前回の記事に派手な間違いがありました・・・
1985年は昭和60年でしたm(_ _)m
エリマキトカゲのブームも1984年の出来事でしたm(_ _)m
失礼いたしました。
ジョー・デュマース
ピストンズ史に残る6フィート3インチのSG。シューター型のSGでディフェンスにも定評があり、その実力はジョーダンも認めるところである。ドラフト1巡目第18位でマクニーズ州立大からピストンズ入り。ルーキーイヤーの終盤にジョン・ロングから出場機会を奪い、2年目にはスターターに定着。アイザイア・トーマスとのバックコート・コンビはピストンズの顔となり、チームは89・90年と2連覇を達成。89年のチーム史上初優勝のときにファイナルMVPに輝いたのはデュマースであった。
「バッドボーイズ」と呼ばれた強いピストンズは91年のプレイオフでブルズに惨敗して崩壊していくが、デュマースは個人成績をアップさせて孤軍奮闘。94年にグラント・ヒルが加入すると、若きスーパースターをサポートする存在としても貢献した。アラン・ヒューストンやリンジー・ハンターにスターターの座を譲った時期もあったが、そのヒューストンが移籍したことで96~97シーズンからスターターに復帰。すると、持ち前のシュート力でまだやれることを示した。
ロックアウトを経て、99年に現役を引退。オールスターに6度、オール・ディフェンシブ1stチームに4度選ばれており、また、その立ち振る舞いから「バッドボーイズの良心」とも言われた。スポーツマンシップ・アワードを初めて受賞した選手でもあり、受賞時のトロフィーは「ジョー・デュマース・トロフィー」とも呼ばれている。背番号4はピストンズの永久欠番。94年にはドリーム・チームⅡの一員として世界選手権でもプレイし、金メダルを獲得した。06年に殿堂入り。
引退後は00年にピストンズのGMに就任。03年にエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを受賞しており、04年のチャンピオン・チームを創った立役者でもある。このときは、強引にスーパースターを獲得するのではなく、他チームから必要とされなくなったような選手を集めており、そのやり方は高く評価されてた。ただ、00年代後半になるとチーム作りに苦戦。成績は伸びず、HCと選手の不和などの問題も表面化し、それらを立て直せないまま職を離れた。
95年頃、ヒルと「ヒルが3Pを決めるのと、自分がダンクを決めるのと、どっちが先か?」という賭けをして勝ったというエピソードがある。
パトリック・ユーイング
名C。ジャマイカのキングストン出身で、アメリカに移り住んだ高校時代からバスケットを始めた。ジョージタウン大では名将ジョン・トンプソンの指導を受け、84年にはヒューストン大を破ってNCAAタイトルを獲得。翌85年はヴィラノバ大にアップセットを喰らってしまうが、当時のカレッジ界で最高の選手はユーイングであった。NBAがドラフトにロッタリー精度を導入したのは、ユーイング獲得のためにワザと負けるチームが続出するのを避けたかったからである。
もちろん1巡目第1位でニックスに指名されたユーイングは、故障に泣かされるもルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。すぐにリーグ屈指のCとして認識されるようになった。最初の3シーズンほどは、特にオフェンスは横ばいの状態が続いたが、少しずつ成長を見せ、89~90シーズンに個人スタッツ上ではキャリア最高のシーズンを過ごした。当時はチーム状態が芳しくなかったが、91年にパット・ライリーがHCに就任するとニックスは強豪チームに転身。王者ブルズとの死闘は有名である。
92年のプレイオフでは、2勝3敗で迎えた第6戦、ユーイングは酷く足を捻ってしまうがコートに戻って勝利に貢献。マーブ・アルバートは「ウィリス・リードをみているようだ」と形容した(シリーズには負けている)。94年には自身初、チームにとっても73年以来となるファイナル進出を達成。ニックスは3勝2敗と先に王手をかけながら優勝できなかった。戦犯としてジョン・スタークスが叩かれたが、ユーイングもあまり良い出来ではなく、オラジュワンに大活躍を許している。
翌95年のプレイオフでは、セミファイナルでペイサーズに敗戦。第7戦の最後のプレイで、同点を狙ったユーイングのフィンガーロールが決まらなかった。95~96シーズンは新HCのドン・ネルソンとチームが合わず、シーズン半ばにネルソンがクビになるなど波乱含み。ユーイングはネルソンに対して好意的だったようだが、勝利には繋がらなかった。96年にはラリー・ジョンソン、アラン・ヒューストンという2人が加わり、ユーイングも喜んだが、結果はセミファイナル止まり。
乱闘騒ぎで主力が出場停止になるという不運もあったが、期待ほどの結果ではなかった。そして翌97~98シーズンの序盤、バックス戦で左手に重傷を負ってしまい、シーズンの残りをすべて欠場。ユーイングはこの怪我から、明らかな衰えが目立つようになってしまう。このときはプレイオフのセミファイナル途中で復帰するが、チームに勝利をもたらすことは出来なかった。翌シーズン、ニックスは史上初めて第8シードからのファイナル進出を決めるが、ユーイングは蚊帳の外状態。
アキレス腱を負傷していたユーイングは出場・欠場を繰り返し、ファイナルは全休。プレイオフを勝ち進んだのは、ヒューストンと新加入のラトレル・スプリーウェル、マーカス・キャンビーらのお陰だった。また、この年のプレイオフ、ペイサーズとのカンファレンス・ファイナルでユーイング不要論が勃発。ニックスはユーイングが出た試合で負け、休んだ試合で勝っている、というのがその根拠であった。実際、スプリーウェルやキャンビーとのプレイの相性はあまり良くなかった。
そして00年オフ、ソニックスへのトレードが成立した。これは、元々はレイカーズ&ピストンズ&ソニックスとの◇トレードだったが、ピストンズが成立寸前に抜けてしまい、一度破談になった後、改めてサンズを絡めて成立した◇トレードであった。2度目のトレードはニックスが見返りを妥協したこともあってか、このトレードは批判を浴びた。特にレジー・ミラーやチャールズ・バークリーといったスーパースターがユーイングを庇い、ニックスを非難していたのが印象的である。
ニックスは、00~01シーズンの開幕戦でシクサーズに大敗した際、ファンに「ユーイング」コールをされるなど、ここから下降線を辿っていくが、ユーイングの凋落はもっと早かった。ソニックスではゲーリー・ペイトン、ビン・ベイカーらとプレイするもチームはプレイオフにも出られず、シーズン終了後にはマジックと契約。ここではスターターを外され、ほとんど戦力にならなかった。シーズン最後のMSGでのニックス戦では、ドック・リバースHCがユーイングをスターターとして起用する気遣いを見せている。
02年9月に現役を引退。オールスターに11度出場し、ドリーム・チームⅠのメンバーでもあり、96年にはリーグの偉大な50人にも選出された。ただ、オラジュワンやデビッド・ロビンソンらと同じ時代に生きた不運か、オールNBA1stチームには一度しか選ばれていない(2ndチーム入りは6度)。背番号33はニックスの永久欠番。独特なフォームから繰り出される、ソフトタッチのジャンパーは確率が高かった。公には7フッターだが、実際は6フィート9インチだとか。
引退後はウィザーズやロケッツなどでACを務めている。NBAでHCになりたいようだが、今のところ噂はない。アロンゾ・モーニング、ディケンベ・ムトンボは大学の後輩で、00年にモーニングが腎疾患を発表したときにはドナーとなることを申し出た(モーニングの身内にドナーがいたため、必要とはならなかった)。
ジョン・ウィリアムス
通称「ホットロッド」・ウィリアムス。6フィート11インチのビッグマンで、テュレーン大の出身。ドラフト2巡目第45位でキャブスに指名されるが、同年3月27日に八百長疑惑で逮捕されており、この裁判のためにすぐNBAでプレイできず、85~86シーズンはUSBLで過ごした(裁判は誤判)。そして86~87シーズンにマーク・プライス、ブラッド・ドアティ、ロン・ハーパーらとともにキャブスでNBAデビュー。出場した80試合すべてでスターターを務め、オール・ルーキー1stチームに選ばれた(ドアティ、ハーパーも)。
2年目以降はラリー・ナンスの加入などもあってベンチ・スタートが多くなるが、攻守に貢献度は高く、複数のポジションをこなせるウィリアムスは貴重であった。95年オフ、インサイドの戦力を必要としていたサンズに、ダン・マーリーと交換で移籍。しかし、ウィリアムスはサンズにフィットせず、チームも成績が下降し、期待を裏切ってしまった。96~97シーズンはダニー・エインジHCが用いたスモールボール作戦で、インサイドの要として活躍。平均8.3リバウンドはキャリアハイであった。
ロックアウトを挟んでマブスに移籍するが、この頃には故障もあってあまり役に立たず、99~00シーズンは全休。00年にはセルティックスにトレードされるが、開幕を迎える前に現役を引退した。手足が長く、ブロックが上手。また、Cとしては機動力があり、若い頃はドライブも武器であった。
エド・ピンクニー
ヴィラノバ大出身で6フィート9インチのPF。同大が85年にジョージタウン大を破って優勝したときの中心選手で、その試合ではパトリック・ユーイング相手に好プレイを見せた。ドラフトでは1巡目第10位でサンズに入るがインパクトを残せず、87年オフに△トレードでキングスへ移籍。88~89シーズンの途中には更にセルティックスへトレードされた。ここではラリー・バードやケビン・マクヘイルら主力が故障に苦しんでいたためか、スターターとして起用されることが多かった。
94~95シーズンをバックスで過ごした後、エクスパンション・ドラフトでラプターズ入り。開幕からスターターとして起用されるなど精力的なプレイを見せたが、すぐシクサーズへトレード。翌シーズンをヒートで過ごして現役を引退した。カレッジ時代はユーイングが「手強かった」と認めるほどの選手だったが、プロで輝きを見せることはなかった。PFとしてはウェイトも含めて小柄で、リバウンドやブロックが少ない。
スパッド・ウェッブ
5フィート7インチながら驚異的なジャンプ力でスラムダンク・コンテストでチャンピオンになったPG。本名はアンソニー・ジェローム・ウェッブ。そのサイズのためか、高校卒業後はコミュニティ・カレッジに進むが、そこでの活躍を評価され、ノースカロライナ州立大に編入した。ドラフトでは4巡目第87位でピストンズに指名され、オフのうちにホークスに移籍した。1年目は短時間ながらバックアップとしてまずまずの働きを見せ、その後も15分強のプレイングタイムを自分のモノにした。
89~90シーズンにドック・リバースの故障で出場機会が拡大すると、スターティングPGとしても通用することをアピール。91年にはPGに飢えていたキングスと契約を結び、個人成績の上ではプライムタイムを迎えた。ここでは、チームは弱かったが4シーズンに渡ってスターターを務めた。95~96シーズンは古巣ホークスへ復帰するが、シーズン半ばにウルブズへトレード。トレード後は再びスターターとして起用されたが、将来的な構想には入っておらず、オフにはチームを離れた。
1シーズン空けて、97~98シーズンに10日間契約でマジックに加入するが、すぐに解雇され、ここで現役を引退した。マグジー・ボーグス、アール・ボイキンスに次ぐ、史上3番目に身長の低い選手。シュートが上手く、サイズを考慮すると45%以上のFG成功率も見事。ミスも少ない。クイックネスとジャンプ力に長けており、先述のように86年のスラムダンク・コンテストで優勝。チームメイトであり、前年のチャンピオンでもあったドミニク・ウィルキンスは、ウェッブのコンテスト参加に驚いたという。
因みに、決勝ラウンドの相手はそのドミニクで、パーフェクトの150ポイントで勝っている。「ダンクの選手」とみられることを嫌っていたようだが、実戦でもダンクを見せることが出来た。
テリー・ポーター
80年代後半~90年代前半のブレイザーズを支えたPG。ミルウォーキーの高校、ウィスコンシン大を経てドラフト1巡目第24位でブレイザーズ入り。2年目からスターターに定着し、3年目には平均アシストで2桁をマークするなど、すぐに結果を残した。90・92年とブレイザーズがファイナルに進んだときの主力であり、91・93年にはオールスターにも選ばれている。しかし、93年にロッド・ストリックランドが加入すると出場機会が減少。
翌シーズンは故障もあって更に影が薄くなり、オフにウルブズへ移籍した。1年目は混迷するチームの仲で埋もれたが、2年目からは若いチームに必要なベテランとして貢献。98年にヒート、99年にはスパーズと強豪チームと相次いで契約するが、優勝には縁がないまま02年に現役を引退した。アウトサイド・シュートの上手いPGで、そのシュート力からSG的な起用をされることもあった。93年にはJウォルター・ケネディ・シップ・アワードを受賞している。
引退後はコーチとして活動しており、結果はいまいちだったが、バックスとサンズでHCを務めたことがある。ジャック・ラムジー、パット・ライリー、グレッグ・ポポビッチの下でプレイした経験がある。
ジェラルド・ウィルキンス
ドミニク・ウィルキンスの弟。ダミアン・ウィルキンスの父親でもある。テネシー大出身のSGで、ドラフト2巡目第46位でニックスに入団した。1年目はFTが50%台に終わるなど難点は多かったが、平均12.5点をマークするなど2巡目指名とは思えない健闘を見せ、2年目には課題のシュートを改善。平均19.1点を稼ぎ、ユーイングに次ぐ得点源となった。しかし、90年代に入ってジョン・スタークスらが加入したことで役割が減少し、ニックスに居場所はないと判断。92年にキャブスと契約を結んだ。
打倒ブルズを目指すキャブスにとって「ジョーダン・ストッパー」とも称されたウィルキンスの加入は期待されたが、結果は特に効果もなく、93年のプレイオフではスウィープで敗退。おまけに90年代前半のキャブスは主力の相次ぐ故障に悩まされており、ウィルキンスも94~95シーズンを全休した。95年にはエクスパンション・ドラフトでグリズリーズへ移籍。しかし、ここでは30試合もプレイできず、忘れられたシーズンとみていいだろう。
再び活躍を見せたのは翌シーズンマジックに移籍してから。移籍2年目・3年目は恐らく衰えもあって精彩を欠いたが、最初の年は6マン的な起用をされ、のびのびとプレイしていた。98~99シーズンを最後に現役を引退。奇しくも最後のシーズンは兄ドミニクとチームメイトであった。このときは背番号21を兄に譲り、自身は9番を着用した。アウトサイド・シュートは今ひとつだが身体能力が高く、86・87年とスラムダンク・コンテストにも出場している。
クリス・マリン
ドリーム・チームⅠのメンバー。サウスポーのSF。セントジョンズ大出身で、ドラフト1巡目第7位でウォリアーズに入団した。余談だが高校時代はマリオ・エリーとチームメイトだったという。プロ入りから最初の数年は、個人の出来としては悪くなかったがカレッジ時代から酒好きだったマリンは、故郷ニューヨークを離れた寂しさもなど重なってか酒におぼれ、アルコール中毒になってしまう。また、オフコートの問題があったり、不満分子のような選手がいたりするなどチーム状態も悪かった。
転機となったのはドン・ネルソンがHC兼GMとなた88年。ネルソンは、ドラフトではミッチ・リッチモンドを指名するなど補強を進め、マリンに対してはアルコール中毒から脱却できるようサポートを惜しまなかった。それらを受けてかマリンは一段上のスター選手へと進化する。その88から93年まで、マリンは毎シーズン平均25点・5リバウンド以上をマーク。これはウォリアーズでは、ウィルト・チェンバレン以来の快挙で、オールスターにも5シーズン連続で選ばれた。
しかし、その93年頃からマリンは故障に悩まされるようになっていく。得点アベレージも20点に届かなくなり、94~95シーズンの途中には恩師ネルソンが解任。HCがリック・アデルマンに代わった95~96シーズンは出場した試合のほとんどがベンチ・スタートであった。97年オフにペイサーズへ移籍するとスターティングSFとして起用され、自慢のシュートタッチを見せるが、最盛期のプレイにはほど遠く、ディフェンスで穴となることも多かった。
移籍3年目の99~00シーズンにはチームがファイナルに進むが、マリンは出場機会も限られており、ファイナルでもほとんど出番がなかった。00~01シーズンを古巣ウォリアーズで過ごして現役を引退。アウトサイド・シュートの名手で、FG成功率が55%を超えていたこともある。チームメイトだったティム・ハーダウェイは「マリンにボールを渡せばアシストになる」とコメントしていた。シュートフォームも美しく、手首のスナップ?は有名である。
身体能力は高くないが、若い頃はリバウンドやパスも良く、ボール運びやドライブもこなすことが出来、完成度の高いバスケット選手であった。ウォリアーズ史上に残る選手で、殿堂入りも果たしている。引退後の00年代後半にウォリアーズでGMも務めた。マリン在任中、チームは13年ぶりのプレイオフ進出を決め、第8シードながら1stラウンドを突破している。先述のように92年にはオリンピックで金メダルを獲得。84年のロサンゼルス・オリンピック以来自身2つ目の金メダルであった。
マヌート・ボル
7フィート7インチ・200ポンドのC。スーダンのディンカ族で、酋長の息子であるボルは「特別な祝福」を意味する「マヌート」という名を付けられた。83年のドラフト5巡目でクリッパーズに指名されるがリーグの規定に引っ掛かってしまい、84~85シーズンはブリッジポート大でプレイ。85年のドラフト2巡目第30位で改めてブレッツから指名された。ルーキーイヤーは80試合中60試合でスターターを務め、NBAのルーキー記録となる397ブロックをマーク。
2年目はモーゼス・マローンの加入で出場機会が減ったが、平均20分に満たないプレイングタイムで平均4本近いブロックを決めていたのは驚異的である。3年目にはNBA史上最も小さいマグジー・ボーグスが加入し、ある意味では歴史的なコンビとなった。88年にはウォリアーズに移籍。あまりに線が細く、他チームのCやFとマッチアップするのが難しかったボルは、なんとこのシーズンから3Pをオフェンスのバリエーションに加える。
精度は高くなかったが、オフェンス時にひたすら3Pラインの外側で待機する独特なスタイルはファンのお気に入りとなった。因みにこのシーズンは、ベンチ・スタートながら平均4.3ブロックでリーグ首位に立っている。90年にはシクサーズに移籍。ここでのハイライトは93年のサンズ戦。この試合では後半のみで得意の?3Pを12本中6本も決め、フェニックスでの試合だったにもかかわらず、アリーナの観客から歓声を浴びた。
93~94シーズンはヒート、ブレッツ、シクサーズと渡り歩き、ジョージ・ミュアサン、ショーン・ブラッドリーと短期間だがチームメイトになっている。NBA最後のシーズンとなった94~95シーズンは古巣ウォリアーズでプレイ。オークランドの復帰初戦では3本中3本の3Pを決め、その1週間後にはひさしぶりにスターターに返り咲いた。しかし、11月下旬のホーネッツ戦で負傷して戦線離脱。以降、NBAでプレイすることはなかったが、CBAやイタリアなどで少しキャリアを続けている。
ブロックのスペシャリスト。キャリア通算で平均3.34ブロックはマーク・イートンに次ぐ歴代2位で、通算4000点以下の選手で、通算2000ブロックをマークした史上唯一の選手でもある。1回のポゼッションで4度のブロックを決めたこともあり、48分換算の平均ブロックはリーグ記録でもある。オフェンスは、強いて言えば、3Pと中途半端な距離から突然放つフックショットが武器。チャールズ・バークリーやクリス・マリンらと親しく、ファンにも愛される選手であった。