僕、組み体操って好きだったんです。小学校時代の運動会のお遊戯?で唯一楽しくて、唯一覚えてるんですよね。
だから今回みたいな事件をきっかけに組み体操そのものがなくならないといいな、と思ってます。
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リック・スミッツ
オランダ生まれで、「ダンキン・ダッチマン」と呼ばれたC。7フィート4インチもの身長があり、マリスト大を卒業後、ドラフト1巡目第2位でペイサーズに入団。当初は数年かかる素材と見られていたが、スティーブ・スティパノビッチが引退を強いられるほどの故障をしたことでチャンスが到来。1年目から71試合でスターターとして起用され、オール・ルーキー1stチームに入っている。ただ、スミッツの存在感が大きくなったのは93~94シーズンから。
そのシーズンからHCに就任したラリー・ブラウンの恩恵を受けたのか、レジー・ミラーとともにペイサーズの中心として活躍するようになった。特にプレイオフなど大事な場面で活躍できないことも多かったが、95年のマジックとのカンファレンス・ファイナル第4戦で決めたブザービーターは見事だった(シリーズには負けたが)。98年には初めてオールスターにも出場。このときは、バック・ビハインドでネッツのジェイソン・ウィリアムスに華麗なパスを通し、ダンクをアシストした。
Cらしからぬ柔らかいシュートタッチが魅力で、キャリアハイの平均得点は18点を超える。難点はパワー不足でフィジカル面が弱いことと、怪我が多かったこと。特に足の故障は長くスミッツを苦しめ、キャリア終盤はプレイングタイムが25分程度に制限されていた。00年オフに現役を引退。レイカーズとのファイナルが現役最後の試合となった。かつて、ペイサーズのチーム全員が坊主にしてプレイオフに臨んだことがあったのだが、スミッツの坊主頭は微妙であった(個人的に)。
ミッチ・リッチモンド
「ロック」「キャプテン」などの愛称で親しまれたSGで、スコアラー。キングスの歴史において重要な選手のひとりである。ドラフト1巡目第5位でカンザス州立大からウォリアーズ入り。1年目から高い得点力を示し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。アップテンポでオフェンス重視のドン・ネルソンのスタイルにうまくはまり、翌89年にティム・ハーダウェイが加入すると、クリス・マリンとあわせて「ランTMC」と呼ばれるハイスコアリング・トリオを形成した。
しかし、チームはプレイオフなど肝心なところで勝つことが出来ず、91~92シーズンの開幕直前、リッチモンドはビリー・オーウェンスとのトレードでキングスへ放出されてしまう。オーウェンスは夏のドラフトで1巡目第3位で指名された期待のルーキーで、PF並みのサイズがありながらGも出来るという、ウォリアーズ好みのビッグマン。Gにはサルナス・マーシャローニスという好選手もおり、理に適ったトレードにも見えたが、オーウェンスはリッチモンド・クラスの選手ではなかった。
ウォリアーズが好きだったリッチモンドにとってこのトレードはショックだったようで、キングスに移った後はエースとして孤軍奮闘を強いられることになるが、それと同時にキングスがフランチャイズをサクラメントに移転して以来はじめての本格的なスターともなった。93~98年にはオールスターにも出場しており、95年にフェニックスで開催されたオールスターでは、トム・チェンバース以来となるベンチ・スタートでのMVP受賞を達成。96年にはチームもプレイオフに進出した(サクラメントに移転して以降初)。
96年のアトランタ・オリンピックの代表チーム選考の際は、マイケル・ジョーダンに「ミッチが入るべきだ」と名指しで推薦されるなど周囲からの評価も高かった。しかし、リッチモンドの活躍とは裏腹にチーム力はなかなか上がらず(先述のプレイオフ進出も第8シード)、96~97シーズンからはトレードの噂が噴出。そして98年オフ、遂にクリス・ウェバーとのトレードでウィザーズへの移籍が決定した。これは当初、ウィザーズ側が有利な取引だと思われていたが、現実は真逆となる。
このトレード以降、キングスがリーグ屈指の強豪に成長したのに対し、ウィザーズはまったく上手く機能しなかった。チームとの相性なのか衰えなのか、リッチモンド自身、キングス時代までの輝きはなく、おまけに契約が重すぎるために不良債権化してしまう。00~01シーズンは大半を故障で欠場し、その間にチームは再建モードにシフト。オフにはバイアウトされ、レイカーズと契約を結んだ。この動きはフロントにいたジョーダンの配慮でもあり、リッチモンドは「感謝している」としていた。
レイカーズでは悲願のチャンピオン・リングを手にするが、ローテーションからは外れており、「あまり貢献できなかったけどリングはもらっておくよ」という自身のコメントが表す通りのシーズンであった。優勝を決めたファイナル第4戦のガーベイジタイムでジャンパーを決めたのが、数少ないハイライトだろう。リーグ史上7人しかいない、デビューから10シーズン以上平均21点以上をマークした選手のひとり(引退当時)で、どこからでも点の取ることが出来た。
ジョーダンも「守るのが難しい選手」「オフェンスに関しては僕に似ている」と評している。90年代中盤のキングスはリッチモンド頼みだったと言って過言でなく、背番号2は永久欠番になっている。88年にはソウル・オリンピックにも出場。91年のトレードに関しては、のちにトレードを行ったネルソンが「後悔している」という旨のコメントを残している。
トム・トルバート
アリゾナ大出身で、6フィート7インチのF/C。2巡目第34位でエクスパンション・チームのホーネッツに指名され、パッとしない1年を過ごしたのち、ウォリアーズへ移籍した。ここでは奇策大好きのドン・ネルソンHCにポイント・フォワードとして起用され、89~91年はキャリアのプライムタイムとなった。91~92シーズンは怪我に泣かされるが、92~93シーズンはPFが弱点のマジックでまずまずのプレイを見せている。しかし、これ以降は需要が減り、NBAでは94~95シーズンまでしかプレイしていない。
ポジションの割に上背はないが、機動力がある。引退後は解説者になったとか。
コーリー・ゲインズ
ドラフト3巡目第65位でソニックスに指名された6フィート3インチのG。カレッジ時代はUCLAとロヨラ・メリーマウント大で過ごした。88~89シーズンの終盤にネッツでNBAデビューするが定着は出来ず、その後は他のリーグに行ったりもしながら、幾つものチームを渡り歩いた。94~95シーズン終盤に10日間契約で加入したシクサーズで、終盤の11試合中8試合でスターターを務めたのがハイライト。NBAでは通算80試合しかプレイできなかった。日本でもプレイ経験がある。
引退後はフェニックス・マーキュリーのHCを務めたこともある。
ダニー・マニング
6フィート10インチのFで。父親は元選手のエド・マニング。カンザス大史上最高の選手のひとりとされ、「ダニー&ミラクルズ」と呼ばれた88年のチームは、NCAAチャンピオンに輝いた。88年のソウル・オリンピックでは学生選抜として銅メダルを獲得している。そうした輝かしい経歴を引っ提げて(銅メダルは輝かしくないが)、1巡目第1位でクリッパーズに入団。しかし、1年目は膝の前十字靱帯断裂という重傷を負い、26試合しかプレイできなかった。
翌シーズンには復帰するが、本調子ではなかったのか、ケン・ノーマン、チャールズ・スミスらが良いプレイを見せていたためか、クリッパーズだからか、スターターとベンチを行き来するなど一貫性のない起用をされていた。しかし、91~92シーズン途中にカレッジ時代の師であるラリー・ブラウンがHCに就任するとスターターに定着。主要カテゴリーの多くで自己最高を記録し、翌92~93シーズンには平均22.8点をマーク。オールスターにも選ばれた。
ただ、この頃にはブラウンHCとの関係が微妙になっていた。ブラウンはマニングのディフェンスとリーダーシップ不足を物足りないと考えていたようで、マニングはクリッパーズのチーム状況にも嫌気が差していたようである。そして、93・94年とオールスターに選ばれたにもかかわらず、93~94シーズン半ば、ドミニク・ウィルキンスと交換でホークスへ移籍した。ホークスは、スコアラーとして優秀だがチームを勝利に導けないウィルキンスを見限ったのである。
しかし、マニングはホークスにフィットしなかった。そして、そのオフ、新天地と優勝する機会を求めてサンズと契約を結んだ。ここではベンチからの出場が多かったが、平均17.9点をマークするなど個人成績は維持。ところが、シーズン半ばにまたしても膝を故障してしまい、シーズン中の復帰が絶望となってしまった。翌95~96シーズン途中に復帰するが、故障以前の動きではなく(と思う)、またマイケル・フィンリーの加入もあって存在感は小さくなってしまった。
しかし、そのオフにチャールズ・バークリーがサンズを去ると、貴重なフロントコートのプレイヤーとして貢献。技術と能力の高さで動きをカバーし、97~98シーズンには6マン・アワードを受賞した。そのシーズンの終盤に以前とは反対の膝を故障してしまうが、翌シーズンには復活。衰えは明らかだったが、控えとしては充分な活躍を見せていた。99年オフには2度のトレードを経て、バックスへ移籍。以降はジャズ、マブス、ピストンズで少しずつプレイし、03年に現役を引退した。
最盛期は得点・リバウンドだけでなく、アシスト・ブロック・スティールと平均以上の成績を残せるオールラウンダーで、3つのポジションをこなすことが出来た。故障に泣かされて脇役にシフトした感もあるが、キャラクターとプレイスタイルを考えると、その方が合っていると思う。巧さと賢さがある選手。
ロニー・サイカリー
「スピンドクター」と呼ばれた、レバノンのベイルート出身のC。アラビア語では「رونالد سيقلي」と表記される。ただ、生まれたときにはアメリカの市民権を持っており、アテネのアメリカン・ハイスクールを経て渡米。84年にシラキュース大に入学した。86年にはアメリカのナショナル・チームの一員として金メダルを獲得している。この年のドラフトでは、エクスパンション・チームのヒートに1巡目第9位で指名され、ヒートの初代メンバーとなった。
2年目にはMIPに選出されたり、チーム記録の1試合34リバウンドや8ブロックをマークしたり(ブロックはのちにアロンゾ・モーニングが更新)するなど、グレン・ライスらとともに初期ヒートを牽引した。94年にはウォリアーズへ移籍。ここでは1年目は故障で36試合しか出られず、翌シーズンはフロントを非難してトレードを要求するなど、状況はよくなかった。サイカリーはウォリアーズのフロントは「このチームならマイケル・ジョーダンをCBAの選手とだって交換しかねない」と批判している。
そして、3年目となる96~97シーズンは「このチームでは2度とプレイしない」として、トレーニング・キャンプもプレシーズンも参加を拒否。開幕直後にマジックへのトレードが成立した。マジックはシャックの後釜を探しており、選手としての核とプレイスタイルはまったく違うが、移籍1年目のサイカリーは非常に効果的な働きを見せた。オールスター・クラスではないCの中ならば得点力はトップクラスで、ペニー・ハーダウェイやホーレス・グラントらとチームの新生マジックの中心となった。
しかし、翌シーズンは開幕から安定感を欠き、おまけにチームは相次ぐ主力の故障でメンバーが揃わず不振。サイカリーはトレード期限にジャズに放出されることとなった。しかし、サイカリーはジャズ行きを拒否。そのためトレードは白紙に戻り、その直後にネッツへのトレードが決定した。サイカリーは東海岸を離れたくなかったようで、当時Cが弱点だったジャズのカール・マローンは「あいつは優勝できるチャンスを自ら手放した」と憤慨した。
因みに、ネッツはインサイドの人材が充実しており、サイカリー自身も故障に苦しみ、システムにも馴染めず、出場機会が激減。移籍は失敗であった。98~99シーズンを最後にNBAを去り、スペインなどでも少しプレイしたようだが、まもなく現役を引退した。ドリブルやスピン・ムーブを多用するスタイルで、また、速攻のフィニッシャーになれる脚力も兼ね備えていた。タイミングをずらしたかのようなクイック・リリースのシュートは独特。キャリア終盤は長髪にしていたこともある。
ロッド・ストリックランド
デポール大出身のPG。ドラフト1巡目第19位でニックスに入団し、前年にルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したマーク・ジャクソンのバックアップとしてキャリアをスタートした。1年目はジャクソンと出場機会を分け合いながらもオール・ルーキー2ndチームに選出。しかし、89~90シーズンの半ばにはベテランのモーリス・チークスと交換でスパーズへ放出された。ここではスターターとして起用され、活躍。チームも(トレード後)18勝6敗という好成績をマークした。
ただ、90~91シーズンは足と腕の故障で24試合を休み、そのオフには再契約の交渉が難航。91~92シーズンが始まっても決着はつかず、契約が結ばれたのは年末になってからだった。この年はプレイオフで左腕を骨折してしまい、チームもサンズにスウィープされてしまう。92~93シーズンからはブレイザーズでプレイ。衰えの見られたテリー・ポーターから出場機会を奪うなど活躍していたが、94年にHCに就任したPJ・カーリシモとはソリが合わなかった。
選手たちに大声をあげて怒鳴るカーリシモとは衝突を繰り返し、その関係は95~96シーズンになると悪化。ストリックランドのトレードかカーリシモの解任が囁かれるほどであった。結局、このシーズン中は、そうした内部不和が噂された時期にチームが調子を上げたこともあり、何事もなく進んだが、オフに入って間もなく、ストリックランドはブレッツにトレードされた。因みにこのトレードでブレイザーズはラシード・ウォレスを獲得している。
ウィザーズでの最初の2年は、司令塔として見事なプレイを披露。1年目はチームの数年ぶりのプレイオフ進出に貢献し、2年目はアシスト王に輝いた。しかし、ロックアウトを挟んだ98~99シーズンからはストリックランド自身が衰えたためか、チームが勝てなくなったためか、パフォーマンスが低下。00~01シーズンは開幕から大きく精彩を欠き、個人的理由と称してチームを離れるなど問題行動もあり、シーズン途中にバイアウトでチームを去った。
FAとなったストリックランドは古巣ブレイザーズと契約。当時のブレイザーズは潤沢な資金を使ってスター選手をかき集め、強豪チームをつくろうとしており、ストリックランド獲得もその一貫だった。しかし、GMのボブ・ウィットシットは獲得を望んだが、HCのマイク・ダンリービーは既にPGが2人もいることから獲得に難色を示していたという話がある。そして、ダンリービーの懸念は的中し、チームは機能せず、プレイオフでは1stラウンドで呆気なく姿を消した。
ストリックランドの次なるチームはヒート。01~02シーズンの開幕近くになって契約に至った。当初はベンチ・スタートだったが、スターターを務めていたアンソニー・カーターが不発で、間もなくスターターへ昇格。もう最盛期のプレイではなかったが、すぐに平均以上の出来で重責をこなすあたりはさすがだった。02~03シーズンはウルブズ、03~04シーズンはマジック&ラプターズと渡り歩き、04~05シーズンはロケッツへ。しかし16試合プレイしたところで解雇され、現役を終えた。
得点とアシストを両立できるPGで、かつてスティーブ・フランシスなどが尊敬すると選手として名前を挙げていたこともあった。シュートエリアは狭いが、ゲームメイクの巧さやドライブの鋭さには定評があり、オールNBA2ndチームに一度選出された以外、何かに選ばれるようなことはなかったが、選手間の評価は高かったようだ。難点は若干、素行に問題があること。ブレッツ時代はトレイシー・マレーと喧嘩して、殴って顔に怪我を負わせたこともあった。
また、ラトレル・スプリューエルがカーリシモの首を絞めたとき、多くの選手が慎重なコメントを出す中で「彼の気持ちはわかる。本当にむかつくことがあるんだ」とフォロー?していた。
マイケル・アンダーソン
ドレクセル大史上初めてNBAでプレイした選手。高校時代からスターで、86年には同大をチーム史上初のNCAAトーナメントに導いた。このときはルイビル大(この年の優勝校)に大敗するのだが、ルイビル大にはアンダーソンにとって昔なじみのミルト・ワグナーらがいたという。ドラフトでは3巡目第73位でペイサーズに指名されるがロスターには残れず、88~89シーズンの年明けからスパーズで過ごした。NBAではこれだけしかプレイしなかった。
ただ、90年代前半~中盤にはスペインで華々しい活躍を見せており、トルコやCBA、USBLでもプレイ経験がある。
ラモン・リーヴァス
NBA史上2人目のプエルトリコ人選手(正しくは、この年に2人のプエルトリコ人選手がデビューしている)。プエルトリコでは最高のCのひとりで、母国のプロリーグでは83年から活躍しており、リーヴァスの入ったチームは年々戦力を上げていった。また、84~88年は母国でプレイしながらテンプル大でもプレイ。ここでは名将ジョン・チェイニーHCのもと、4度NCAAトーナメントに進んでいる。こうした経験はリーヴァスの実力と評価を高め、88年、セルティックスと契約を結んだ。
因みにその2週間前、同郷のホセ・オルティーズもジャズと契約を結んでおり、デビューも、リーヴァスの3時間後にオルティーズ・・・といった具合であった。この2人は「プエルトリコの本島で育った史上初のNBA選手」で、それ以外ではかつてアルフレッド・リーという選手もいた(こちらはアメリカ育ち)。セルティックスでは、母国とは違ってPF的な起用をされたが、(それが原因ではないだろうが)ほとんど戦力にならなかった。そしてオフには母国へ帰還。
古巣のクラブチームに戻るとMVPを受賞し、その後は95年までスペインでプレイした。95~96シーズンはチャンピオンに輝いているのだが、優勝を決めた試合でリーヴァスは32点・15リバウンドと大活躍を見せ、MVPに選ばれている。国際大会の経験が豊富で、マラガで行われた86年の世界選手権、ソウル・オリンピック、90年にブエノスアイレスで行われた世界選手権、92年のバルセロナ・オリンピック、96年のアトランタ・オリンピックで代表としてプレイしている。