐにNBAに復帰することは出来なかった。

92~93シーズン半ばにクリッパーズと10日間契約を結び、ようやく復帰を果たすが、4試合だけ出てすぐに解雇。ここでキャリアを終えた。


ブラッド・ローハウス


6フィート11インチの長身シューター。サウスポー。アイオワ大出身で、同大では3人のHCの下でプレイ。ローハウスを同大にリクルートしたリュート・オルソンは1年でアリゾナ大へ去り、2・3年次はジョージ・ラベリングの指導を受けた。ローハウスはオルソンを気に入っていたようだが、4年次にラベリングの後任であるトム・ディビスの下で開花。フルコート・プレスの先頭を守るシューティング・ビッグマンとして活躍の場を得た。このときはリバウンドやブロックでもチームをリードしている。

ドラフトでは2巡目第45位でセルティックス入り。ここでは従来のビッグマンとしての役割を求められ、上手く機能せず、2年目の途中にはキングスへトレード。そのオフには更にエクスパンション・ドラフトでウルブズへ移籍した。新チームではスターターとして起用されるが、シーズン半ばにバックスへトレード。そして、この移籍がローハウスのキャリアを助けることとなる。バックスでは主にベンチ・スタートながら得意のペリメーターでのゲームを活かす機会を与えられ、4シーズン半を過ごした。

94~95シーズンはカレッジ時代のチームメイトであるケビン・ギャンブルとヒートで再会するが、この頃から移籍・解雇が頻発。プロ最後の2シーズン(96~98年)は、シーズン通してプレイすることも出来なかった。ロックアウトが長引く中、現役引退を決意。


ウィンストン・クライト


テキサスA&M大出身。チーム史上1位のブロック、2位のリバウンドを誇るなど同大史上に残るスター選手である。しかし、NBAのPFとしてはかなり小柄(6フィート7インチ・233ポンド)だったためかNBAチームからの評価は高くなく、ドラフト3巡目第53位でサンズに指名された。そして実際にほとんど活躍できず、2年目のシーズン序盤で解雇。その後はスペインやフランスなどでプレイ。93年にはフランスのリーグでMVPに輝いている。

02年に現役を引退。フィリピンでプレイしていたときにはスラムダンク・コンテストに出たこともある。

昭和62年ドラフト組②

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オーラパワーがほしい!




ケビン・ギャンブル


6フィート5インチのスウィングマン。リンカーン・カレッジで2年、アイオワ大で2年過ごし、ドラフト3巡目第63位でブレイザーズに指名された。アイオワ大が85年にリクルートした選手のひとりで、同期にはBJ・アームストロングらがいる。ブレイザーズで9試合出ただけで解雇され、シーズンの残りはCBAでプレイした。NBA定着のきっかけとなったのは、翌シーズン序盤にセルティックスに拾われたこと。ラリー・バードの戦線離脱を受けての動きであった。

そのシーズンは一端のベンチ・プレイヤーだったが、少しずつ存在感を示し、3年目にはスターターに定着。平均15.6点をマークしただけでなく、ウィングの選手としては驚異的な60%近いFG成功率をマークした。主力の高齢化やレジー・ルイスの急逝など戦力下降気味のチームで、貴重なロールプレイヤーとして活躍していた。94年オフにヒートへ移籍し、翌シーズンのトレード期限にはキングスにトレード。96~97シーズン終了後にキャリアを終えた。

セルティックスを離れてからは、老け込むような年齢でもなかったが出場機会は限られ、あまり目立たなかった。最盛期は非常に精度の高いシューターで、キャリアを重ねるに連れて3Pもレパートリーに加わった。


スコッティ・ピッペン


史上最高のオールラウンダーと称されるSF。ブルズで6度の優勝を経験しており、オール・ディフェンシブ・チームに8度、オールNBA1stチームに3度、オールスターに7度選出され、94年にはオールスターMVPを受賞した。NBAの偉大な50人にも選ばれ、ブルズ史上永久欠番となった4人目の選手でもある。セントラル大アーカンソー校の出身で、入学当時は6フィート1インチしかなく、用具係だったという話は有名である。

4年間で6フィート8インチまで背が伸びたピッペンは選手としても成長を見せ、ドラフト前のワークアウトでも幾つかのチームから高い評価を得た。なかでも強く関心を持ったのが、8位指名権を持っていたブルズのジェリー・クラウスGMで、獲得を画策。クラウスは、6位指名権を持つキングスもピッペンを狙っていることを知って、5位指名権のソニックスと取引。こうしてピッペンは1巡目第5位でソニックスに指名され、直後にブルズにトレード、入団に至った。

ルーキーイヤーはバックアップFだったが、プレイオフでスターターとして起用され、過去10年で初の1stラウンド突破に貢献。翌シーズン序盤にはスターティングSFに定着し、3年目にはオールスター初出場も果たした。ピッペンの成長に比例するようにチームも強くなり、89・90年と2年連続でカンファレンス・ファイナルまで進出。どちらの年も王者ピストンズをあと一歩というところまで苦しめた、ただ、ピッペンは2年連続で肝心な第7戦で不発。精神的にヤワというレッテルを貼られてしまう。

これらに次ぐ90~91シーズン、ピッペンはオールスターには選ばれなかったが一回り成長を見せ、リーグ屈指のディフェンダー兼ジョーダンに次ぐオフェンスの脅威として台頭、プレイオフでも堂々とプレイした。3年連続の顔合わせとなったピストンズとのカンファレンス・ファイナルではデニス・ロドマンのラフプレイにも動じず、チームもスウィープで勝利。レイカーズとのファイナルではマジック・ジョンソン相手に好ディフェンスを見せ、ディフェンダーとしての評価を高めた。

91年のチャンピオンとなったブルズは続く2年も優勝し、3ピートを達成。92年の夏にはドリーム・チームⅠのメンバーとしてバルセロナ・オリンピックで金メダルをも獲得している。そして93~94シーズンのトレーニング・キャンプ直前にはジョーダンが現役引退を表明。ブルズはピッペンのチームとなった。ピッペンはシーズンMVPの投票で2位に食い込むほどの活躍を見せ、オールスターではMVPを受賞。スティール王にも輝いた。

ブルズはジョーダンが抜けたにもかかわらず前年比マイナス2勝の55勝をマーク。フィル・ジャクソンHCは「この年はスコッティがMVPをとるべきだった」とコメントしている。ただ、この年はニックスとのカンファレンス・セミファイナルで有名なボイコット事件を起こしており、オフには同期入団で仲の良かったホーレス・グラントがフロントと揉めてマジックに移籍してしまうなど、微妙な時期でもあった。ソニックスのショーン・ケンプとのトレードの噂が出たり、クーコッチとの不仲が噂されたのもこの頃である。

グラントを失った94~95シーズンのブルズは序盤から苦しい戦いが続いたが、シーズン終盤にジョーダンが復帰。勝率5割そこそこだったチームはジョーダンの復帰で13勝4敗とスパートをかけた。プレイオフではマジックに敗れるが、ブルズはそのオフにロドマンを獲得。ピッペンとの関係等、ロドマンの加入は様々な懸念を抱かせたが、ジョーダン、ピッペン、ロドマンの3人はジャクソンHCの元で絶妙なバスケットを展開し、史上最高勝率となる72勝10敗をマークし、見事チャンピオンになった。

ファイナルでのピッペンはシュートタッチが悪く、ロドマンの方が目立ったが、ファイナル直後の夏はアトランタ・オリンピックに出場して金メダルを獲得。翌シーズンはロドマンやクーコッチらが安定しなかったこともあってシーズン通してフル稼働し、リーグ史上2位タイの69勝13敗、2連覇に貢献した。しかし、97年オフにクラウスGMとの確執が表面化。元々関係はよくなかったが、ピッペンは自身のサラリーの低さなどを理由に正当な評価を受けていないとフロントを批判し、一方でトレードの噂も浮上した。

こうした中でピッペンはトレーニング・キャンプ直前に手術を行い、シーズン最初の2ヶ月ほどを欠場することが決定。オフに入ってすぐ手術していれば開幕に間に合ったと言われ、おまけに開幕直後には公にトレードを要求した。結局そのシーズンは移籍せず、ブルズで復帰して2度目の3ピートを達成するのだが、過去2年に比して苦戦を強いられた。そして、ファイナル終了から間もなくジャクソンHCがチームを去り、ロックアウトを挟んでジョーダンが2度目の引退を表明。次はピッペンの番だった。

ピッペンはサイン&トレードでロケッツに移籍。望み通りの大型契約を結び、また、移籍先も希望通りで、このときばかりはクラウスに感謝したとか。オラジュワン、バークリーと新たなビッグ3を形成したロケッツは98~99シーズン注目のチームとなったが、ピッペンはフィットせず、1stラウンド敗退と不本意なシーズンとなってしまう。オラジュワン、バークリーのアイソレーション中心のオフェンスはピッペンには合わなかった。そしてオフにはバークリーと仲違いが発生。

ピッペンはトレードを要求し、バークリーがそれに噛みついて泥沼化。最終的にはピッペンは大型トレードでブレイザーズへトレードされた。デイモン・ストウダマイヤー、スティーブ・スミス、ラシード・ウォレスらにピッペンが加わってリーグ屈指の層の厚さとなったブレイザーズは、開幕から絶好調。プレイオフではカンファレンス・ファイナルでレイカーズに惜敗するが、セミファイナルではジャズをスウィープするなどインパクトを残した。

しかし、ブレイザーズはこのときがピークで、ピッペンのキャリアもここから下降。02~03シーズンにはPGとして起用され、従来のPGであるストウダイマイヤー以上の働きを見せるなど、選手としての格の高さはさすがだったが、毎年のように故障がついて回るようになり、03~04シーズンを古巣ブルズで過ごして現役を引退した。最後のシーズンは23試合しかプレイしていない。05年12月9日のレイカーズ@ブルズ戦ではハーフタイム中に永久欠番セレモニーが行われた。

ハンドリングと状況判断がよく、キャリアを通じてPG的役割を任されることも多かった。シューターとして不安定だが平均20点以上稼げる得点力もある。ブルズ時代は△オフェンスの潤滑油的存在で、システムの中で非常に効果的な働きを見せていた。また、ディフェンスの評価はオフェンス以上に高く、リーグ史上でみても有数のディフェンダーである。PG~PFまでマッチアップが可能で、「ワンマン・レスキュー」と言われるほどヘルプ・ディフェンスも上手かった。

「ジョーダンの陰」など厳しい評価を受けることもあったが、そのジョーダンが「僕を止められるのはスコッティだけ」「スコッティが僕を最高の選手にしてくれた」と最大級の賛辞を送っている。因みに引退後の08年、1試合だけスウェーデンでプレイしたことがある。


テリス・フランク


ドラフト1巡目第14位でウェスタン・ケンタッキー大からウォリアーズ入りした、6フィート10インチのF/C。1年目は78試合中29試合でスターターを務めるなど、積極的に起用されたが、結果を残せず、2年目は出場機会が大きく制限された。89年オフにヒートへ移籍し、創設2年目のチームでキャリア最高の成績を残すが、オフには解雇。翌90~91シーズンはNBAでプレイしなかった。ヨーロッパでの1年を挟み、91~92シーズン、93~94シーズンにウルブズでもプレイしている。

95年にはキャブスと契約を結ぶが、開幕前に解雇された。


クリス・ダドリー


オフェンス全般が不得手ながら、ディフェンスとリバウンドで16シーズン生き残ったC。エール大出身で、ドラフト4巡目第75位でキャブスに入団。当時はリーグ唯一の糖尿病の選手であった。3年目の途中にネッツへトレードされ、93年には更にブレイザーズへ移籍。94~95シーズンには初めて全82試合でスターターを務めた。97年にはユーイングのニックスへ移籍。(恐らく)年齢的な衰えと若手の台頭で出場機会は減少したが、当時のニックスのチームカラーには合っていた。

00年には◇トレードでサンズへ移籍。サンズで1年プレイした後、古巣ブレイザーズで2年過ごし、現役を引退した。最後のシーズンは3試合しか出ていない。キャリアのピーク時はリバウンドとブロックが光ったが、それもリーグリーダーになるほどではなかった。ただ、その献身的なスタイルはチームへの貢献度が高く、スターC不在のネッツ、ブレイザーズ時代はスターターとして起用されることが多かった。キャリア晩年にダドリーを指導したモーリス・チークスは「本当のプロだよ」と絶賛している。

不格好なFTは有名で、90年4月14日の試合では13本連続を含む、18本中17本のFTを外したこともあった。


ホーレス・グラント


ブルズが91~93年に3ピートしたときのスターティングPF。クレムソン大出身で、ハーベイ・グラントの双子の兄でもある。ドラフト1巡目第10位でブルズに入団。チャールズ・オークリーのバックアップとしてキャリアをスタートした。89年にそのオークリーがニックスへトレードされるとスターターに昇格。すぐにチーム1位のリバウンダーとなり、得点でもチーム3位となるなど期待に応えた。当時のブルズは激しいプレス・ディフェンスが売りのひとつで、PFながらスピードのあるグラントの存在は貴重だった。

ジョーダンが現役を引退した93~94シーズンはオールスターにも初選出されるが、そのオフに再契約の交渉でフロントと揉めて決別。FAとしてマジックに移籍した。優勝を狙える環境を考えてマジックを選択したというグラントは、マジックにフィット。シャック&ペニーを上手くサポート&リードし、いきなりチーム史上初のファイナル進出に貢献した。カンファレンス・セミファイナルでは古巣ブルズを下しており、そのときはチームメイトに担がれてタオルを振り回すなど、グラントの存在は大きかった。

しかし、シャックの移籍やペニーの故障でマジックの状況も変わり、再建期に入った99年オフ、ドラフト当日のトレードでソニックスへ移籍した。ここではチーム事情からCとして起用された。00~01シーズンはレイカーズでプレイ。さすがに衰えは明らかだったがスターティングPFとして1シーズン過ごし、連覇に貢献している。01年オフには古巣マジックと契約を結ぶがドック・リバースHCと揉め、翌シーズンの開幕直後に解雇。一度はここで現役を退くが、03年オフにレイカーズと契約。

フィル・ジャクソンHCのもと、シャック&コービーに加え、カール・マローン、ゲーリー・ペイトンが加わった豪華な布陣のなかで最後のシーズンを過ごした。愛称は「ジェネラル」。ゴーグルがトレードマークだが、これを着用するようになったのは5年目くらいからである。レイカーズ時代はサングラス型のモノをつけていた。シャックが「一緒にプレイした中で最高のPF」、ロドマンが「ブルズのハートだった」と評するなど、そのプレイに対する評価は高い。

ブルズ時代はジョーダン、ピッペンに次ぐ3rdオプションであることに不満もあったようで、また、ジョーダンに「ホーレスは僕のことを尊敬していないようだ」とコメントされたり、ジャクソンHCとの関係が良好ではないと言われたりしたこともあった。攻守にバランスのとれたPFで、オール・ディフェンシブ・チームに4度選出されたことがある一方、ミドルレンジのジャンパーなどオフェンスの精度も高かった。


ジョー・ウルフ


名門ノースカロライナ大出身のPFで、ドラフト1巡目第13位でクリッパーズ入り。1年目は42試合中26試合でスターターを務めたが、平均7.6点・FG成功率40.7%に終わるなど期待外れで、90年にはナゲッツに移籍した。移籍1年目はチーム事情から主にCとして積極的に起用され、自己最高のシーズンを過ごすが、翌年はムトンボの加入でトーンダウン。オフにはセルティックスへ移籍した。しかし、開幕直後にすぐ放出され、ブレイザーズへ移籍。計23試合の出場に終わり、翌シーズンはNBAを離れた。

94~95シーズンにホーネッツでNBAに戻ってくるが、それ以降は現役最後の98~99シーズンまで、ほぼ1シーズンずつ移籍を繰り返した。96~97シーズンには故郷に近いバックスでもプレイしている(ウィスコンシン州の生まれ)。余談だが、そのシーズンのブルズ戦でデニス・ロドマンに股間を叩かれたことがある(ロドマンは1試合の出場停止)。高校時代は地元のスターで、カレッジ時代も、機動力があり、3Pも打てるビッグマンとして活躍した。ただ、そうしたプレイの幅の広さは、NBAではたいした脅威とならなかったよう。


ビンセント・アスキュー


メンフィス州立大出身のスウィングマン。在学中にカンザス大に移ることを考えたが、NCAAの規定違反を犯してしまい、同大に残った。カンザス大訪問中にアスキューの祖母が亡くなり、当時同大のHCだったラリー・ブラウンにメンフィスに帰るための飛行機のチケットを渡されたのだが、それが不当な勧誘に相当してしまったというのがその理由だという。アスキューは3年次終了後にアーリー・エントリーを表明するが、評価は高くなく、ドラフト2巡目第39位でシクサーズに指名された。

各チームのスカウトは、アスキューの多彩さを評価していたモノのNBAで生き残っていける選手かは疑わしい、とみていたとか。実際、シクサーズからはシーズン序盤のうちに解雇され、その後の3週間をブレッツで過ごすが、ここでは1試合も起用されないまま解雇、CBAに移った。転機となったのは90~91シーズン終盤にウォリアーズに拾われたこと。10日間契約ではあったが、そのまま生き残り、翌シーズンはバックアップながら80試合に出場した。

92~93シーズンはキングスで開幕を迎えるが、すぐにソニックスにトレード。複数のポジションをこなせるアスキューはソニックス自慢のベンチ陣の一角となった。当時は、「リーグで5本の指に入る6マン」と高く評価する見方もあるほどだった。しかし、95~96シーズン終盤(プレイオフ?)、自身の起用法に文句を付けて不満分子と化すと、オフにはネッツへ移籍。迎えた96~97シーズンは、開幕戦をプレイしただけでペイサーズへトレードされ、トレード期限には更にナゲッツへ放出された。

ペイサーズでは数年を経てブラウンHCと再会。ブラウンはアスキューのディフェンスとアンセルフィッシュさを評価していた。ナゲッツでは1試合しかプレイしていない。オフにはブレイザーズと契約するが、途中で解雇。これが最後のプレイとなった。アウトサイド・シュートは精度が低いが、ポストでもペリメーターでもプレイでき、ディフェンスに長けた、使い勝手の良い選手。CBAで2年連続MVPを受賞した、史上唯一の選手でもある(90・91年)。

引退後は母校メンフィス大に戻ってジョン・カリパリの下で働いたり、ソニックス時代のHCであるジョージ・カールの勧めで海外に行ったりとコーチ業に勤しんでいるが、トラブルを起こすなどあまり順調ではない様子。

昭和62年ドラフト組③

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ローラースケートには惹かれなかったけど、この曲は大好きでした。




レジー・ウィリアムス


愛称は「シルク」。ボルチモアにあるポール・ローレンス・ダンバー・ハイスクールの出身で、そこでマグジー・ボーグス、レジー・ルイス、デビッド・ウィンゲートらとチームメイトだったのは有名。当時の同校は無敵であった。ジョージタウン大では1年次(84年)のNCAAファイナル、ヒューストン大戦で活躍を見せている(ジョージタウンの勝利)。4年次には得点・リバウンド・スティール・ブロックでチームをリードし、当時のチームはジョン・トンプソンHCに「レジー&ミラクルズ」名付けられたほどであった。

ドラフトでは1巡目第4位でクリッパーズに入るが、1年目は故障もあってか期待に応えられず、同期入団(19位指名)のケン・ノーマンの方が活躍していた。2年目もベンチ・プレイヤーどまりで、3年目は開幕直後とシーズン半ばに2度のトレードを経験。どちらのチームでもインパクトを残せなかった。しかし、4年目の途中にナゲッツへ移籍してからキャリアが好転。スターターとして起用されるようになって成績も上昇、5年目の91~92シーズンにはキャリアハイの平均18.2点をマークした。

以降、4シーズンに渡って主にスターティングSFとしてプレイするが、95~96シーズンはFの層が厚くなったことでスターターを外されてしまい、出場機会も激減。そのオフにはペイサーズにトレードされた。現役最後の96~97シーズンは開幕直後にネッツへ放出され、途中で解雇されている。ナゲッツ時代はキャプテンを務めるなど中心的役割を担っていた。


マグジー・ボーグス


5フィート3インチのPGで、NBA史上最も背の低い選手。ダンバー・ハイスクールの出身で、当時はレジー・ルイスらとチームメイトだった。カレッジはウェイクフォレスト大で、86年には世界選手権で金メダルを獲得している。ドラフトでは1巡目第12位でブレッツに入団。チームには史上最長身のマヌート・ボルがおり、異色のコンビとなるのだが、ボーグスはブレッツにフィットしなかった。スピードを活かしたアップテンポなバスケットを好むスタイルは、ベテラン揃いのブレッツには不向きだった。

そしてそのオフ、ブレッツはPGが弱点だったにもかかわらず、エクスパンション・ドラフトでプロテクトされず、ホーネッツへ移籍した。当初はHCとの相性などもあり、ムラのある起用が続いたが、アラン・ブリストウがHCになってからはのびのびとプレイ。ラリー・ジョンソン、アロンゾ・モーニングらを擁し、テンポの良いバスケットを展開するホーネッツは、全米屈指の人気チームとなった(観客動員数は当時のリーグ最多)。チーム力も確かで、「フューチャー・ブルズ」と呼ばれていたのは有名であろう。

しかし、契約の問題でモーニングがチームを去った95~96シーズンから、ボーグスの受難が始まる。このシーズンは故障のために76試合を欠場し、翌シーズンは復帰したが、フロントはボーグスの故障と年齢を懸念し、デビッド・ウェズリーという新たなPGを連れてきた。ボーグスはチームから引退を勧められるがそれを拒否、結局97~98シーズンの開幕直後にウォリアーズへとトレードされた。このときのウォリアーズは弱い上にスプリューエルの首しめ事件があるなど、ろくな状況ではなかった。

それでも2シーズンを過ごし、99年オフにはラプターズと契約。移籍1年目はバックアップとして効果的な働きを見せたが、翌シーズンは故障で3試合しか出られず、トレード起源にニックスへトレード。故障者リストに入ったままシーズンを終え、オフにはマブスへ放出されるが、直後に現役を引退した。テンポの速い展開が得意だが、スタイルはゲームメイク優先のPGで、シュート力に長けているワケではない。ミスが少なく、アシスト/TOの比率は常にリーグ・トップクラスであった。


デビッド・ロビンソン


NBA史上屈指のCのひとり。海軍士官学校の出身であることから「提督」と呼ばれた。高校時代はさほど注目を集めるような存在でなく、背も高くなく、ロビンソンにとっての最優先事項も教育を受けることだったようである。しかし、カレッジ進学後に7フィートまで成長。選手としても頭角を現していった。卒業して87年のドラフト候補生となり、1巡目第1位でスパーズに指名されるが、海軍の兵役があるため、チーム入りまで2年のブランクが空くこととなった。

兵役は通常5年だが、ロビンソンは身長が高くなり過ぎ、幾つかの任務を行えないことなどから、3年分を大目にみてもらうことができた。因みに、海軍士官学校は6フィート8インチ以上の生徒の入隊を禁じていたのだが、入隊後に身長制限を超えた生徒は落とさないようである。一時はスパーズと契約を結ばず、兵役終了後にFAとなるという思惑もあったようだが、89~90シーズンから無事にスパーズでNBAデビューを果たした。

ロビンソンが加わったスパーズは前年プラス35勝の56勝26敗をマーク。前年比の勝利数の伸び幅は当時リーグ史上1位の記録で、チームはカンファレンス・セミファイナルまで進出。この年ファイナルに進むブレイザーズを苦しめ、ロビンソンはもちろん新人王を受賞した。2年目はリバウンド王を獲得し、チームもウェストの第2シードを獲得するなど更なる飛躍を見せたが、1stラウンドでまさかの敗退。3年目はHCの交代やロビンソン自身の怪我などでパッとせず、再び1stラウンドで姿を消した。

4年目の92~93シーズンもHCの交代や主力の故障に苦戦。そこで、フロントは93年オフにピストンズからデニス・ロドマンを獲得した。これは当初は大成功の補強で、リバウンドとディフェンスのスペシャリストであるロドマンはロビンソンの負担を軽減。ロビンソンは得点をアップさせ、得点王を獲得。シャキール・オニールとの得点王争いは熾烈で、シーズン最終戦でフランチャイズ記録の71点をあげたロビンソンに軍配が上がったのは有名である。

ただ、この年もプレイオフは1stらうんどであっさり敗退。ロビンソンは精彩を欠き、ロドマンも出場停止処分を喰らうなどいいところがなかった。翌94~95シーズンにはシーズンMVPを受賞するが、プレイオフではやはり肝心なところで奮わず、チームもカンファレンス・ファイナルで敗退。このときはロケッツのアキーム・オラジュワンに歯が立たず、その不甲斐ないプレイぶりはのちにロドマンに自伝の中で非難されてしまった。

そして転機が訪れる。96~97シーズンの開幕前、プレシーズンで背中を傷めたロビンソンは故障者リスト入りしたまま開幕。1ヶ月ちょっと経ったところで復帰するのだが、6試合後のヒート戦で今度は足を骨折、シーズンが終わってしまった。ロビンソン不在のスパーズは一気にドアマット・チームとなり(他にも怪我人がいたが)、まさかの20勝62敗でシーズンを終了。スパーズはこの不振のお陰で97年ドラフトの1巡目第1位指名権を獲得した。

スパーズはその指名権でティム・ダンカンを指名。復帰したロビンソンとのコンビは「ツインタワー」と呼ばれ、すぐにスパーズの代名詞となった。当時、対戦したジョーダンも「(ブルズが勝ったが)ポテンシャルの高いチームだ」と評価している。ロックアウトを挟んだ翌シーズンからは、ロビンソンはエースの座をダンカンに譲り、サポート的な役割へシフト。「簡単なことではなかった」とのちに語っているが、チームとしてはこれが功を奏し、スパーズは99年のチャンピオンとなった。

このときは圧倒的な強さを誇り、プレイオフ通して2敗しかしなかった。サポート役となってもロビンソンの評価は高く、翌99~00シーズンにはそれまで同様オールスターにも選出。ただ、シーズン終盤~プレイオフにかけてダンカンが故障で離脱した際、ロビンソンはチームをリードすることができなかった。続く00~01シーズンには衰えが顕著となり、02~03シーズン開幕直後にシーズン終了後の引退を発表。スパーズは2度目の優勝を飾り、ロビンソンは最高の形でコートを去ることになった。

現役時代に残した記録は数えたらキリがなく、史上5人しかいない1試合で70点以上をマークしたり、史上4人しかいないクアドゥルプル・ダブルの達成したり、その実績は歴代のスター選手たちの中でも輝いている。新人王、MVP、ディフェンシブ・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー、得点王、リバウンド王、ブロック王になった史上唯一の選手でもある。オリンピックには92年のドリーム・チームⅠも含め、3度出場。世界選手権でも一度プレイしている(86年)。

7フィート1インチ・235ポンドで、Cの体格ながらSFのスピードを持つとも評された(ような記憶があるw)。攻守にレベルが高く、歴史に名を残すCだが、エースとして頼りにならないという評価を覆すことはできなかった。紳士的で品行方正なことでも知られ、その性格は「ソフトだ」「フィジカル面で弱い」などの批判と表裏一体だったかもしれない。敬虔なクリスチャンで趣味は音楽。地域の慈善事業などにも熱心であった。カレッジ時代から着用した背番号50は憧れのラルフ・サンプソンに肖っている。


レジー・ルイス


ノースイースタン大出身。同大出身のNBA選手は少なく、ルイスが4人目である。当時の背番号は同大の永久欠番で、ユニフォームはマシューズ・アリーナに吊されている(セルティックスが46年に発足したときのアリーナ)。ドラフト1巡目第22位でセルティックス入り。1年目は平均10分にも満たないプレイングタイムだったが、翌シーズン、HCがKC・ジョーンズからジミー・ロジャースに代わり、ラリー・バードが故障で76試合を欠場したことなどから出場機会が増加した。

平均18.5点をマークするなど飛躍的に成績を伸ばしたルイスは、バードが復帰した翌シーズン以降も主力として活躍。4年目にはスターターに定着し、オーランドで開催された92年のオールスターにも出場した。3Pは苦手だったが得点力の高いオールラウンダーで、リバウンドやブロックにも強かった。キャプテンも務めるなど、主力の高齢化による戦力低下が避けられなくなった当時のセルティックスにおいて希望の光となったが、悲劇は突然訪れる。

93年のプレイオフ1stラウンド第1戦、ルイスは序盤から好調だったが、試合中に突然ふらついてフロアに倒れてしまう。ルイスは自力で立ち上がり、プレイに戻るが、体の不調を訴えて退場。シリーズの残りも欠場した。そしてそのオフ、ブランディ大での練習中に心臓発作で亡くなった。まだ27歳だった。死因は肥大型心筋症だと考えられており、数ヶ月前に不整脈の兆候があったことも明らかになっている。コカインの使用があったのではないか?といった議論もあるようだが、噂の域を出ていない模様。

背番号35はセルティックスの永久欠番。セルティックス史上、欠番となったが優勝を経験していない2人のうちの1人である。もうひとりはエド・マカウリー。最後の試合となったシリーズはホーネッツとの対戦で、旧知の仲であるマグジー・ボーグス、デビッド・ウィンゲートがプレイしていた。


サルナス・マーシャローニス


リトアニア出身のG。88年のソウル・オリンピックではアルビダス・サボニスとともに母国を金メダルに導いた。ドラフトでは6巡目128位でウォリアーズに指名され、2年後の89年オフに入団。20分程度のプレイングタイムながら1年目から6マンとして活躍し、91・92年には6マン・アワードの候補にも挙がった。91年にチームがミッチ・リッチモンドを手放したのも、同ポジションにマーシャローニスがいたことと無関係ではないだろう。

しかし、92~93シーズンを故障で52試合欠場すると、93~94シーズンは膝の故障で全休。この間にウォリアーズの陣容も変わり、94~95シーズンに戦列復帰したときはソニックスにいた。翌95~96シーズンはキングスへ移籍。故障前のキレはなくなっていたが、今度はアウトサイド・シュートで貢献した。96年にはナゲッツへトレードされるがまたしても故障に泣き、現役を引退した。最後のシーズンは17試合しかプレイできなかった。

コンボガード的な選手で、ウォリアーズ時代はディフェンダーの隙間を縫っていくようなドライブが強力で、ファウルをもらうのも上手かった。当時は50%を上回るFG成功率をマークしている。ネルソンが通訳係として息子のドニー・ネルソンを雇うなど、当初は言葉の壁もあったようだが、90年代後半から盛んになる国際化の先駆け的存在と見ていいだろう。リトアニア独立後は母国の代表としても活躍しており、バルセロナ、アトランタの2大会で銅メダルを獲得している。


ケビン・ジョンソン


サンズ史に残るPG。愛称はKJ。高校時代は野球もやっており、86年にはアスレチックスから指名を受けた。周知のようにバスケットを選んだKJはカリフォルニア大バークレー校に進み、その後、ドラフト1巡目第7位でキャブスに入団した。しかし、このシーズンのキャブスは2年目のマーク・プライスがブレイクしたシーズンでもあり(プライスは2巡目指名で1年目はベンチ・プレイヤーだった)、KJの居場所はなく、シーズン途中にサンズへとトレードされた。

サンズではHCのコットン・フィッシモンズの指導もあって順調に成長。2年目にはMIPを受賞し、トム・チェンバースト強力なデュオを形成。ここから4シーズンほどの活躍はめざましく。平均20点・10アシストをマークする、リーグを代表するPGとなった。92~93シーズンはチャールズ・バークリーの加入で、ファイナルまで進出。KJは故障などで33試合を休むなど低調で、ファイナルでも苦戦する場面が見受けられた。第6戦のラストでホーレス・グラントにブロックされたのも有名であろう。

これ以降のKJは故障が増え、不安定なプレイも目に付くようになり、チームも下降線(もちろんKJだけの責任ではないが)。丁度10年目の96~97シーズン終了後には現役を引退すると宣言した。このシーズン、サンズは開幕から長い連敗を喫するが、シーズン前半にジェイソン・キッドが加入。KJとキッドのPGデュオは上手く機能し、シーズン終盤に猛烈な快進撃を見せ、プレイオフでも1stラウンドで第2シードのソニックスを苦しめた。

シーズン後、周囲の説得にあったKJはもう1シーズンだけ続けることを決意。今度はキッドのバックアップを務め、翌オフに現役を引退した。99~00シーズン終盤にキッドが故障したとき、サンズのフロントから声を掛けられて一時的に復帰しており、シーズン6試合とプレイオフしかプレイしなかったが、KJとサンズの良好な関係を感じさせる動きだった。カレッジ時代の背番号11、サンズでの背番号7は永久欠番になっている(キャブスでは11番を付けていた)。

オールスターには3度出場し、94年にはドリーム・チームⅡのメンバーとして世界選手権で金メダルを獲得。長いNBAの歴史でもアベレージで20点・10アシストをクリアした選手は4人しかいない。93年のファイナルで記録した1試合62分の出場というのはNBA記録。6フィート1インチのサイズながら、若い於呂はビッグマンの上からダンクを叩き込むこともあった。本人はオラジュワンの上から決めたダンクが思い出深いとか。

オールスター初出場の際には41番を着用しているが、それはチームメイトだったマーク・ウェストに肖っている。


平成7年ドラフト組①

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またしてもやってしまいました・・・あずきちゃんは1995年でしたm(_ _)m

あずきちゃんの方は「LOVELOVE愛してる」に代えてます。




デビッド・ヴォーン


ドラフト1巡目第25位でマジックに入団。6フィート9インチのF/Cでメンフィス州立大の出身である。1年目は第3のC扱いで出番がほぼなく、シャックが移籍した2年目は開幕スタメンに抜擢されたが、ロニー・サイカリーに敵うはずもなく6試合でベンチに降格。オフにはウォリアーズへトレードされた。ここではそれまでで最高のプレイを見せていたが、シーズン途中にブルズにトレードされてすぐ解雇されると、ネッツと契約。翌シーズンまで残ったが、たいして起用されなかった。

96~97シーズンの開幕戦で、来日している。


ジェイソン・キャフィー


アラバマ大出身のPF。ドラフト1巡目第20位でブルズに入団した。ブルズは、将来のオールスター選手であり、地元出身のマイケル・フィンリーがまだ残っていたために批判されたとか。1年目はディッキー・シンプキンスとともにベンチを温め、揃ってプレイオフのロスターには入れなかった。しかし、2年目は成績をアップ。デニス・ロドマンの欠場が多かったことも手伝って出場機会が増え、荒削りながらチームに勢いを与えるプレイを見せた。

しかし、翌シーズンのトレード期限にデビッド・ヴォーンと1対1のトレードでウォリアーズへ移籍。伸び盛りのキャフィーとほぼ実績のないヴォーンでは釣り合っておらず、この動きにはチーム内からも批判の声が多かった。GMのクラウスは「うちでは彼に充分なプレイングタイムを与えられない」「キャフィーがいなくなればデニス(ロドマン)がやる気になるだろう」と理由を説明したが、ジョーダンやそのロドマンも納得していないようだった。

ウォリアーズでのキャフィーは予想通りプレイングタイムが上昇。99年の夏には7年間3500万ドルの大型契約も結び、その99~00シーズンはキャリア最高の成績を残した。しかし、00年のオフにバックスへトレードされるとキャリアは失速。移籍1年目こそまずまずだったが、2年目以降は故障や相次ぐ個人的な問題でトーンダウンしていき、03~04シーズンの開幕前に契約をバイアウトされた。引退後は子供の養育費を払わなかったことで逮捕されるなど、嘗ての名声は完全に失ってしまった模様。

瞬発力とパワーを兼ね備えたPFで、ジャンプシュートも打てた。身体能力の高さを考えるとリバウンドやブロックが少ないこと、プレイオフなど大事な場面で頼れるほどの安定感はないことがネック。


ブライアント・リーブス


オクラホマ州の小さな町で育ったことから「ビッグ・カントリー」の愛称で親しまれたC。7フィート・275ポンドの巨漢を誇り、NBA入りするときの期待もそれなりに大きかった。オクラホマ州立大をファイナル4まで導いたリーブスは、1巡目第6位でエクスパンション・チームのグリズリーズ入り。1年目は、序盤こそベテランCのベノイト・ベンジャミンの壁を越えられなかったが、フロントはすぐにベンジャミンを放出しており、リーブスはその期待に応えるように及第点の働きを見せた。

2年目には成績をアップさせ、7年間の大型契約を結ぶに至るのだが、これは結果的に大失敗に終わる。直後の97~98シーズンは良かったが、ロックアウトを挟んで迎えた98~99シーズンは太り過ぎと故障で精彩を欠き、大乱調。そしてこれ以降、最初3シーズンの輝きを見せることは二度と無かった。体重とサラリーが膨れ上がったCには引き取り手もなく、コンディショニングの不味さが原因かはわからないが、故障も慢性的なものに。

チームがフランチャイズをバンクーバーからメンフィスに移転した01年オフ、プレシーズンを2試合ほどプレイするが背中の痛みがなくならず、01~02シーズンの半ばに1試合もプレイしないまま現役を引退した。体格の割にフィジカルではないが、ミドルレンジのジャンプシュートが上手く、意外と器用である。


テレンス・レンチャー


6フィート3インチのPG。テキサス大オースティン校の出身で、ドラフト2巡目第32位でブレッツに指名され、直後にヒートへトレードされた。PGの層が薄かったこともあって比較的起用されるが、トレード期限にはベテランGのトニー・スミスと交換でサンズへ移籍。KJ、エリオット・ペリーのいるサンズでは出番がなく、トレード以降は2試合しかプレイしなかった。翌シーズン以降は主にヨーロッパを転々としながらキャリアを続けた。サウスポー。


ジョージ・ジーデック


NBA史上初のチェコスロバキア出身選手(現チェコ共和国)。UCLAが95年に優勝したときのメンバーで、当時はタイアス・エドニー、エド・オバノンらとチームメイトだった。ドラフトでは1巡目第22位でホーネッツ入り。デビュー戦でデニス・ロドマンを相手に好プレイを見せたが、その後は沈黙。96~97シーズン途中にナゲッツトレードされ、翌シーズン序盤には解雇された。このときは直後にソニックスに拾われるが、やはり短期間で解雇されている。

98年以降はヨーロッパに戻っており、リトアニアではエドニーと再会し、チームをチャンピオンに導いた。7フッターだが手足が短く、フィジカル面も弱い。唯一にして最大の武器は左右どちらの手でも打てるフックショットで、これがロドマンを苦しめた。父親も選手で、60・70年代にプレイしている。


ドニー・マーシャル


95年のドラフト2巡目第39位で、ロースコアな展開を売りとしていた頃のキャブス入り。コネチカット大出身のSFで、計5シーズンをNBAで過ごした。個人としてはまったく目立った実績を残していないが、01~03年にネッツでプレイしたときには2年連続でファイナルを経験している(どちらも敗れている)。ドニエル・マーシャル(94年のドラフト1巡目でNBA入り)とはカレッジ時代のチームメイトで、名前も似ているが、血縁関係等はない模様。


アンドリュー・デクラーク


ドラフト2巡目第34位でフロリダ大からウォリアーズ入りした白人F/C。2シーズン過ごしてセルティックスへ移籍。成績自体は特筆すべきものではなかったが、プレス・ディフェンスを多用するリック・ピティーノのスタイルに対応できる機動力があり、出場機会は増加した。98~99シーズンの途中にはキャブスにトレードされ、ここでは怪我で長期離脱を強いられていたジドルナス・イルガウスカスのお陰で出場機会&スターターの座を得た。

00~05シーズンはマジックでプレイ。インサイドの人材不足もあってか、ここでもスターターとして起用されることが多かった。


ドン・リード


6フィート8インチのF/C。ドラフト2巡目第58位でピストンズ入り。ジョージタウン大の出身。1年目は、同期入団で、より高順位でピストンズに指名されたシオ・ラトリフに負けない働きを見せていた。しかし、2年目になるとラトリフが成長を見せたのと反比例するように出場機会は減少。人材不足からスターターとして起用されることもあったが結果は残せず、99~00シーズン半ばに解雇された。ただ、この直後に拾われたウィザーズではキャリア最高の成績を残している。

00~02シーズンをマジックで過ごし、02~03シーズンに1試合だけ古巣ピストンズでプレイしてNBAでのキャリアを終えた。ハードワーカーだが技術は乏しい。

平成7年ドラフト組②

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M-1を3日遅れでみて、知ってる芸人さんたちもまだエントリーしていて、思わず応援してしまいました。

ナイツとかはTVでみることもあるし、怒り新党でも声が聞けるけど、タイムマシーン3号とかポイズン・ガール・バンドとか、来年も出て欲しいなぁ。




ジミー・キング


ミシガン大で一世を風靡した「ファブ・ファイブ」の一員で、5人の中で恐らく2番目に知られていない選手。6フィート5インチのSGで、カレッジ時代は4度のNCAAトーナメント出場を経験している。ドラフトでは2巡目第35位でエクスパンション・チームのラプターズ入りし、62試合に出場。オフにはポパイ・ジョーンズと交換でマブスに放出され、すぐに解雇された。96~97シーズンは、シーズン終盤にナゲッツで2試合プレイしただけである。

その後はヨーロッパやCBAなどでプレイ。98年にはCBAのMVPを受賞し、また、NBAがロックアウトに突入していたため、98年の世界選手権にも全米選抜の一員として参加した。銅メダルを獲得している。00年のオフにはラプターズでキングを指名したアイザイア・トーマスがGMを務めるペイサーズと契約。しかし、開幕直前に解雇されてしまい、そのことでカレッジ時代の仲間であり、当時ペイサーズの主力だったジェイレン・ローズが怒ったというエピソードがある。


ジョン・アマエチ


イギリス国籍の選手で、NBAで初めてゲイであることを告白した選手。6フィート10インチのCで、95年にFAとしてキャブス入り。その後2シーズンはヨーロッパでプレイし、99年にマジックと契約を結んだ。キャブス時代はあまりいいところがなかったが、ここでは見違えるような活躍を見せ、翌オフにはレイカーズから高額なオファーが来るなど評価が高まった。因みに残留を決意したのには、自分を拾ってくれたチームへの恩義があったという。

01~03シーズンはジャズで過ごし、NBA最後のシーズンは途中でロケッツへトレード(プレイはせず)。ここでアメリカでのキャリアを終えた。ゲイであることを告白したのは07年のことで、このときは元選手・現役選手たちから様々な反応があった。ジャズに在籍していた当時、フロントの人間を差して「イギリス人の自分は冷遇されている」といった批判をしており、ゲイであることを告白した際も「ジャズにいた頃のチームメイトからは何も連絡がなかった」とコメントしている。

見た目に寄らず、動きと技術で勝負するタイプで、ゴールに正対して仕掛ける1対1が多かった。


チェロキー・パークス


ドラフト1巡目第12位でマブスに入団した白人C。名門デューク大でマイク・シャシェフスキーの指導を受けており、当時は評価も高かった。しかし、まったく期待に応えることができず、1シーズン過ごしただけでウルブズへ移籍。ここでは一定の出場機会を確保した。98年にグリズリーズへ移籍してからは、03~04シーズンまであちこちのチームを渡り歩いている。キャリアの途中からは両腕を鮮やかに彩った、カラフルなタトゥーが印象的だった。

ビッグマンとしては動きが良く、ペリメーターでもプレイできるが、攻守共にアドバンテージを生み出せるほどではなかった。インサイドもあまり強くない。


グレッグ・オスタータグ


7フィート2インチのC。高校卒業時にすでに7フッターだったオスタータグはカンザス大に進学。4年間で2度のファイナル4を経験した。通算のブロック数は同大&カンファレンスの記録である。ドラフトでは1巡目第28でジャズ入り。フェルトン・スペンサーが抜けた2年目にはスターターに定着し、ディフェンスとブロックで貢献。チームもファイナル進出を果たした。ただ、その後はシーズンやロスターの状況などによってスターターとベンチを行ったり来たり。

シャックに好ディフェンスを見せるなど期待を抱かせる一方、精彩を欠くことも多く、HCのジェリー・スローンやカール・マローンの怒りを買うこともあった。「サボニスは苦手、マッチアップしたくない」と漏らすなど、それらはメンタル面が問題だったのかもしれない。ストックトンが引退し、マローンがレイカーズに移籍した1年後にキングスと契約。しかし、ここではほとんど役に立たず、05年オフに5チーム・13人が絡んだ史上最大規模のトレードでジャズに戻った。

このときはスローンHCも嘗ての教え子の帰還を喜び、オスタータグも古巣復帰を歓迎した。そして、シーズン終了後に現役を引退。カレッジ時代から、ほとんどのシーズンで背番号00を着用していた(ジャズ時代に2シーズンだけ39番を着用)。大きな体と長い手を活かしたブロックが武器で、パワーで勝負するタイプのビッグマンにとっては厄介。引退時点では、ストックトン、マローン、マーク・イートンに次いで4番目にジャズで多くの試合に出た選手だった。

02年には腎臓病の妹のために腎臓を提供しており、腎臓提供後に復帰を果たした史上初の選手である。


ショーン・レスパート


6フィート1インチのSGで、アンダーサイズなSGの失敗例。ミシガン州立大の出身で、当時はエリック・スノウと強力なバックコートを形成していた。94~95シーズンには平均25.6点をマークしている。ドラフトでは1巡目第8位でブレイザーズに指名され、直後にSGを必要としていたバックスへ移籍した。しかし、SGとしてはサイズが小さく、PGもできないというレスパートは期待外れのままシーズンを終了。翌シーズンの途中にはラプターズへトレードされた。

97~98シーズンはラプターズとマブス、98~99シーズンはサンズで少しずつプレイした。00年のオフにはレイカーズと契約を結ぶが開幕ロスターには残れていない。イタリアなどでもプレイしている。05年に胃癌だったことを告白。現役時代は「本当にそうだったとしても気を遣って欲しくない」という理由で、ほとんど誰にも話さなかったという。


ローレン・マイヤー


ドラフト1巡目第24位でマブス入り。アイオワ州立大出身の白人C/Fで、同期入団のチェロキー・パークスとともにインサイドを支えることが期待された(と思う)が、見事にふたりとも期待外れであった。2年目はポパイ・ジョーンズの移籍というチーム事情からか開幕スタメンを任されるが、成長はなく、間もなくジェイソン・キッドのおまけとしてサンズへトレードされた。翌年はNBAでプレイせず、98~99シーズンをナゲッツで過ごした後はヨーロッパへ。ナゲッツ時代のマブス戦でセドリック・セバロスにハードなファウルをお見舞いし、セバロスは両手首を骨折、顰蹙を買った。


クリス・カー


サザン・イリノイ大出身のSG。ドラフトでは2巡目第56位でサンズに入団した。身体能力が高く、限られた時間ではあったが、時折見せるダンクなどで(指名順位の割には)存在感があった。2年目からはウルブズでプレイ。翌97~98シーズンの序盤には、SGが弱いというチーム事情はあったが、スターターの座を掴んだ。しかし、シーズン終盤にアンソニー・ピーラーが加入すると出場機会はなくなり、98~99シーズンの序盤に△トレードのおまけとしてネッツへ移籍。

99~00シーズンはウォリアーズとブルズ、00~01シーズンはセルティックスで過ごし、それ以降はギリシャなどでプレイした。ルーキー・シーズンにはスラムダンク・コンテストにも出場している。


エド・オバノン


UCLAのスター。当初はUNLVに進む予定だったが、最終的にUCLAを選択。同大が95年のNCAAチャンピオンになったときには中心選手であった。背番号31は永久欠番である。ドラフトでは1巡目第9位でネッツが指名。ラプターズのファンが、(ラプターズの指名順位のときに)「オバノンを指名しろ」と合唱するなど高い期待を背負ってのプロ入りとなった。しかし、現実はまったくの期待外れ。翌シーズンの途中にはマブスにトレードされ、そのオフには更にマジックへトレードされた。

マジックからはすぐに解雇され、その後はヨーロッパなどのクラブ・チームを渡り歩き、30歳で現役を引退した。嘗て、ジュリアス・アービングは「オバノンは強いチームで活きる」と評していた。サウスポーのスウィングマンだが、SFとしてはスピードがなく、SGとしてはシュート力に欠ける。シュートフォームはやや独特。引退後は車のセールスマンをやっているとか。弟はチャールズ・オバノン。

平成7年ドラフト組③

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今度、友人の結婚式で福山雅治の「家族になろうよ」の弦楽四重奏版をやることになりました。

集まって練習するのが楽しいです。




トーマス・ハミルトン


7フィート2インチ・330ポンドの規格外の巨漢C。シカゴの出身で、イリノイ大に進みたかったようだが学業的な理由でそれが叶わず、ピッツバーグ大に進んだ。ただ、プレイはしておらず、95~96シーズン序盤にFAとしてセルティックス入り。シーズンの大半を故障者リストと出場停止リストで過ごした。因みに96年3月にNBAデビューした頃には体重が360ポンドにまでなっていたという。次にNBAでプレイしたのは99~00シーズンのロケッツ。

このときは主力の故障もあってスターターとして起用されることもあったが見た目のインパクトを超えることはなく、00年の年明けに解雇された(腰を故障していたようだが)。


クオンゾ・マーティン


パデュー大出身のスウィングマン。同大が90年代中頃にカンファレンスのタイトルを2年連続で奪取したときの主力であり、将来のスターであるグレン・ロビンソンとチームメイトだった。タフなディフェンダーとして知られ、あるときはミシガン州立大のスターだったショーン・レスパートを、また別のあるときはウィスコンシン大のマイケル・フィンリーをシーズン最低得点に抑えたことがある。卒業時にはチームの3P記録も保持していた。

しかし、プロからの評価は低く、2巡目第57位でホークスに指名され、直後にグリズリーズへトレード。創設1年目のチームで4試合だけプレイし、翌シーズンはロビンソンのいるバックスで3試合だけプレイした。


コーリス・ウィリアムソン


アーカンソー大出身のF。愛称は「Big Nasty」。高校時代から有名なスターで、カレッジ時代も1年次から大活躍。2年次の94年には、同大をノーラン・リチャードソンHCの下では唯一となるNCAAチャンピオンに導いた。このときはモスト・アウトスタンディング・プレイヤーに選ばれている。アーカンソー大&アーカンソー州史上もっとも偉大なバスケット選手のひとりであり、のちに同州のスポーツの殿堂にも招待されている。

3年次終了後にアーリー・エントリーを表明したウィリアムソンは、ドラフト1巡目第13位でキングス入り。1年目はあまり出番がなかったが、2年目にはブライアン・グラントの欠場などで出場機会が拡大。持ち前の得点力がプロでも通用することを示した。3年目は(個人成績では)キャリア最高のシーズンとなり、MIPの投票でも2位に食い込んでいる。98~99シーズンからはウェバー、ディバッツ、ジェイソン・ウィリアムスらが加わり、チーム力も上がった。

ただ、ウィリアムソンの役割は縮小。ウェバーの加入でSFに固定されたことと、ストヤコビッチの台頭でポジションを失い、00年オフにはラプターズへトレードされた。しかし、ここでもSFとして起用されたためか力を発揮できず、ベンチ・スタートへ降格。シーズン途中にはピストンズへトレードされた。新チームでもベンチ・スタートだったが、ここでウィリアムソンは復活。ディフェンス重視のチームでその得点力は重宝され、02年には6マン・アワードを受賞した。04年にはチャンピオン・リングを獲得している。

04年オフにはシクサーズへ移籍。そして、シーズン途中には古巣キングスへトレードされた。06~07シーズン終了後に現役を引退。NBAのPFとしては上背がなく(6フィート7インチ・245ポンド)、SF的な起用をされることが多かったが、アウトサイド・シュートがないのでSF的な役割に限定されると苦しい。ミスマッチを逆手にとったランニング・ショットや合わせるプレイが得意。上手く使えば短時間で大量得点を稼げる。ディフェンスやリバウンドはいまいち。

3つの異なるレベル(AAU、NCAA、NBA)で優勝を経験した、数少ない選手のひとり。


フレッド・ホイバーグ


シュータータイプのSG。アイオワ州出身でアイオワ州立大へ進学。ジョニー・オーHCのもとで3シーズン、その後任のティム・フロイドHCのもとで1シーズン過ごした。同大史上最も人気のある選手のひとりで、そのためか当時、「市長」というニックネームを付けられている。ドラフトでは2巡目第52位でペイサーズ入り。層の厚いベテランのチームでは出番がなく、ラリー・バードがHCに就任した3年目の97~98シーズンは多少積極的に起用されたが、結果は残せなかった。

99年から4シーズンはブルズでプレイ。若いチームでリーダーシップを発揮することを期待された。因みに移籍当初のHCは恩師フロイドである。03年にはウルブズへ移籍。04~05シーズンには3Pの成功率で首位に立つなど、ようやく強いチームで活躍を見せ始めたが、その05年オフに大動脈の病気が発覚。手術は成功し、当初は復帰も考えたようだが、最終的に引退を選択。06年4月にはウルブズのコーチング・スタッフに加わった。

3P成功率でリーグ首位に立ったのに3Pコンテストに招待されなかった史上初の選手。無駄打ちをしない堅実なシューターだが、精度はシーズンによってまちまちで、相手にとって脅威となるほどではない。ジェフ・マキニスの伯父にあたる。


メルビン・ブッカー


6フィート1インチ・185ポンドの小柄なPG。ミズーリ大出身。95~96シーズン終盤に、故障者が続出していたロケッツに10日間契約で加入。しかし、同様の理由でロケッツ入りしたサム・マック、トレイシー・モアのように活躍を見せることはできなかった。2年目の翌シーズンはナゲッツ、ウォリアーズで少しずつプレイ。キャリアのハイライトは、ウォリアーズ在籍時に4試合連続でスターターを務めたときだろうか。息子のデビン・ブッカーもバスケットをプレイしているとのこと。


アシュラフ・アマヤ


サザン・イリノイ大出身で、6フィート8インチ・230ポンドと幅のある頑丈なPF。カレッジ時代はクリス・カーとチームメイトだった。95~96シーズンにドラフト外ルーキーとして、エクスパンション・チームのグリズリーズでデビュー。シーズン終盤にはスターターとして起用されるなど、チーム事情を考慮しても意外な健闘を見せた。しかし、オフにブレッツに移籍すると、インサイドの層が厚いチームでは出番がなく、シーズン終了後にはチームを去った。

その後はNBDL、CBA、トルコなどあちこちでキャリアを続けた。NBAがロックアウト中だった98年には世界選手権の代表メンバーにも選ばれている。


コーリー・ベック


アーカンソー大出身のPG。94年に同大がNCAAチャンピオンになったときのメンバーで、コーリス・ウィリアムソンとチームメイトだった。NBAのドラフトにはかからず、95~96シーズン中に10日間契約でホーネッツ入り。すぐ解雇されたが、5試合だけプレイした。その後はCBAへ籍を移したが、97~98シーズンに再びホーネッツと契約を結び、NBA復帰。今度は1シーズン生き残ることができた。98~99シーズンもピストンズとホーネッツで少しずつプレイしている。

07年9月、強盗未遂事件に巻き込まれて銃で撃たれ、一時は危険な状態だったようだが、その後回復したよう。


ドニー・ボイス


コロラド大出身のやや小柄なSG。ドラフト2巡目第42位でホークスに加入。紙のように層の薄いホークスにおいて、2シーズンで合計30試合に起用された。その後はCBAなどを渡り歩き、引退後はコーチとしてのキャリアを歩んでいるとか。高校時代は、のちにマブスのスターとなるマイケル・フィンリー、NBAではボイス以上に短命なキャリアを送ったシェレル・フォードとともにプレイしていた。カレッジ時代にドラッグの取引に参加したとして逮捕されたことがある(本人は否定)。

平成6年ドラフト組①

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最近、情報番組おおいですよね?!テレビ好きなんですけど、情報番組は見ないんですよね。行列のできるお店とか便利グッズとか、視聴率取れるんですかね。




マイケル・スミス


通称「アニマル」。プロビデンス大出身のPFで、ドラフト2巡目第35位でキングスに入団した。サウスポーで、鼻に付けたテーピングがトレードマーク。やや上背に欠けるが、数字に表れない体を張ったプレイが評価されたのか、2巡目指名のルーキーとしては珍しく全82試合で起用された。97~98シーズンのトレード期限にグリズリーズへ移籍。99年には更にウィザーズへトレードされた。NBAで過ごしたのは00~01シーズンが最後。

ウィザーズ時代、フロントに入ったジョーダンが「スミスを欲しいというオファーは多い」と明かしていたことがあるが、20代後半にしてNBAでの居場所を失った。FT成功率が50%前後など、オフェンスは苦手。


モンティ・ウィリアムス


ノートルダム大出身のSF。心臓に先天的な病を患っていたようだが、ドラフト1巡目第24位でニックスに入団した。層の厚いベテラン・チームに入ったためか出場機会は限定的で、2年目の途中にはスパーズへ移籍。翌96~97シーズンには、主力に怪我人が続出した恩恵を受けてキャリア最高の成績を残している。98~99シーズンはナゲッツで1試合しかプレイできなかったが、99~02年に在籍したマジックでは貴重なバックアップとして渋く貢献した。

02~03シーズンにシクサーズでプレイしたのを最後に現役を引退。FTの精度が今ひとつなのも含めてシュートエリアが狭いが、ペイントエリア内では意外な巧さを見せる。引退後はコーチ業を務めており、ブレイザーズのACがそのスタートであった。因みに、コーチ就任のために力を貸してくれたのは、現役時代に起用法を批判したグレッグ・ポポビッチだという。


チャーリー・ウォード


フロリダ州立大出身のPG。カレッジ時代はフットボールもプレイしており、93年にはアフリカ系アメリカ人としては史上2人目となるハインズマン・トロフィーを受賞。また、カレッジで野球をやっていなかったにもかかわらず、93年にブリューワーズ、94年にはヤンキースからも指名を受けている。卒業後、NFLのドラフト1巡目で指名されないことがわかると、ウォードはNBAへ行くことを希望。そして、1巡目第26位でニックスから指名を受けた(意思を表明したため、NFLのドラフトには掛からなかった)。

プロ入り後は、「司令塔としては不十分」といった批判も受けつつ、次第にスターターに定着。ニックスにいる間は頻繁にトレードの噂が流れたり、PGのグレードアップが必要だと言われたり、スターティングPGとしては今ひとつな扱いを受けていたが、アラン・ヒューストンやラトレル・スプリーウェルとの相性は悪くなかった。03~04シーズン中にサンズへトレードされ、直後に解雇されたのを挟み、スパーズへ移籍。翌04~05シーズンをロケッツで過ごし、現役を引退した。

得点力、ゲームメイク力ともに平均的だが3Pはまずまずで、98年には3Pコンテストに出場している。ディフェンスは悪くない。ニックス時代はヒューストンと仲が良かったとか。97年のプレイオフ、カンファレンス・セミファイナルでヒートのPJ・ブラウンと起こした乱闘騒ぎはプレイオフ史に残る大乱闘であった。


エリック・モントロス


ノースカロライナ大出身の7フッター。93年に同大がミシガン大を破ってNCAAチャンピオンになったときのコアメンバーである。ドラフトでは1巡目第9位でセルティックスへ入団。ルーキーイヤーはまずまずの成績を残し、ルーキー・オールスターとオール・ルーキー2ndチームに選出された。しかし、そのパフォーマンスはここからキャリアを経るごとに下降。ピストンズに在籍した99~00シーズンには平均0.8点をマークするなど惨憺たる有様だった。

01~02シーズン終了後、足の故障で1シーズン休むが復帰の目処が立たず、03年オフに現役を引退。3年目以降見るべき成績、活躍は残していないが、通算で出場した465試合中263試合でスターターとして起用されており、このことは「リーグにいかにCが不足しているか」を表しているかもしれない。身長だけでなく幅もあり、Cとしては恵まれた体格をしているが、動きが遅く、技術も乏しい。FTが苦手で、FTが苦手な選手を「モントロシア」と揶揄することがあった。


トニー・デュマス


1巡目第19位でマブス入りしたSG。プロ2年目の95~96シーズンに平均20分に満たない出場時間で平均11,6点をマークし、48分換算ではリーグの得点王となった。しかし、3年目はチームの層が厚くなったこともあってシーズン序盤にサンズへトレードされ、すぐに解雇。97~98シーズンに少しだけキャブスでプレイしたのを最後に二度とNBAではプレイしなかった。ミズーリ・カンザスシティ大出身で、同大からNBAのドラフトにかかった選手は、今のところデュマスだけである。

身体能力が高く、得点力もあるが、FTやジャンプシュートの精度に難がある。キャリアハイは39点。


アントニオ・ラング


91・92年とデューク大が2連覇したときのメンバー(ファイナル4には3度進出)。ドラフト2巡目第29位でサンズに入団するが、1年目は膝の故障もあって満足にプレイできず、オフにはキャブスへトレード。ここでは2シーズン過ごすが見せ場はなかった。翌シーズン以降、ヒート、キャブス、ラプターズ、シクサーズにも少しずつ在籍しているが、いずれも短命に終わっている。CBAやフィリピンでもプレイ経験があり、01年からはJBLの三菱でプレイしていた。

足の故障によって06年に現役を引退。その後はそのまま三菱のACを務めていたとか。


トム・ホーバス


6フィート8インチ・205ポンドの白人F。ペンシルバニア州立大の出身で、94~95シーズンにドラフト外でホークス入り。しかし、2試合、計4分だけの出場で解雇されてしまった。ヒートとのトレードで、ケビン・ウィリスを出してスティーブ・スミス、グラント・ロングが加入したばかりだったので、ロスター調整の意味合いがあったのかもしれない、その後、日本でプレイしていたこともあってか、NBA出身の選手という肩書きで、TVのNBA特集などでゲストとして呼ばれることもあった。


ジム・マッキルベイン


7フィート1インチのショットブロッカー。高校時代は得点・リバウンド・ブロックであわやトリプルダブルというアベレージを残しており、マーケット大では同大史上1位の通算ブロック数を残している。ドラフトでは2巡目第32位でブレッツに入団。2シーズン在籍したここではジョージ・ミュアサンのバックアップだったが、限られた出場機会の中でもブロックショットはそこそこ目立っていた。そして、96年オフにFAとなってソニックスと契約を結ぶ。それは7年間3360万ドルという破格のものであった。

当時、ファイナルでブルズに敗れたばかりであったソニックスは、弱点のCを補強するためにマッキルベイン獲得に動いたのだが、この人事にエースのショーン・ケンプが激怒。ブロックショットが売りとはいえ、平均2.3点・2.9リバウンドの選手が自分よりも大きな契約を結んだことに怒った(昇給を頼んだが、チームがそれを断ってマッキルベインを優先したとか)。この後、ケンプはトレーニング・キャンプを欠席するなど抗議の態度をとっている。

そして肝心のマッキルベインは強豪ソニックスのスターティングCとなったが、プレイはブレッツ時代とほぼ変わらず、プレイオフではスターターから外される始末。オフには不満を持ち続けたケンプがチームを去った。ソニックスでの2年目は(一応)キャリア最高の成績を残したが、周囲を納得させるプレイにはほど遠く、オフにはネッツへトレード。移籍当初はステファン・マーベリーに「俺と組めばヤツはオフェンスだって貢献できる」など、まだ期待もあったようだが、それに応えることはなかった。

3度にわたる故障もあってかキャリアは悪化し、01年に契約をバイアウトされて現役を引退。個人的にはソニックスが崩壊するきっかけをつくった選手だと思う。ただ、ブロックだけならリーグ上位に食い込む実力があり、契約が適切であって、2巡目指名選手であることを考慮すれば悪い選手ではなかった。スキーやドラムが趣味だとか。


ブルックス・トンプソン


サウスポーの白人PG。カレッジ時代はテキサスA&Mとオクラホマ州立大で過ごした。ドラフト1巡目第27位でマジックに入団し、2年過ごした後、ジャズへ移籍。ここではすぐに解雇されてしまうが、直後に拾われたナゲッツでは一定のプレイングタイムを確保し、多少の活躍を見せた。シュートは上手く、96年11月のサンズ戦では26点を稼いだこともある。97~98シーズンをサンズ、ニックスで過ごしたのがNBAでの見納め。引退後はカレッジなどでコーチをしているよう。

平成6年ドラフト組②

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年の瀬ですね~こんにちは。


歌番組みていていつも思うんですが、テレビ朝日(Mステ)のカメラワークやステージのセット?がいちばん好きです。個人的にうまいな~ちゃんとしてるな~すごいな~と思います。

いちばんアレだなと思うのは・・・




BJ・タイラー


スピードのあるPG。テキサス大オースティン校の出身で、当時はテレンス・レンチャーと小型バックコートを組んでいた。ドラフトでは1巡目第20位でシクサーズに指名され、ルーキーイヤーはディナ・バロスのバックアップとして55試合に出場した。そのオフにはエクスパンション・ドラフトでラプターズに移籍するが、膝の故障で95~96シーズンを全休し、そのままリーグを去った。あるジャーナリストの著書によれば、アイシングで膝が不活発になってしまい、引退せざるを得なくなったとのことである。


エルドリッジ・リカズナー


6フィート3インチのコンボガード。ワシントン大を卒業後、ドラフトにはかからず、94~95シーズン途中に10日間契約でナゲッツに加入。3試合だけだがプレイした。転機となったのがロケッツに移籍した2年目。シーズン序盤はいつ解雇されてもおかしくないような状況だったが、主力の相次ぐ故障を受けて、出場機会が増加、アウトサイド・シュートを武器にいいつなぎを見せた。この活躍を買われてか、そのオフにはホークスと契約。98年には更にホーネッツへ移籍した。

2年目以降は流れを変えるインスタント・スコアラー的な働きを見せていたが、99~00シーズンを故障などで75試合休むとキャリアは急降下。因みにこのときの怪我は、チームメイトのデリック・コールマンの運転する車に乗っていて事故に巻き込まれたのが原因で、なんとも不運であった(コールマンは故障者リスト入りせず)。翌シーズンはバロン・ディビスの台頭などでもはや居場所はなく、01~02シーズン開幕直後に解雇。クリッパーズにもいったん拾われるが、ここでもすぐに解雇されている。

通算の3P成功率は40%超えるシューターで、スピードもある。CBAあがりで成功した一例。


クリス・チャイルズ


タフなPG。ボーズ州立大を卒業するが89年のドラフトにかからず、CBAでプロ・キャリアをスタートした。ここでは最初の3シーズンで5チームを渡り歩くなど苦難の船出だったが、最後に在籍したクアドシティー・サンダーには定着。94年にはリーグのタイトルとMVPを受賞した。そして、94年にネッツと契約。2年目の95~96シーズンには契約問題などで精彩を欠くケニー・アンダーソンから出場機会を奪い、そのアンダーソンがシーズン途中にトレードされてからはスターターとして活躍した。

これで評価を上げたチャイルズは、そのオフ、優勝を狙うニックスと契約を結び、スターティングPGを任された。期待通りの働きを見せることができず、シーズン終了後に「ベンチ・スターにとして欲しい」とジェフ・ヴァンガンディHCに直訴、チャーリー・ウォードのバックアップとなるが、この頃がチャイルズのプライムタイムであった。小手先でプレイしないタフなスタイルは、この当時のニックスのカラーにフィットしており、99年のファイナル進出時の主力でもある。

00~01シーズンのトレード期限にはラプターズへ移籍。若いチームにおいてチャイルズの経験とタフさは非常に効果的であった。02年には古巣ネッツと契約を結ぶが、開幕時にオーバーウェイトでコンディショニングができておらずに不評を買い、まさかの出場停止処分。復帰後のプレイも散々で、僅か12試合プレイしただけで解雇され、そのまま現役を引退した。オール・インタビュー・チームに選ばれたり、グッド・ガイ・アワードを受賞したりするなど、オフコートでも活躍していた。

鼻っ柱の強い選手で、レジー・ミラーやコービー・ブライアントといったスターに喧嘩を売ることもあった。ただ、勝負度胸はあるおのの、プレイの精度やゲームメイク、状況判断は今ひとつである。


クリフォード・ロズィアー


1巡目第16位でウォリアーズ入り。ノースカロライナ大とルイビル大でプレイした6フィート11インチのビッグマンである。キャリア最高のシーズンはプロ1年目。このときは成績だけでなく、サンズ戦でバークリーを相手に見事なディフェンスを見せ、インパクトを残すことに成功した。しかし、2年目以降はあまりいいところがなく、3年目に解雇。直後にラプターズに拾われ、翌シーズンもウルブズと契約を結んだが、いずれも短期間であった。スピードとパワーを兼ね備えているが、技術に欠けた。


ジェイミー・ワトソン


ドラフト2巡目第47位でジャズ入りしたスウィングマン。1年目はスラムダンク・コンテストに出場したのが恐らく唯一の見せ場で、実戦では結果を残すことができなかった。しかし、2年目はブライオン・ラッセルの台頭やクリス・モリスの加入のためか、そこから状況が悪化。僅か16試合しか出られず、3年目の開幕後に解雇された。直後に弱小マブスに拾われるが、ここでも生き残ることはできなかった。98~99シーズンには3試合だけヒートでもプレイしている。


ドントニオ・ウィングフィールド


ドラフト2巡目第37位でソニックス入りしたSF。シンシナティ大で1年プレイした後のアーリー・エントリーで、94~95シーズンの最年少選手となった。SFとしてはやや大きく、一方で3Pも打てるなどマルチな選手として期待されたが、1シーズン(20試合)だけで見切りを付けられ、オフのエクスパンション・ドラフトではプロテクトされなかった。このときはラプターズに指名されるが開幕前に解雇されてしまい、最終的にブレイザーズと契約。しかし、まったく結果を残せず、97~98シーズン終盤に解雇された。

98年夏にはガールフレンドへの暴力で逮捕され、1年の実刑を下されている。


アーロン・マッキー


01年にシクサーズがファイナルに進んだときの主力。PG~SFまで3つのポジションをこなすことが出来る。テンプル大出身で、3年次終了後にアーリー・エントリー。3年間はすべての試合を務めており、当時はエディ・ジョーンズとチームメイトであった。そしてドラフト1巡目第17位でブレイザーズ入り。1年目は序盤こそ故障で出遅れたが、クライド・ドレクスラーの移籍以降は出番も増え、スターターにも名を連ねるようになった。

96~97シーズン序盤にはピストンズへトレードされ、翌シーズンの半ばには更にシクサーズへトレード。この当時はあまり目立たなかったが、98~99シーズンにエリック・スノウとアレン・アイバーソンのバックコートが確立されてから少しずつ役割が拡大。チームに欠かせない6マンとなり、チームがファイナルに進んだ00~01シーズンには、シクサーズでは83年のボビー・ジョーンズ以来となる6マン・アワードを受賞した。このシーズンは2試合連続トリプルダブルもマークしている。

しかし、翌01~02シーズン以降は、チームが補強の失敗や主力の故障で上手く機能せず、マッキーも少しずつトーンダウン。04~05シーズンには若手の加入もあってチームの構想から外れ、05年8月、新労使協定の一部であるアムネスティ・ルールによって解雇されてしまった。まだ32歳だったマッキーは、同オフ、レイカーズと契約を結ぶが、ここでは故障とフィル・ジャクソンHCの方針から2年間で14試合しか出られず、07年に現役を引退した。

引退後はすぐに古巣シクサーズのACに就任。余談だが、マッキーは公式に引退をリーグに伝えていなかったため、AC就任後も選手としての登録が残っており、08年2月にレイカーズとグリズリーズの間でトレードが行われた際、クワミ・ブラウンやジャバリス・クリッテントンと一緒にグリズリーズへ放出された。これはルールの裏を突いたやり方で、直後にマブスも同様の手を使ったためにちょっとした議論になった。もちろんプレイはしていない。

複数のポジションに入れることが最大の長所で、スノウ&アイバーソンと一緒にプレイすることでマッキーの良さも引き出されていた印象。リバウンドやディフェンスも良く、ラリー・ブラウンには重宝されていた。シュートはモーションが遅く、若い頃はあまり良くなかったが、キャリアを経るごとに確実性を増していった。


アンソニー・タッカー


ウェイクフォレスト大出身のやや大柄なSF。当時はロドニー・ロジャースらとチームメイトだった。92年に同大を卒業するがNBAのドラフトにかからず、念願のNBAデビューは94~95シーズンのブレッツであった。成績は目立ったモノではなかったが、主力の故障などからスターターとしても起用されるなど一定の出場機会を確保、ルーキー・オールスターにも出場した。ただ、シーズン終盤に解雇されており、翌シーズン以降はCBAへ。NBAへ戻ってくることはなかった。


ライアン・ロースリッジ


ジャクソン州立大出身のG(6フィート4インチ・190ポンド)。95年の年明け頃にウォリアーズと10日間契約を結び、シーズンの残りをプレイした。加入当初はキース・ジェニングスとバックアップGの座を争っていたが、シーズン終盤はティム・ハーダウェイの欠場で出場機会が増え、4月の得点アベレージが2桁を超えるなど、健闘を見せた。シーズン通算では平均7.4点。サウスポー。NBAでプレイしたのはこのシーズンだけである。


イバノ・ニュービル


スローなPF。ジョージア工科大出身。ドラフトにはかからず、94年オフにピストンズと契約。FG成功率・FT成功率ともに40%に届かないなど散々な出来だったが、何とか1シーズン生き残った。1シーズン空いて、96年にはホークスと契約。紙のように層が薄かったホークスでは72試合に起用されるなど、キャリア最高のシーズンを過ごした。翌97~98シーズンをグリズリーズで過ごしたのがNBAでの最後。カレッジ時代も特筆すべき成績は残していない。

平成6年ドラフト組③

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この番組、8期・9期の頃が好きでしたw




カルロス・ロジャース


6フィート11インチのF/C。身体能力が高く、スピードとクイックネスを兼ね備えている。ドラフト1巡目第11位でソニックスに指名され、直後にウォリアーズへトレード。カレッジ時代はアーカンソー大リトルロック校とテネシー大で過ごした。2年目にラプターズへ移籍したのを機にプチブレイク。翌96~97シーズンには3Pもオフェンスのバリエーションに加え、ベンチ・スタートながら貢献度は高かった。しかし、97~98シーズン途中にブレイザーズへトレードされると一気に出場機会が激減。

層の厚いベテランのチームに出番はなく、おまけに故障もあり、1シーズン半で5試合しかプレイできなかった。99年オフにスコッティ・ピッペン絡みのトレードでロケッツに移籍すると復活、ローテーション入りして2シーズン生き残ったが、ペイサーズに移籍した01~02シーズンは再び出場機会を失った。技術的には荒削り。


グレッグ・マイナー


ルイビル大出身のスウィングマン。ドラフトでは1巡目第25位でクリッパーズに指名され、数日後にペイサーズへトレードされるのだが、1巡目指名のルーキーにもかかわらず、プレシーズン前に解雇。直後の10月半ばにセルティックスと契約を結んだ。ポジションの割にシュートエリアは狭いが、堅実なプレイでチームに貢献。2年目にはシーズンの約半分でスターターを務めるなど、成長を見せた。しかし、3年目は故障で60試合近くを欠場。

翌シーズンはロスターがほぼ一新されてしまい、復帰したマイナーに以前のような居場所はなかった。94~99年まで、5年間のキャリアだったが、スタッツだけ見るとベンチ・プレイヤーとしては悪くない。


インカ・ダーレ


ナイジェリア出身の7フッター(270ポンド)。91年にラゴスを訪れていた際、ナイジェリア出身の弁護士によって発見されてバスケットを始め、それから渡米したという変わり種。バスケットの前はテニスをやっていたとか。渡米後、ジョージ・ワシントン大に進んだダーレはすぐにチームの主力となり、1年目の92~93シーズン、同大は16年ぶりとなるNCAAトーナメント進出を果たした。2年過ごしたダーレは得点&リバウンドでダブルダブル、ブロックでは2本を超えるアベレージを残している。

アーリー・エントリーを表明したダーレは、1巡目第14位でネッツに指名され、6年間900万ドルという契約をゲット。期待の大きさが伺えた。しかし、1年目は3分(1試合)プレイした後、故障によってシーズンの残りを欠場。オフのエクスパンション・ドラフトでは、ネッツからプロテクトされなかったにもかかわらず、ラプターズからもグリズリーズからも指名されなかった。ネッツに残って迎えた2年目は自己ベストとなる58試合に出場するが、内容は記録的に凄まじく、なんとシーズン通算0アシストを達成。

その一方で72回のTOを犯しており、ダーレは「アシスト無しでの連続最多出場時間」というリーグ記録を持っている。当時はダーレからボールをもらってシュートを外す選手に対して、ファンがブーイングするほどであった。3年目の96~97シーズン中盤、77試合・770分を経過してようやくキャリア初アシストを達成。ダーレは初アシストを喜び、試合後にタオルを配り始めたという。そして、こうした散々なパフォーマンスやその言動から、ダーレは周囲からバカにされることもしばしばだった。

チームメイトだったジェイソン・ウィリアムスは初アシストを決めて喜ぶダーレを笑われ、ケニー・アンダーソンには「スティンカ・ダーレ(スティンカは臭いという意味)」と呼ばれ、頻繁なTOでボールを失うために「ブラックホール」とも言われた。また、ドラフト時に「シャックは爆発力があるけど僕もだ」「僕がベストを尽くせば、これまでの最高のビッグマンたちの何人かには勝ってるね」「数年以内にオールスターになって、リーグでベストCになるよ」といったコメントを残したのも、からかわれる理由だったかもしれない。

3年目のシーズン途中にはブロックバスター・トレードでマブスに放出されそうになったが、ネッツがトレード要員にダーレを提示したところ、マブス側が「ダーレをエド・オバノンに代えて欲しい」と拒否したという話もある。この頃にはエージェントがHCのジョン・カリパリに「ダーレをトレードするか解雇するかプレイさせろ」と激昂したそうだが、カリパリは笑っていたという。4年目の途中、遂にマジックへトレードされるが、直後に解雇され、それ以降NBAでプレイすることはなかった。

プロキャリアは03年まで。そして引退直後の04年、心臓発作で亡くなった。ケリー・キトルズらネッツ時代のチームメイト、カレッジ時代の師であるマイク・ジャービスらが追悼のコメントを寄せている。NBAでの通算は4シーズンで110試合をプレイし、4アシスト・96TO。アシスト/TOの比率は最悪の部類に入る。


ダーリン・ハンコック


ドラフト2巡目第38位でホーネッツ入りしたSF。コミュニティ・カレッジを経てカンザス大に進むが、学業上の問題などで同大からインディアナ州立大に移ることを選択。ところが、程なくして考えを変え、フランスへ渡り、一足先にプロデビューした。ホーネッツでは2シーズン過ごし、ちょっとした戦力になっていたが、3年目は3チームに籍を置き、その後はアメリカ国内の様々なリーグを転々としながら。05年までキャリアを続けた。

身体能力が高く、高校時代にはフリースロー・ラインから跳んでダンクを決めることが出来た。キャリアのハイライトは95~96シーズン終盤のブルズ戦で、この試合でハンコックは13点をマーク。72勝をあげたブルズにホームでのシーズン初黒星をつけている。シュートはお粗末。


セルゲイ・バザレイビッチ


ロシア人PG。モスクワ出身で、83年に地元のCSKAモスクワでプロデビュー。88~92年はダイナモ・モスクワで過ごし、92~94年はトルコでプレイした。94年オフにホークスと契約を結ぶが、特に戦力にはなれず、10試合プレイしただけで解雇されている。解雇直後はスペインへ渡り、翌シーズンはダイナモに復帰。以降、ダイナモ・モスクワ、CSKAモスクワ、イタリアなどを渡り歩き、01年に現役を引退した。母国のクラブ・チームでは優勝を経験するなど、輝かしいキャリアを過ごした模様。

もちろんナショナル・チームのメンバーとしてもプレイしており、世界選手権で2度の銀メダルを獲得。メダルには手が届かなかったが、バルセロナ・オリンピック、シドニー・オリンピックでも代表チームの一員としてプレイした。髭が印象的。


ブライアン・グラント


ゼイビア大出身のPF。ドラフト1巡目第8位でキングス入りし、いきなり5年間2900万ドルの契約を結んだ。オール・ルーキー1stチームに選ばれるなど1年目から活躍を見せるが、96~97シーズンの半分以上を故障で棒に振ると、そのオフにはオプションを行使してFAとなり、ブレイザーズと契約。6年間6700万ドルという大型契約だった。ここでのハイライトは98~99シーズン。プレイオフで強豪ジャズを破る原動力となったのがグラントで、カール・マローンとのマッチアップは印象深い。

しかし、99~00シーズンはピッペンの加入や自身の故障、ラシード・ウォレスの成長などでバックアップに回り、出場機会も減少。移籍を希望して再びFAとなり(オプションを行使した)、サイン&トレードでヒートへ移籍した。このときは7年間8600万ドルという、更なる大型契約であった。このオフにはエディ・ジョーンズもヒートに加入しており、2人は大きな期待を背負うが、トレーニング・キャンプ直前に主砲モーニングの腎疾患が発覚し、復帰時期未定で戦線離脱。ヒートは一気に苦しくなった。

モーニング以外にスターターを任せられるCがいなかったヒートは、グラントをCとして起用。グラントはキャリア最高のシーズンを過ごし、期待に応えた。しかし、モーニングが復帰して従来のPFに戻るとパッとせず、以降03~04シーズンまでヒートで過ごすのだが、契約当初の期待には応えられなかった。04年オフにはシャキール・オニールを獲得するための大型トレードでレイカーズへ移籍。しかし、故障もあってほとんど貢献できず、オフにはアラン・ヒューストンの例外条項で解雇された。

05~06シーズンはサンズで過ごすが、プレイしたのは僅かに21試合。シーズン終了後にセルティックスへ放出され、間もなく解雇、そのまま現役を引退した。愛称は「ザ・ジェネラル」。ブレイザーズに在籍していた頃から、ボブ・マーリーに肖ってドレッド・ヘアーにするようになった。


トレバー・ラフィン


ハワイ大出身のPG。94年にドラフト外でサンズと契約を結び、95年オフにシクサーズと契約。ここで得点力の高さを見せるなどブレイクし、チームが弱かったとはいえ、ベテランのバーノン・マクスウェルとポジションを分け合うほどの健闘を見せた。しかし、翌オフにネッツと契約を結ぶが開幕前に解雇されてしまい、それ以降NBAではプレイしなかった。短時間で多くの得点を稼げるインスタント・スコアラー的な要素を持った選手。ルーキーイヤーにはルーキー・オールスターでもプレイしている。


エリック・モブリー


6フィート11インチのC。カレッジ時代はコミュニティ・カレッジとピッツバーグ大で過ごした。ドラフト1巡目第18位でバックスに入団、1年目は故障もあって46試合の出場に終わったが、将来への期待と層の薄さから26試合でスターターとして起用された。しかし、2年目の開幕直後にグリズリーズへトレードされると、似たような若手が多いエクスパンション・チームでは目立つことも出来ず、翌96~97シーズンを最後にNBAを去った。


ビル・カーリー


ドラフト1巡目第22位でスパーズに指名された6フィート9インチの白人PF。高校時代からスター選手で、故障で2年生のシーズンを全休したにもかかわらず、カレッジ進学時は引く手数多の有望株であった。デューク大やノースカロライナ大など名だたる名門からリクルートを受けたが、故郷にあるボストン・カレッジで奨学金をもらってプレイすることを選択。カレッジ時代の活躍もめざましく、HCのジム・オブライエン曰く「ボストン・カレッジ史上最高の選手のひとり」だとか。

ドラフト直後のトレードでピストンズへ放出され、デビュー。その後、ブレイザーズ、ウルブズ、ロケッツ、ウォリアーズ、マブス、ウォリアーズと渡り歩いた。ウルブズに在籍していた95~97シーズンの2年間は故障のために全休しており、復帰直後の97~98シーズンも11試合しかプレイしなかった。


ジュリアス・ヌウォス


ナイジェリア出身のC。NBAでは94~95シーズンにスパーズでプレイしたが、まったく戦力にならなかった。バックス、セルティックス、ラプターズ、ソニックス、ジャズの契約下にあったこともあるが、いずれも開幕ロスターには生き残れていない。カレッジはアメリカのリバティ大出身。14年間のプロキャリアで14カ国でプレイをした正真正銘のジャーニーマンである。98年には母国の代表として世界選手権でプレイしたが、大会途中にドーピングが発覚して出場停止処分を喰らったことがある。

平成10年以降ドラフト組

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どうも大変ご無沙汰しております。

新年あけましてめでとうございます&新年度ですねこんにちはm(_ _)m


年末から少々立て込んでいたり、体調を崩したり、パソコンが勝手に?ウィンドウズ10にアップデートされてアメブロやりにくくなったり・・・

諸般の事情でブログ放置しておりましたm(_ _)m


またぼちぼり書いていこうと思っているので、よかったらお付きあいくださいませm(_ _)m



トッド・マカロック


カナダ人の7フッター。ワシントン大出身。遺伝子の神経異常によって足に悪影響があることがわかり(あってる?)、僅か4シーズンで引退を強いられた。99年のドラフト2巡目第47位でシクサーズに入団。最初の2シーズンはバックアップCとして出場機会が限られていたが、一応ルーキー・チャレンジにも出場した。01年オフにネッツへ移籍し、ジェイソン・キッドのお陰もあって、ここでプチブレイク。スターティングCとしての力量が(一応)あることを示した。

しかし、02年オフに古巣シクサーズへ出戻ると精彩を欠き、シーズン中盤には故障者リスト入り。そして先述の病気が発覚、03~04シーズンを1年間故障者リストで過ごし、現役を引退した。サイズがいちばんの武器。自ら攻撃のチャンスを創り出す力には欠ける。シドニー・オリンピックでは母国の代表としてプレイしており、ユーゴスラビアを破るアップセットに大きく貢献した。


ロショーン・マクラウド


99年のドラフト1巡目第20位でホークス入りしたSF。カレッジはセントジョンズ大を経てデューク大に移り、エルトン・ブランドやシェーン・バティエらとともにプレイした。マクラウド入団当時のホークスはSFが穴だったが、故障もあって2シーズンで116試合しかプレイできなかった。3年目の00~01シーズンにはスターターに定着し、キャリア最高の成績を残していたが、トレード期限にシクサーズへ放出されると沈黙。シーズンの残りは1試合しか出られず、そのままキャリアを終えた。

得点力のあるスウィングマンだが、シュートエリアは狭い。


ジェラルド・キング


NBA史上唯一となるニコルズ州立大出身の選手。F。06年にはルイジアナ州のバスケットの殿堂入りを果たしている。卒業後、NBAのドラフトにはかからず、95年の秋にレイカーズと契約を結んだこともあったが、開幕まで生き残ることが出来なかった。NBAデビューはロックアウト直後の98~99シーズン。スパーズと契約を結び、出番こそ少なかったが、いきなりチャンピオンリングを獲得した。99~01シーズンは低迷するウィザーズでプレイしている。

98年には世界選手権でプレイしており、銅メダルを獲得している。


ブライス・ドリュー


バルパライソ大というマイナーなカレッジ出身のPG。インディアナ州バルパライソの高校を卒業後、幾つものカレッジからリクルートされたが、それらを蹴ってバルパライソ大に進んだ。同大が98年のNCAAトーナメントに進んだときには、印象的な快進撃を牽引。1stラウンドでは「ザ・ショット」と呼ばれる劇的なブザービーターを沈めて第4シードのミシシッピ大を破り(バルパライソ大は第13シード)、次のラウンドでも第12シードのフロリダ大をオーバータイムの末に破る原動力となった。

ドラフトでは、同大史上初のドラフト1巡目指名選手として、98年の1巡目第16位でロケッツ入り。ただ、同期入団のカッティノ・モブリーが予想外の働きを見せたこともあって影は薄く、翌オフにスティーブ・フランシスが加入すると、早くもチームに居場所はなかった。00年のオフにはドラフト指名権と交換でブルズに移籍。再建モード真っ只中でPG不在のチームではスターターの座を確保するが、故障もあって48試合の出場に終わった。

01年にはホーネッツと3年契約を締結。しかし、故障や層の厚さの影響で満足にプレイできず、3シーズンで僅か109試合しか出番がなかった。04年オフに解雇され、1シーズン海外でプレイしたのち引退。05年には母校バルパライソ大のACに就任している。高校時代に、心拍数が早まる病気を患っていたとか。


エバン・エシュメイヤー


99年のドラフト2巡目第34位でネッツ入りしたC。ノースウェスタン大出身。99~03年まで4シーズンに渡ってNBAでプレイした。ネッツではジェイソン・ウィリアムスの故障やジム・マッキルベインの不出来などでスターターの座が転がり込んできた。期待には応えられなかったが。01年からはマブスでプレイするが、さすが強豪チームでローテーションに入ることは出来ず、03年のオフに解雇。そして翌04年10月に慢性的な膝の故障もあって現役を引退した。


デドリック・ウィロビー


6フィート3インチのSG。アイオワ州立大出身(ニューオリンズ大にも在籍歴あり)。99~00シーズンの開幕近くに、カレッジ時代の恩師ティム・フロイドがHCを務めるブルズと契約。ベンチ・スタートながら、ドラフト外ルーキーとしては健闘を見せた。ただ、年明けには呆気なく解雇されている。平均7.6点は悪くないがFG成功率は35%にも届いておらず、層の薄い再建チームだからこそ2ヶ月「も」生き残れたのかもしれない。


マイケル・ディッカーソン


デビッド・ウェズリーの従兄弟。アリゾナ大出身のSGで、98年のドラフト1巡目第14位でロケッツに入団した。さほど注目された存在ではなかったが、HCのルディ・トムジャノビッチは「足が速い」という理由で開幕からスターターとして起用。全50試合でスターターを務め、オール・ルーキー2ndチームに選ばれた。オフにはスティーブ・フランシスのわがままに巻き込まれ、グリズリーズへトレードされるが、これはカレッジ時代のチームメイトであるマイク・ビビーと再会。

チーム成績にこそ反映されなかったが移籍1年目から大きく成績をアップさせ、翌00~01シーズンも得点源のひとりとして活躍した。しかし、チームがフランチャイズをメンフィスに移した01~02シーズン、足の故障のために78試合を欠場すると、翌シーズンも76試合を欠場。故障は深刻で、完全復活が望めないことがわかると03年にはチームから放出され、27歳の若さで現役を引退した。


ジョナサン・ベンダー


ミシシッピ州立大に進学するという口約束を蹴って、高卒でアーリー・エントリーを宣言。99年のドラフト1巡目第5位でラプターズに指名され、直後にアントニオ・ディビスとのトレードでペイサーズへ移籍した。6フィート11インチというサイズ、それに似つかわしくない身体能力の高さを兼ね備えていたが、即戦力ではなく、ルーキーイヤーは戦力になれなかった。2年目以降は出場機会も多少増え、ポテンシャルの高さを見せることもあったが、ドラフト時の期待にこたえるレベルではなく、停滞。

その後は故障にも悩まされ、05~06シーズン途中に慢性的な膝の故障を原因として現役を引退した。まだ25歳であった。数年後、ニックスで短期間だけ復帰するのだが、長くは続かなかった。故障前、ペイサーズのベテラン選手たちは「練習ではあいつに敵う奴はいないよ。何でもできるんだ」と評していたが、それを実戦で見せることはほぼなく、ドラフト史上に残る失敗指名選手のひとりである。高校時代はかなり有名な選手だったようだが。

01年のダンク・コンテストではフリースロー・ラインからのダンクを披露。このダンクを決めた選手は何人かいるが、左手で決めたのはベンダーのみである。プロ3年目からは3Pもオフェンスのバリエーションに加えるなど、身体能力だけの選手ではなかったが、キャリアで一度も2桁の得点アベレージを残せなかった。モーリス・ピーターソンは従兄弟。


クリス・ヘレン


99年のドラフト2巡目第33位でナゲッツ入り。6フィート2インチのPGで、NBAではナゲッツとセルティックスで計2シーズン過ごした。カレッジ時代はボストン・カレッジとフレズノ州立大を渡り歩き、フレズノ州立大では名将ジェリー・ターカニアンの指導を受けている。素行に難があったようで、04年12月、ヘロイン所持と、飲酒もしくはドラッグの問題で取り消されていた免許で運転していたことが原因で逮捕されている。


エディ・グリフィン


フィラデルフィア出身の選手としては、ウィルト・チェンバレン以来のスターと謳われた選手。シートンホール大では1年目から評判に違わぬ活躍を見せて注目を集めていたが、その一方でチームメイトと揉めるなど素行の悪さも目立ち、そうしたオフコートでの要素が懸念され、01年のドラフトでは1巡目第7位に留まった。因みにこのときはネッツに指名され、直後にロケッツへトレードされている。プロ入り後は素質の高さを垣間見せるモノのパフォーマンスは安定せず、おまけにオフコートのトラブルが頻発。

アルコール中毒に悩まされ、3年目の03~04シーズン中には練習とフライトをすっぽかしたことがきっかけとなって解雇されてしまった。直後にネッツと契約を結ぶが、このシーズンの残りはアルコールのリハビリに取り組むために全休。そして、オフにはウルブズと契約を結んだ。このときはXファクター的な要素を果たし、シーズン終了後には3年契約をゲット。05~06シーズンにはスターターとして起用されるようにもなり、主に3Pとブロックで存在感を見せた。

しかし、それでもオフコートのトラブルはなくならず、06~07シーズン途中にはウルブズからも解雇。そして07年夏、自動車で電車と接触し、亡くなった。トラブルなどがなければ、01年のドラフト1巡目第1位はグリフィンだったかもしれない。


アントワン・リゴドー


フランス出身。7歳(78年)の時からクラブチームでプレイしていた強者で、97年にはイタリアのチームへ移籍。そして、02年の夏にマブススと契約を結んだ。ここでは1シーズン在籍したが、層の厚いマブスではまったく戦力になれず、オフにウォリアーズへ放出され、直後に解雇、ヨーロッパへと戻った。現役引退は05年。ヨーロッパでの功績は素晴らしく、優勝を何度も経験しているほか、フランス・リーグのMVPを5度も受賞している。

フランスのナショナル・チームの中心選手でシドニー・オリンピックでは銀メダルを獲得。サウスポーの中距離シューターといったところか。


昭和55年ドラフト組①

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最近、東京MXで快獣ブースカ見てます。

ちゃんと見るの初めてなんですが、「今やったらクレーム来るんだろうな」みたいなところがあって、面白いです。だから特撮は昭和派です。




ケビン・マクヘイル


リーグ史に残るPFのひとり。ミネソタ大出身。プロではセルティックス一筋でプレイし、ラリー・バード、ロバート・パリッシュとともに「ビッグ3」を形成。5度のファイナル進出に3度の優勝(81・84・86)を経験した。84~91年までオールスターに選出されたほか、87・88年は60%を超える高確率でリーグ1位のFG成功率をマーク。ディフェンスにも定評があり、オール・ディフェンシブ・チームにも6度選ばれた。キャリア最初の5年間はベンチ・スタートが多く、84・85年には6マン・アワードも受賞している。

80年のドラフト直前、セルティックスのGMだったレッド・アワーバックが1位指名権をウォリアーズにあげて、3位指名権とパリッシュを獲得し、その3位指名権でマクヘイルを獲得したのは有名な名人事である。因みにマクヘイルが大型契約を望んで契約交渉が難航し、もう少しでイタリアに行くかもしれなかった、というのはあまり有名ではないかもしれない。ともあれ、無事?3年契約を結んだマクヘイルはバードとセドリック・マクスウェルのバックアップとしてキャリアをスタートした。

1年目はオール・ルーキー1stチームに選ばれ、チームもリーグ首位の勝率をマーク、NBAチャンピオンに輝いた。82~83シーズン終了後、マクヘイルはより高額な契約を求めてニックスのオファー・シートにサインするが、アワーバックがニックスのトップ3選手とオファー・シートにサインしたことで、ニックスはマクヘイル獲得を断念。トップ3選手の残留を優先させ、マクヘイルはセルティックスと(当時)リーグ史上4番目に大きな契約を結ぶに至った。

迎えた83~84シーズンは、デニス・ジョンソンが加入し、HCにKC・ジョーンズが就任。チームは再びリーグ最高勝率&NBAチャンピオンの合わせ技を決め、マクヘイルは自身初となる6マン・アワードを受賞した。84~85シーズンは、シーズン終盤にマクスウェルの故障によってスターターとして起用されると、その直後の試合でなんと56点をマーク。その2日後のニックス戦でも42点をあげるなど、能力の高さを見せつけている。

85~86シーズンのセルティックスはリーグ史上でも最高のチームのひとつに数えられるほど強く、マクヘイルは初めてシーズン通してスターターとしてプレイ。チームは16度目となるNBAチャンピオンに輝いた。因みにこのシーズン、プレイオフまで通してホームでの戦績は50勝1敗であった(唯一負けたのはブレイザーズ)。翌86~87シーズンは個人成績でみればキャリア最高のシーズンで、リーグ史上初となるFG成功率60%・FT成功率80%も達成。オールNBA1stチームにも選ばれた。

ただ、このシーズンの終盤には右足を故障。マクヘイルは「キャリアを脅かしかねない」という医者の忠告を無視してプレイを続けるのだが、それがケチのつき始めになってしまう。88~89シーズンはバードがシーズンの大半を欠場し、チームもプレイオフ進出がやっと。翌シーズンは、故障前のように試合を支配しようとするバードと、マクヘイルらチームメイトとの間に軋轢が生じた。最終的にはディビジョン2位でプレイオフに臨むが、プレイオフでは1stラウンドでニックスに負けてしまう。

シーズン終了後、マクヘイルは故障のために引退を考えるが、現役続行を選択。しかし、故障は慢性的なものになっており、92年にバードが引退。1年後にマクヘイルも現役を引退した。最後のシーズンは足と背中の痛みに悩まされていたという。サイズがある上に手足が長く、技術も兼ね備え、チャールズ・バークリーが対戦するのを嫌がったほど、ポストプレイはアンストッパブルだった。背番号32はもちろん永久欠番で、偉大な50人に選ばれた他、殿堂入りも果たしている。

引退後はウルブズのTV解説者を経てGMに就任。いきなり高卒のケビン・ガーネットを指名するというファインプレイを見せた。ただ、その後は、そのガーネットと前代未聞の大型契約を結んだために補強が手詰まりになったり、00年にはジョー・スミスとの契約違反で数年分のドラフト指名権を剥奪されたりするなど、あまりいいところがなかった。マクヘイルがGMだった時代にウルブズがプレイオフの1stラウンドを突破したのは一度しかない。

ただ、HCとしての才覚はあるようで、ロケッツのHCとしてはまずまずの結果を残している。


カート・ランビス


ショータイム時代のレイカーズのメンバー。サンタクララ大出身のPFで、ドラフト3巡目第58位でニックスから指名された。しかし、入団は出来ず、プロ1年目はギリシャでプレイ。そこでチャンピオンシップを獲得し、81年、レイカーズと契約を結んだ。2年目にはスターターに定着し、20分程度のプレイングタイムながら体を張ったプレイで貢献した。86~87シーズンからはAC・グリーンのバックアップにシフト。この頃から出場機会が減少し、88年にはエクスパンション・ドラフトでホーネッツヘ移籍した。

新天地での1年目は出た試合すべてでスターターを務め、キャリアハイのスタッツをマーク。そして、翌シーズン序盤にはサンズへトレードされた。ここでは、当初はトム・チェンバースと併用されるなど、健闘していたが、92~93シーズンの開幕直後に解雇。すぐキングスに拾われ、93~95年はレイカーズに戻り、現役を引退した。レイカーズで4度の優勝を経験しており、成績は平凡だったが、ハッスルプレイとゴーグルはインパクトがあった。

チック・ハーンが、ランビスをクラーク・ケントに似ているとして「スーパーマン」と名付けたのは有名か。マジック・ジョンソン・オールスターズの一員として来日したこともあり、そのときは現役時代には見せなかった3Pを決めていた。引退後はコーチとして働いており、98~99シーズンにレイカーズで暫定HC、00年代後半にはウルブズでHCを務めている。00~02年にフィル・ジャクソンのACを務めたためか、ウルブズでも△オフェンスを導入していたが上手く機能しなかった。


マイク・ジミンスキー


髭の白人C。77~80年までをデューク大で過ごし、その当時、同大の得点・リバウンド・ブロックの記録を保持していた。背番号43は永久欠番である。ドラフト1巡目第7位でネッツに入団。まずまずの1年目を過ごすが、翌年にバック・ウィリアムス、翌々年にはダリル・ドーキンスが加入するなど2年目から4年目は出場機会があまり得られなかった。84~85シーズンにドーキンスの故障もあってかようやく出場機会が増え、85~86シーズンから3年間が(たぶん)キャリアのピーク。

平均16点・9リバウンド・1ブロックをマークし、その活躍を買われてか、87~88シーズン途中にはシクサーズへ移籍した。90年代に入ると故障もあってか30代前半にして衰えが顕著になり、ホーネッツ、バックスと移って現役を引退した。身体能力は低いがスマートな選手。通算のFT成功率が80%を超えるなど、シュートが上手かった。リバウンドやブロックはあまり多くない。


キキ・ヴァンダウェイ


スコアラー。UCLA出身でラリー・ブラウンの教え子。「キキ」は愛称で、本名はアーネスト・モーリス・ヴァンダウェイⅢである。ドラフト1巡目第11位でエクスパンション・チームのマブスに指名されるが入団を拒否し、トレードを要求。同年12月にナゲッツへトレードされた。2年目にスターターに定着すると、平均20点を上回るなどブレイク。3年目にはオールスターにも選ばれ、4年目には平均29.4点をマークした。84年にはブレイザーズへトレードで移籍。

ここではクライド・ドレクスラーと強力なスコアリング・デュオを形成した。しかし、背中を故障してしまい、87~88シーズンを半分以上休むと、翌シーズンも1月まで欠場。その間に成長著しいジェローム・カーシーにポジションを奪われ、復帰して1ヶ月ちょいプレイしたところでニックスへトレードされた。しかし、この後も故障に泣かされ続け、パット・ライリーがHCになった91~92シーズンは出場機会が激減。オフにクリッパーズへトレードされ、1年プレイして現役を引退した。

シューター型のスコアラーで、最盛期にはペリメーターを主戦場としながらも55%前後の高いFG成功率をマークしていた。86~87シーズンには本数こそ少ないが、3P成功率でリーグ首位にも立っている。「キキ・ムーブ」と呼ばれたステップも有名である。難点は得点をとること以外。身体能力は低く、スピードもなく、ディフェンスやリバウンドは期待できなかった。引退後はナゲッツとネッツのフロントでの仕事がたぶん有名。

ナゲッツ時代にはカーメロ・アンソニーやマーカス・キャンビーを獲得。90年代から00年代前半にかけて、良くて勝率5割程度だったチームをプレイオフ常連チームにまで建て直した。


ジェフ・ルーランド


6フィート10インチの巨漢C。アイオナ・カレッジの出身で、同大がチーム史上最高の成績をマークしたときの主力である。ドラフトでは1巡目第25位でウォリアーズに指名されるが、プロ1年目はスペインでプレイし、その間にブレッツへトレードされた。81~82シーズンにNBAデビュー。ルーキーイヤーはスペンサー・ヘイウッドらのバックアップだったが、スターターと遜色のない成績を残し、チームがカンファレンス・セミファイナルまで進むのに貢献した。

2年目にはシーズンの半分以上でスターターとして起用され、平均19点・11リバウンドをマーク。3年目にはリック・マホーンとともに「マクフィルシー&マクネイスティ」と呼ばれる強力タッグを形成し、自身も平均22点・12リバウンド・4アシストと縦横無尽の活躍を見せた。オールスターにも選ばれている。プレイオフでは、(シリーズには負けてしまうが)この年優勝するセルティックスを苦しめた。しかし、翌84~85シーズンに足を負傷したところからキャリアは一転してしまう。

このシーズン、1月中旬以降1試合しかプレイできず(プレイオフには一応復帰)、翌シーズンは開幕からプレイするが、最終的に52試合を欠場(プレイオフでは一応復帰)。86年オフには何故かモーゼス・マローンとのトレードでシクサーズに移籍するが、もうまともにプレイできる状態ではなく、5試合だけプレイして現役を引退した。5年後の92年、シクサーズで突然現役復帰を果たし、その翌年もピストンズでプレイするが、かつての姿にはほど遠く、93年に1月に改めて現役を引退した。

若い頃から中年太りのおじさんのような見た目だったが、実際は器用なCで、シュートもパスも上手く、FT成功率は70%を上回っていた。オフェンス・リバウンドにも強い。引退後はコーチになっている。


ジャワン・オールドハム


シアトル大出身の7フッター。ドラフト2巡目第41位でナゲッツ入りするが、1年目は4試合に出たのみで、ロケッツに移籍した2年目も22試合のみの出場と、故障やドラッグの問題などもあってか、満足にプレイできなかった。しかし、82年にブルズに移籍してからは徐々に出場機会を増やし、ショットブロッカーとしてチームに貢献。85~86シーズンにはリーグ6位の平均2.6ブロックをマークしている。86年オフ、ニックスのオファーシートにサインするが、ブルズがマッチ。

結局、86~87シーズンの開幕前日にドラフト指名権と交換でニックスに放出された。しかし、1シーズンしかプレイせず、翌シーズンはキングスへ移籍。ここでもブロックで存在感を見せるが、シーズン終盤に膝を負傷。これが長引き、88~89シーズンは全休した。89~90シーズンをマジック&レイカーズ、90~91シーズンをペイサーズで少しずつプレイして現役を引退。引退後はドゥバイにバスケットボール・トレーニング・アカデミーを解説したとか。


ロリー・スパロウ


ヒートのチーム史上最初のシュートを決めたPG。ヴィラノバ大出身。ドラフト4巡目第75位でネッツに指名されるがキャンプでカットされてCBAへ。そこでの活躍が認められてすぐにネッツに呼び戻されるが、出場機会は限られており、オフにはドラフト1巡目指名権とのトレードでホークスへ放出された。ホークスではケビン・ロッカリーによってすぐにスターターとして起用され、まずまずの結果を残した。翌シーズンの半ばにはスコット・ヘイスティングスとのトレードでニックスへ移籍。

パッとしない時期ではあったが、ニックスには5シーズンあまり在籍。86年まではここでもスターターとして起用された。その後はチームがPGの補強を進めたために居場所がなくなり、ブルズに放出され、88年オフには更にFAとしてエクスパンション・チームのヒートと契約を結んだ。ここではベテランとして若いチームをリードし、個人としてはベストのシーズンを過ごした。因みにヒート史上初のトリプルダブルをマークしたのもスパロウである。

翌シーズンはルーキーのシャーマン・ダグラスの控えに回り、90年オフにはキングスへ移籍。ここでもなんとスターターとして起用された。91~92シーズンをブルズ、レイカーズでプレイしたのを最後に現役を引退。FG成功率の高さとミスの少なさは評価できる。スターターの器ではないが、PG不足のチームに在籍することが多かったためか、出場機会には恵まれていた。


ダーウィン・クック


ポートランド大出身の6フィート3インチのG。因みに同大出身の選手は少なく、知名度の高い選手もほぼいない。ドラフト4巡目第70位でピストンズに指名され、そのオフのうちにネッツへトレード。1年目は、ドラフト下位指名ながら平均11.2点・1.7スティールをマークした。その後、85~86シーズンまでネッツに在籍。ネッツにいた6シーズン中3シーズンで、平均スティールがリーグのトップ10に入るなど渋い働きを見せている。

86~87シーズンをブレッツで過ごすと、翌シーズンはイタリアへ。88~89シーズンをNBAに戻ってナゲッツとスパーズでプレイしたが、その後再び渡欧した。

昭和55年ドラフト組②

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レイカーズがプレイオフに出ないとどこが勝ってもいいんで気楽にプレイオフを楽しめるんですが、そろそろハラハラしたいなとも思ったりします。



ビル・ハンズリック


6フィート7インチのスウィングマン。ノートルダム大出身で、そこではビル・レインビア、オーランド・ウールリッジらとチームメイトだった。ドラフトでは1巡目第20位でソニックスに入団。得点力はそれほどでもないがディフェンスが良く、ガス・ウィリアムスとバックコートを形成した。82年にナゲッツに移籍してからは、主に控えだったが、2桁の得点アベレージをマークしたり、オール・ディフェンシブ2ndチームに入ったりするなど、主要メンバーのひとりとして貢献。活躍した。

80年代終盤になるとチームの補強の影響か、出場機会が少なくなり、90年オフに現役を引退。すぐにACとして働き始めた。97年オフには古巣ナゲッツのHCに就任(直前にナゲッツでACを務めていた)。しかし、ルーキーを多く抱えた、若すぎるチームの指揮を執るのはあまり酷で、11勝71敗でシーズンを終了。すぐに解任された。これはHC1年目の最低勝率の記録である。


カール・ニックス


インディアナ州立大出身のPG。1巡目第23位でナゲッツに入団。現在、同大からNBAのチームにドラフトされた最後の選手である。同大での1年次はパッとしなかったが、ACのアドバイスを受けてジュニア・カレッジで1年過ごしたことでスキルアップに成功、78~79シーズンに同大に戻ると見違えるような活躍を見せ、ラリー・バードとともにチームを牽引した。このシーズン、チームはNCAAトーナメントの決勝まで進んでいる。バードが去った翌79~80シーズンは更に数字を伸ばした。

ただ、NBAでは大成せず。ルーキーシーズンの途中にジャズへ移籍し、シーズン半在籍。82~83シーズンを最後にNBAではプレイしなかった。出場機会の割にミスが多く、FTを含めシュートに難もあった。


マイク・ウッドソン


インディアナ大出身で、名将ボビー・ナイトの秘蔵っ子。79年にはチームの得点王であった。6フィート5インチのスウィングマンで、ドラフト1巡目第12位でニックス入り。ルーキーイヤーは81試合に出たが結果を残せず、オフにはネッツへ移籍し、2年目のシーズンが始まって間もなく、更にキングスへトレードされた。しかし、ここで平均16.1点と成長を見せ、翌シーズン以降は主に6マンとして活躍した。平均18.2点をマークしたシーズンもある。

86~88年は弱小クリッパーズでチーム随一の得点源としてプレイ。88年からはロケッツで過ごすが、ミッチェル・ウィギンスにスターターの座を奪われるなど出場機会は減っていき、91~92シーズンの開幕直後にトレードでキャブスへ移籍。しかしすぐに解雇され、そのまま現役を引退した。キャリア平均は14点。ピーク時にはFG成功率50%、FT成功率80%を超える、精度の高い選手であった。ディフェンスも良く、スティールも多い。

引退後は96年にバックスのACに就任。クリス・フォード、ジョージ・カールの下で計3シーズンACを務めた。その後キャブスを経て、ラリー・ブラウンのACとなり、ピストンズで04年の優勝を経験。そして、テリー・ストッツの後任としてホークスのHCに就任した。1年目は僅か13勝に終わったが、年々成績を上げて07~08シーズンには9年ぶりのプレイオフ進出を達成。当時はジョッシュ・スミスとの確執が騒がれるなど必ずしも評判は芳しくなかったが、一応の結果は残した。

ニックスでもHC経験がある。ホークス時代にウッドソンの指導を受けたロレンゼン・ライトは「素晴らしいプレイヤーズ・コーチ」と評していた。


ウェス・マシューズ


ウェスリー・マシューズの父。ウィスコンシン大出身で、6フィート1インチ・170ポンドの小さなPG。1巡目第14位でブレッツに入団し、開幕からスターターとしてプレイ。シーズン途中にはホークスに放出されるも好調を維持し、キャリアハイの平均12.4点をマークした。しかし、2年目にロリー・スパロウにスターターの座を奪われると、以降はバックアップとしてキャリアを全う。シクサーズ、ブルズ、スパーズ、レイカーズと渡り歩き、89~90シーズンに1試合だけ古巣ホークスでプレイしたのがNBAでの最後となった。

レイカーズでは10分強のプレイングタイムながら貴重な戦力で、その質の高さはマジック・ジョンソンも認めるほどであった。FG成功率が高く、小柄ながらダンクを見せることもあった。シュートが全く回転しない独特なモノであったことも有名か。ジュリアス・アービング、マイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソンとチームメイトだったことがある。NBAを離れた後はフィリピンで少しだけプレイした。


ブッチ・カーター


本名は「クレアレンス・ユージーン・カーター」。高校時代から有名な選手で、76年にはオハイオ州のベスト・プレイヤーに選ばれている。76~80年は名称ボビー・ナイト率いるインディアナ大でプレイ。79年のNITの決勝では決勝シュートを決めて、チームメイトのレイ・トルバートとともにトーナメントのMVPに選ばれた。ただ、プロからの評価はさほど高くなく、2巡目第37位でレイカーズに入団。バックアップのSGとして54試合に出場した。

2年目からはペイサーズでプレイ。83~84シーズンには73試合中54試合でスターターとして起用されて平均13点を上回るなど、キャリア最高の成績を残している。84~85シーズンをニックス、85~86シーズンをニックス&シクサーズで過ごし、現役を引退。引退後はすぐに母校の高校でHCに就任し、低迷していたチームをすぐ立て直すことに成功。2年連続で州の最優秀HCに選ばれた。その後、カレッジのACを経て、91年にバックスのACに就任。

バックスではフランク・ハンブレンやマイク・ダンリービーの下で働き、96~97シーズンにはスカウトも務めた。97~98シーズンには創設間もないラプターズのACとなり、シーズン途中にダレル・ウォーカーが解任されたことを受けてHCに昇格。このシーズンは5勝28敗と無残な成績に終わったが、翌シーズンはルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したビンス・カーターら有望な若手と、チャールズ・オークリーらベテランに恵まれ、勝率を3割も上乗せした。

翌99~00シーズンには45勝37敗と、自身初の勝ち越し・チーム史上初の勝ち越し・チーム史上初のプレイオフ進出を経験。1stラウンドでニックスに一蹴されてしまったが、一応の結果を残した。ウォーカー前HCと上手くいっていなかった若きトレイシー・マクグレディを支えたことでも有名か。


デビッド・ブリットン


テキサスA&M大の出身で、NCAAトーナメントのMVPを受賞したことがある選手。79~80シーズンの同大は26連勝というチーム記録を樹立するなど強く、ルディ・ウッズ、バーノン・スミス、デイブ・ゴフらとチームを引っ張った。しかし、プロからの評価は低く、3巡目第57位でマブスから指名を受ける。しかも契約には至らず、ブレッツで4試合・通算9分プレイしただけでNBAのキャリアは終わった。引退後はボランティアでコーチを務めるなどしていたが、スキャンダルに巻き込まれ、途絶えた。


ドン・コリンズ


6フィート6インチのスウィングマン。ワシントン州立大出身で、当時は平均23点をマークしていた。ドラフト1巡目第18位でホークスに指名され、プロ入り。トレード期限にブレッツへ放出されながらも好調を維持し、3シーズンに渡って6マン的な役割を担った。しかし、83~84シーズンにウォリアーズでプレイしたのを最後にキャリアは一変。85~86シーズンはブレッツ、86~87シーズンはバックスでいずれも10日間契約でのプレイとなり、CBAとNBAを行き来した後、キャリアを終えた。

CBAでの活躍が有名な選手で、CBAの50周年記念チームのメンバーにも選出。マイナー・リーグ史上最も素晴らしいスコアラーのひとりとして考えられている。丁度NBAでのキャリアが危うくなってきた86年にはCBAとUSBL、それぞれのリーグで1試合63点をマーク。この年はCBAのオールスターMVPも受賞している。因みに当時のHCはビル・マッセルマンだった。フランスやスイスでプレイした経験もある。


サム・ウォーゼン


マーケット大出身のG。2巡目第26位でブルズ入りするが、1シーズン過ごした後に解雇。翌81~82シーズンにジャズで5試合プレイしたのを最後にNBAを去った。選手としてのキャリアは短かったが、85年にUSBLのチームで選手兼HCとなったのを契機として、同リーグやCBAのチームを幾つも渡り歩いた。08年にはハーレム・グローブトロッターズに負け続ける、悪役のワシントン・ジェネラルズのHCに就任。NBDLのチームでACを務めていたこともある。

昭和55年ドラフト組③

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字余りみたいになってしまったんですが、この年の選手たちの元ネタが数人余っていたので追加です。

今年のファイナル悔しかったなぁ…




マイク・オッコーレン


1巡目第6位でネッツ入りしたSF。最初の6シーズンをネッツで過ごした後、ブレッツに移籍するが、すぐ古巣ネッツに出戻り、そのシーズンを最後にキャリアを終えたマイナーな選手。ただ、引退後にネッツのチーム解説者として長く働いており、99年にはACとしてコーチングスタッフにも入るなどネッツ界隈では有名かもしれない。キャリア平均8.5点で、キャリアハイは平均11.4点であった。ノースカロライナ大の出身で、当時は4年間スターターを務めていたとか。


ケニー・ナット


ルイジアナ大モンロー校出身のG。高校時代はバスケットと陸上のスターで、カレッジでは1~3年次はパッとしなかったが、4年次に目覚ましい成長を見せた。ドラフトでは2巡目第30位でペイサーズに入団。しかし、19試合しか出られず、翌シーズンはCBAで過ごした。82~83シーズンはジャズでNBAに復帰するが、翌シーズンは再びCBAへ。NBAでは84~85シーズンにジャズ、キングスでプレイしたのが見納めとなった。

引退後は、89年にWBLのチームで選手の管理者やスカウトに就任。以降、CBAやカナダのチームでコーチを務め、94~95シーズンにはヤングスタウン州立大でACに就任した。95年からは古巣ジャズでジェリー・スローンのコーチング・スタッフに参加。スカウトの仕事なども含め、精力的に活動した。ジャズで同時期にACを務めたフィル・ジョンソンは、現役時代、キングスでプレイしたときのHCであもる。兄はカルビン・ナットで、こちらはオールスターFであった。


リック・マホーン


2巡目第35位で、無名校ハンプトン大からNBA入りしたビッグマン。同大史上初のNBA選手で、同大出身の選手は2016年現在もマホーンを含めて2人しかいない。最初の5シーズンはブレッツでプレイ。名を馳せた、と言えるほどの結果は残せなかったが、ジェフ・ルーランドの巨漢コンビでチームを支えた。85年オフにはダン・ラウンドフィールドとのトレードでピストンズへ移籍。ここでマホーンは、バッドボーイズを象徴するプレイヤーのひとりとして存在感を見せ、89年のチーム初優勝に貢献した。

バッドボーイズならではのフィジカルなスタイルはもちろんだったが、ディフェンスは良く、このシーズンはオール・ディフェンシブ・チーム入りを果たしている。しかし、優勝から僅か20日後、マホーンはエクスパンション・ドラフトの際にプロテクトされず、新チームのウルブズに指名されてしまう。マホーンはウルブズ行きを嫌がり、開幕直前にシクサーズへのトレードが成立。

ここではチャールズ・バークリーとチームメイトとなるが、残念ながら優勝を狙えるようなチームではなく、2年連続でセミファイナルでブルズに敗退。移籍2年目は、不得手なCとしてプレイしなければならなかった。91~92シーズンはイタリアでプレイし、92~93シーズンの開幕直後にネッツと契約。当時のネッツは恩師チャック・デイリーがHCに就任したばかりであった。大ベテランの域に入ってきたマホーンはこの頃から、成績が急激に下降するが、その人望からか4シーズンもネッツに籍を置いた。

96~98年を古巣ピストンズ、98~99シーズンをもうひとつの古巣シクサーズで過ごして現役を引退。バッドボーイズ時代にはビル・レインビアからも頼りにされていたようで、キャリア終盤も若手たちにとってよきベテランだったようである。引退後のマホーンは、すぐにCBAのロックフォード・ライトニングでHCに就任。いきなり2度のコーチ・オブ・ザ・マンスを受賞するなど、光る手腕を見せ、直後にはロン・クルーガーのコーチング・スタッフとしてNBAのACとなった。


ラリー・スミス


リバウンダー。しつこくリバウンドに絡むスタイルが特徴的で、「ミスター・ミーン」の愛称で知られた。デビューから9シーズンをウォリアーズで過ごし、続く3シーズンをロケッツでプレイ。最後の92~93シーズンはスパーズに在籍していた。ルーキーのときにいきなりリーグ3位のリバウンド・アベレージを記録するのだが、ルーキーがこの快挙を成し遂げたのは、当時カリーム・アブドゥル‐ジャバー以来のことであった。オール・ルーキー1stチームに選出されたのも納得であろう。

引退後は古巣ロケッツでACに就任。現役時代は優勝争いに縁のないキャリアだったが、ACとしてはロケッツの連覇に貢献している。NBA史上でも数少ないアルコーン州立大の出身。

昭和56年ドラフト組①

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個人的には、レブロンは「初優勝した」という感じ。ヒート時代の優勝ってなんか印象が薄いんですよね。



ハーブ・ウィリアムス


18シーズンという長いキャリアを過ごした6フィート10インチ・242ポンドのビッグマン。オハイオ州立大の出身で、4年間スターターとしてプレイしたウィリアムスは得点でチーム史上1位(卒業当時)、リバウンドで2位(ジェリー・ルーカスに次ぐ)、ブロックで2位という記録を残している。ドラフトでは1巡目第14位でペイサーズに入団。ルーキーイヤーから出場したほとんどの試合でスターターを務めるなど、チームの中心としてプレイした。

しかし、この当時のペイサーズはパッとせず、翌年以降のドラフトで有望な若手を指名しても、故障などもあってか確かな戦力アップにはならなかった。85~86シーズンにはキャリアハイの平均19.9点をあげたが、それも勝ち星には繋がっていない。転機となったのは86~87シーズン、HCがジャック・ラムジーに代わり、ルーキーのチャック・パーソンが新人王を受賞する活躍を見せ、チームは6シーズン振りにプレイオフ進出を果たした。

しかし、2年目のウェイマン・ティズデイルが台頭したことでウィリアムスの役割は減少し、88~89シーズン半ばにはデトレフ・シュレンプとのトレードでマブスへ放出された。マブスでは主にバックアップとしてプレイ。この頃のマブスは、90年代前半の地獄の低迷期に向けて戦力を落とし始めたときであった。92年には強豪ニックスと契約。ニックスではピーク時のパトリック・ユーイングのバックアップとなったため、出場機会・役割ともに大きく減少した。

95~96シーズン途中には一度ラプターズへトレードされるのだが、1試合プレイしただけで解雇されてニックスに帰還。41歳となる98~99シーズンまでニックスで現役を続けた。96年からHCを務めたジェフ・ヴァンガンディには人格を評価されており、チームの精神的なリーダーだったと見ることもできるだろう。引退から4年後、今度はACとしてニックスに復帰。ドン・チェイニーとレニー・ウィルケンスのACを務め、04~05シーズン途中にウィルケンス解任されたときは暫定HCをも務めた。

翌シーズンにラリー・ブラウンがニックスのHCになったときも、その後、HCがアイザイア・トーマスに交代したときも、マイク・ダントーニになってからもずっとコーチング・スタッフに入っている。


レイ・トルバート


インディアナ大出身。6フィート9インチのPFで、ドラフト1巡目第18位でネッツ入り。ルーキーイヤーの途中にソニックスにトレードされ、更に82~83シーズンの半ばにはドラフト2巡目指名権と交換でピストンズに移籍、1シーズン半過ごした。84年に契約を破棄されてからはしばらくNBAでプレイできなかったが、87年にニックスと契約。すぐに解雇されるが、今度は強豪レイカーズに拾われた。88~89シーズンにホークスでプレイしたのを最後に現役を引退。

キャリア通算は261試合で平均3.6点。FTは苦手である。


オーランド・ウールリッジ


ノートルダム大出身のF。78年のファイナル4では1年生としてビル・レインビアらとプレイした。同大は80・81年もNCAAファイナルに進んでおり、81年にヴァージニア大の連勝記録を止めたのはウールリッジの決勝シュートであった。ドラフトでは1巡目第6位でブルズに入団。1年目はバックアップであまり目立たず、2年目は平均16.5点をあげた一方で25試合を欠場した。大きく飛躍したのはスターターに定着した3年目で、チームの稼ぎ頭に成長。4年目には平均22.9点をマークした。

しかし、その4年目はマイケル・ジョーダンが入団した年でもあり、チームはジョーダン中心にシフト。ジョーダンとの不和が囁かれたりもした。翌85~86シーズンはそのジョーダンが足首の骨折で長期離脱を強いられるが、そこで逆にスターターを外されたり、無断でチームを離れたりするなどチームを牽引できず、86年オフにはドラフト指名権と交換でネッツに放出されてしまう。ネッツでの1年目は平均20.7点を稼いだが、2年目にリーグの薬物規定に違反して出場停止、キャリアは危機に瀕した。

しかし、ウールリッジはここから立ち直り、88~90年はレイカーズでプレイ。ここでは6マン的な起用をされ、ベンチから爆発力をもたらす存在として活躍した。身体能力の高いウールリッジは、マジック・ジョンソンのパスの受け手として悪くなかった。

90~91シーズンはナゲッツで平均25.1点・6.8リバウンドと、個人スタッツとしてはキャリアハイをマーク。ただ、これはポール・ウェストヘッドHCによるオフェンス重視のスタイルが影響しており、チームは弱く(20勝62敗)、また、ウールリッジは目の怪我でシーズンの半分近くを欠場した。91年オフにはピストンズへトレードされ、レインビアと再会。スターターとして起用されたが、峠を過ぎたバッドボーイズを蘇らせることは出来ず、92~93シーズン途中にはバックスへ放出された。

93~94シーズンをシクサーズで過ごした後は渡欧。94~95シーズンはマイク・ダントーニがHCを務めるイタリアのベネトン・トレビソでプレイしている。95年のマクドナルド選手権では、決勝でロケッツと対戦している。95~96シーズンを最後に現役を引退。6フィート9インチ・215ポンドで、身体能力の高い選手。オープン・コートではアンストッパブルで、ダンクも見応えがあった。ただ、プレイが一元的なのでエースとしても2番手としても物足りない。引退後はWNBAのスパークスでHCを務めたこともある。


ケリー・トリピューカ


ノートルダム大出身のスコアリングF。ドラフト1巡目第12位でピストンズに入り、ルーキーイヤーからスコアラーとして活躍。2年目には24試合を欠場しながらも平均26.5点をマーク。平均38.8分のプレイングタイムはリーグ1位であった。86年には同じくスコアラーのエイドリアン・ダントリーとのトレードでジャズに移籍。しかし、当時のジャズはジョン・ストックトン、カール・マローンを中心にチームを作り始めており、得点力はあるが協調性に欠けるトリピューカは歓迎されなかった。

移籍1年目こそ故障明けのダレル・グリフィスからスターターの座を奪ったが、翌年は出場機会を制限されてしまう。HCのフランク・レイデンとも衝突し、結局88年オフにエクスパンション・ドラフトでホーネッツに拾われた。ここでも1年目は平均22.6点をマークするなど錆び付いていないことを示したが、次第に若手に活躍の場を奪われ、90~91シーズンを最後に現役を引退。その後、チャック・デイリーがHCに就任したネッツ行きの噂などもあったようだが、実現には至らなかった。

89年に行われたホーネッツとジャズの試合で、マローンはレイデンが解任されて間もなかったことを受けて、シューズの踵に「フランク」と書いてプレイしたのだが、これを受けてトリピューカは自分のシューズに「ディック」と書いてプレイしたという(当時のホーネッツのHCはディック・ハーター)。シュートの上手いスコアラーで、プレイオフ初のロードゲームで40点をあげたというリーグ・タイ記録を保持している。また、ピストンズ史上1試合40点以上をあげた選手は、他に4人しかいない。

ディフェンスが弱いことでも有名。


マイク・マギー


ミシガン大出身のスウィングマン。1巡目第19位でレイカーズに入団した。層の厚い強豪に入ったことで最初2年間は出番がなかったが、ノーム・ニクソンが去った83~84シーズンは開幕からスターターとしてプレイ。シーズン中盤にはバイロン・スコットにその座を奪われたが、以降も貴重な控えとして貢献した。15分足らずのプレイングタイムながら平均10点前後を稼ぐなど、ショータイム時代のレイカーズを陰で支え、82・85年には優勝を経験している。

86年にはホークスへ移籍し、翌シーズンの序盤には更にキングスへトレードで移籍。88~89シーズンはネッツで過ごし、このときはキャリアハイの平均13点をマークしている。NBAでプレイしたのは89~90シーズンのサンズが最後。フィリピンでもプレイしたことがある。そのチームへの貢献度の高さはマジック・ジョンソンも評価するほどであったが、唯一FTは精度が悪く、Gなのに6割に届かない。


バック・ウィリアムス


本名はチャールズ・リンウッド・ウィリアムス。6フィート8インチ・215ポンドとNBAのF/Cとしてはやや小柄だったが、3度のオールスター選出、新人王、オール・ルーキー・チームへの選出、オール・ディフェンシブ・チームへの選出、オールNBAチームへの選出など多くの実績を残した。83~84シーズンにオフェンス・リバウンドの総数でリーグ首位をマークしたのも、84~85シーズンにリーグ首位の3182分プレイしたのも、地味ながら素晴らしい成績である。

メリーランド大の出身で、当時から特にリバウンドで強さを発揮。出場こそしなかったが、80年のモスクワ・オリンピックの代表メンバーに選ばれている。3年次終了後にアーリー・エントリーを表明し、ドラフト1巡目第3位でネッツ入り。マーク・アグワイア、アイザイア・トーマスに次ぐ指名であった。1年目はラリー・ブラウンHCの下、Cのレン・エルモアとともに全82試合でスタートし、平均15.5点・12.3リバウンドをマーク。チームは前年度+20勝(44勝38敗)をあげ、新人王を受賞した。

2年目の82~83シーズンは、ダリル・ドーキンス、マイケル・レイ・リチャードソンが加わるなど戦力は充実。チームは49勝33敗をあげ、ウィリアムスもオールNBAチームに選出された。ただ、このシーズンは、ブラウンHCが「シーズン終盤にカンザス大のHC職を受諾した」ということでシーズン終了までの出場停止処分を喰らってしまい、チームは残り6試合というところでHCを交代。チームはここから立ち直れず、プレイオフでは下位シードのニックスに敗れてしまった。

翌83~84シーズンは、ネッツにとって、76年にNBAに参入して以来初となるプレイオフ1stラウンドを果たすが、ここをピークにチーム力は下降(因みにネッツが次に1stラウンドを突破するのは02年)。リチャードソンがドラッグ問題でチームを去った86~87シーズン以降は、ウィリアムスがどんなに活躍しようとも低迷。そして、88~89シーズンを最後にサム・ブゥイ&ドラフト指名権とのトレードでブレイザーズへと放出された。

ブレイザーズは4年連続1stラウンド敗退中の中堅チームだったが、ウィリアムス加入の影響か、前年度+20勝となる59勝23敗をマークし、なんとファイナルに進出。ピストンズに負けたが、大躍進のシーズンだった。ブレイザーズ移籍によって個人成績は軒並みダウンしたが貢献度は高く、91・92年には60%FG成功率でリーグ首位を記録。チームは92年もファイナルに進んでいる(ブルズに敗れる)。その後、主力の高齢化などでブレイザーズも戦力ダウン。96年にはニックスへ移籍した。

この頃にはさすがに衰えが顕著だったが、パトリック・ユーイング、チャールズ・オークリーのバックアップとして手堅くプレイ。しかし、移籍2年目の97~98シーズンは膝の故障で41試合を欠場し、ロックアウト解除直後の99年1月末、現役引退を表明した。因みに1シーズンに12シーズン以上欠場したのは初めてのことだった。引退から間もない99年4月には古巣ネッツが、ウィリアムスの背番号52を永久欠番としている。

プロ入りから最初の6シーズン連続で平均12本を上回るリバウンド数でリーグのトップ3にランクイン。故障も少なく、実に12シーズンで80試合以上に出場した。人望も厚く、94~97年には選手協会の会長も務めている。


アルバート・キング


1巡目第10位でネッツに指名されたスウィングマン。メリーランド大。ルーキー時代から主にスターターとして起用され、2年目にはキャリアハイの平均17.0点をマークしている。87年にはシクサーズ、88年には更にスパーズへ移り、89~91年はNBAでプレイせず。91年にはブレッツと契約を結ぶが、開幕から6試合に出たところで解雇されてしまった。スコアラーとして有名なバーナード・キングの弟で、91~92シーズンにはチームメイトであった(バーナードの故障のため、ともにコートには立っていない)。


アル・ウッド


1巡目第4位でホークス入りした、ノースカロライナ大出身のスウィングマン。ルーキーイヤーの途中にクリッパーズにトレードされて開花。83年にソニックスに移籍するとスターターに定着し、3シーズンに渡って主力として活躍した。しかし、当時のソニックスはかろうじてプレイオフに滑り込めるくらいの戦力しかなく、ゼイビア・マクダニエル、トム・チェンバーすら好選手の加入によって出番は減少。86~87シーズンにマブスに在籍したのを最後に現役を引退した。

キャリアは短かったが、通算で平均11.8点は悪くない。

昭和56年ドラフト組②

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レイカーズがブランドン・イングラムを指名するぽく、わくわくしております。ホーフォードは来てくれないと予想。




マーク・アグワイア


80年代を代表するスコアラーのひとり。デポール大のスターSFで、カレッジ時代はテリー・カミングスとチームを牽引していた。ドラフト1巡目第1位でマブス入り。当時のマブスは創設2年目の若いチームだったが、同じくルーキーのローランド・ブラックマン、ジェイ・ビンセントとともに即戦力となった。アグワイアは31試合を休んだがチーム2位の得点アベレージをマークし、チームも28勝をあげて最下位は回避。創設2年目としては悪くないシーズンであった。

翌シーズンは平均24点をあげ、チームは38勝。そして3年目の83~84シーズン、リーグ2位の平均29.5点をマーク。チームも、創設以来の巧みなドラフトのお陰で層が厚く、3年目にして43勝・プレイオフ初進出を達成した。プレイオフでもセミファイナルまで進んでいる(レイカーズに敗れる)。84~86年はアグワイアもチームも伸び悩むが、86~88年は2年連続でオールスターに出場するなど持ち直し、チームも50勝以上をマーク。88年にはフランチャイズ記録となる53勝をあげた。

この年はプレイオフでも熱く、ロケッツとジャズを破り、カンファレンス・ファイナルではレイカーズをゲーム7まで追い詰めた。この当時のレイカーズをここまで苦しめたチームはそう多くない。アグワイアは得点パターンが豊富で、スピン・ムーブにジャンパー、ドライブにアウトサイド・シュートとあらゆる方法で高得点を稼ぎ出せるスコアラーだったが、そのスタイルには気分屋で自己中心的といった批判もあり、地元ダラスのファンもときには手厳しかったようである。

そして88~89シーズン途中、エイドリアン・ダントリー&将来のドラフト1巡目指名権と交換でピストンズへ移籍。マブスで数々の実績を残したにもかかわらず、ダラスの記者はこのトレードを喜び、「チーム史上最もすばらしい日」と評するコラムニストさえいた。また、このトレードが成立したのは「ピストンズにアグワイアと友人のアイザイア・トーマスがいたから」とも言われ、ダントリーの親がトーマスに怒ったという話もある。

トレード当初は、チームを重視するピストンズのスタイルにアグワイアが順応できるのか、といった懸念があったが、上手くフィット。6マン的な起用をされることもあったため、出場機会は少なくなり、スタッツも落ちたが、貢献度は高く、89・90年の2連覇に貢献。エースであろうとなかろうとアグワイアがオフェンスの脅威であることに変わりはなかった。その後、ポジションの重なるデニス・ロドマンの成長、チームの崩壊、自身の衰えなどからキャリアは下降線を辿ったが、93年までピストンズでプレイ。

93~94シーズンをクリッパーズで過ごして現役を引退した。必ずしも知名度は高くないが、80年代の優秀なスコアラーのひとり。


アルトン・リスター


ドラフト1巡目第21位でバックスに入団した、アリゾナ大出身の7フッター。16シーズンに渡って5つのチームでプレイしたが、常に53番を着用していた。83~85シーズンは主にスターターとしてプレイし、ブロックではそれなりの結果を残した。85~86シーズンは数字こそ大きな変化はなかったが、スターターの座をランディ・ブリューワーに奪われ、86年のオフにはソニックスへ移籍。ここでは他にめぼしいCがいなかったこともあり、88~89シーズンまで主にスターターとして起用された。

89年にはウォリアーズへ移籍し、バックス時代の師であるドン・ネルソンHCと再会。当時のウォリアーズはその頃には珍しいスモール・ラインナップを用いるチームで、リスターはそんなチーム唯一の正統派Cであった。93年のオフに一度現役を引退するも、翌94年のオフには古巣バックスと契約を結んで36歳にして現役復帰。95~96シーズン途中にはセルティックスへトレードされ、翌シーズンまで在籍。97~98シーズンにブレイザーズで7試合だけプレイし、2度目の引退をした。

NBA50周年のとき、当時60歳のウィルト・チェンバレンが「アルトン・リスターが復帰しただろ?俺だってやろうと思えばまだやれるよ(笑)」とコメントしていた。得点とリバウンドでダブルダブルに迫るアベレージを残した86~87シーズンが恐らく自己最高のシーズン。在籍したチームにいいCがいないケースが多かった。引退後はマイナーリーグのコーチなどを務めた模様。


ジェイ・ビンセント


ミシガン大出身。6フィート7インチのF。ミシガン州立大の出身で、79年にはマジック・ジョンソン、グレッグ・ケルサーらとともにNCAAチャンピオンに輝いている。ドラフトでは2巡目第24位で創設2年目のマブスに入団。すぐスターターに定着し、平均21.4点・7.0リバウンドをマークしてオール・ルーキー1stチームに選出された。3年目以降はベンチ・スタートとなる機会が増えたが、持ち前の得点力で6マン的な働きを見せていた。

しかし、86年オフにブレッツに移籍すると、翌87年オフには更にナゲッツへ移籍。この当時もベンチの得点源として活躍をしていたが、88~89シーズンの開幕前に故障し、年末に復帰するとすぐにスパーズへトレードされた。89~90シーズンをシクサーズとレイカーズで過ごしてNBAでのキャリアは終了。奇しくも最後はマジック・ジョンソンとチームメイトであった。その後はイタリアのクラブ・チームなどを経て現役を引退。キャリア平均15.2点は、ベンチ・スタートの多かった選手としては合格点か。

サム・ビンセントは実の兄弟である。


ダニー・エインジ


MLBのトロント・ブルージェイズでもプレイした選手。高校時代はフットボールでオール・アメリカンに選出され、ブリガムヤング大ではバスケットをプレイ。77年にはアマチュアを対象としたドラフト?でブルージェイズに指名され、一方でバスケットに専念。81年にはジョン・R・ウッデン・アワードを受賞し、今度はNBAのドラフトで、2巡目第31位でセルティックスに指名された。セルティックスはブルージェイズの契約を買い取らなければならなかったが、エインジは晴れてセルティックスの一員となった。

デビュー当時のエインジは順調ではなかったようで、ラリー・バードによればチームメイトはエインジのシュート成功率の低さをからかい、「バスケットのシュート成功率より打率の方がいいのでは?」とさえ言った。しかし、そこから次第に重要な戦力となり、84年と86年にチームが優勝した時には主力として活躍するまでに成長。得点だけでなく、ディフェンスでも貢献度は高かった。89年には高齢化・故障が懸念されたフロントライン補強のためにキングスへトレードで移籍。

エインジが加入してもキングスは弱いままだったが、個人としては平均20点を超える大活躍を見せた。90年には強豪ブレイザーズへ移籍。ベンチ・スタートとなったが存在は大きく、92年にチームがファイナルに進んだときは、ファイナルのオーバータイムにおける最多得点(9点)をあげるなど活躍を見せた。その直後の92年オフにはFAとしてサンズと契約。当初は残留する旨のコメントをしていたが、契約解禁初日に移籍を決めた。

このシーズンのサンズはロゴとアリーナを一新し、ポール・ウェストファルがHCに就任し、チャールズ・バークリーも加わるなど新たなスタートを切っており、エインジはそのチームを何度も救って見せた。サンズはそのシーズン、ファイナルに進んでおり、エインジにとっては2シーズン連続、異なるチームでのファイナル進出となった(ともにブルズに敗れる)。その後、95年に現役を引退。現役時代は短気で熱くなりやすく、「パブリック・エネミー」と呼ばれることもあったとか。

引退後はTVコメンテーターを経て、96年、古巣サンズのACに就任。そして迎えた96~97シーズン、エインジはコットン・フィッシモンズHCが開幕早々に辞任したことを受け、すぐHCとなった。サンズは開幕13連敗という不甲斐ないスタートを切るのだが、エインジはそこから少しずつ立て直し、シーズン終盤には2桁の連勝をマークするなど猛ラッシュ。第7シードでのプレイオフ進出を決めた。このときのエインジは、Gを3~4人同時に使う、通称「スモール・ボール作戦」を用い、これが功を奏していた。

ディフェンス偏重型のチームが多く、ロースコアなゲームが多かった時代にこのスタイルは刺激的であったが、プレイオフを勝ち進むまでには至らず、99~00シーズンの開幕直後に「家族と過ごす時間がほしい」という理由で、HC職を退いた。03年には古巣セルティックスのフロント入り。しばらくはアントワン・ウォーカーの放出など、思い切った人事の効果が見られずしばしば批判を浴びたが、07年にレイ・アレン、ケビン・ガーネットを獲得して優勝したことで評価は高まった。


フランク・ブリコウスキー


ペンシルバニア州立大出身。ドラフト3巡目第57位でニックスに指名されるが、チームに「まだNBAでプレイする準備はできていない」と判断され、81~82シーズンをイタリア、82~83シーズンをフランス、83~84シーズンをイスラエル(マッカビ・テル・アビブ)でプレイした。83年にはニックスから交渉権を手放されてしまうが、84年オフ、ソニックスと契約を結び、ようやくNBAデビューを果たした。しかし、ほとんど戦力にならず、86年にレイカーズと契約。そしてシーズン半ばには更にスパーズへトレードされた。

このシーズンの残りは7試合しかプレイしなかったブリコウスキーだったが、翌87~88シーズンは平均16.0点・6.9リバウンドとブレイク。スターターとしても通用する力があることを示した。しかし、その後はデビッド・ロビンソンの加入やサラリーの問題で、90年、バックスへ移籍。故障したラリー・クリストコビアックの穴を埋めて余りある活躍を見せ、チームの中心として健闘。この頃がキャリアの最盛期であった。93~94シーズン半ばにはホーネッツへトレード。

ここでは故障したアロンゾ・モーニングの穴を埋めることを期待されていた。94年にはキングスに加入するも、肩の故障によって全休。翌95~96シーズンは古巣ソニックスで自身初となるファイナルを経験。第1戦と第3戦でデニス・ロドマンを挑発して、逆にテクニカル・ファウルを吹かれて退場になったシーンは印象深い。96~97シーズンにセルティックスで17試合だけプレイし、現役を引退した。30代前半にキャリアのピークを迎えた遅咲きの選手。

サイズ的にはやや小さいが、チーム事情からCとして起用されることが多かった。シュートが上手く、特に96年にソニックスに在籍した時には、本数こそ少なかったが精度の高い3Pでの貢献も見せた。バックス時代はドラッグのカウンセリングを受けるなどオフコートでのトラブルもあったとか。


スティーブ・ジョンソン


ローポストの効果的なオフェンス、お粗末なディフェンスとリバウンド、ファウルの多さで知られたF/C。ラルフ・ミラーが指揮していたオレゴン州立大の出身で、80~81シーズンにはNCAA記録となる74.6%というFG成功率を記録した。ドラフトでは1巡目第7位でキングスに指名され、1年目から平均12.8点をマーク。FG成功率61.3%はリーグ2位であった。ただ、ファウル数もリーグ首位だったが。2年目もリーグ2位のFG成功率をマークしたジョンソンは3年目の途中にブルズへトレードされた。

ブルズ時代はマイケル・ジョーダンの公式戦デビューでともにスターターとしてプレイしている。85年にはスパーズへ移籍し、ここでは63.2%という高いFG成功率で初めてリーグ首位に立った。86年にはマイカル・トンプソンとのトレードでブレイザーズへ移籍。チームはディフェンス志向のサム・ブゥイとオフェンス志向のジョンソンが組ませることでフロントラインの強化を目論んでいたようだが、この計画はブゥイの怪我によって白紙になってしまう。

ジョンソンはCとして起用されてキャリア最高のシーズンを過ごし、オールスターにも出場するが、翌シーズンはブゥイに続いてジョンソン自身も故障してしまい、その間にケビン・ダックワースにポジションを奪われてしまうのであった。89年オフにはエクスパンション・ドラフトでウルブズに移籍するも、開幕直後に今度はソニックスへトレード。90~91シーズンにウォリアーズでプレイしたのを最後に現役を引退した。引退時、NBAでの通算FG成功率は史上4位であった(NCAAは史上1位)。


トム・チェンバース


ユタ大出身の白人PF。80年代後半~90年代前半にかけてのサンズのスターで、ケビン・ジョンソンとのピック&ロールは強力な武器であった。ドラフト1巡目第8位で、クリッパーズに入団(当時のフランチャイズはサンディエゴであった)。いきなり平均17点を上回るなど活躍を見せたが、バック・ウィリアムス、ケリー・トリピューカらの壁は厚く、オール・ルーキー・チームには選出されなかった(当時は2ndチームがなかった)。

83年にソニックスに移籍するとスコアラーとして開花。平均20点を超えるようになり、デイル・エリス、ゼイビア・マクダニエルらとともにチームを牽引。初出場となった87年の地元シアトルでのオールスターでは、代替出場&ベンチ・スタートながらMVPを受賞した。因みにこのときはマジック・ジョンソンが積極的にチェンバースにボールを送り続けたという。88年にはNBA史上初のFAとしてサンズへ移籍。新天地ではソニックス時代を上回る活躍をみせ、キャリアのピークを迎えた。

89~90シーズンには平均27.2点をマーク。先述のようにケビン・ジョンソンとのコンビは強力であった。しかし、次第に故障やロスターの入れ替わりで衰えがみられるようになり、チャールズ・バークリーが加入した92~93シーズンは、キャリアで初めてバックアップとして1シーズンをプレイ。そのオフにはサンズからオプションを行使されずにFAとなり、ジャズと契約を結んだ。ここでは2シーズン、カール・マローンのバックアップを務めている。

95年にはイスラエルのマッカビ・テル・アビブと契約。当時これは大きな出来事であったが、ここでのチェンバースは大乱調。大事な試合でFT2本の2点に終わるなど、活躍したとは言い難かったようである。96~97シーズンはNBAに戻ってホーネッツでプレイ。97年オフには古巣サンズと契約するがフロントと揉め、1試合も出ないうちにシクサーズへトレード。ここで1試合だけプレイして現役を引退した。最後2シーズン、チェンバースにかつての面影は見られなかった。

強力な白人スコアラー。通算のFT成功率が80%を超えるなど確かな技術を持っていたのに加え、機動力にも優れていた。リバウンドはあまり強くない。

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