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Channel: NBAヒストリー(ひばち)
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平成4年ドラフト組①

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昔、再放送で見て、こわいなぁと思ったドラマのひとつ。

ある時期まで、ドラマのタイトルが「冬彦さん」だと思ってましたw



ラフォンゾ・エリス


ノートルダム大出身のF。1巡目第5位でナゲッツに入団し、オール・ルーキー1stチームに選出された。最初の2シーズンの活躍は素晴らしく、オールスターFに成長するかとも思われたが、3年目の94~95シーズンの大半を故障で棒に振ると(76試合を欠場)、それ以降は故障の多いシーズンが続き、陰も薄くなってしまった。98年にはFの層が薄いホークスに移籍するがフィットせず、99~00シーズンはベンチスタートへ。00~01シーズンはウルブズで6マンとして活躍したが、それが最後の輝きであった。

01~03シーズンを再建期に入ったヒートで過ごして現役を引退。故障が多く、それによってキャリアが変わってしまった。俊敏さとインサイドでの強さを持ち合わせていたため、6フィート8インチながら両Fをこなすことができた。リバウンドやブロックも及第点で、シュートエリアも広い。ピーク時は平均20点をマークできた。


ショーン・ルックス


アリゾナ大出身のC。2巡目第30位でマブスに入団し、開幕戦でいきなりスターターを務めて20点をあげるなど幸先の良いスタートを切った。マブス時代と、ウルブズに移籍した94~95シーズンは主にスターターを務めたが、どちらも層が薄いドアマット・チームだったのでそのまま評価は出来ないかもしれない。95~96シーズン半ばにはホークスへ移籍し、96~99年はレイカーズで過ごした。レイカーズではほぼ戦力になっていない。

99~00シーズンは古巣マブス、00~03年はクリッパーズでプレイ。クリッパーズでは出場時間こそ短かったが、若手ばかりのチームでキャプテンを務め、精神的柱となっていた(と思う)。03~04シーズンをホーネッツ&マジックと渡り歩いて現役を引退。ミドルレンジからのジャンパーが、一応武器か。


アダム・キーフ


スタンフォード大出身で、カレッジ時代はバスケットとバレーの両方で活躍したPF。1巡目第10位という期待を背負ってホークスに入るが、それに見合う選手ではなく、94年にジャズへ移籍した。ジャズではビッグマンらしからぬ機動力で思わぬ貢献を見せることもあり、スターティングCとして起用された97~98シーズンは恐らくキャリアのハイライトであろう。00年に四角トレードでウォリアーズへ放出され、1シーズン過ごしてキャリアを終えた。瞬発力とハッスルプレイが長所。


リー・メイベリー


髭が印象的なアーカンソー大出身のPG。カレッジ時代はトッド・デイとのコンビが有名で、「メイデイ」と呼ばれた。この年のドラフトでは1巡目第23位でバックス入り。デイもまたバックスに指名されており、2人がプロでもチームメイトとなるのは有名である。タフな選手で、プロ入りから4シーズン在籍したバックスでは1試合も欠場がなかった。96年にグリズリーズに移籍して初めて欠場するが、最初の2シーズンは80試合・79試合とコンスタントにプレイしている。

しかし、98~99シーズンは僅か9試合の出場に留まり、オフにはマジックに放出されるが開幕ロスターに残れず、以降2度とNBAでプレイしなかった。92年のドラフトはPGが不作で、同年のドラフトに限れば有数のPGである。90年の世界選手権でアメリカが銅メダルだったときのメンバー。


コーリー・ウィリアムス


6フィート2インチのG。オクラホマ州立大出身で、ドラフト2巡目第33位で2連覇中のブルズ入りし、特に貢献はしなかったが、幸運にも3ピート達成時のメンバーとなることが出来た。しかし、翌シーズンの開幕直前に解雇されてしまい、同シーズン終盤にウルブズと10日間契約を結ぶが、ここでは僅か4試合の出場に終わっている。92年にはNFLのチーフスからも指名を受けているが、フットボールをプロでプレイすることはなかった。


トッド・デイ


アーカンソー大出身。同大ではプロ入り後にもチームメイトとなるリー・メイベリーとコンビを組み、「メイデイ」と呼ばれていた。1巡目第8位でバックス入りし、1年目から得点源の一角として活躍した。しかし、95~96シーズンが始まるとベテランのジョニー・ニューマンにポジションを奪われ、開幕直後にセルティックスへ放出されてしまう。セルティックスでは出場機会を取り戻し、1つのQで24得点を稼ぐフランチャイズ・タイ記録(もうひとりはラリー・バード)を樹立するなど元気な姿を見せた。

97年にはヒートと契約を結ぶがこれが大失敗。パット・ライリーと合わず、僅か5試合プレイしただけで解雇されてしまった。解雇通告は、ロッカールームで2人が衝突した際、ライリーがその場で直接言い渡したという。1シーズンのブランクを空け、99~00シーズンはサンズで過ごし、00~01シーズンはウルブズでプレイするが途中で解雇され、それ以降NBAではプレイしていなかった。04~07年頃はABAでプレイしていたようだが。

得点力のあるSGだが、ピーク時でもFG成功率が40%そこそこと、精度に難があった。ディフェンスもイマイチ。感情的で熱くなりやすく、身体能力も高いので、好調なときは多少見応えがある。


ヒューバート・ディビス


良質のシューターで、サンズなどで活躍したウォルターディビスの甥。ノースカロライナ大出身で、ディーン・スミスHCの教え子のひとりで、在学中の平均21.4点という得点アベレージは、スミスの教え子の中では最高得点であった。因みに、スミスの教え子で平均20点を上回ったのは他にマイケル・ジョーダン、ブラッド・ドアティ、フィル・フォードしかいない。ドラフトでは1巡目第20位でニックス入り。4シーズンを主にジョン・スタークスのバックアップとして過ごした。

96~97シーズンはラプターズで冴えない1年を過ごすが、97年からはマブスで得意のアウトサイド・シュートで渋く活躍した。00~01シーズン途中にはジュワン・ハワードのトレードの一部として弱小ウィザーズへ移籍。ウィザーズは契約金が巨額なハワードの放出が目的で、ディビス獲得はおまけだったが、腐らずにプレイを続けた。そして翌シーズンは、マイケル・ジョーダンが現役復帰したチームで、貴重な得点源として貢献している。

02~03シーズンはピストンズで過ごすが構想からは外れており、翌シーズン途中に解雇。直後にネッツでプレイしたのが最後となった。無駄打ちをしない、確実性の高いシューターで、通算3P成功率は40%を超える。95~96シーズンにニックスでディビスを指導したドン・ネルソンはディビスを高く評価しており、マブスでも重宝されていた(97~98シーズンからネルソンはマブスのHCに就任)。


ポパイ・ジョーンズ


名リバウンダー。マレー州立大出身。2巡目第41位でロケッツに指名され、直後にマブスへトレードされるもすぐに契約には至らず、ヨーロッパで1シーズン過ごした後、ようやくマブス入りが実現した。ルーキーイヤーからリバウンドで存在感を見せ、2年目にはスターターに定着。30分足らずのプレイングタイムで2桁リバウンド(うち約4本がオフェンス・リバウンド)を稼ぐスタイルは見事であった。しかし、96年にあっさりとラプターズへ放出され、ここからキャリアの転落が始まった。

移籍1年目はまだ良かったが、97~98シーズンは故障でほとんどプレイできないままセルティックスへ放出され、1シーズン半在籍したセルティックスでも故障に泣いた。99~00シーズンにプレイしたナゲッツでも出場機会は限られており、00年オフにはウィザーズへ移籍するが、この頃にはもはや忘れ去られた存在となっていた。しかし、01~02シーズンにマイケル・ジョーダンが現役復帰し、HCがダグ・コリンズになると出場機会が増加する。

度重なる故障で衰えは隠せなかったが、リバウンドの強さとベテランらしい巧さ、気迫溢れるプレイは、若手ばかりで再建途中のチームに必要なものだった。02~03シーズンを古巣マブス、03~04シーズンをウォリアーズで過ごして現役を引退。キャリアを通じて、一度もプレイオフでプレイすることがなかった、いるようで意外といない選手のひとりである(02~03シーズンは、マブスはプレイオフに進んだがロスターに入れなかった)。

ピーク時は優秀なリバウンダーで、特にオフェンス・リバウンドに強かった。1試合28リバウンドは今でもマブスのチーム記録である。マブスがジョーンズを出したときにジェイソン・キッドが「このチームのフロントは腐ってる」と批判したのは有名。また、見た目はスマートではないが全体的に基礎がしっかりしており、シュートやパスも及第点。職人タイプのPFとしては珍しく、3Pも決めることが出来た。怪我がなければ、もっと名を馳せたかもしれない。


平成4年ドラフト組②

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この当時、僕は小学生で、担任の先生がすぐ殴る先生だったんです。「コツ」くらいだったけどよく叩いてたんですよね。


他にも、宿題をよく忘れる子をみんなの前で立たせて延々とお説教したり、保護者とサシで話したことをみんなの前で言ったり・・・

今だったらアウトだろうな、って先生でした。その当時も保護者はわりと文句言ってたみたいですが。




リテリアル・グリーン


ジョージア大出身のPG。ドラフト2巡目でブルズに指名され、直後にマジックへトレードされた。ルーキーイヤーはかろうじて出場機会を得られたが、2年目には出番がなくなり、続く2シーズンはNBAでプレイしなかった。96年にピストンズと契約し、45試合に出るがオフには解雇。翌シーズンはバックス、NBAで最後となる98~99シーズンはキャブスで少しだけプレイした。カレッジ時代は得点力が高く、卒業時には同大のリーディング・スコアラーであった。


ブライアント・スティス


SG。ヴァージニア大出身で、ドラフト1巡目第13位でナゲッツに入った。2年目からスターターに定着し、地味ながら2桁の得点アベレージを残していた。しかし、チームが再建モードとなった97~98シーズンに、故障もあってか出場機会を失い、ローテーション入りも危うい立場へ降格。00年オフにはセルティックスにトレードされた。新天地ではスキンヘッドにして心機一転、まずまずの働きを見せたが、オフにはキャブスへトレード。そして、1年後にクリッパーズへトレード&直後に解雇され、リーグを去った。

攻守に平均的で、スターターとしても悪くはない。キャリアを通じて故障が多かった。90年の世界選手権では銅メダルを獲得している。


ハロルド・マイナー


スラムダンク・コンテストで2度チャンピオンになったスラムダンカー。カリフォルニア州の出身。マイナーのダンクは高校時代から有名で、ファンは「ベビージョーダン」という愛称で呼んだ。サザン・カリフォルニア大に進むとすぐに注目を集め、いきなりスポーツ・イラストレイティッド誌の最優秀カレッジ・バスケットボールに選出。これはシャキール・オニール、アロンゾ・モーニングらを抑えてのものだった。また、92年には同大の第2シードでのNCAAトーナメント進出にも貢献している(但し2ndラウンド敗退)。

ドラフトでは1巡目第12位でヒートへ。スティーブ・スミスやグレン・ライスらに揉まれながらのプレイとなったが、随所で見せる個人能力の高さは前評判に違わぬもので、オールスターのスラムダンク・コンテストで優勝を飾った。マイナーのダンクは小技や小道具を使わないシンプルなものでも見応えがあり、会場を沸かすことが出来た。マイケル・ジョーダンも「ベビー・ジョーダン」という愛称を認めるほどであった。しかし、マイナーのキャリアはここがピークになってしまう。

実戦でのマイナーは、ダンクや時折見せるアクロバティックなプレイは素晴らしかったが、戦術理解度の低さやディフェンスの拙さから信頼を得られなかった。2年目は少しだけ進歩を見せたが、3年目の94~95シーズンは多少見切りを付けられた感があり、後退。このシーズンはスラムダンク・コンテストで2度目の王者になったのが唯一のハイライトであった。オフにはキャブスにトレードされ、さらにその直後にはラプターズへトレードされかかった。

ラプターズとの取引は交換相手のビクター・アレキサンダーが健康診断に引っ掛かったため、破談になったが、これは(恐らく)マイナーにとって不運。この状況でマイナーがチームの構想に入っているわけがなかった。キャブスでのマイナーは存在感がなく、1シーズンで退団。オフには改めて?ラプターズのトライアウトを受けるがプレシーズン中に解雇され、そして、そこで現役を引退した。最後の試合は96年2月20日のブルズ戦で、26点差をつけられた試合で5分だけプレイした。

サウスポーで、本家ジョーダンよりはやや小柄。素質は高く、ドラフト前のワークアウトを見たマイケル・クーパーが感嘆したという話もある。ただ、「ベビージョーダン」と称されたそのプレイを真に活かすことは出来ず、逆にその名前に押しつぶされてしまった。引退後は公の場に出ることを拒否しているという。


オリバー・ミラー


300ポンドを超える体重で有名になったC(6フィート9インチ)。トッド・デイ、リー・メイベリーとともにこの年のドラフトで指名されたアーカンソー大の選手のひとりで、1巡目第22位でサンズ入り。94年にピストンズへ移籍し、95年にはエクスパンション・ドラフトでラプターズに移った。ラプターズでは好成績を残し、評価を上げたかに見えたが、自らを過大評価してFAとなったことが裏目に出て行き先が決まらなくなり、最低保障年棒でマブスと契約を結んだ。

しかし、マブスではシーズン半ばにフロント入りしたドン・ネルソンにすぐ解雇され、直後にラプターズへ復帰。1シーズン半を過ごした。98~99シーズンをキングスで4試合だけプレイして、99~00シーズンはサンズへ復帰。その後、3シーズンのブランクを空けて03~04シーズンにウルブズでもプレイした。このとき体重は325ポンドを超えていたという。因みにNBAにいなかった3シーズンの間はハーレム・グローブトロッターズにも在籍していた。

実は器用な選手で、体格を活かしたスクリーンのセットや、パスも上手い。コンディションをコントロールできていたら、良いロールプレイヤーになれただろう。若い頃、太りすぎて膝を圧迫骨折したことがあるとか。


ロレンツォ・ウィリアムス


コミュニティ・カレッジからステットソン大に編入し、91年に卒業するがNBAのドラフトにはかからず、プロ1年目はドイツとUSBLでプレイ。92~93シーズンにようやくNBAデビューを果たした。1年目はホーネッツ、マジック、セルティックス、CBA、2年目はマジック、ホーネッツ、マブス、CBA、マブスと渡り歩くなどいつ消えてもおかしくない流浪の生活だったが、2年目の最後に在籍したマブスで出場機会を確保。翌94~95シーズンは全82試合に出場し、うち81試合でスターターを務めた。

6フィート9インチの小柄なCで、線も細いが、屈強な体を活かしたリバウンドやブロックは効果的だった。しかし、96年にブレッツに移籍すると、故障もあって出場機会が激減。以降4シーズンを過ごすが、出場したのは計41試合だった(98~99シーズンは全休)。欠点はオフェンスで、通算のFT成功率は40%にも満たない。


ジョン・バリー


リック・バリーの息子であり、ブレント・バリー、ドリュー・バリー、スクーター・バリーのお兄さん。また、ゴルファーのビリー・アンドレイドは法律上の兄弟である。1巡目第21位でセルティックスに指名されるも契約交渉がまとまらず、シーズン開幕後にバックスへ移籍してからデビューした。最初の6シーズンは4チームを渡り歩くなどいいところがなく、特に97~98シーズンを過ごしたレイカーズではプレイングタイムが平均8分にも満たなかった。

転機となったのはキングスに移籍した98~99シーズン。クリス・ウェバー、ジェイソン・ウィリアムスらを軸に再建を始めたキングスで効果的なベンチ・プレイヤーとなった。この頃のキングスは層が厚く、ベンチ・モブと呼ばれていた。01年にサラリー・キャップの関係でピストンズへ移ってからも6マン的な役割を担い、その年のプレイオフ1stラウンドではシリーズを決める第5戦で、前半約3分間の間に12点を稼ぐパフォーマンスをも見せた。

03~04シーズンをナゲッツでプレイし、04年オフに古巣ホークスと契約。しかし、04~05シーズン途中にロケッツへトレードされ、翌シーズン途中に解雇されて現役を終えた。キャリア序盤はシュートの入らないシューターだったが、キングスに移籍して以降は、精度の高い控えGとしてどこのチームでも重宝されていた。身体能力が低く、自らシュート・チャンスを創り出す能力には乏しい。引退後はTV解説者として活躍しており、「わかりやすい」と好評な様子。


ジョン・クロッティ


ヴァージニア大出身のサウスポーPG。92年にドラフト外でジャズ入り。以降、特筆すべき実績はないが、3シーズン生き残った。95~96シーズンはキャブスで過ごし、96~97シーズンは開幕後にヒートと契約。ヒートではティム・ハーダウェイのバックアップとして、短時間ながらまずまずのプレイを見せていた(と思う)。97年にはブレイザーズと契約するが故障もあって満足にプレイできず、03年にキャリアを終えるまでに、そこから更に4チームを渡り歩いている。

ゲームメイク重視型でミスの少ない選手だが、それはスピードとシュート力がないことの裏返しともとれる。ブライアント・スティスはカレッジ時代のチームメイト。


ダーレン・モーニングスター


ピッツバーグ大出身、6フィート10インチの白人C。ドラフト2巡目でセルティックスに指名されるが契約を結べず、プロ1年目はCBAとなった。93年秋にマブスと契約し、93~94シーズンは開幕から主にスターティングCを任されるが、20試合ほどプレイしたところで解雇。シーズン終盤には10日間契約で、ジャズでも1試合だけプレイした。スキル不足だが、熱心にプレイする姿勢は評価されていた模様。ピッツバーグ大に移る前は海軍に在籍しており、デビッド・ロビンソンの後輩である。

平成4年ドラフト組③

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これ、元ネタはたぶん07年か08年くらいに趣味でまとめていたヤツなんですが、今見返すと、この情報どこで調べたんだろう?てのもあったりして、どこかのを丸写しとかしてないことを祈ります。



クリス・スミス


6フィート3インチのSG。コネチカット大出身で、通算得点と3P成功数は同大歴代1位の記録である(2015年現在は不明w)。90年の世界選手権では代表メンバーとしてプレイしており、コネチカット大史に名を残す選手である。しかし、プロでは不発。2巡目第34位指名ながら、ドアマットに沈むウルブズで一定の出場機会を得ていたが伸びず、NBAでは3シーズンしかプレイしなかった。アンダーサイズなSGの典型的な失敗例といったところか。


トレイシー・マレー


3Pシューター。UCLA出身。1巡目第18位でスパーズに指名され、その数日後、1日のうちに二度もトレードされ、ブレイザーズへ落ち着いた(最初に放出されたのはバックス)。2年目に3P成功率でリーグ1位になるが、本数は恐らく規定数ギリギリでインパクトには欠けた。94~95シーズン途中にはクライド・ドレクスラーとともにロケッツへ移籍。シューターが揃ったチームでは出番がなく、チームは優勝したが、プレイオフのロスターにも入れなかった。

しかし、翌シーズン、エクスパンション・チームのラプターズで開花。持ち前のシュート力が冴え、キャリア最高の活躍を見せた。ここで実力を証明したマレーは続く4シーズンをブレッツ(途中でウィザーズに改名)で、控えの得点源としてプレイ。キャリアハイの50点をあげ、プレイオフでブルズに相手に活躍した移籍1年目が印象的である。ブレッツ史上、1試合50点以上あげたことのある選手は、マイケル・ジョーダンも含めて6人しかいない。

しかし、00年にナゲッツにトレードされると出場機会が半減し、シーズン半ばには古巣ラプターズへトレード。このときはあまり戦力にならなかった。02年には地元レイカーズに移籍するが、ここでもあまり起用されず、03~04シーズンは7試合だけブレイザーズでプレイして解雇。04年オフにはニックスと契約を結ぶが開幕前に解雇されている。その後、ギリシャで2年(パナシナイコス→PAOK)、フランスで少しだけ現役を続けた。

身体能力が低くハンドリングもイマイチ。シュート力で生き残った選手で、スクリーンを使ってマークを外すタイプ。リリースも速いが、そもそものスピードがなく、シュートの巧さを活かしきれなかった感もある。


ドン・マクレイン


名門UCLAの歴代のリーディング・スコアラー。カレッジ時代のチームメイト、トレイシー・マレーに続いて1巡目第19位でピストンズに指名され、直後にクリッパーズに放出され、更にブレッツにトレードされた。1年目は出番が限られていたが、2年目にハーベイ・グラントの移籍に伴ってスターターに定着すると、いきなりチームトップタイの平均18.2点をあげ、MIPに選出された。しかし、翌年は、ポジションの重なるクリス・ウェバー&ジュワン・ハワードの加入と故障でややトーンダウン。

95~96シーズンの開幕前には、PGが必要なチーム事情からロバート・パックとのトレードでナゲッツへ移籍。96~97シーズンは更にシクサーズに移った。20分に満たないプレイングタイムで2桁得点を稼げるスコアラーだが故障が多くてアテにならず、97~98シーズンは9試合しかプレイできず、そうかと思えば98~99シーズンはソニックスで再び得点力を垣間見せた(17試合しか出場できなかったが)。サンズ、ヒートでも少しずつプレイしている。

ソフトタッチのクイックリリースで放るシュートが特徴的で、6フィート10インチのサイズながらシュートエリアも広い。00年にステロイドのテストで陽性反応が出たことがあるが、ロケッツでチームメイト打多チャールズ・バークリーが「ヤツの裸を見たことがあるが、使っているようには見えなかった」としていた(ロケッツでプレイしたのは99~00シーズン開幕前のプレシーズン)。


マット・ガイガー


スキンヘッドと髭で有名な7フッター。もとはオーバーン大に進学したが、途中でジョージア工科大出身に編入した。ドラフト2巡目でヒートに入るが2年目にはローテーションの一角を担えることを示し、3年目にはスターターとして起用されるまでになった。4年目となる95~96シーズン開幕当日にアロンゾ・モーニングらと交換でホーネッツヘ移籍。ともに移籍したグレン・ライスらと良い働きを見せ、翌シーズンにはブラデ・ディバッツ、アンソニー・メイスンらと強力なフロントラインを形成した。

キャリアイヤーは98~99シーズン。シクサーズに移籍したガイガーはスターティングCに定着し、得意のジャンプショットで活躍。ペイサーズとのカンファレンス・セミファイナルでは、シリーズには負けたものの重傷な場面でシュートを決め続けた。しかし、翌シーズンは故障やタイロン・ヒル、シオ・ラトリフらとの兼ね合いでベンチ・スタートとなり、00~01シーズンは膝の故障でシーズンの半分以上を欠場。そして、高額契約が残っていたが、01~02シーズン中に現役を引退した。

武器はミドルレンジのジャンパーで、怪我をする前はこの精度が高かった。スキンヘッドは、病気で髪の毛が生えなくなった弟を励ますためだという。00年オフ、シクサーズはアレン・アイバーソンをピストンズにトレードしようとしたのだが、その際、パッケージに含まれていたガイガーの契約にトレード・キッカーが付いていたためにトレードは破談。アイバーソンは残留し、逆にそこから成長を見せた。ガイガーがいなければ、01年のシクサーズの快進撃はなかったということになる。

また、95年のプレシーズンでは当時マジックにいたシャックにハードなファウルをかまし、シャックは親指を骨折。シャックが怪我が多くなったのはそこからであった。


エルモア・スペンサー


1巡目第25位でクリッパーズに入った7フッター。2年目にスタンリー・ロバーツの故障やダニー・マニングの移籍などの恩恵を受けて出場機会が激増。76試合中63試合でスターターを務める、自己最高のシーズンを過ごした。しかし、翌94~95シーズンは自身も19試合しか出場できず、95~96シーズンはナゲッツとソニックス、96~97シーズンはソニックスと渡り歩いた(いずれもシーズン途中に解雇)。UNLVの出身である。


グンダルス・ベトラ


NBAでプレイした初のラトビア人。6フィート6インチのスウィングマンで、NBAでは92~93シーズンにウルブズで13試合だけプレイした。ドラフトにはかかっていない。プロとしてのキャリアは長く、84~02年まで現役を続けた。ラトビア出身のNBA選手は、ベトラのあともアンドレス・ビードリンズとクリスタプス・ポルジンギスの2人しかいない(ポルジンギスは正確にはまだだけど)。YouTubeにはウルブズ時代に決めたダンクのハイライトが残っている。


ウォルト・ウィリアムス


6フィート8インチのシューター。「ウィザード」の愛称で知られ、窮地にあったメリーランド大を救った選手でもある。OBのレン・バイアスがドラフト直後にドラッグで亡くなり、相次ぐスキャンダルによってレフティ・ドリーセルHCが更迭された2年後、88年にウィリアムスは入学。当時、ドリーセルの後任であるボブ・ウェイドHCもNCAAの規定違反を犯し、その処分が残っていたが、ウィリアムスは新HCのゲーリー・ウィリアムスの元でプレイすることを選んだ。

ウィリアムスはこの、最低ラインにまで沈んだメリーランド大の再建過程において、大活躍。幾つかの記録を樹立しており、バイアスが保持していた通算776点を破ったのもウィリアムスである。ドラフトでは1巡目第7位でキングス入り。ルーキーイヤーは故障で23試合を欠場したものの、オール・ルーキー2ndチームに選ばれている。3年目にはライオネル・シモンズからスターターの座を奪い、95~96シーズン途中にはヒートへ移籍した。

そのオフには、ジュワン・ハワード獲得のためにサラリー・キャップに空きをつくりたかったヒートからあっさりリリースされてしまい、新天地もなかなか決まらないという憂き目にあうが、96~97シーズン開幕間近にベテラン最低補償額で契約したラプターズでブレイク。自己最多の175本の3Pを決めるなど予想外の活躍を見せ、フロントを喜ばせた。翌シーズンの途中にはブレイザーズへトレードされ、ここではグレッグ・アンソニーらと層の厚いベンチを形成。

そして、99年にはスコッティ・ピッペンを絡めた大型トレードでロケッツに移籍した。3シーズン過ごしたロケッツでは、チーム事情からSG~PF、スターター、ベンチと様々な起用をされていた。02~03シーズンをマブスで過ごして現役を引退。サイズの割に器用で、カレッジ時代はアウトサイド・シュート武器にオールラウンドに活躍していたが、プロ入り後はキャリアを重ねるに連れてシューター化していった。96年は映画「エディ」に出演し、97年には3Pコンテストに出場。

トレードマークのハイソックスは、子供の頃に憧れたジョージ・ガービンに肖っている。


ブライアン・ディビス


2巡目第48位でサンズに指名されるが、プロ1年目はフランスのクラブ・チームで過ごした。ここではのちにブレッツなどでプレイするジョージ・ミュアサンとともにプレイしている。NBAでは翌93~94シーズンにウルブズと契約を結び、一応68試合で起用された。デューク大が91・92年と連覇したときのメンバーで、当時はグラント・ヒル、クリスチャン・レイトナーらとチームメイト。そのレイトナーとはウルブズでもチームメイトで、BDV(ブルー・デビル・ベンチャーズ)という企業を共同で立ち上げている。

平成4年ドラフト組④

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知り合いに、「バスケットもイチローみたいな選手が出てきて、アメリカで活躍できようになるといいな!」と言われますが、

そんなことになったら、どっかの放送局はそのチームしか放送しなくなりそうなんで、超個人的には勘弁して欲しいです。


因みに僕は日本人メジャーリーガーの有無に関係なくMLBに興味があるので、別にヤンキース戦ばかり見たいとは思いません。



ブレント・プライス


マーク・プライスの弟。オクラホマ大出身で、ドラフト2巡目第32位でブレッツに入団した。特筆すべきことのない2シーズンを過ごした後、3年目の94~95シーズンは開幕から故障で欠場し、シーズン終盤には解雇されてしまった。しかし、95年10月3日に再度ブレッツと契約を結ぶと、故障以前とは見違えるように活躍。このシーズンからチームに加入した実兄のマーク・プライス、ロバート・パックが相次いで故障に倒れる中、出場機会を増やし、キャリアハイの成績を残した。

この活躍を評価されたプライスは、そのオフ、ロケッツと契約。アキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー、チャールズ・バークリーのビッグ3を束ねるPGとして期待されたが、プレシーズンで足を故障し、開幕から約2ヶ月を欠陽。20試合程度プレイしたのち、今度は膝の靱帯を損傷し、1シーズンのほとんどを棒に振ってしまった。翌シーズンは復帰するが、CBA上がりのマット・マロニーからスターターの座を奪うまではいかなかった。

99年にはスティーブ・フランシスを絡めたトレードでグリズリーズに移るが、ここでも2シーズンで47試合しかプレイできず、01年にはキングスへ移籍。打倒レイカーズを狙う強豪キングスは、マイク・ビビー&ボビー・ジャクソンでPGのローテーションが決まっており、プライスに出番はなかった。兄と同じPGだが、ゲームメイクは不得手で、シュートは上手いがセレクションに難がある。キャリアのピークに立て続けに大きな故障を負ってしまったのが悔やまれる。


マリク・シーリー


6フィート8インチのスウィングマン。ニューヨーク出身でセントジョンズ大を卒業後、ドラフト1巡目第14位でペイサーズに入団。2シーズンを過ごしたがあまり出番がなく、94年にはクリッパーズへ移籍した。当時のクリッパーズはリーグを代表するドアマット・チームだったが、その半面、似たような中堅クラスの選手が多く、先発ローテーションがあまり固定されていなかったため、奇しくも出場機会が増え、成績もアップした。ここでは3シーズン過ごしている。

97~98シーズンはピストンズでプレイするがフィットせず、翌シーズンからはウルブズへ。移籍2年目の99~00シーズンにはスターターに定着し、ロールプレイヤーとして良い働きを見せた。地元ミネソタで行われたペイサーズ戦のラストで決めたブザービーターは印象的である。こうして8年目でようやく安住の地を見つけたかに見えたシーリーだった。しかし、シーズン終了から1ヶ月ほど経った00年5月20日、交通事故によって命を落としてしまう。

ケビン・ガーネットの誕生日会スポーツカーで帰る途中、高速道路を逆走してきたトラックと衝突。トラックの運転手は飲酒運転だったが、エアバッグが作動したためか怪我だけですみ(4年間の禁固刑)、一方のシーリーの車にはそれがなかったそう。因みにこのトラックの運転手は、06年にも飲酒運転で逮捕されている。ガーネットはこれ以降、シューズに「2マリク」と書いており、シーリーの背番号2は永久欠番にもなっている。

96年には映画「エディ」のなかで、才能はあるがセルフィッシュな「ステイシー・パットン」という選手を演じた。「マリク」という名は、人民解放運動家のマルコムXに由来しており、シーリーの父はマルコムXのボディガードを務めていたという関連がある。


マット・スタインゲンガ


6フィート7インチのPF。ミシガン州立大の出身で、ドラフト2巡目第52位でブルズに指名された。しかし、実際に契約を結んだのは96~97シーズンの終盤。ブルズに故障者が続出、ロスターを埋める必要が出てきたときであった。スタインゲンガは2試合で12分に出場し、3点をマーク。唯一のFGはアリウープである。このシーズン、プレイオフのロスターにも入れなかったが、幸運にもチャンピオン・リングを獲得している。NBAではプレイしたのはこのとき限り。

カレッジ時代は2年次からスターターを務め、ブロックの記録をつくったとか。95年オフにはホークスでプレシーズンをプレイしたが残れず、96~97シーズンはブルズと契約するまでCBAで過ごしていた。97~00年もCBAでプレイしており、その間、99年に再びブルズと契約を結ぶが、このときはすぐに解雇されている。スペインや日本でもプレイ経験がある。


サム・マック


ヒューストン大出身のスウィングマン。ドラフト指名はされず、92~93シーズンにドラフト外でスパーズに入団した。翌シーズンからはCBAなどでプレイを続けたが、95~96シーズン、ロケッツと契約したのが転機となる。このシーズンのロケッツは怪我人が続出しており、マックは主力不在のチームで大活躍。平均2桁得点を稼いだだけでなく、3P成功率は40%を超え、嬉しい驚きとなった。これが生き残るきっかけとなり、97年にグリズリーズに移ると、遂にスターティングSGに定着した。

ロックアウト直後の98~99シーズン、開幕からキャリア最高の成績を残していたが、しばらくしてロドリック・ローズと交換で古巣ロケッツへ出戻り。しかし、オフには契約を結べず、これ以降キャリアは流浪生活に戻ってしまった。99~00シーズンはシーズン終盤にようやくウォリアーズに拾われ、00~01シーズンはNBAでプレイせず。01年にヒートと契約を結ぶが、開幕直後に解雇された。その後はCBAやスペインなどで現役を続けた。

シューター。バランスの良い体格をしているように見えるが、ランニング・ゲームや1対1に弱い。CBAあがりで成功した選手のひとり。


ウォルター・ボンド


6フィート5インチのSGでミネソタ大の出身。92~93シーズンにドラフト外のルーキーとしてマブスでデビューした。このシーズンのマブスは史上最低のチームのひとつと言えるほど悲惨で(11勝71敗)、ボンドはそのチームで開幕スターティングSGを務めた。最終的にも74試合中38試合でスターターとして起用され、ドラフト外ルーキーとしてはまずまずの成績を残すが、翌シーズン以降、他のちゃんとしたチームでは通用しなかった。NBAでプレイしたのは94~95シーズンが最後。

95年にはウルブズ、97年にはホークスとも契約を交わしているが、いずれも開幕ロスターには残れなかった。


プレドラグ・ダニロビッチ


ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ出身で、90年代にはヨーロッパで最高のSGのひとりと考えられていた。95年にはヨーロッパの最優秀選手賞、98年にはイタリア・リーグのMVPを受賞し、96年にはユーゴスラビア代表として銀メダルを獲得している。NBAでは、この年のドラフト2巡目第43位でウォリアーズに指名されるが、しばらくはギリシャやイタリアでプレイを続け、その間にダニロビッチの交渉権は他チームへ移動。95~96シーズンにヒートでデビューとなった。

パット・ライリーに認められ、開幕からスターターとして起用されるが、すぐ故障してしまい、1年目は僅か19試合の出場に留まった。2年目はシーズン半ばにジャマール・マッシュバーンとのトレードでマブスへ移籍。しかし、トレード後は再び故障に悩まされて13試合しかプレイできず、シーズン終了後にヨーロッパへと帰った。アウトサイド・シュートが巧く、オフェンスではNBAに難なく順応したが、ディフェンスはもうひとつ。引退後はブラデ・ディバッツとともに働いていた時期もあった。愛称は「サーシャ」。


ロイド・ダニエルズ


ニューヨークのプレイグラウンドの伝説として知られた選手。当時はカリーム・アブドゥル-ジャバー以来のスターとも考えられていたようである。高校時代の学業成績が悪すぎ、ジェリー・ターカニアンのいるUNLVに進学(ターカニアンは問題を抱えた選手を受け入れるタイプのHCだったとか)。UNLVではターカニアンのACを務めていたマーク・ワーケンテイン(のちのナゲッツのGM)がダニエルズの法定後見人となり、まず勉強をさせるなど面倒を見ることになった。

しかし、87年2月にダニエルズはクラック・コカインを購入した罪で逮捕されてしまう。これによってダニエルズはUNLVでプレイできなくなり、(のちに)ターカニアンも職を追われることとなった。この後、ダニエルズはドラッグからのリハビリを行いながらプロキャリアを始めるが、それは前途多難。86~87シーズンはマウント・サンアントニオ・カレッジでプレイするが、CBAに移った翌シーズンは、まずまずの成績を残していたにもかかわらず、コンディショニング不足?で解雇された。

88~89シーズンはニュージーランドのチームと契約を結ぶが、今度は酒の飲み過ぎで解雇。そしてアメリカに戻った89年5月11日、ニューヨークでドラッグの紛争に巻き込まれ、胸を打たれてしまう。このときは三発撃たれながらも生き延びるが、右肩には今でもそのときの銃弾が残っているという。この後はUSBL、GBA、USBLでプレイ。GBA(91~92シーズン)ではMVPに輝くが、リーグがそのシーズン限りで消滅してしまった。

転機となったのは92年、恩師ターカニアンがスパーズのHCに就任したときだった。UNLVを離れてからもターカニアンとの交流は続いており、その縁でスパーズと契約を結んだのである。このときはダニエルズも夏の間にハードにトレーニングを積んだようで、故郷ニューヨークのニックスも一時獲得に興味を指名していたという(トライアウトは行った)。ダニエルズは主にPGとして起用され、ターカニアンの期待に応えるかのようにプレシーズンから活躍、NBAでも充分にプレイできることを示した。

しかし、開幕から2月も経たずにターカニアンがクビになってしまい、HCがジョン・ルーカスになるとダニエルズは出場機会が縮小。ルーカスは、ターカニアンがあまり使わなかったエイブリー・ジョンソンを積極的に起用するようになった。94の秋にスパーズから解雇され、今度は弱小シクサーズと契約。しかし、94~95シーズンが始まって2週間足らずで解雇され、CBAなどを挟み、オールスターブレイク明けに今度はレイカーズに拾われた。

レイカーズはセドリック・セバロス、エディ・ジョーンズが怪我で離脱しており、ダニエルズは10日間契約ながらすぐにスターターに定着。最終的には主力の復帰に伴って解雇されるのだが、なかにはダニエルズのお陰で勝ったような試合もあり、決して内容は悪くなかった。翌シーズンはイタリアでプレイ。96~97シーズンはキングス、ネッツ、CBA(大活躍)を渡り歩き、97~98シーズンには6試合だけラプターズでプレイ。すぐに解雇されるのだが、移籍初戦で21点をあげている。

同シーズンにはホークスとも一度契約を結ぶが、ここでは1試合も出ないまま解雇された。NBAのチームと契約したのはこれが最後だったが、この後もヨーロッパや南米、アメリカ国内の別リーグを転々としながら00年代前半までキャリアを続けている。スキルのある選手だが、若い頃のネガティブな印象が強いのか、カレッジでプレイしていないことがネックなのか、NBAで生き残ることが出来なかった。愛称は「スウィーピー」。


クリス・キング


6フィート8インチのSFでウェイクフォレスト大の出身。2巡目第45位でソニックスに指名されるが、NBAデビューは翌シーズンであった。94~95シーズンはNBAから離れたが、95~96シーズンにエクスパンション・チームのグリズリーズと契約し、80試合に出場。うち66試合でスターターを務めるなどキャリア最高のシーズンを過ごした。ただ、翌シーズンは再びNBAでプレイできず、これ以降は主にヨーロッパなどで現役を続けた。実は98~99シーズンにジャズで少しだけプレイしているが。

平成4年ドラフト組⑤

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Mステの10時間スペシャル、Xかっこよかったなぁ。

なんでトリじゃなかったんだろ。

平成4年もラストです。



トム・ググリオッタ


愛称は「グーグス」。ノースカロライナ州立大の出身だが、入学に際してはお父さんが同大のジム・バルベイノ(旧友だとか)にググリオッタのことを売り込んだという。1年目は膝の故障で結果を残せなかったが、2年目からは飛躍的に成長を見せてラリー・バードと比較されるようにまでなり、ドラフト1巡目第6位でブレッツに入団した。さすがにバードとまではいかず、チームも強くならなかったが、個人としてはまずまずの成績を残していた。

94~95シーズンの開幕直後にクリス・ウェバーとのトレードでウォリアーズに放出されるが、あまりフィットせず、トレード期限にはさらにウルブズへ移籍。そのシーズン残りは控えとして起用されることも多く、翌シーズンもインパクトを残せなかった。しかし、96年オフにチームがケビン・ガーネット中心のチーム作りにシフトするとググリオッタもブレイク。平均得点は20点を超え、ガーネットとともにオールスター初出場を果たし、ウルブズはチーム史上初のプレイオフ進出を決めた。

このときはステフォン・マーブリー、ガーネットと3人で強力なトリオに見えたのだが、翌シーズン半ばに故障したところからキャリアが崩れてしまう。97~98シーズンはシーズン後半とプレイオフをまるまる欠場し、オフにはサンズに移籍するが、今度はチームとして不発。翌シーズンはまたしてもシーズン終盤に故障し、戦線離脱。ここで負った怪我は長引き、翌シーズン途中に復帰したときにはかつての姿ではなく、役割も限られたものになっていた。

この後も故障は続き、完全にチームの構想から外れたググリオッタは、03~04シーズン中にキオン・クラークと交換でジャズに放出された。この頃にはすっかり忘れ去られた存在となっていたが、ジェリー・スローンHCはスターターとして起用。衰えながらも、20分ほどの出場時間でリバウンドを平均5本以上取るなど、元々の能力の高さを見せた。翌シーズンをセルティックスとホークスでプレイしたのを最後に現役を引退。セルティックスでは「ザ・グラブ(ガリ勉・縁の下の力持ち)」と呼ばれていたとか。

3Pは多くないが、シュートエリアが広く、身体能力に頼らずに両Fで活躍できたあたり、バードと比較されたのもわからなくはない(気がする)。度重なる故障が悔やまれるが、どちらにしても1stオプションとしては物足りない。因みに、99年12月、「スリープ・アイド」というサプリメントを摂取したことで死にかけたことがある。2人の兄はヨーロッパでプロとしてのプレイ経験がある。


クリスチャン・レイトナー


ドリーム・チームⅠのメンバーで唯一殿堂入りしないであろう、6フィート11インチのF/C。名門デューク大の出身で、91・92年と同大NCAAを制したときの主力で、カレッジ史上で見ても最高の選手のひとりと言えるかもしれない。ハイライトとしてあまりにも有名なのが、92年のNCAAファイナル。デューク大は104対103でケンタッキー大を下すのだが、このとき決勝ブザービーターを決めたのがレイトナーだった。この場面はハイライトで何度も流され、10年以上経った03年にCMで使われたこともあった。

また、その試合のレイトナーは全体的にも好調で、10本のFGと10本のFTをすべて決める大活躍。このパフォーマンスは93年のESPYアワードを受賞し、先のブザービーターは「カレッジ・バスケットボール・プレイ・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。また、同ブザービーターは「NBAと高校を含むバスケットボール史上最も印象深いショット」のひとつ(07年)、「スポーツを通じて忘れがたい場面」の第5位(06年)にも選ばれている。ただし、その試合でアミヌ・ティンバーレイクを踏んづけたことも有名である。

史上4人しかいない、4年連続ファイナル4に進んだ選手のひとりで(うち2人はレイトナーのチームメイト)、そのすべての試合でスタートしたのは唯一。また、NCAAトーナメントで史上最多試合出場という記録も持っている(そりゃそうなるのだが)。個人記録も幾つも樹立しており、90年には世界選手権で銅メダル、そして92年夏にはドリーム・チームⅠのメンバーとして金メダルを獲得した。あまり出番はなかったが、学生で選ばれたのは唯一であった。

92年のドラフトではシャック、アロンゾ・モーニングに次ぐ1巡目第3位でウルブズに入団。プロ1年目は、ルーキーとしては悪くない出来だったが、シャックとモーニングには遠く及ばず、2年目には2人との差がさらに大きく開いた。おまけにレイトナーは、その態度のためか印象も悪く、比較対象としてビル・レインビアの名前が出てくるほどであった。負け続けるチームにフラストレーションは溜まり、4年目には高卒ルーキーのケビン・ガーネットとの不仲説も浮上。そのシーズンの途中、遂に放出されてしまった。

新天地はホークス。シーズンの残りはチーム事情からスターティングCとして起用されるなど、今ひとつ馴染まなかったが、HCのレニー・ウィルケンスはその貢献度を高く評価。そして、オフにディケンベ・ムトンボが加わって、PFにスライドした翌96~97シーズンはレイトナーのキャリアイヤーとなった。オールスターに初出場したり、王者ブルズを破る立役者となったり(37点をマーク)、ウルブズ時代とは見違えた姿を見せ、ドリーム・チームⅣのメンバーにも選ばれた(ロックアウトのため幻に終わるが)。

しかし、翌シーズンは何故か精彩を欠き、スターターを外されるようにもなってしまい、98~99シーズンが始まる前にはピストンズへトレードされた。ここではカレッジ時代のチームメイト、グラント・ヒルと再会。移籍1年目は故障で16試合しか出られなかったが、2年目の99~00シーズンは全82試合でスターティングPFを務めた。00年のオフには、PFを欲していたレイカーズにトレードされかかるが、土壇場でマブスへ。00~01シーズン半ばにはさらにウィザーズへ放出された。

これはウィザーズが、巨額の契約を抱えたジュワン・ハワードを放出したいがためのトレードで、戦力として望まれていたわけではなかった(と思う)。しかし、レイトナーは腐らずプレイを続け、翌シーズンにマイケル・ジョーダンが現役復帰したときには、数字こそ目立たなかったが、貴重な繋ぎ役となってチームに貢献した。04年にはウォリアーズにトレードされるがすぐ解雇され、ヒートと契約。奇しくもシャック&モーニングのチームメイトとして1シーズン過ごし、現役を引退した。

「ドリーム・チームⅠに選ばれたのは間違いだったのでは?」と議論が起こり、実際、スーパースターではなかったが、単なるロールプレイヤーというワケでもなかった。スキルレベルは高く、フィル・ジャクソンも「パスもシュートも巧い。バスケットをよくわかっているからトライアングルに完璧にフィットするね」と評していた。


キース・ジェニングス


愛称は「ミスター」。5フィート7インチと小柄なPGで、イースト・テネシー州立大の出身。カレッジ時代には6フィート以下のベスト・プレイヤー(フランセ・ポメロイ・ネイスミス・アワード)を受賞しており、また60%近い3P成功率をマークしたこともあった。92年にドラフト外でウォリアーズに入団。開幕からローテーション入りして予想外の活躍を見せたが、すぐに故障に見舞われ、ルーキーイヤーは僅か8試合の出場に終わった。

続く2シーズンは持ち前のシュート力を活かしてまずまずのプレイを見せたが、95年オフにはエクスパンション・ドラフトでラプターズへ移籍。しかし、開幕前に解雇され、スペインで1シーズン過ごした。96年にはナゲッツと契約を結ぶが、オフの間に膝を故障してシーズンを全休し、それ以降NBAでプレイすることはなかった。セールスポイントはシュート力と、小柄な選手特有のスピード。3シーズンの働きは決して悪くなかったが、生き残ることは出来なかった。


バイロン・ヒューストン


6フィート5インチ・250ポンドというずんぐりむっくり型のPF。オクラホマ州立大でプレイした後、1巡目第27位でブルズに指名され、さらにウォリアーズへトレードされた。ここでは2シーズン過ごすが、2年目に出場機会を失い、ソニックスに移籍した3年目は完全に戦力外扱い。4年目にキングスでプレイしたのがNBAでの最後である。タフで動けるPFだったが、やはりサイズは厳しかった模様。カレッジ時代はブライアント・リーブスとチームメイトだった。

引退後はトラブルが多いようで、公然猥褻罪で逮捕もされている。父親は元選手のカーティス・ペリーで、こちらは70年代にバックスやサンズなどで活躍した。74年にバックスで、76年にサンズでNBAファイナルを経験している(ともにセルティックスに敗れた)。


ジョジョ・イングリッシュ


本名はステファン・イングリッシュ。旧西ドイツのフランクフルト生まれで、サウスカロライナ大でプレイしていた。NBAのドラフトにはかからず、92年オフにドラフト外でブルズと契約を結ぶも解雇。シーズン途中に10日間契約で再度加入するが、またしてもすぐに解雇されてしまった。チャンスが回ってきたのは翌93~94シーズン。オフにウルブズと契約を結び、開幕直後にブルズにトレードされ、一度解雇されるが、シーズン終盤に10日間契約を結び、シーズン終了まで生き残った。

しかし、94~95シーズンの開幕直後に解雇され、以降はCBAやNBL(オーストラリア)などで現役を続けた。6フィート4インチのG。94年のセミファイナル、シカゴで行われたニックス戦で、デビッド・スターンの観戦している前でデレク・ハーパーと乱闘騒ぎを起こしたのがキャリアのハイライト。


クレアレンス・ウェザースプーン


ミシシッピ州の出身で、地元のサザン・ミシシッピ大を卒業後、ドラフト1巡目第9位でシクサーズに入った。6フィート7インチ・250ポンドのという体型や積極的なスタイルが(91~92シーズンまでシクサーズにいた)チャールズ・バークリーに似ていることから、キャリア序盤は「ベビー・バークリー」「バークリーⅡ世」とも呼ばれた。実際、バークリーには及ばないが、1年目から主力として活躍し、2年目には平均18点・10リバウンドを上回る成績をも残した。

しかし、この頃のシクサーズはドアマットチームであり、95年にジェリー・スタックハウスとデリック・コールマン、96年にアレン・アイバーソンが加わるなど補強が進むと、ウェザースプーンの存在感は薄くなっていった。そして、ラリー・ブラウンがHCに就任した97~98シーズンは6マンとなり、トレード期限にはウォリアーズへ移籍。ここでは再びスターターとして起用されるが、特にインパクトを残せず、オフにはヒートと契約を結んだ。

ヒートではバックアップとして2シーズン過ごした。00~01シーズンはキャブスで久しぶりに全82試合でスターターを務め、得点とリバウンドでダブルダブルに迫るアベレージを残すなど健闘。01年にはニックスへ移籍した。ニックスでは、移籍初年度はマーカス・キャンビーが故障したときなどにスターターとして起用されたが、あまり貢献できず、翌シーズンはオセラ・ハリントンにポジションを奪われた。03~04シーズン中に移籍したロケッツでは出場機会が限られ、04~05シーズンを最後にキャリアを終えた。

プレイスタイルやシュートエリアはPFだが、チーム事情からSF的な起用をされることも多かった。故障が少なく、確かなスキルもあるが、爆発力に欠けるのでベンチとしては魅力が弱い。打点の高いシュートフォームはやや独特。シクサーズ時代はダンクコンテストに出場したこともある。


トニーー・ベネット


6フィートのPG。実父がHCを務めるウィスコンシン大グリーンベイでプレイし、当時の同大はなかなかの好成績を残した。ベネット自身もカンファレンスの最優秀選手賞や、キース・ジェニングスと同じくフランセ・ポメロイ・ネイスミス・アワードを受賞している。因みに、通算の3P成功率49.7%はNCAA記録である。しかし、プロでは結果を残せず、ドラフト2巡目第35位でホーネッツに入団するも足の怪我などもあり、NBAでは僅か3シーズンしかプレイしなかった。

引退後は06年に父親が引退したのに伴って、ワシントン州立大のHCに就任。ここでいきなり同大史上最多勝(タイ記録)をマークするなど結果を残し、それ以降もNCAAでコーチとして活躍している。2015年現在はヴァージニア大のHCである。


アンドレ・スペンサー


6フィート6インチのSF。ベイカースフィールド・コミュニティ・カレッジを経てノース・アリゾナ大に移り、NBAでは92~93シーズンにホークスでデビューした。ここでは3試合出ただけで解雇されるが、シーズン終盤に10日間契約で加入したウォリアーズで予想外に活躍。17試合の出場で2桁の得点アベレージを残した。翌シーズンは開幕直後に解雇されるが、再びシーズン終盤に、今度はキングスと契約を結び、ここでもまずまずのスタッツを残している。NBAでプレイしたのはこの2シーズンのみ。

昭和63年ドラフト組①

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ライブマン好きだったなぁ…特にブルードルフィンが笑



マーク・ブライアント


6フィート9インチ・245ポンドのF/C。シートンホール大出身で、ドラフト1巡目第21位でブレイザーズに入団。90・92年とチームがファイナルに進んだときのメンバーだが、当時(最初の4シーズン)はあまり出場機会を得られなかった。ただ、92~93シーズン終盤にケビン・ダックワースに代わってスターターに入ったときには良い働きを見せている。95年には2連覇中のロケッツに移籍し、翌オフには更にサンズへ移籍。両チームともインサイドの層が手薄だったこともあり、貴重なビッグマンだった。

98~99シーズンは王朝崩壊直後のブルズで(コマ不足から)主にスターターとして起用され、99~00シーズンもキャブスでジドルナス・イルガウスカスの故障の恩恵を受け、シーズンの半分以上でスターターを務めた。しかし、翌シーズンからはローテーション入りできずにチームを転々とするジャーニーマンとなり、3シーズンで5チームを渡り歩き現役を終えた。引退後はマジックのACに就任。意外と器用な選手だが、体格の割にはリバウンドに弱い。


スコット・ブルックス


5フィート11インチのPG。カリフォルニア大アーバイン校の出身。ドラフト外でシクサーズと契約するが、いきなり全82試合で起用されるなど予想外の健闘を見せた。90年にはウルブズ、92年にはロケッツと移籍し、94年にはロケッツで初優勝に貢献するが、サム・キャセールの成長によって居場所がなくなり、94~95シーズン中にマブスへ放出された。96~97シーズンはニックスに移るが、ここではメンター的な役割で、出場機会は少なく、97~98シーズンをキャブスで過ごして現役を終えた。

キャリアを通してほぼ控えだったが10年生き残った。シュートが上手く、堅実なPGで、キャリア最初の6シーズンのうち3シーズンで全82試合に出るなどタフな選手。そのタフさ・勤勉さはシクサーズ時代にチームメイトだったチャールズ・バークリーも認めるほどだった。CBAでもプレイしており、88年のオール・ルーキー・チームに選ばれている(チームは優勝。HCのビル・マッセルマン)。引退後はサンダーのHCとしての仕事ぶりが有名だろうか。

穏やかで冷静な性格と、バスケットに対する知識の深さから、現役時代からコーチに向いていると見られていた模様。イースト・ユニオン校卒でNBAに進んだのはブルックスしかいない。


ハーベイ・グラント


1巡目第12位でオクラホマ大からブレッツに入団。3年目の90~91シーズンにスターターに定着すると平均18.2点をマークするなどブレイクし、MIPの投票でもスコット・スカイルズに次ぐ得票数を得た。90~93年まで個人成績としてはキャリア最高の時期を過ごしており、93年にケビン・ダックワースと交換でブレイザーズに移籍してからは、主に控えとして貢献。そして、96年にラシード・ウォレスを絡めたトレードでブレッツに出戻った。

この移籍以降、まだ30代前半にもかかわらず急激に衰え始め、キャリアは下降線。98~99シーズンにシクサーズでプレイしたのを最後に現役を引退した。ブルズなどでプレイしたホーレス・グラントは双子の兄。兄ホーレスは、ハーベイとの対戦を嫌がったという。人望もあり、ラリー・ヒューズは、ルーキーのときにグラントからプロとしての心構えなどを教わったことを感謝しているとか。因みにデニス・ロドマンの通算1万リバウンド目は、グラントのエアボールである。


バーノン・マクスウェル


10年間8度逮捕されるなど、コート内外問わずトラブルを起こしたG。フロリダ大の出身で2巡目第45位でナゲッツに指名され、直後にスパーズへトレードされた。ルーキーシーズンは2巡目指名ながら平均2桁得点を稼ぎ、翌シーズン途中にロケッツにトレードされると、すぐにスターティングSGに定着。以降、ケニー・スミスとバックコートを形成し、94年の初優勝に貢献した。ファイナルではジョン・スタークスと対照的に、大事な第7戦で21点をあげている。

しかし、94~95シーズンは、マクスウェルにとって悪夢のようなシーズンとなってしまう。まず、2月頭にポートランドで行われたブレイザーズ戦で、観客の野次にキレてスタンドに乱入、殴ってしまった。マクスウェルには10試合の出場停止処分を下されるのだが(のちに、ファンが妻の流産を野次ったからだと主張)、この10試合の間にチームはブレイザーズからクライド・ドレクスラーを獲得。オールスターSGのドレクスラーの加入はマクスウェルをベンチに追いやった。

マクスウェルはこの状況に不満を抱き、ロケッツはこの年も優勝して2連覇を達成するのだが、1stラウンドのうちにチームから離れている。そのオフにはシクサーズと契約。チーム事情からPGを任されるなど健闘を見せたが、結果には繋がらず、翌シーズンは古巣スパーズで過ごした。97~98シーズンはマジックとホーネッツでプレイ。マジックからはすぐに解雇されるが、ホーネッツではバックアップとして重宝された(但し、プレイオフではプレイしていない)。

98~99シーズンはキングスへ。ここではジェイソン・ウィリアムスやクリス・ウェバーなど若手中心のチームを精神的に支えていた。99年にはソニックスと契約。ソニックスのフロントは問題行動の多いマクスウェルを加えることを躊躇ったようだが、ゲーリー・ペイトンが「爆発力がある選手だから、チームに勢いをもたらしてくれる」と獲得を進言したという。実際、開幕直後は絶好調で勢い以上のものをもたらしていたが、次第にトーンダウン。

シーズン中盤にはロッカールームでペイトンと喧嘩し、バーベルを振り回して仲裁に入ったホーレス・グラントを怪我させてしまった。00年にはシクサーズと契約を結ぶが開幕から精彩を欠き、序盤のうちに解雇、シーズンの残りはマブスで過ごして現役を引退した。通算FG成功率は40%に届かず、3P成功率は32%程度であったが、ペイトンの言う通り爆発力があり、90~91シーズンには1つのQで30点をあげたのを含む51点をマークしたこともあった。

どんなに外してもシュートを打っていく積極的なスタイルは需要があり、また、SGとしては小柄だがスピードがあり、ディフェンスも良かった。スパイク・リーは「レジー・ミラーのようだ」と評している。最大の難点は繰り返しになるが素行の悪さ。家庭内暴力、マリファナ、違法改造の車など警察のお世話になることが多く、94年にはチームメイトのカール・ヘレーラをウェイトで殴ったこともある。ちなみに、貧血気味である。


ティト・ホーフォード


7フィート1インチ・245ポンドの大型C。ドラフト2巡目第39位でバックスに入り、2シーズン過ごした。3シーズンブランクを空けて93年にブレッツと契約を結ぶが、開幕前に解雇されている。NBA史上初のドミニカ出身の選手で、母国からヒューストンの高校へリクルートされてアメリカにやって来た。マイアミ大出身。息子のアルはフロリダ大で全米チャンピオンに2度輝き(連覇)、07年のドラフト1巡目第3位でホークスに指名され、オールスタープレイヤーになるなど華々しいキャリアを送っている。


アンドリュー・ラング


愛称は「ドリュー」。アーカンソー大出身のCで、ドラフト2巡目第28でサンズに入団した。最初の3シーズンは主にマーク・ウェストのバックアップを務め、4年目の91~92シーズンにはスターターに定着。このときは特にブロックショットで存在感を見せていた。92年にはチャールズ・バークリーを絡めた大型トレードでシクサーズへ移籍し、翌オフにはさらにホークスへ移った。キャリアのハイライトとなったのは、ホークス3年目の95~96シーズン。

ホークスでは得点も伸ばしていたラングは、キャリアで初めて2桁の得点アベレージをマーク。チームの開幕ダッシュに貢献した。しかし、そのシーズンのトレード期限にはクリスチャン・レイトナーとのトレードでウルブズへ放出されてしまう。自身がキャリア最高のプレイを見せていたにもかかわらず敢行されたこのトレードはショックだったようで、トレード以降は精彩を欠いた。96~98年はバックスでプレイするが、故障もあって思うようにプレイできず、98~99シーズンは王朝崩壊後のブルズへ。

99~00シーズンをニックスで過ごし、現役を引退した。97~98シーズン序盤のニックス戦でパトリック・ユーイングと空中で接触し、ユーイングは腕からフロアに落ちて負傷。そのシーズンはプレイオフの途中まで復帰できず、この怪我以降、ユーイングは一気に衰えていった感がある。武器はブロックとフックショット。キリスト教の巡回説教者であり、司祭としてアトランタで働いているとか。


フェニス・デンボー


6フィート5インチのSFで、89年にピストンズが優勝したときのメンバー。ただ、その1シーズン(31試合)しかNBAではプレイしなかった。ドラフト2巡目第30位指名。NBAでは見るべき処がなかったが、85~88年まで在籍したワイオミング大では華々しい活躍をしており、通算得点は同大史上1位。シュートの巧さと身体能力の高さが武器で、87年のNCAAトーナメントではレジー・ミラー率いるUCLAを破るアップセットの立役者となっている(デンボーは41点をマーク)。

同大史上初めて、スポーツ・イラストレイティッド誌の表紙を飾った選手でもある。


ジェラルド・パッディオ


UNLVの出身。ドラフト3巡目第74位でマブスに指名されたスウィングマンである。NBAデビューは90~91シーズンのキャブスで、そこではSFが手薄だったためか70試合で起用された(22試合がスターター)。しかし、91~92シーズンはソニックスで戦力にならず、92~93シーズンは3チームを渡り歩き、翌シーズン以降はNBAでプレイしなかった。身体能力はまずまず高く、3Pも打てる。カレッジ時代はジェリー・ターカニアンの指導を受けている。

昭和63年ドラフト組②

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僕は特撮も好きなんですが、ウルトラマンなら80まで、仮面ライダーならRXまでがわたくし的黄金期です。



エリック・レックナー


6フィート11インチの白人Cで、1巡目第17位でジャズ入り。最初の2年はジャズで過ごすが、その後はNBAに留まらずあちこちのチームを渡り歩いた。NBAでのベストシーズンは、弱小シクサーズでプレイした93~94シーズンであろう。ワイオミング大の出身で、同大が87年のNCAAトーナメントでUCLAを破ったときの主力。この年、ピストンズに指名されたフェニス・デンボーはチームメイトであった。シュートタッチは悪くない。


ウィル・パデュー


バンダービルト大出身のCで、1巡目第11位でブルズ入り。91~93年にかけてブルズが3ピートを達成したときのバックアップCである。93~94シーズンにはルーク・ロングリーの加入などでプレイオフのロスターに入れない屈辱を味わうが、翌94~95シーズンはそのロングリーの怪我もあって開幕からスターティングCに定着。そこで結果を残し、株をあげた。そのシーズン終盤に現役復帰したマイケル・ジョーダンもパデューのプレイを評価していたとか。

しかし、プレイオフでスターターの座をロングリーに奪われてしまい、オフにはデニス・ロドマンとのトレードでスパーズへ移籍した。ここでは最初の3年間はデビッド・ロビンソンのバックアップや、ロビンソンとのツインタワー、ティム・ダンカンとあわせてトリプルタワーとして起用されていたが、98~99シーズンになると出場機会が激減。そのオフには(一応)残留を望まれながらも、古巣ブルズに戻った。00~01シーズンをブレイザーズで過ごし、現役を引退。

ジェリー・クラウスGMの上位失敗指名選手のうちのひとりで、若い頃はジョーダンにウィル・バンダービルトとからかわれていたとか。ただ、パデューのハッスルプレイがチームにとってプラスだったのも事実で、指名順位を考えなければ悪くはなかった(と思う)。技術は乏しいが、地元ファンからも人気があった。現役時代はリーグ1のデカ足と知られた。ブルズで3つ、スパーズでひとつ、チャンピオン・リングを獲得している。


アンソニー・メイスン


テネシー州立大出身で、ドラフト3巡目第53位でブレイザーズに指名されるが開幕ロスターには残れず、88~89シーズンはトルコ・ベネズエラ・CBAで過ごした。89~90シーズンにネッツでNBAデビューを果たすが、21試合しか出られず、翌90~91シーズンもナゲッツで3試合しかプレイできなかった。転機となったのは91年の夏にニックスと契約を結んだこと。パット・ライリーはメイスンを評価し、インサイドの控えの一番手として起用。ここでメイスンは開花した。

94年にはニックスにとって約20年ぶりとなるファイナル進出に貢献し、翌シーズンは6マン・アワードも受賞。ライリーとは起用法を巡って確執があったとも言われたが、ニックスにとって欠かせない選手に成長した。95~96シーズンは新HCのドン・ネルソンにその多彩さを気に入られ、スターティングFに定着。しかし、これはチームとしては上手く機能せず、ネルソンはシーズン半ばに更迭され、メイスンはオフにラリー・ジョンソンとのトレードでホーネッツヘ放出された。

メイスンはこの移籍でさらにステップアップ。トリプルダブルを連発するなどオールNBA3rdチーム&オール・ディフェンシブ2ndチームに選ばれる飛躍を見せ、グレン・ライスらとともにチームを盛り上げた。00年にはヒートへ移籍。大黒柱のアロンゾ・モーニングが腎障害で復帰時期未定という窮地で健闘し、代替出場ではあったが初めてオールスターにも選ばれた。そして、01年にはバックスと契約。このときは、PG~SFが充実したバックスのラストピース的存在になるかと期待された。

しかし、チームは上手く機能せず、メイスンもいまいちで、プレイオフにすら出られない大失態。その後は故障もあって目立たず、03年に現役を引退した。鍛え抜かれた肉体とGのような多彩さを兼ね備えたユニークな選手。ディフェンスも良く、見た目はアンダーサイズなPF(6フィート7インチ)だが、ウィングの選手ともインサイドの選手ともマッチアップできた。シュートフォームは独特で、ミドルショットは精度が高かったがFTは苦手。キャリアを通じて何度かフォームを変えており、片手で打っていたこともある。

難点は性格で、ライリーやエディ・ジョーンズなど、不仲説や確執が噂された相手は数知れず。00年にヒートにトレードされる際も、ヒート側はメイスンの獲得は望んでいないとされた(ヒートにはライリーがいた)。敬虔なクリスチャンらしいが、暴力沙汰なども起こしている。ニックス時代は頭にチームのロゴなどを剃り込んでいた。


マイケル・ウィリアムス


ベイラー大出身のPG。ドラフト2巡目第48位でピストンズに入り、戦力にはなれなかったが、いきなり優勝を経験した。89年のドラフト当日にはサンズへ移籍。しかし、12月の頭には解雇され、シーズン終盤にはホーネッツに拾われた。転機となったのは90年にペイサーズと契約したこと。90~91シーズンの半ば頃から徐々にスターターとして起用されるようになり、翌シーズンにはバーン・フレミングからスターターの座を奪い取った。

平均15点・8アシストをマークしたウィリアムスは、そのオフ、プー・リチャードソン、サム・ミッチェルと交換でウルブズへ移籍。ウルブズでは最初の2年間は及第点の出来であったが、94~95シーズンを故障で棒に振ると、以降は故障に悩まされ続けた。98~99シーズンの開幕直前にラプターズへ放出され、2試合だけプレイして解雇、現役を引退した。キャリア最後の5シーズンは計37試合にしか出場することが出来なかった。

怪我をする前は地味ながらいいPGだった、身体能力に頼ったタイプではないが、スピードもあった。FTが上手いことで有名で、97本連続FT成功という記録を樹立したことがある(前の記録はカルビン・マーフィーの78本)。


キース・スマート


6フィート1インチのPG。インディアナ大出身で、名将ボビー・ナイトの教え子である。同大は、87年のNCAAファイナルでスマートが決勝ゴールを決めてシラキュース大を破り、NCAAチャンピオンとなった。ただ、プロでは大成せず、2巡目第41位でウォリアーズに指名されるもロスターに残れず、スパーズと契約。ここでも2試合プレイしただけで解雇され、その後は主にCBAで華々しいキャリアを送った。フィリピンやWBLでもプレイした経験がある。

引退後はコーチとして活動。キャブス、ウォリアーズ、キングスでHCを務めた経験があるが、いずれもチーム状態が悪く、短命であった。リッキー・ディビスがトリプルダブルを自作自演しようとしたときの、キャブスのHCである。


ジェローム・レーン


ピッツバーグ大出身で、ドラフト1巡目第23位でナゲッツに入団。3シーズン、控えのリバウンダーとして活躍した。90~91シーズンには平均20分強のプレイングタイムで、平均9.3リバウンドをマークしている。しかし、91~92シーズンはナゲッツからペイサーズ、バックスとたらい回しにされ、翌シーズン、キャブスでプレイしたのを最後にNBAではプレイしなかった。PFとしては小さいが(6フィート6インチ・230ポンド)、俊敏さと力強さを武器にリバウンドをもぎ取った。

シュートは下手で、FTは壊滅的。カレッジ時代、プロビデンス大戦でファストブレイクのフィニッシュでダンクを決め、バックボードを粉砕したのは有名。当時はチャールズ・スミスとチームメイトであった。


クリス・モリス


6フィート8インチのSF。オーバーン大出身で、ドラフト1巡目第4位という高順位でネッツに入った。1年目は出場試合の半分ほどしかスターター出場がなかったが、それでもチーム2位の得点をマーク。2年目からはスターターに定着した。しかし、92年にチャック・デイリーがHCに就任した頃から、チャッキー・ブラウンに出場機会を奪われたり、スターターとベンチを行ったり来たりするようになり、95年に強豪ジャズへ移籍した。

移籍1年目はまずまず活躍していたが、ブライオン・ラッセルらの台頭、緩慢なディフェンスでHCの信頼を失い、2年目以降は完全ベンチ・スタートとなった。98~99シーズンをサンズズで過ごしたのがNBAでの最後だが、それ以降、フィリピンでも少し現役を続けている。SFとしてはパワフルで、ネッツにいた93年にはダンクでバックボードを壊したことがある(同じシーズン、同じネッツのアリーナで、シャックもバックボードを粉砕したのは有名)。


ダン・マーリー


「サンダー・ダン」として知られた、90年代を代表する3Pシューターのひとり。3度オールスターに選ばれ、一度は故障者の代役ではあったがスターターを務めた。94年にトロントで行われた世界選手権では、ドリーム・チームⅡのメンバーとしてプレイしている。セントラル・ミシガン大出身で、1巡目第14位でサンズに入団。指名直後にはファンからブーイングを浴びたが、当時のコットン・フィッシモンズHCは、「ファンはブーイングしたことを申し訳なく思うことになるだろう」としている。

最初の4年間は、主にジェフ・ホーナセックらの控えを務めながらも年々成長を見せ、91~92シーズンには平均17.6点をマーク。オールスターに初選出された。92年オフにそのホーナセックが移籍してからは、スターターに定着。ケビン・ジョンソン、チャールズ・バークリーとともにチームを牽引し、93年にはファイナルまで進んだ。しかし、そのファイナルではホームコート・アドバンテージがあったにもかかわらず2勝4敗で敗れ、続く94・95年はどちらもセミファイナルでロケッツに敗戦。

肝心なところで結果を残せないサンズは、95年オフ、ジョン・ウィリアムスを獲得するためにマーリーをキャブスへトレードに出した。親友のバークリーは「チームのためを考えるなら必要なトレードだ」とこの人事を受け入れたが、これがきっかけとなったのか95~96シーズンのサンズは開幕から噛み合わず、予想外に低迷(プレイオフ進出可能圏内ではあったが)。一方のマーリーも、ウィングの層が厚いキャブスではあまり目立たなかった。

96年のオフにはヒートと契約。当初はスターターとして起用されていたが、移籍1年目は故障に泣き、さらに欠場中にボション・レナードが台頭したことで、程なくして6マン的な役回りとなった。この頃にはFG成功率が40%前後まで落ちるなどシューターとしての脅威は弱くなっており、98~00年にレナードの怪我でスターターに返り咲いても、サンズ時代のような輝きは取り戻せなかった。01~02シーズンを古巣サンズで過ごして現役を引退。

実はキャリアを通じて3P成功率が40%を超えたことは一度もなく、成功数や試投数で1位になったことも3Pコンテスト(2度出場)で結果を残したこともない。ただ、当たると手が付けられず、また、3Pラインから多少離れていても関係なく決めてくるシュート力があった。サンズの歴史を語る上では欠かせない選手のひとりで(と思う)、マーリーがシュートを決めるとアリーナには雷の効果音が流れたものである(サンダーという愛称は、若い頃に試合で披露したダンクに由来)。

93年のファイナルではマイケル・ジョーダンにこてんぱんにやられたが、ディフェンスの評価は高く、オール・ディフェンシブ2ndチームに二度選出されている。

昭和63年ドラフト組③

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今度、ジライヤがなんとかレンジャーにゲスト出演するんだそうで。

戦隊ヒーローはメガレンジャーを最後に見てないけど、その回だけ録画しようと思ってますw




ジェフ・グレイヤー


アイオワ州立大出身のSG。88年のソウル・オリンピックでは代表チームのメンバーとしてプレイした。同大史上1位のスコアラーで、その得点力はNCAA史上で見ても上位に入るかもしれない。1巡目第13位でバックスにバックスに入団するが、1年目は故障のために11試合しか出られなかった。当時のバックスはバックコートの層が厚く、パッとしない4シーズンを過ごした後、ウォリアーズへ移籍。それ以降は幾つかのチームを転々とし、97~98シーズンを最後にNBAではプレイしなかった。

通算は平均7.4点・3.0リバウンド。どこのチームでも似たような成績を残したが、シュートエリアが狭く、3PやFTは芳しくない。


ブライアン・ショウ


コンボガード。オークランドでゲーリー・ペイトンらと切磋琢磨しながら育ったショウは、ドラフト1巡目第24位でセルティックス入り、1シーズン過ごした後にイタリアのチームへ移るが、90年1月にセルティックスと5年契約を締結。90~91シーズンからNBAのキャリアを再スタートさせた。復帰1年目はスターティングPGとしてキャリアハイのスタッツをマークしたが、翌シーズンは怪我人の復帰に伴って出場機会が減少。シーズン中にシャーマン・ダグラスと交換でヒートへ放出された。

ヒートではスティーブ・スミス、ハロルド・マイナーらと出場機会を分け合い、両Gでプレイ。94年にはマジックへ移籍し、チーム史上初のファイナル進出に貢献。当時のマジックはベンチの層が薄く、ショウは数少ない計算できるバックアップであった。ショウのロブパスからシャックがアリウープを決めるシーンは印象深い。ただ、特にシュートタッチは精彩を欠くことも多く、例えば96~97シーズンのプレイオフでは大乱調だった。97年オフにはウォリアーズへトレードで移籍。

ここでは出場停止処分を喰らったラトレル・スプリーウェルに代わってスターターとして起用されるが、FG成功率が35%にも届かないなど内容が伴わず、シーズン中にシクサーズへトレードされた。オフにはブレイザーズと契約を結ぶが、今度はあまりにも層が厚い上に自身の故障も重なって、出場したのは僅か1試合のみ。シーズン終了後には引退を考えたという。しかし、99~00シーズンの開幕直前、コービーが故障したレイカーズと急遽契約。これがキャリア再起の転機となった。

スタッツは冴えなかったが、サイズのあるGが好きなフィル・ジャクソンには重宝され、両Gのバックアップとして00~02年の3連覇に貢献した。03年に現役を引退後はレイカーズのACとなり、最近ではナゲッツでHCを務めていた。計4度ファイナルに進出し、3度の優勝を経験。マジックとレイカーズでチームメイトだったシャックは「キャリアを通じてもっともリスペクトしているチームメイト」とコメントしていたこともある。また、コービーとはイタリア時代から面識があったそう。

シュートの精度はあまり良くないが、勝負所を抑える力はあった。ヒートに在籍していた93年には3Pを1試合10本成功という(当時の)記録をつくっている。


デュアン・フェレル


ジョージア工科大出身のSF。ドラフトにはかからず、88年のオフにホークスと契約を結んだ。3年目からローテーション入り。ドミニク・ウィルキンスがアキレス腱の故障で離脱した91~92シーズンにはベンチ・スタートながら2桁の得点アベレージを残し、翌シーズンも6マン的な役割を務めた。94年からは強豪ペイサーズでプレイするが、今度はあまり出番がなく、97年オフにウォリアーズへ移籍。若手と峠を過ぎたベテランばかりのチームにも居場所はなく、2シーズン過ごして現役を終えた。

シュートエリアは狭いが、SFとしてはパワーがあり、ペイントエリア内でも働ける。ゴーグルを付けてプレイしていたこともある。ウォリアーズ時代、ロスターが整理されておらず、チームも勝てないという不安定な状況下で、チームメイトの相談役になっていたそうで、それを見ていたロッド・ヒギンズ(AC)は、のちにウィザーズのフロントに入った際、若手選手の指南役(選手担当のディレクター?)としてフェレルを雇っている。


ジョン・スタークス


記録よりも記憶に残るSG。幾つかの大学を経て、最終的にオクラホマ州立大を卒業。ドラフトにはかからず、ドラフト外のFAとしてウォリアーズと契約を結んだ。しかし、僅か1シーズンで解雇され、翌年はCBAやWBLでプレイ。90年にニックスのトライアウトを受けるのであった。このとき、ニックスはスタークスを解雇するつもりだったが、練習中にパトリック・ユーイング相手にダンクを試みた際に負傷し、故障者リストに入ったことで解雇を免れたというのは有名である(リストの選手は解雇できない)。

望まれての獲得ではなかったが、ニックス1年目はまずまずの成績を残し、パット・ライリーがHCに就任した91~92シーズンにブレイク。全82試合に出場し、そのすべてがベンチ・スタートながら平均13.9点をマークした。92~93シーズンにはスターターに定着。93年のブルズとのカンファレンス・ファイナルで、BJ・アームストロングを抜き去って、ジョーダンとホーレス・グラントの上から決めたダンクは、ハイライトのひとつとして有名である。

93~94シーズンは故障で60試合ほどしか出られなかったがキャリアハイの平均19点をマークし、オールスターに初出場。ユーイングに次ぐニックスの顔となり、チームも約20年ぶりのファイナル進出を果たした。しかし、そのファイナル第7戦でスタークスは悪夢を見る。FGが18本中2本(3Pは8本中0本)しか決まらず、戦犯の烙印を押されてしまった。試合後、シャワーを浴びながら号泣し、HCのライリーは「何故、不調のスタークスを使い続けたのか?」と批判された。

ライリーはこのとき、「ダンス・パーティーに行ったら連れて行ってもらった人と踊るものだ」とフォローしたが、スタークスはここからトーンダウンしていく。94~95シーズンは3P成功数217本という(NBA/ABA通じての)新記録を樹立するが(前記録はルーイー・ダンピアーの199本)、前シーズンほどの活躍はなく、HCがドン・ネルソンに代わった95~96シーズンは状況が更に悪化。ネルソンはスタークスよりもシュートの精度が高いヒューバート・ディビスを好んだ。

ネルソンは「うちのいちばんのSGはディビスだ」と公言し、スタークスもネルソンに対して反発。ただ、ネルソンはスタークスだけでなく、ニックスの色々な要素とフィットせず、シーズン半ばに解任。ライリー時代からACを務めていたジェフ・ヴァンガンディがHCに就くとスタークスの立場も落ち着いた。そして翌シーズン、アラン・ヒューストンの加入で6マンに回されると、この役割がスタークスにフィット。見事、6マン・アワードを受賞した。

98年オフにはラトレル・スプリーウェルと交換でクリス・ミルズ、テリー・カミングスとともに古巣ウォリアーズへ移籍。迎えた98~99シーズンは、平均13.8点ながらキャリアで初めてチームのリーディング・スコアラーとなった。99~00シーズン半ばには仇敵ブルズへ放出されるが、4試合プレイしたところで、自ら解雇を志願。「プレイオフ進出の可能性のあるチームでプレイしたい」としていたが、「かつてのライバル、ブルズでプレイしたくなかったのでは?」とも言われた。

00年オフにはジェフ・ホーナセックが引退したジャズと契約を結ぶが、あまり目立たず、翌シーズンを最後に現役を引退した。ネルソンが嫌ったようにシュートの精度が悪く、FG成功率41%、3P成功率34%はお粗末な数字だが、チームを勢いづける爆発力とハートがあった。SGとしてはやや小柄だがフットワークが良く、ピーク時のジョーダンとマッチアップできた(と思う)数少ない選手のひとりである。感情的な選手で、レジー・ミラーらと激しくやり合ったのは有名。

「ニックスのためなら死ねる」というコメントがオーバーに聞こえないほど、90年代のニックスを熱くした選手のひとり。当時、映画監督のスパイク・リーはスタークスのユニフォームを着てコートサイドで応援していたものだった。ニックスを離れた後も、MSGではスタンディング・オベーションでファンから迎えられていた。


ランドルフ・キーズ


88年のドラフト1巡目第22位でキャブス入りしたスウィングマン。2年目のトレード期限にホーネッツに移籍すると、シーズンの残りはベンチ・スタートながら積極的に起用され、2桁の得点アベレージをマークした。90~91シーズンのあとは暫くNBAを離れ、94~95シーズンにレイカーズで復帰。95~96シーズンをバックスでプレイ。このシーズン、1試合だけスターターを務めたのだが、それはブルズが70勝を達成した記念試合であった。オフェンスに難がある。サザン・ミシシッピ大の出身。


モーロン・ウィリー


6フィート4インチ・185ポンドの小柄なPG。ロングビーチ州立大では4年間スターターを務め、88年には同大史上初のNIT進出に貢献している。ドラフトでは2巡目第46位でマブスに入団。ルーキーイヤーが終わると、エクスパンション・ドラフトでマジックに移籍した。2年契約を結ぶが、1年目は40試合、2年目は34試合の出場に終わり、91~92シーズンの開幕直後に解雇。12月にはスパーズに拾われるがここでもすぐ解雇され、シーズンの残りはホークスの一員となった。

ホークスではロスターの事情もあり、41試合中19試合でスターターも務めたが、翌92~93シーズンの前半にまたしても解雇。シーズンの残りは古巣マブスに出戻った。この年のマブスは11勝71敗に終わるなど本当に酷かったのだが、ティム・レグラーとともに途中参加でチームを活気づけた。93~94シーズンは終盤にヒートとマブスでプレイ。94~95シーズンのトレード期限にはスコット・ブルックスとのトレードでロケッツへ放出された(この年の期限に唯一成立したトレード)。

ロケッツでは1試合も出ないうちに解雇され、直後にホークスと契約。これがNBAでの最後となった。引退後はマブスの選手育成に携わったり、マジックなどでACを務めたりしている。


レックス・チャップマン


ケンタッキー大出身のシューター。カレッジ時代、大学側から「アフリカ系アメリカ人の女の子と交際しないように」と言われていたというエピソードは多少有名ですかね。1巡目第8でホーネッツに入り、フランチャイズ史上初めて契約を結んだ選手となった。2年目にはそのプレイと端正なルックスから人気もあがり、地元シャーロットで行われたオールスターではスラムダンク・コンテストに出場した。しかし、ケンドール・ギルの加入などで次第に立場が微妙になってしまう。

91~92シーズンの半ばにはブレッツへトレード。故障のためにこのシーズンは、ブレッツでは1試合しか出られなかったが、以降94~95シーズンまで得点源の一角として活躍した。95~96シーズンはヒートに在籍。故障で出遅れたが、オールスターブレイク以降調子を上げ、プレイオフ進出に貢献した。しかし、そのオフ、ヒートはジュワン・ハワード獲得のためにあっさりチャップマンをリリース。このとき、チャップマンは引退を考えたという。

しかし、サンズのフロントにいたダニー・エインジの説得を受け、開幕3週間ほど前にサンズ入り。このシーズンのサンズは開幕から大きく出遅れるのだが、シーズン後半に猛チャージをかけてプレイオフに出ており、その原動力のひとりがチャップマンだった。シーズン中にHCになったエインジは、スモールボール・システム(G4人を同時に起用)を用い、チャップマンはこれに見事にはまった。ソニックスとの1stラウンド第3戦で決めた3Pのブザービーターはとても印象的である。

シリーズには負けてしまうので、チャップマン自身は「思い出したくない」とのちに振り返っているが、それでもプレイオフの有名なハイライトのひとつである。ただ、このシーズン以降は故障やスランプに泣かされ、00~01シーズンの開幕直後に現役を引退した(プレイしたのは99~00シーズンまで)。白人としてはジャンプ力があり、若い頃はそれを活かしたダンクも魅せていた。また、高く跳んで、空中でバランスを崩しながらも決めてくる3Pはチャップマン独特のものであった。

爆発力もあり、95~96シーズンに、当時圧倒的な強さを誇っていたブルズ相手に10本中9本の3Pを決めて39点をあげた試合は(個人的に)よく覚えている。難点は怪我が多かったことで、12年のキャリアで70試合以上出場できたシーズンが2回しかなかった。健康を維持できればオールスター選手になれくらいのポテンシャルはあったかもしれない。


ウィンストン・ベネット


ドラフト3巡目第64位でキャブスに指名され、翌89年のオフにキャブスと契約。6フィート7インチのSFで、当時のキャブスは純粋なSFがいなかったためか、いきなり34試合でスターターとして起用された。しかし、91~92シーズンの終盤に解雇。直後に10日間契約でヒートに拾われるが、そのオフに解雇され、以降はプレイしていない。ケンタッキー大の出身で、引退後はリック・ピティーノの元でACを務め、ピティーノがセルティックスのHCに就任したときも、ACを務めた。

その後はケンタッキー州立大やミッド・コンチネント大でHCを務めた模様。選手としては、リバウンドは悪くなかった。


チャールズ・スミス


ピッツバーグ大出身のビッグマン。カレッジ時代はCを務め、PFのジェローム・レーンとともに同大を強豪チームに建て直した。86年にはロニー・サイカリーらと世界選手権に出場し、金メダルを獲得している。ドラフトでは1巡目第3位でシクサーズに指名され、すぐにクリッパーズへトレード。ここではダニー・マニングらとチームの中心となり、91~92シーズンは故障で精彩を欠いたが、2年目・3年目には平均20点を超えるなど個人としては素晴らしい4シーズンを過ごした。

92年オフ、マーク・ジャクソンとのトレードでニックスへ移籍。ニックスは前シーズンにSFで良い働きを見せていたゼイビア・マクダニエルと再契約し損ね、スミスにはFの穴を埋めることが期待された。しかし、この新しい役割はスミスを混乱させてしまう。成績は大きくダウンし、ドン・ネルソンがHCに就任した95~96シーズンには完全にベンチ・スタートとなった。そして、そのシーズン半ば、デニス・ロドマンが去ってPFを探していたスパーズへとトレードされた。

やっとPFでプレイできるかと思いきや、今度はチームに馴染めず、プレイオフでは本来Cのウィル・パデューにスターターの座を奪われる始末。翌シーズンは膝の故障で19試合しかプレイできず、そのオフ、静かに現役を引退した。恵まれた体格と技術があり、インサイドの選手としては機動力も高い。成績が下降したとはいえ、ニックスがチャールズ・オークリーと併用したのもわからなくはない。因みにスミスと言えば、忘れられない試合がある。

93年のブルズとのカンファレンス・ファイナル第5戦の終盤、同点を狙ったスミスのゴール下シュートは、ジョーダン、ピッペン、グラントらによって4連続で阻まれ、これが一因となって敗戦。ニックスはこのシリーズ、ホームコート・アドバンテージがあって2勝0敗とリードしていたにもかかわらずこの試合を落とし、次のシカゴで行われた第6戦にも負け、ファイナルに進むことが出来なかった。スミスのシュートが決まっていた、もしくはFTをもらったとしてもニックスが勝った保証はないが・・・


昭和63年ドラフト組④

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僕、組み体操って好きだったんです。小学校時代の運動会のお遊戯?で唯一楽しくて、唯一覚えてるんですよね。

だから今回みたいな事件をきっかけに組み体操そのものがなくならないといいな、と思ってます。




リック・スミッツ


オランダ生まれで、「ダンキン・ダッチマン」と呼ばれたC。7フィート4インチもの身長があり、マリスト大を卒業後、ドラフト1巡目第2位でペイサーズに入団。当初は数年かかる素材と見られていたが、スティーブ・スティパノビッチが引退を強いられるほどの故障をしたことでチャンスが到来。1年目から71試合でスターターとして起用され、オール・ルーキー1stチームに入っている。ただ、スミッツの存在感が大きくなったのは93~94シーズンから。

そのシーズンからHCに就任したラリー・ブラウンの恩恵を受けたのか、レジー・ミラーとともにペイサーズの中心として活躍するようになった。特にプレイオフなど大事な場面で活躍できないことも多かったが、95年のマジックとのカンファレンス・ファイナル第4戦で決めたブザービーターは見事だった(シリーズには負けたが)。98年には初めてオールスターにも出場。このときは、バック・ビハインドでネッツのジェイソン・ウィリアムスに華麗なパスを通し、ダンクをアシストした。

Cらしからぬ柔らかいシュートタッチが魅力で、キャリアハイの平均得点は18点を超える。難点はパワー不足でフィジカル面が弱いことと、怪我が多かったこと。特に足の故障は長くスミッツを苦しめ、キャリア終盤はプレイングタイムが25分程度に制限されていた。00年オフに現役を引退。レイカーズとのファイナルが現役最後の試合となった。かつて、ペイサーズのチーム全員が坊主にしてプレイオフに臨んだことがあったのだが、スミッツの坊主頭は微妙であった(個人的に)。


ミッチ・リッチモンド


「ロック」「キャプテン」などの愛称で親しまれたSGで、スコアラー。キングスの歴史において重要な選手のひとりである。ドラフト1巡目第5位でカンザス州立大からウォリアーズ入り。1年目から高い得点力を示し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。アップテンポでオフェンス重視のドン・ネルソンのスタイルにうまくはまり、翌89年にティム・ハーダウェイが加入すると、クリス・マリンとあわせて「ランTMC」と呼ばれるハイスコアリング・トリオを形成した。

しかし、チームはプレイオフなど肝心なところで勝つことが出来ず、91~92シーズンの開幕直前、リッチモンドはビリー・オーウェンスとのトレードでキングスへ放出されてしまう。オーウェンスは夏のドラフトで1巡目第3位で指名された期待のルーキーで、PF並みのサイズがありながらGも出来るという、ウォリアーズ好みのビッグマン。Gにはサルナス・マーシャローニスという好選手もおり、理に適ったトレードにも見えたが、オーウェンスはリッチモンド・クラスの選手ではなかった。

ウォリアーズが好きだったリッチモンドにとってこのトレードはショックだったようで、キングスに移った後はエースとして孤軍奮闘を強いられることになるが、それと同時にキングスがフランチャイズをサクラメントに移転して以来はじめての本格的なスターともなった。93~98年にはオールスターにも出場しており、95年にフェニックスで開催されたオールスターでは、トム・チェンバース以来となるベンチ・スタートでのMVP受賞を達成。96年にはチームもプレイオフに進出した(サクラメントに移転して以降初)。

96年のアトランタ・オリンピックの代表チーム選考の際は、マイケル・ジョーダンに「ミッチが入るべきだ」と名指しで推薦されるなど周囲からの評価も高かった。しかし、リッチモンドの活躍とは裏腹にチーム力はなかなか上がらず(先述のプレイオフ進出も第8シード)、96~97シーズンからはトレードの噂が噴出。そして98年オフ、遂にクリス・ウェバーとのトレードでウィザーズへの移籍が決定した。これは当初、ウィザーズ側が有利な取引だと思われていたが、現実は真逆となる。

このトレード以降、キングスがリーグ屈指の強豪に成長したのに対し、ウィザーズはまったく上手く機能しなかった。チームとの相性なのか衰えなのか、リッチモンド自身、キングス時代までの輝きはなく、おまけに契約が重すぎるために不良債権化してしまう。00~01シーズンは大半を故障で欠場し、その間にチームは再建モードにシフト。オフにはバイアウトされ、レイカーズと契約を結んだ。この動きはフロントにいたジョーダンの配慮でもあり、リッチモンドは「感謝している」としていた。

レイカーズでは悲願のチャンピオン・リングを手にするが、ローテーションからは外れており、「あまり貢献できなかったけどリングはもらっておくよ」という自身のコメントが表す通りのシーズンであった。優勝を決めたファイナル第4戦のガーベイジタイムでジャンパーを決めたのが、数少ないハイライトだろう。リーグ史上7人しかいない、デビューから10シーズン以上平均21点以上をマークした選手のひとり(引退当時)で、どこからでも点の取ることが出来た。

ジョーダンも「守るのが難しい選手」「オフェンスに関しては僕に似ている」と評している。90年代中盤のキングスはリッチモンド頼みだったと言って過言でなく、背番号2は永久欠番になっている。88年にはソウル・オリンピックにも出場。91年のトレードに関しては、のちにトレードを行ったネルソンが「後悔している」という旨のコメントを残している。


トム・トルバート


アリゾナ大出身で、6フィート7インチのF/C。2巡目第34位でエクスパンション・チームのホーネッツに指名され、パッとしない1年を過ごしたのち、ウォリアーズへ移籍した。ここでは奇策大好きのドン・ネルソンHCにポイント・フォワードとして起用され、89~91年はキャリアのプライムタイムとなった。91~92シーズンは怪我に泣かされるが、92~93シーズンはPFが弱点のマジックでまずまずのプレイを見せている。しかし、これ以降は需要が減り、NBAでは94~95シーズンまでしかプレイしていない。

ポジションの割に上背はないが、機動力がある。引退後は解説者になったとか。


コーリー・ゲインズ


ドラフト3巡目第65位でソニックスに指名された6フィート3インチのG。カレッジ時代はUCLAとロヨラ・メリーマウント大で過ごした。88~89シーズンの終盤にネッツでNBAデビューするが定着は出来ず、その後は他のリーグに行ったりもしながら、幾つものチームを渡り歩いた。94~95シーズン終盤に10日間契約で加入したシクサーズで、終盤の11試合中8試合でスターターを務めたのがハイライト。NBAでは通算80試合しかプレイできなかった。日本でもプレイ経験がある。

引退後はフェニックス・マーキュリーのHCを務めたこともある。


ダニー・マニング


6フィート10インチのFで。父親は元選手のエド・マニング。カンザス大史上最高の選手のひとりとされ、「ダニー&ミラクルズ」と呼ばれた88年のチームは、NCAAチャンピオンに輝いた。88年のソウル・オリンピックでは学生選抜として銅メダルを獲得している。そうした輝かしい経歴を引っ提げて(銅メダルは輝かしくないが)、1巡目第1位でクリッパーズに入団。しかし、1年目は膝の前十字靱帯断裂という重傷を負い、26試合しかプレイできなかった。

翌シーズンには復帰するが、本調子ではなかったのか、ケン・ノーマン、チャールズ・スミスらが良いプレイを見せていたためか、クリッパーズだからか、スターターとベンチを行き来するなど一貫性のない起用をされていた。しかし、91~92シーズン途中にカレッジ時代の師であるラリー・ブラウンがHCに就任するとスターターに定着。主要カテゴリーの多くで自己最高を記録し、翌92~93シーズンには平均22.8点をマーク。オールスターにも選ばれた。

ただ、この頃にはブラウンHCとの関係が微妙になっていた。ブラウンはマニングのディフェンスとリーダーシップ不足を物足りないと考えていたようで、マニングはクリッパーズのチーム状況にも嫌気が差していたようである。そして、93・94年とオールスターに選ばれたにもかかわらず、93~94シーズン半ば、ドミニク・ウィルキンスと交換でホークスへ移籍した。ホークスは、スコアラーとして優秀だがチームを勝利に導けないウィルキンスを見限ったのである。

しかし、マニングはホークスにフィットしなかった。そして、そのオフ、新天地と優勝する機会を求めてサンズと契約を結んだ。ここではベンチからの出場が多かったが、平均17.9点をマークするなど個人成績は維持。ところが、シーズン半ばにまたしても膝を故障してしまい、シーズン中の復帰が絶望となってしまった。翌95~96シーズン途中に復帰するが、故障以前の動きではなく(と思う)、またマイケル・フィンリーの加入もあって存在感は小さくなってしまった。

しかし、そのオフにチャールズ・バークリーがサンズを去ると、貴重なフロントコートのプレイヤーとして貢献。技術と能力の高さで動きをカバーし、97~98シーズンには6マン・アワードを受賞した。そのシーズンの終盤に以前とは反対の膝を故障してしまうが、翌シーズンには復活。衰えは明らかだったが、控えとしては充分な活躍を見せていた。99年オフには2度のトレードを経て、バックスへ移籍。以降はジャズ、マブス、ピストンズで少しずつプレイし、03年に現役を引退した。

最盛期は得点・リバウンドだけでなく、アシスト・ブロック・スティールと平均以上の成績を残せるオールラウンダーで、3つのポジションをこなすことが出来た。故障に泣かされて脇役にシフトした感もあるが、キャラクターとプレイスタイルを考えると、その方が合っていると思う。巧さと賢さがある選手。


ロニー・サイカリー


「スピンドクター」と呼ばれた、レバノンのベイルート出身のC。アラビア語では「رونالد سيقلي」と表記される。ただ、生まれたときにはアメリカの市民権を持っており、アテネのアメリカン・ハイスクールを経て渡米。84年にシラキュース大に入学した。86年にはアメリカのナショナル・チームの一員として金メダルを獲得している。この年のドラフトでは、エクスパンション・チームのヒートに1巡目第9位で指名され、ヒートの初代メンバーとなった。

2年目にはMIPに選出されたり、チーム記録の1試合34リバウンドや8ブロックをマークしたり(ブロックはのちにアロンゾ・モーニングが更新)するなど、グレン・ライスらとともに初期ヒートを牽引した。94年にはウォリアーズへ移籍。ここでは1年目は故障で36試合しか出られず、翌シーズンはフロントを非難してトレードを要求するなど、状況はよくなかった。サイカリーはウォリアーズのフロントは「このチームならマイケル・ジョーダンをCBAの選手とだって交換しかねない」と批判している。

そして、3年目となる96~97シーズンは「このチームでは2度とプレイしない」として、トレーニング・キャンプもプレシーズンも参加を拒否。開幕直後にマジックへのトレードが成立した。マジックはシャックの後釜を探しており、選手としての核とプレイスタイルはまったく違うが、移籍1年目のサイカリーは非常に効果的な働きを見せた。オールスター・クラスではないCの中ならば得点力はトップクラスで、ペニー・ハーダウェイやホーレス・グラントらとチームの新生マジックの中心となった。

しかし、翌シーズンは開幕から安定感を欠き、おまけにチームは相次ぐ主力の故障でメンバーが揃わず不振。サイカリーはトレード期限にジャズに放出されることとなった。しかし、サイカリーはジャズ行きを拒否。そのためトレードは白紙に戻り、その直後にネッツへのトレードが決定した。サイカリーは東海岸を離れたくなかったようで、当時Cが弱点だったジャズのカール・マローンは「あいつは優勝できるチャンスを自ら手放した」と憤慨した。

因みに、ネッツはインサイドの人材が充実しており、サイカリー自身も故障に苦しみ、システムにも馴染めず、出場機会が激減。移籍は失敗であった。98~99シーズンを最後にNBAを去り、スペインなどでも少しプレイしたようだが、まもなく現役を引退した。ドリブルやスピン・ムーブを多用するスタイルで、また、速攻のフィニッシャーになれる脚力も兼ね備えていた。タイミングをずらしたかのようなクイック・リリースのシュートは独特。キャリア終盤は長髪にしていたこともある。


ロッド・ストリックランド


デポール大出身のPG。ドラフト1巡目第19位でニックスに入団し、前年にルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したマーク・ジャクソンのバックアップとしてキャリアをスタートした。1年目はジャクソンと出場機会を分け合いながらもオール・ルーキー2ndチームに選出。しかし、89~90シーズンの半ばにはベテランのモーリス・チークスと交換でスパーズへ放出された。ここではスターターとして起用され、活躍。チームも(トレード後)18勝6敗という好成績をマークした。

ただ、90~91シーズンは足と腕の故障で24試合を休み、そのオフには再契約の交渉が難航。91~92シーズンが始まっても決着はつかず、契約が結ばれたのは年末になってからだった。この年はプレイオフで左腕を骨折してしまい、チームもサンズにスウィープされてしまう。92~93シーズンからはブレイザーズでプレイ。衰えの見られたテリー・ポーターから出場機会を奪うなど活躍していたが、94年にHCに就任したPJ・カーリシモとはソリが合わなかった。

選手たちに大声をあげて怒鳴るカーリシモとは衝突を繰り返し、その関係は95~96シーズンになると悪化。ストリックランドのトレードかカーリシモの解任が囁かれるほどであった。結局、このシーズン中は、そうした内部不和が噂された時期にチームが調子を上げたこともあり、何事もなく進んだが、オフに入って間もなく、ストリックランドはブレッツにトレードされた。因みにこのトレードでブレイザーズはラシード・ウォレスを獲得している。

ウィザーズでの最初の2年は、司令塔として見事なプレイを披露。1年目はチームの数年ぶりのプレイオフ進出に貢献し、2年目はアシスト王に輝いた。しかし、ロックアウトを挟んだ98~99シーズンからはストリックランド自身が衰えたためか、チームが勝てなくなったためか、パフォーマンスが低下。00~01シーズンは開幕から大きく精彩を欠き、個人的理由と称してチームを離れるなど問題行動もあり、シーズン途中にバイアウトでチームを去った。

FAとなったストリックランドは古巣ブレイザーズと契約。当時のブレイザーズは潤沢な資金を使ってスター選手をかき集め、強豪チームをつくろうとしており、ストリックランド獲得もその一貫だった。しかし、GMのボブ・ウィットシットは獲得を望んだが、HCのマイク・ダンリービーは既にPGが2人もいることから獲得に難色を示していたという話がある。そして、ダンリービーの懸念は的中し、チームは機能せず、プレイオフでは1stラウンドで呆気なく姿を消した。

ストリックランドの次なるチームはヒート。01~02シーズンの開幕近くになって契約に至った。当初はベンチ・スタートだったが、スターターを務めていたアンソニー・カーターが不発で、間もなくスターターへ昇格。もう最盛期のプレイではなかったが、すぐに平均以上の出来で重責をこなすあたりはさすがだった。02~03シーズンはウルブズ、03~04シーズンはマジック&ラプターズと渡り歩き、04~05シーズンはロケッツへ。しかし16試合プレイしたところで解雇され、現役を終えた。

得点とアシストを両立できるPGで、かつてスティーブ・フランシスなどが尊敬すると選手として名前を挙げていたこともあった。シュートエリアは狭いが、ゲームメイクの巧さやドライブの鋭さには定評があり、オールNBA2ndチームに一度選出された以外、何かに選ばれるようなことはなかったが、選手間の評価は高かったようだ。難点は若干、素行に問題があること。ブレッツ時代はトレイシー・マレーと喧嘩して、殴って顔に怪我を負わせたこともあった。

また、ラトレル・スプリューエルがカーリシモの首を絞めたとき、多くの選手が慎重なコメントを出す中で「彼の気持ちはわかる。本当にむかつくことがあるんだ」とフォロー?していた。


マイケル・アンダーソン


ドレクセル大史上初めてNBAでプレイした選手。高校時代からスターで、86年には同大をチーム史上初のNCAAトーナメントに導いた。このときはルイビル大(この年の優勝校)に大敗するのだが、ルイビル大にはアンダーソンにとって昔なじみのミルト・ワグナーらがいたという。ドラフトでは3巡目第73位でペイサーズに指名されるがロスターには残れず、88~89シーズンの年明けからスパーズで過ごした。NBAではこれだけしかプレイしなかった。

ただ、90年代前半~中盤にはスペインで華々しい活躍を見せており、トルコやCBA、USBLでもプレイ経験がある。


ラモン・リーヴァス


NBA史上2人目のプエルトリコ人選手(正しくは、この年に2人のプエルトリコ人選手がデビューしている)。プエルトリコでは最高のCのひとりで、母国のプロリーグでは83年から活躍しており、リーヴァスの入ったチームは年々戦力を上げていった。また、84~88年は母国でプレイしながらテンプル大でもプレイ。ここでは名将ジョン・チェイニーHCのもと、4度NCAAトーナメントに進んでいる。こうした経験はリーヴァスの実力と評価を高め、88年、セルティックスと契約を結んだ。

因みにその2週間前、同郷のホセ・オルティーズもジャズと契約を結んでおり、デビューも、リーヴァスの3時間後にオルティーズ・・・といった具合であった。この2人は「プエルトリコの本島で育った史上初のNBA選手」で、それ以外ではかつてアルフレッド・リーという選手もいた(こちらはアメリカ育ち)。セルティックスでは、母国とは違ってPF的な起用をされたが、(それが原因ではないだろうが)ほとんど戦力にならなかった。そしてオフには母国へ帰還。

古巣のクラブチームに戻るとMVPを受賞し、その後は95年までスペインでプレイした。95~96シーズンはチャンピオンに輝いているのだが、優勝を決めた試合でリーヴァスは32点・15リバウンドと大活躍を見せ、MVPに選ばれている。国際大会の経験が豊富で、マラガで行われた86年の世界選手権、ソウル・オリンピック、90年にブエノスアイレスで行われた世界選手権、92年のバルセロナ・オリンピック、96年のアトランタ・オリンピックで代表としてプレイしている。

平成3年ドラフト組①

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Dir en greyを聴くと気持ちが落ち着く今日この頃。

僕は「欅」って書けます。



スタンリー・ロバーツ


7フィート・285ポンドの巨漢C。1巡目第23位でマジックに入団した。LSUの出身だが学業上の問題などで同大では89~90シーズンしかプレイしておらず、前シーズンはスペインでプレイした。マジックでの1年目は故障とファウル・トラブルに苦しみながらもまずまずの成績を残すが、そのオフ、LSUの後輩であるシャックのマジック入りが決まると、追い出されるようにクリッパーズへ移籍した。移籍1年目はスターティングCとして及第点の活躍を見せるが、これがキャリアのピーク。

93~94シーズンはアキレス腱の怪我などで14試合しか出られず、翌シーズンは全休。96~97シーズンも18試合しか出られなかった。ただ、97年オフにウルブズへトレードされると、このときはディーン・ギャレットからポジションを奪うだけの力はあることを示している。98~99シーズンはロケッツで6試合だけプレイ。99~00シーズンはシクサーズに在籍するが、開幕直後にドラッグの規定違反が発覚し、リーグから追放されてしまった。

肉体的にも精神的にも自分をコントロールできずに短命なキャリアとなったが、実は技術も兼ね備えた選手。シャックも「対戦して手強かった相手」にロバーツの名前を挙げていたことがある。


ランディ・ブラウン


ディフェンシブなG。ニューメキシコ州立大の出身で、ドラフト2巡目第31位でキングスに入った。4シーズンを過ごした後はブルズへ移籍。1年目はシステムに馴染めず、キャリア最低のシーズンを過ごしたが、移籍2年目からはローテーション入り。ベンチ・スタートでチームを活気づけた。98年に王朝が崩壊した後もチームに残った数少ないベテランで、2年間再建に付き合った。00年には(恐らく)そうしたブルズでの経験を買われ、セルティックスと契約。

シーズン序盤は流れを変えるベテランとして貢献したが、シーズン途中でHCが交代したり、スターティングPGのケニー・アンダーソンが長期離脱したりするなどチームが安定せず、01~02シーズンのトレード期限にジョー・ジョンソンとともにサンズへと放出されてしまった。翌02~03シーズンを最後に現役を引退。キャリア終盤は故障に悩まされることが多かった。ディフェンスで有名な選手だが、オールスター・クラスのGにはあまり通じない。武器はスピードと屈強な体で、ジャンプ力もあった。

ムードメイカーでもあり、ブルズ時代、試合前のハドルで「What time is it now?」と叫ぶのはブラウンの役目だった(チームメイトが「It's game time」と応える)。難点はシュート全般とボール・ハンドリングとゲームメイク。


トレイシー・ムーア


6フィート4インチ・200ポンドのSG。タルサ大卒業後はドラフトにかからず、91~92シーズン途中に10日間契約でマブスに入団。絶不調のチームでチャンスを掴み、翌シーズンまで生き残った。93~94シーズンは開幕時にピストンズと契約を結ぶが、すぐに解雇。その後はしばらくCBAでプレイした。95~96シーズンの終盤には故障者が続出したロケッツに拾われ、そこで平均11.4点をマークするなど活躍を見せ、翌シーズンの契約も勝ち取るが、シーズン途中に解雇されている。


クリス・ギャトリング


サウスポーのジャーニーマンPF。オールド・ドミニオン大出身で、90年の世界選手権では銅メダルを獲得。ドラフト1巡目第16位でウォリアーズに入団した。ここでは主にバックアップながら年々成長を見せ、95年には60%を超えるFG成功率でリーグ1位に輝き、平均13.7点をマークするまでになった。しかし、ここからジャーニーマン化が始まる。まず、95~96シーズン途中にはティム・ハーダウェイとともにヒートへ移籍。ベンチの得点源として貢献した。

しかし、オフにはあっさりリリースされ、マブスと契約。ここではベンチ・スタートながらチームのリーディング・スコアラーとなるなど大活躍を見せ、なんとオールスター出場を果たした(スターターではない選手が選ばれるのは異例)。ところが、トレード期限にはネッツに放出されてしまう。怪我のため、このシーズンはトレード以降3試合しかプレイできなかったが、翌シーズンは6マンとして効果的な働きを見せた。プレイオフではブルズのピッペンやロドマンらを苦しめた。

しかし、98~99シーズンは主力の故障などからチームが機能しなくなり、内部不和が勃発。シーズン途中に△トレードでバックスへ移ると、このときはジョージ・カールHCの構想から外れ、オフにはマジックへ放出された。ここでは6マンとして持ち前の得点力の高さを発揮するが、シーズン途中にナゲッツへトレード。その後は00~01シーズンをキャブス、01~02シーズンを古巣ヒートで過ごした。ギャトリングはこうした度重なるトレードに嫌気が差し、NBAから離れることを決意。

この後もロシアなどで現役生活は続けたようだが、NBAには戻らなかった。6フィート10インチのサイズがあるが、ゴールに正対しても背を向けてもプレイできる器用な選手。サウスポーと手の長さを活かした1対1は意外と強力で、抑えるのが難しかった。ディフェンスはややお粗末。ヘッドバンドがトレードマークで、真ん中にラインの入ったモノや2色で染めたものを着用するなどお洒落な一面もあった。突然、顎髭だけを伸ばしていたこともある。


ダグ・スミス


マブス史上最悪の時期に主力だったF/C。1巡目第6位でマブスに指名され、即戦力となるが、有望な若手が集まって戦力が上向くに連れて出場機会は減少。95年のエクスパンション・ドラフトではプロテクトされず、ラプターズに指名されるがオフのうちにひっそりと解雇された。95~96シーズンはセルティックスで17試合だけプレイ。98~99シーズンの開幕直後にピストンズと10日間契約を結ぶが、1試合も出ないまま解雇されている。ミズーリ大出身で背番号34は同大の永久欠番。

90年の世界選手権ではアメリカ代表として銅メダルを獲得している。


テレル・ブランドン


玄人好みのオールスターPG。オレゴン大出身でドラフト1巡目第11位でキャブスに入団。当時はマーク・プライスがいたためになかなか出番を得られなかったが、プライスの欠場時には代役を務められる力があることを示しており、94~95シーズンにはそのプライスがシーズンの約半分を欠場したことでプチブレイク。フロントはそのオフにプライスを放出し、95~96シーズンはブランドンがエースとなった。このシーズンと翌シーズンはオールスターに選ばれている(97年は地元クリーブランド開催)。

97年オフにはショーン・ケンプ、ビン・ベイカーが絡んだ△トレードでバックスへ移籍。98~99シーズン途中にはステフォン・マーブリー、サム・キャセールを絡めた△トレードで更にウルブズへトレードされた。ここではそれまで以上にアシストを増やし、個人スタッツ上では得点とアシストを見事に両立していたが、肝心のケビン・ガーネットとの相性がマーブリーに比べると今ひとつ。真面目なブランドンより、創造性のあるマーブリーの方がチームに合っているように見えた。

それでもガーネットとチームを牽引していたが、02年2月13日に故障。02~03シーズンは全休し、03年オフにはホークスへトレード。怪我の様態はかなり悪く、この時点で復帰が難しいことは明らかだったが、ブランドンには大型契約が残っており、ホークスはサラリー・キャップに空きをつくるために受け入れた動きであった。そして、03~04シーズン途中(04年2月17日)に解雇され、約1ヶ月後の3月9日、正式に現役引退を表明した。

愛称は「ティー・ビー」。6フィートに満たない小柄なPGだが、ムダのない堅実なスタイルで、安定感があった。シュートは正確だが、ジャンプショット主体で点を稼ぐタイプで、3Pはあまり打たない。あと6点で通算1万点だった。


マーク・ランドール


6フィート8インチのSF。1巡目第26位で初優勝したばかりのブルズに入団する幸運?に恵まれるが、開幕から2ヶ月ほどで解雇。残りのシーズンはドアマットに沈むウルブズでプレイした。翌シーズンは開幕直後に地味トレードでピストンズへ移籍し、続く2シーズンはナゲッツで過ごしている。カンザス大出身で、同大が91年のファイナル4に進んだときのメンバー。90年の世界選手権では、代表チーム入りして銅メダルを獲得している。


エリック・マードック


スティールの名手。プロビデンス大出身のPGで、カレッジ時代の通算376スティールはNCAA記録で、「ザ・マン・オブ・スティール」と呼ばれた。ドラフトでは1巡目第21位でジャズに指名されるが、ジョン・ストックトンのバックアップではあまり出番がなく、オフにバックスへトレード。これがキャリアの転機となった。若返っての再建を進めようとしていたバックスはマードックにとって適所で、スターティングPGとしてプレイ。MIPの候補に名を連ねるほどの成長を見せた。

しかし、94~95シーズンに入ると故障もあってか、リー・メイベリーにスターターの座を奪われるようになり、翌シーズンの開幕直後にはグリスリーズへとトレードされた。ここではグレッグ・アンソニーのバックアップ止まりで、翌シーズンはナゲッツで開幕を迎えるも、12試合出ただけで解雇。イタリアへ渡った。97~98シーズンはヒートでティム・ハーダウェイのバックアップとしてプレイ。インパクトは薄かったが、全82試合に出場したのは評価できる。

続く2シーズンはネッツ、クリッパーズと渡り、00年オフにはマブスと契約。その直後にピストンズへ放出されるが、すぐに解雇、そのままキャリアを終えた。アウトサイド・シュートは今ひとつだが、切れ味鋭いドライブが持ち味。目を怪我したことがあり、グラスをつけてプレイしていたこともある。

平成3年ドラフト組②

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初めて観て、初めておもしろいと思った洋画が「ホームアローン」でした。

最近観ておもしろかった洋画は「グランドブダペスト・ホテル」です。



エリオット・ペリー


ハイソックスがトレードマークでサウスポーのPG。メンフィス州立大(現メンフィス大)出身で、ドラフト2巡目第38位でクリッパーズ入り。1年目はクリッパーズとホーネッツを渡り歩いた。92~93シーズンはCBAで過ごし、93~94シーズン途中にサンズと契約。翌シーズンにケビン・ジョンソンが故障で長期欠場を強いられると出場機会が拡大し、活躍を見せた。このときは(本数は少ないが)FG成功率50%以上、3P成功率40%以上、FT成功率80%以上をマークし、MIPの投票でも上位に食い込んでいる。

95~96シーズンになると「精彩を欠くKJよりペリーの方がいいのでは?」といった声が挙がるほど、当時の評価は高かった。96年にはバックスへ移籍。ここでも安定したプレイを見せるが、98年にHCがクリス・フォードからジョージ・カールに代わると出場機会が激減。シーズン半ばの△トレードの数合わせで、ネッツへ放出された。これ以降は以前のような出場機会を得ることはなく、00~01シーズンをマジックとサンズ、01~02シーズンをグリズリーズと渡り歩いた。

愛称はそのまま「ソックス」。正確なジャンプシュートが武器である。大学4年次にペニー・ハーダウェイとチームメイトになるはずだったが、ペニーの学業成績が悪かったためにそれは叶わなかった。ただ、仲は良いようで、ペニーがNBAでの友人に名前を挙げていたことがある。


アイザック・オースティン


愛称は「アイク」。6フィート10インチ・255ポンドの巨漢Cで、アリゾナ州立大出身。ドラフト2巡目第48でジャズに入団し、2シーズン過ごすが戦力にならず、93~94シーズンは弱小シクサーズでも出用機械を得られなかった。94~96年はトルコでプレイし、96年オフにヒートと契約。このとき、オースティンはオーバーウェイトだったが、パット・ライリーは「体重を落としたら戦力になる」と判断し、「体を絞ったら契約を結ぶ」と告げたとか。

ライリーの読みは当たり、オースティンはすぐに強力なバックアップとして台頭。MIPに選出された。翌97~98シーズンは開幕からアロンゾ・モーニングが欠場しのに伴い、スターティングCとして大活躍。評価は上がりまくりであった。しかし、ライリーはこの活躍によって市場価値の上がったオースティンとは再契約できないと判断。シーズン半ばにブレント・バリーと交換でクリッパーズに放出されてしまう。クリッパーズではキャリア最高のスタッツをマーク。そして、オフにはマジックと契約を結んだ。

このときはペニー・ハーダウェイの勧誘があったという。しかし、オースティンはコンディショニング不足からか不振。99年オフにウィザーズへトレードされるとパフォーマンスは更に低下し、シーズン途中にはジャハイディ・ホワイトにスターターの座を奪われてしまった。00~02年はグリズリーズで過ごした。コンディションが整っていたときはパワーとスピードを兼ね備えた見応えのある選手だった。ジャズ時代にチームメイトだったカール・マローンと親交がある。


マーティ・コンロン


バスケットを始めたのは高校から。プロビデンス大出身で、ここではファイナル4を経験している。ドラフトにはかからず、ドラフト外ルーキーとしてソニックスでデビュー。2年目はキングス、3年目はホーネッツとブレッツで過ごした。転機となったのは94年のバックス移籍。ここではインサイドのバックアップとしてポジションを確保し、意外なシュートの巧さとリバウンドの強さでチームに貢献した。96~97シーズンはセルティックスでもまずまずの活躍を見せている。

しかし、これ以降は再び12番目の選手に降格。97~99シーズンをヒートでプレイし、99~00シーズンにはクリッパーズと契約を結ぶが、3試合プレイした後に「年齢(当時32歳)のためにチームを去ること」を要求され、チームを離脱した。NBAを離れた後はヨーロッパで現役を続けた模様。やや不格好なフォームだがシュートは精度が高く、FT成功率は80%を超える。弱小チームでしか存在感を見せられなかったが、悪くないロールプレイヤーだと思う。


スティーブ・スミス


1巡目第5位でヒートに入団。6フィート7インチのサイズがありながらPGもこなすことが出来、当時はマジック・ジョンソンⅡ世とも言われていたとか。ドリーム・チームⅡのメンバーになったときは、HCのドン・ネルソンに高く評価されていたようである。そして、94~95シーズンの開幕直後にホークスへトレード。ここではムーキー・ブレイロックというPGがいたためかSGに専念し、正確なアウトサイド・シュートを武器にリーディング・スコアラーとして活躍した。98年にはオールスターにも選ばれている。

しかし、チームはプレイオフのカンファレンス・セミファイナルより上に行けず、99年オフに解体。スミスはブレイザーズへ放出された。当時のブレイザーズは金に糸目を付けずにスター選手をかき集めており、スミスの獲得もその一貫。スコッティ・ピッペン、ラシード・ウォレスといったメンバーと強力なスターティング・ラインナップを形成した。00年にはシドニー・オリンピックにも出場している。しかし、翌年にはボンジ・ウェルズにポジションを奪われ、01年オフ、スパーズへとトレードされてしまう。

01~02シーズンはリーグ首位の3P成功率を記録。しかし、本数は少なく、貢献度も高かったとは言えず、翌シーズンはマニュ・ジノビリにスターターの座を奪われてベンチへ。シーズン終盤以降はスティーブン・ジャクソンの台頭もあってか、起用されるのも稀であった。スパーズはこのシーズン優勝するのだが、スミスの貢献はほぼなかった。03~04シーズンをホーネッツ、04~05シーズンをボブキャッツと古巣ヒートで過ごして現役を引退した。

ホークス時代は良いシューターだったが、ブレイザーズに移籍した頃からスピードが落ち、相手にシャットアウトされる場面も目に付いた。98年にはJウォーター・ケネディ・シップ・アワード、02年にはスポーツマンシップ・アワードを受賞している。


ザン・タバック


クロアチア出身のC。プロキャリアのスタートは85年であり、まだ15歳のときであった。地元クロアチアのチームでプレイしていたタバックはのちにトニー・クーコッチ、ディノ・ラジャらとチームメイトになり、チームを3年連続のヨーロッパ・チャンピオンに導いた。ラジャが89年、クーコッチが90年のドラフト2巡目で指名されたのに続き、この年のドラフト2巡目第51位でロケッツに指名された。しかし、やはりすぐにはNBAに来ず、クラブチーム残留を選択。92~94年頃はイタリアで活躍を見せていた。

NBAデビューは94年。しかし、ロケッツではほとんど起用されず、1年後のエクスパンション・ドラフトでラプターズへ移籍した。95~96シーズンはまずまずの働きを見せたが、翌シーズンは故障で13試合しか出られず、97~98シーズンのトレード期限にセルティックスへトレード。ロックアウトで短縮された98~99シーズンはトルコでプレイした。99~01年はペイサーズでプレイ。戦力にはならなかったが、00年にはファイナル進出を経験している。

01年にはヨーロッパ帰還を選択。以降は、スペインなどでプレイした。自身が戦力になる環境に戻りたかったようである。NBA史上初めて異なる2チームでファイナルに進出した外国人選手。ペリメーターでもプレイできるが、NBAのCとしてはパワーも俊敏さもなかった。92年のバルセロナ・オリンピックではクーコッチ、ラジャ、ドラゼン・ペトロビッチらと銀メダルを獲得している。


ドナルド・ホッジ


ドラフト2巡目第33位で低迷期のマブスに入団。7フィート・230ポンドという巨体が魅力。1年目は51試合の出場ながらシーズン終盤にはスターターとして起用されるなど、選手層が薄いチーム事情もあったと思われるが、予想外の健闘を見せた。しかし、これが選手としてのピークで、翌年以降は出場機会・成績等すべて下降。95~96シーズンの途中にようやく解雇され、その直後にホーネッツに拾われるが、ここではすぐに解雇。NBAでのキャリアを終えた。テンプル大の出身。


デビッド・ベノワ


身体能力の高いSF。ジュニア・カレッジを経て、88~90年をアラバマ大でプレイ。しかし、90年のドラフトにはかからず、スペインのマラガでプロデビューし、1年後の91年にジャズと契約を結んだ。当時のジャズには珍しかったアスレチック能力の高さで貢献。3年目にはスターターに定着し、キャリアハイの平均10.4点をマークした。しかし、翌95~96シーズンは同ポジションでクリス・モリスやブライオン・ラッセルが台頭。96年オフにはネッツと契約を結んだ。

ところが、その96~97シーズンを故障で全休すると、翌シーズン復帰したときには居場所がなく、シーズン半ばにマジックへトレード。98年オフにNBAがロックアウトに突入するとアメリカを離れ、イスラエルのマッカビ・テル・アビブでプレイすることを選択した。00~01シーズンに古巣ジャズに復帰するが、かつてのようにチームに貢献することは出来ず、出場機会もあまり多くはなかった。その後は中国や日本でもプレイしている。

若い頃はバネを活かしたダンクが見所のひとつで、スラムダンク・コンテストに出場したこともある。また、ジャンプシュートのタッチも悪くなく、特にFTは確実であった。


ダグ・オーバートン


ラサール大出身のジャーニーマンPG。ドラフト2巡目第40位でピストンズに指名され、オフの間にブレッツにトレードされた。ブレッツで3シーズン過ごすのだが、これが同一チームでの最長記録。以降はナゲッツ、シクサーズ、マジック、ネッツ、シクサーズ、セルティックス、ホーネッツ、ネッツ、クリッパーズ、ネッツ、クリッパーズと渡り歩いた。シクサーズに2回、ネッツに3回、クリッパーズに2回在籍している。あちこち渡り歩いたが、強豪チームでプレイする縁には恵まれなかった。

平成3年ドラフト組③

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得意ではなかったけど好きだったのがドッジボール。

休み時間は陣地を取るのに必死でした。

ゲコゲコ体制とかパスカット隊とか・・・懐かしい




ルーク・ロングリー


7フィート2インチのCで、NBA初のオーストラリア人選手。同国史上最高の選手のひとりであり、地元ではマイケル・ジョーダンを凌ぐ人気だったという。ドラフト1巡目第7位でニューメキシコ大からウルブズ入り。Cらしからぬパスの巧さとオーストラリア人気質?ともいえる自由な性格から、プロ入り時にはビル・ウォルトンと比較する声もあったようだが、その期待に応えることはなく、低迷するチームで冴えない2シーズンを過ごした後、93~94シーズン半ばにブルズへトレードされた。

しかし、ブルズではフィル・ジャクソンHCが、ロングリーは△オフェンスにフィットするとして積極的に器用。94~95シーズンのプレイオフではウィル・パデューからスターターの座を奪って見せた。翌95~96シーズンからスターターに定着。ジョーダンらに叱責される姿もしばしば見られたが、リーグ史上初の70勝を達成した試合でチームを牽引する活躍を見せたり、ソニックスとのファイナルではアービン・ジョンソンを手玉に取ったり、と着実に成長を見せた。

3連覇を達成した97~98シーズンは、開幕からスコッティ・ピッペンが欠場していたこともあり、初めて2桁の得点アベレージをマークしている。ただ、98年オフにブルズが王朝の解体に伴ってサンズへトレードされてからはパッとしないキャリアへ逆戻り。主にスターティングCとして起用されたがサンズには馴染まず、00年オフにパトリック・ユーイングが絡んだ大型◇トレードでニックスへ移籍した。ここでは膝の故障に苦しみ、57試合を欠場。そしてシーズン終了後に現役を引退した。

慢性的な膝の故障に加え、96年にはサーフィンで肩を負傷するなど怪我が多く、母国のナショナル・チームでプレイすることは滅多になかった。パスとミドルシュートが得意な、△オフェンスのためのようなC。サイズを活かしたフックショットは左右どちらの手でも決められる。膝が悪かったためかスピードがないこと、不用意なターンオーバーやファウルが多いこと、フィジカルなゲームに弱いことが難点。ただ、ディフェンスはそれほど悪くなかった。


リチャード・デュマス


ドラッグでキャリアを台無しにした選手。オクラホマ州立大出身のSFで、ドラフト2巡目第46位でサンズに指名されるが、すぐにリーグのドラッグ規定に違反して1年間のサスペンションを喰らってしまう。しかし、翌92~93シーズン前半にデビューすると、48試合中32試合でスターターとして起用されるなど良い働きを見せ、62勝20敗という好成績とファイナル進出に貢献。ファイナルでは、チームはブルズに敗れるが、デュマスは大健闘で、特に第5戦のプレイは素晴らしかった。

しかし、翌シーズンはドラッグの規定違反で再び全休。94~95シーズンに復帰するが出場したのは僅か15試合で、オフにはシクサーズへ移籍した。当時のシクサーズは、ドラッグ中毒から立ち直り、その手の活動に力を入れているジョン・ルーカスがHCを務めており、この動きにはルーカスの存在が影響していたと思われる。しかし、デュマスはあまりいいところがなく、翌シーズン以降はヨーロッパなどでキャリアを続けた。03年に現役引退。

シュートエリアは広くないがオフェンスの精度は高く、先述の通り、93年のファイナルではブルズ相手に好プレイを見せた。


ラァブラッドフォード・スミス


ドラフト1巡目第19位でブレッツ入りしたPG。ルイビル大の出身で、2シーズン半をブレッツ、半シーズンをキングスでプレイした。92~93シーズンのブルズとの2連戦のエピソードが有名で、最初の試合でキャリアハイの37点をマークし、不調だったマイケル・ジョーダンを「ナイス・ゲーム、マイク!」と挑発。ジョーダンは試合後にそれをメディアに明かし、翌日の試合で37点以上とることを宣言。2戦目のジョーダンは最初からとばし、前半だけで36点をマーク(トータル47点)。格の違いを見せつけられた。


リック・フォックス


カナダ出身。バハマ人の父とイタリア系カナダ人の母の間に生まれた。名門ノースカロライナ大の出身で、90年のNCAAトーナメントで、ランキング1位だったオクラホマ大を破るブザービーターを決めたのが最初のハイライトかもしれない。ドラフトでは1巡目第24位でセルティックスに入団。キャリア晩年のラリー・バード、ケビン・マクヘイルらのチームメイトとしてデビューした。95年にはスターターに定着し、97年には歴史的ライバルであるレイカーズへ移籍。

移籍2年目にコービー・ブライアントの急成長やグレン・ライスの加入などで存在が微妙になりかけたが、99~00シーズンにフィル・ジャクソンHCの元でロールプレイヤーとして再起。ベンチ・スタートではあったがディフェンスの良さとチーム・ケミストリーの観点からジャクソンの信頼は厚く、翌シーズンにはライスの移籍に伴ってスターターに復帰。3連覇に貢献した。しかし、03年のプレイオフ1stラウンドで足を負傷し、結果的にはこれがキャリアを縮めることになった。

03~04シーズンも半分以上を休み、04年オフ、古巣セルティックスへのトレードが決まった直後に現役を引退した。セルティックスでは、バード以来、ルーキーで開幕戦でスターターを務めた選手で、94年のトロントで行われた世界選手権ではカナダ代表としてプレイしている。ロールプレイヤーのお手本。ディフェンスが素晴らしく、また、シューターではないが勝負所でシュートを決める力もあった。00~01シーズン終盤には長髪にしていたこともある。

一時期、女優のヴァネッサ・ウィリアムスと結婚していた。


ビクター・アレキサンダー


アイオワ州立大の出身で、ドラフト1巡目第17位でウォリアーズに入団。6フィート9インチの動けるCで、最初の4シーズン中2シーズンで2桁の得点アベレージを残すなど、ドン・ネルソン体制のチームでわりと積極的に起用されていた。95年オフにはラプターズへトレードされ、更にキャブスへトレードされるが、ここでアレキサンダー自身が健康診断に引っ掛かってしまい、キャブス行きが破談。結局、故障者リストに入ったままラプターズの初代メンバーとなった。

このシーズンは一度もプレイせず、トレード期限にニックスへ放出されるが解雇され、翌シーズン以降はギリシャなどでキャリアを続けた。01~02シーズンに何故かピストンズに拾われ、15試合だけプレイしている。


チャールズ・トーマス


6フィート3インチ・175ポンドと軽量なG。ジョージ・ガービンの母校であるイースタン・ミシガン大を経て、ドラフト外でピストンズ入り。36試合で起用されたが、ほぼガーベイジタイムのみの出場に留まった。これ以降はオーストラリアなどでプレイ。00~01シーズンには同国リーグで優勝を経験している。双子の兄弟であるカール・トーマスとは同じカレッジで4年間ともに過ごし、体格もほぼ同じで、やはりドラフト外でNBAデビューに至っている。


カール・トーマス


その双子のもう片方。体格はチャールズとほぼ同じである。ドラフト外でキングスと契約を結び、開幕2戦目にデビュー。いきなり12点を稼ぐがすぐに解雇され、次にNBAでプレイするのは96~97シーズンとなった。このときは層の薄かったキャブスでプレイ。97~98シーズンにウォリアーズ、マジック、キャブスと3チームを渡り歩いたのがNBAでの見納め。引退後は母校イースタン・ミシガン大でコーチ業に勤しんでいるとか。


ロドニー・モンロー


ドラフト2巡目第30位でホークス入り。6フィート3インチとアンダーサイズなスウィングマンで、NBAでは91~92シーズンしかプレイできなかった。ただ、ノースカロライナ州立大時代は優秀なスコアラーで、在学時の通算得点は、あのデビッド・トンプソンが保持していた同大の記録を破っている。当時はクリス・コーチアーニ(この年のドラフト2巡目でマジック入り)とチームメイトで、モンローとのコンビは「ファイア&アイス」と呼ばれていた。

平成3年ドラフト組④

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数日前、フェイスブックで、中学校時代に同じ学年だった人からお友だち申請がきました。一度、僕が悪乗りして怒らせてしまい、謝ったことがあるひとでした。

中学以来まったく接点はなく、フェイスブックも「なっただけ」のお友だちなんですが、一瞬で当時のことを思い出しました。


喧嘩や理由があっての悪口は後悔しないけど、悪ふざけや悪乗りは今更ながら改めて申し訳ないし、恥ずかしいです。



ラリー・ジョンソン


通称LJ。ペリカンズがまだシャーロット・ホーネッツだった頃のスター。6フィート7インチのPFでUNLV出身。同大が90年のNCAAチャンピオンになったときの中心選手である。ドラフトでは1巡目第1位でホーネッツに入団。ルーキーながらオールスターに選ばれたのはディケンベ・ムトンボだけだったが、新人王はLJが受賞した。2年目にはアロンゾ・モーニングが加入し、若く才能溢れるチームとなったホーネッツは「フューチャーブルズ」とも呼ばれた。

LJも2年目にはオールスターに選ばれ、3年目を迎える前には長期高額契約を締結。ドリーム・チームⅡのメンバーにも入り、キャリアは順風満帆かに見えた。しかし、93~94シーズン中に椎間板ヘルニアを患うと、慢性的な背中の痛みに悩まされるようになり、それまでの売りだった、高い身体能力を活かしたプレイはあまり見られなくなってしまった。のちに「身体能力に頼らずプレイすることがいかに難しいか、を故障で学んだよ」と語っている。

94~96年の2シーズンはまだチームの中心的役割を担っていたが、96年にアンソニー・メイスンとのトレードでニックスへ移籍するとスタッツ・パフォーマンスは大きくダウン。PFにチャールズ・オークリーがいたためSFに固定された、パトリック・ユーイングやアラン・ヒューストンなど他にも中心となる選手がいた、など事情は伺えるが、巨額の契約と釣り合っているとは言えず、サラリー泥棒の代名詞となってしまった(そうでもない?)。

ニックスでの数少ないハイライトは99年プレイオフ。ニックスは史上初めての「第8シードからのファイナル進出」というアップセットを起こし、そのときチームの精神的支柱となったのがLJだった。シュートを決めた後に両手で大きく「L」の字をつくっていたのもこの頃。ペイサーズとのカンファレンス・ファイナルで決めた4点プレイはプレイオフ史に残るだろう。ただ、この頃は以前にも増して腰の痛みに悩まされており、コルセットやサポーターをつけてプレイする痛々しい姿がしばしば見られた。

そして、01年オフ、LJは早すぎる現役引退を表明した。故障前はパワーとスピードを兼ね備えた豪快なプレイが印象的。故障以降も、体の幅を活かしてスピンを多用するなど、その片鱗は見られた。怪我をしてからアウトサイド・シュートが増えたが、精度は今ひとつ。身体能力に頼らなくなってからはスター性がなくなったかもしれない。ホーネッツ時代にチームメイトだったモーニングとは仲が悪く、ニックス時代には乱闘騒ぎになったこともあった。スコッティ・ピッペンとも不仲だったかな。愛称は「グランマ」。


デメトリウス・キャリプ


ミシガン大出身のPGで、同大が89年のNCAAチャンピオンになったときのコアメンバー。当時のチームにはグレン・ライス、ロイ・ボートと、テリー・ミルズ、ルミール・ロビンソンら将来のNBA選手たちが揃っていた。また、90~91シーズンにはエリック・ライリーらとチームを牽引している。ただ、ドラフトにはかからず、NBAでは91~92シーズンに7試合だけレイカーズでプレイしたに留まった。「ブルーチップス」と「エディ」の両方に出演している。


ロバート・パック


個人能力の高いPG。愛称は「パックマン」。ドラフト外でブレイザーズに入団し、ファイナルに進む強豪チームにおいて、テリー・ポーターらのバックアップとして健闘を見せた。オフにはナゲッツへトレードされるが、ここでは6マン的存在で、94年プレイオフ1stラウンドのアップセットにおいても活躍を見せている。95~96シーズンの開幕直前にはブレッツへ移籍。ここでは怪我で31試合しか出られなかったが、個人成績ではキャリア最高をマークした。

しかし、96年オフにネッツと契約を結ぶと、それほどのインパクトを残せず、シーズン中にはマブスへトレード。ここには00年まで在籍したが怪我に泣かされ続け、一度も54試合以上プレイすることはなかった。00年にはセルティックス経由でナゲッツに復帰。以降は、ウルブズ、ホーネッツ、ネッツで1シーズンずつ過ごし、ヨーロッパへ渡った。05年には一度ラプターズと契約を結ぶが、開幕前に解雇されている。引退後はNBAでACなどを務めている。

とにかく怪我が多かったが、身体能力が高く、スピードや跳躍力には目を見張るものがあった。爆発力もあり、6マンに向いているかもしれない。ダンクも魅力のひとつで、94年のコンテストではアイザイア・ライダーに次ぐ2位になっている。


ブライアン・ハワード


ノースカロライナ州立大出身のSFで、91~92シーズンの半ばすぎに10日間契約でマブスに加入。戦力になる純粋なSFがいなかったためか幸運にも出場機会を確保し、翌シーズンも68試合中22試合でスターターを務めるなど、積極的に起用された。但し、そのシーズンのマブスは11勝71敗という悲惨な成績に終わっており、弱小チームにいたが故の活躍?ではあるのだが。93年以降はトルコやフランスなどでプレイしている。


ケビン・ブルックス


アメリカとオーストラリアの二重国籍を持つSF。ルイジアナ大ラファイエット校(当時はサザン・ルイジアナ大)から、1巡目第18位でバックスに指名され、直後にナゲッツへトレード。93~94シーズンまで3シーズンを過ごした。NBAでは2年目のに平均10.4分起用されたのがピークとなるなど見せ場がなかったが、90年代終盤にはオーストラリアのNBLで大活躍。98年にはグランド・ファイナルMVPという賞を受賞している。引退後もオーストラリアやニュージーランドでコーチなどを務めている。


グレッグ・アンソニー


血の気の多いバックアップPG。サウスポー。カレッジは、最初はポートランド大に進むが、2年生になるときにUNLVに編入。名将ジェリー・ターカニアンHCのもと、ラリー・ジョンソン、ステイシー・オーグモンらとともにチームを90年のNCAAチャンピオンに導いた。ドラフトでは1巡目第12位でニックスに入団。因みにLJとオーグモンも同じく1巡目で指名されており、LJはホーネッツで、オーグモンはホークスで、アンソニーはニックスで、みんなそれぞれ背番号2を選んでいる。

パット・ライリー政権下のディフェンシブなニックスを象徴する選手のひとりで、アンソニーのディフェンスはライリーからも認められていたようである。ニックス時代のハイライトは、93年3月23日のサンズ戦。アンソニーは足の怪我で私服のままベンチにいたのだが、ケビン・ジョンソンとドック・リバースの乱闘に参加。そしてKJを殴りつけ、5試合の出場停止処分と罰金を喰らった。因みにサンズとKJはこのとき、「シーズンの残りをすべて出場停止にすべき」と主張している。

95年にはエクスパンション・ドラフトでグリズリーズへ移籍。以降、2シーズンはキャリアで初めてフルタイムのスターティングPGとしてプレイした。ソニックスでの1シーズンを挟み、98~01年はブレイザーズに在籍。当時のブレイザーズは金にモノを言わせたチーム作りで層が厚かったが、スターターのデイモン・ストウダマイヤーはムラがあってディフェンスもまずく、試合の大事な場面ではアンソニーがコートに立つことも多かった。

01年オフにブルズへ移籍。若手ばかりのチームで開幕からスターターを務めるも、もちろん将来的な構想には入っておらず、シーズン半ばに解雇。シーズンの残りをバックスで過ごし、現役を終えた。


ビリー・オーウェンス


シラキュース大出身のオールラウンダー。6フィート9インチのサイズながら、G的な役割もこなすことが出来た。1巡目第3位でキングスに指名されるが契約交渉で揉め、そのまま開幕直前にミッチ・リッチモンドとのトレードでウォリアーズへ移籍、デビューした。サイズがあって走れて器用なオーウェンスはドン・ネルソン好みで、まずまずの働きを見せるのだが、リッチモンドと比べられるような器ではなく、リーグ史上最も偏ったトレードのひとつとして記憶されている。

ウォリアーズではボール運びを任されるなど流動的に起用され、活躍。相手チームにマッチアップの難を生んでいた。しかし、94年にヒートへトレードされると、翌シーズンの途中には更にキングスにトレードされるなどどこにもあまりフィットせず、キャリアは緩やかな下降線を描き始める。98~99シーズンはソニックスでスターティングSGとして起用され、開幕ダッシュに貢献するが尻すぼみ。00~01シーズンを最後にNBAに戻ってくることはなかった。

高校時代は有名な選手で、アロンゾ・モーニングらと並ぶ評価を受けていた。90年には世界選手権で銅メダルを獲得している。アップテンポなバスケットで活きるタイプのオールラウンダー。


ポール・グラハム


6フィート6インチのスウィングマンでオハイオ大出身。91年のオフにドラフト外でホークスと契約を結ぶと、バックアップながら78試合に出場して2桁の得点アベレージをマークするなど、意外な活躍。ドミニク・ウィルキンスがアキレス腱の負傷で離脱した穴を、デュアン・フェレルらとともに埋めた。ドミニクが戻ってきた2年目も80試合で起用されたが、3年目にHCがレニー・ウィルケンスになるとローテーションの外へ。94年オフにホークスとNBAから離れた。

2015~16シーズン順位予想 WEST

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明日から開幕ということで、順位予想を、例年より少し丁寧にやってみました。ディビジョンごとの予想を付けただけですが。まずウェストから。


●サウスウェスト

1位 スパーズ

2位 ロケッツ

3位 グリズリーズ

4位 ペリカンズ

5位 マーベリックス


このディビジョンは自信ありです。あるとしたら、スパーズとロケッツが入れ替わるくらいですかね。

スパーズは去年シード順位に泣いたので、今年は、去年よりシーズン序盤の戦い方を締めてくるんじゃないかと予想。ロケッツは若手が楽しいです。カペラとかマクダニエルズとか(出番は少ないかもしれないけど)注目してます。


グリズリーズは良くも悪くも例年通りかなと。ペリカンズはポテンシャルの高いチームだと思いますが、怪我人が多いのと、ロスターのバランスがちょっと悪いとも思います。SFはカニングハムとポンデクスターでいいんですかね。

マブスは補強してる段階では意外と面白そうな気がしたんですが、デロン・ウィリアムスが怪我してるとか、プレシーズンの戦いとか、観ていて(このディビジョンで上にいくのは)キツいかなと。勝率5割くらい勝っても驚きませんが。


●ノースウェスト

1位 サンダー

2位 ジャズ

3位 ウルブズ

4位 ブレイザーズ

5位 ナゲッツ


カレッジのコーチからNBAのコーチになって成功したひとって、あまり記憶にないんですが、ドノバンはどうなんですかね。カレッジ時代にどんな指揮をしてたとか知らないんですが、ピティーノに似てたりするんですかね。

ウルブズはタウンズが思ってたより良さそうな気がしたのでこの位置に。あと、フリップ・サウンダースがつくったチームが飛躍するところをみたいです。ジャズを抜いて2位、くらいなあり得ると思ってます。


●パシフィック

1位 クリッパーズ

2位 ウォリアーズ

3位 レイカーズ

4位 キングス

5位 サンズ


クリッパーズは、シーズン中に限れば最高のチームじゃないかと思います。ウォリアーズはスティーブ・カーの離脱が響くのではないかなと。

3~5位は読みにくいです。レイカーズは、まぁ推してるチームなので期待を込めて。現実的には物凄くうまくいって、この順位かなと。


キングスは、僕は、今季とても面白いチームだと思ってるんですが、アウトサイドにもう一枚シュート力のある選手が欲しいところだと思います。マクレモアがオールスターレベルの活躍を見せる、なんてことになれば、レイカーズ、サンズはもう太刀打ちできないと思いますが。

あと、ジョージ・カールはカギでしょうね。問題児をうまく指導してる姿も、指導できなかったときも、両方知ってるので。

サンズはデビン・ブッカーに期待してます。



●ウェスタン・カンファレンス

1位 クリッパーズ

2位 ウォリアーズ

3位 スパーズ

4位 サンダー

5位 ロケッツ

6位 グリズリーズ

7位 ペリカンズ

8位 レイカーズ


9位 キングス

10位 ジャズ

11位 サンズ

12位 マーベリックス

13位 ウルブズ

14位 ブレイザーズ

15位 ナゲッツ

2015~16シーズン順位予想 EAST

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続いてイーストです。


●アトランティック

1位 ラプターズ

2位 ニックス

3位 セルティックス

4位 ネッツ

5位 シクサーズ


悩んだのはニックスの位置。セルティックスの方が強そうな気はかなりするんですが、ここは期待を込めて。ポルジンギスは未完だとしてもそれなりにやってくれるんじゃないか、と思ってます。

セルティックスのバスケットは個人的に好きなんですが、6マンのアイザイア・トーマスがリーディング・スコアラーという布陣で、2シーズン連続でどこまでやれるのかなと。

シクサーズは、オカフォーにはそんなに魅力を感じないんですよね。今のところ。新人王とったとしても。個人的にマーシャルに期待してます。


●セントラル

1位 キャブス

2位 ブルズ

3位 バックス

4位 ペイサーズ

5位 ピストンズ


イーストではこのディビジョンの3~5位がいちばん悩みました。

バックスは意外と勝てない可能性もあると思ってます。ペイサーズは最初最下位かと思ってたんですが、ポール・ジョージとフランク・ヴォーゲルをなめちゃいけないかなと。

ピストンズは良いチームになって来てると思いますが、安定したパフォーマンスを見せられる選手があまりいない(と思う)ので、思い切ってビリにしました。でも、スタンリー・ジョンソンいいですね。


●サウスイースト

1位 ホークス

2位 ホーネッツ

3位 ヒート

4位 ウィザーズ

5位 マジック


1・5位は自信あり。2~4位は悩みましたが、長いシーズンを戦う上で、ホーネッツがいちばん波が少ないような気がしたんですよね。リンがプレシーズンでいいプレイしてますが、カミンスキーもいい飛び道具だと思います。

ヒートは、補強している段階では「ホークスを抜くんじゃないか」とも思ってたんですが、プレシーズンをみて自信が持てなかったんでこの位置に。もちろんプレシーズンなんでわかりませんが。

ウィザーズはスコアラーを獲得するとか、HCを交代するとか、何かした方がいいと思っているのですが、その辺の動きが何もなかったので昨シーズンより良くはならないかなと。


●イースタン・カンファレンス

1位 キャブス

2位 ホークス

3位 ブルズ

4位 ホーネッツ

5位 ラプターズ

6位 バックス 

7位 ニックス

8位 ペイサーズ


9位 セルティックス

10位 ヒート

11位 ピストンズ

12位 ウィザーズ

13位 マジック

14位 ネッツ

15位 シクサーズ


平成5年ドラフト組①

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自分に関係がある・・・とまではいかないけど、多少身近に感じられる事件が2つもあり、いつ何が起きるかわからないものだなと再認識させられた1週間でした。



クリス・ウェバー


90年代後半から00年代前半を代表するPFのひとり。デトロイト出身で、ミシガン大に進学。同大では「ファブファイブ」として知られた、同大91年入学の1年生5人のリーダー的存在として知られた。「ファブファイブ」は92・93年と2年連続でNCAAファイナル4まで進んだが、どちらも最後で敗戦。特に93年は、「残り時間11秒ほどで2点ビハインド」という場面で、ウェバーが既に使い切っていたタイムアウトをコールしてしまい、これがテクニカル・ファウルとなって敗戦の決め手になったのは有名である。

因みにこの年、ウェバーは個人としても幾つかの賞を受賞するなど活躍を見せていたが、のちにエド・マーティンという人物との間で金銭絡みのスキャンダルが発覚し、記録は無効にされている。ドラフトでは1巡目第1位でマジックに指名され、直後にペニー・ハーダウェイとのトレードでウォリアーズへ移籍。入団した。2年次終了後のアーリー・エントリーで1位指名されたのは、地元の大先輩であるマジック・ジョンソン以来の快挙であった。

ルーキーシーズンはオールラウンドなスタッツを残し、新人王を受賞。ティム・ハーダウェイ&サルナス・マーシャローニスが全休し、クリス・マリンも故障に苦しむなど、怪我人が多かったチームをラトレル・スプリューエルとともに牽引し、50勝&2シーズン振りのプレイオフ進出に導いた。しかし、ウェバーはドン・ネルソンHCと合わなかった。ネルソンは(特にシーズン中盤以降)ウェバーをCとして起用するスモールラインナップを好んだが、ウェバーはCが好きではなかった。

94年オフ、チームはウェバーがPFでプレイできるようにロニー・サイカリーを獲得するが時既に遅し。ウェバーはトレーニング・キャンプにも出ないなどチームに戻らない意思を表示。94~95シーズンが開幕してから2週間ほど経ったところで、ウェバーはブレッツへとトレードされるのであった(この間、ウォリアーズではプレイせず)。ブレッツではミシガン大時代の親友、ジュワン・ハワードと再会。しかし、移籍から4試合で故障し、早速2ヶ月ほど戦線離脱。チームは21勝61敗と低迷した。

そして、翌95~96シーズンは更に故障に苦しみ、なんと67試合を欠場。ハワードがオールスター初出場を果たし、ジョージ・ミュアサンがMIPを受賞するなど、チームメイトたちが活躍するのとは裏腹にウェバーの存在は薄くなっていた。96~97シーズンは健康を取り戻し、オールスター初出場も果たし、チームも9年ぶりにプレイオフに進出。1stラウンドで(負けはしたけど)ブルズを苦しめるなど実りの多いシーズンだったが、翌年はまた停滞。ウェバーを含む主力はオフコートのトラブルが目立った。

そして98年オフ早々、ウェバーはミッチ・リッチモンド&オーティス・ソープと交換でキングスに放出された。SGはウィザーズの弱点だったが、同時にフロントは選手たちの不祥事を問題視しており、モラル的な面も作用したと思われる。ウェバーは当初、基本的に低迷しているキングスに行くことを嫌がったが、チームはブラデ・ディバッツと契約するなど補強を継続。ロックアウトが続いたオフの間に「キングスで戦う」と決意を新たにしたのであった。

キングスでの1年目は自身初のリバウンド王になるなど大活躍。ディバッツ、ジェイソン・ウィリアムスらとともにキングスを強くしただけでなく、観ている誰もが楽しめるような魅力的なチームに生まれ変わらせた。プレイオフにも進出し、1stラウンドでは優勝候補の一角と目されたジャズを、あと一歩というところまで追い詰めた。99~00シーズンからは、それまでシャック並みに苦手としていたFTを大幅に改善し、得点力がアップ。リーグを代表するスターのひとりに成長した。

個人スタッツの上では00~01シーズンがベスト。この年はオールスターはもちろん、MVPの候補にも名前が挙がるほどで、自身初&唯一となるオールNBA1stチーム入りも果たした。01年のオフには7年間1億2000万ドルを超える大型契約をゲット。キングスは新たにマイク・ビビーも加わって盤石な布陣となり、迎えた01~02シーズンはリーグ最高勝率をマーク。プレイオフでは王者レイカーズをあと一歩というところまで追い詰めた。

因みにこのシーズンのオールスターで、ウェバーはコーチ推薦で選出されたのだが、ファン投票で選ばれたシャックが故障欠場に伴ってスターターとしてプレイ。その措置を決めたのは、因縁のネルソンであった。ネルソンは「実力のある選手だから」と説明し、ウェバーも「名誉なことだよ。措置に感謝したい」とコメントしている。翌02~03シーズンもMVP級の働きを見せ、チームも安定した好成績を収めるが、プレイオフのカンファレンス・ファイナル第2戦で膝を負傷。

マイクロフラクチュアの手術が必要な重傷で、ウェバーは翌シーズンの終盤まで長期欠場を強いられてしまう(03年のプレイオフはそのセミファイナルで敗れている)。復帰後のウェバーは衰えを見せ、一方ではスコアラーとして成長したペジャ・ストヤコビッチが、チームを、ウェバー不在を感じさせない好成績まで牽引。故障が多く、肝心な場面で頼りにならないウェバーの立場は微妙なモノになっていた。そして、プレイオフではセミファイナルで好調ウルブズに敗戦。

キングスは第7戦の終盤、3点ビハインドの場面でウェバーが3Pを外して万事休す。シリーズ終了後にはストヤコビッチがウェバーを非難としたとも言われた。04~05シーズン、ウェバーは数字的には復調を見せたがチームにかつてのような勢いはなく、ストヤコビッチとの不仲説も手伝ってトレードの噂も頻出。そして、05年2月、ウェバーは遂にシクサーズへとトレードされた。このとき、ケビン・ガーネットは「勿体ない」と嘆いたという。

シクサーズではアイバーソンとのコンビに期待がかかったが、これは上手くいかなかった。アイバーソンのアイソレーション中心のオフェンスにウェバーは合わず、FG成功率が40%を切るなど大乱調。チームとしては成績が上向き、プレイオフにも出たが、1stラウンドでピストンズに惨敗した。翌シーズンは、個人成績はまた復調させるが、故障の影響からか動きは悪く、4Qに起用されないパターンも散見。チームはプレイオフにも出られなかった。

06~07シーズン、ウェバーは開幕から不振に喘ぎ、モーリス・チークスHCはプレイングタイムを制限。ウェバーはこの措置に不満を漏らすなど状況は悪化し、07年の年明け、バイアウトが成立した。FAとなったウェバーはその直後、故郷デトロイトのピストンズと契約。ピストンズでは潤滑油的な存在としてうまく機能し、チームも成績アップ。イーストの第1シードを奪取し、カンファレンス・ファイナルまでコマを進めている(キャブスに敗戦)。因みにピストンズでは主に「C」としてプレイした。

ピストンズにはそれなり貢献したが、オフになると再契約のオファーをもらえず、07~08シーズンはFAのまま開幕。そして、08年の年明けに古巣ウォリアーズと契約を結んだ。HCは奇しくもネルソン。ウェバーは今度はスターティングPFとして起用された。しかし、全盛期のプレイにはほど遠く、3月頭には戦線離脱。そして、そこから約3週間後、現役を引退した。ウォリアーズでは9試合で平均14分ほどしかプレイできなかった。引退後はTNTの解説者などを務めている(あってる?)。

非常に能力が高く、キャリア平均は20点・9リバウンド・4アシスト以上をマーク(これは6人しか達成していない)。ボールハンドリングも良く、ペリメーターからのジャンパーは確率が高かった。難点は怪我の多さと、大舞台でのパフォーマンスが今ひとつなところ。例えば02年のカンファレンス・ファイナルは、マイク・ビビーが大活躍を見せて評価を上げたのに対し、ウェバーはエースとしてはインパクトに欠けた。ペイントエリア内で体をぶつけ合うフィジカルなゲームもあまり好きではなかった模様。

学生時代の金銭トラブルを含め、若い頃はオフコートでの問題もあったが、キングスに移ってからはおとなしくなったかな(金銭問題が発覚したのはキングス時代)。


レックス・ウォルターズ


お父さんは白人、お母さんは日本人という日系の選手。カレッジはサザン・ウェスタン大を経てカンザス大へ編入。93年にカンザス大がファイナル4に進んだときのメンバーである。シュートの上手いコンボガードで、ドラフトでは1巡目第16位でネッツに入団。バックアップながらまずまずの働きを見せた。3年目の開幕直後にシクサーズへ移籍するが、翌年アイバーソンが加入するとポジション争いで敵うわけもなく、97~98シーズンの序盤に解雇された。

ただ、直後にヒートと契約。ここでは出場機会は限られていたが、3シーズン在籍した。NBAを去った後はスペインなどでプレイしている。サウスポー。


アービン・ジョンソン


6フィート11インチのC。22歳でニューオリンズ大に入学し、そこでバスケットを始めたという遅咲きの選手である。ドラフト1巡目第23位でソニックス入り。オフェンスの技術は低かったが、リバウンドとブロックの強さを買われ、ジョージ・カールには積極的に起用された。しかし、96年のファイナルでルーク・ロングリーにいいようにやられると見切りをつけられ、オフにナゲッツへ移籍。ここで個人スタッツ上では自己最高のシーズンを過ごし、97~03年はバックスでプレイした。

(当時)オフェンシブなバックスではインサイドで体を張れる選手として重宝された。因みにHCはカールである。03~05年をウルブズ、05~06シーズンをバックスに在籍した。動きはスローで、ポストディフェンスにも難があるが、インサイドで相手の邪魔になれるビッグマン。


ガート・ハミンク


1巡目第26位でマジック入り。ルイジアナ州立大出身のCで、2年前にマジックから指名されたスタンリー・ロバーツ、同じく1年前に指名されたシャキール・オニールの後輩である。先輩2人同様7フッターだが、NBAでプレイしたのは3シーズン・計8試合のみ。最初の2年で2試合しか起用されなかった(故障もあったのかも)。3年目は途中でマジックを解雇され、直後に低迷するウォリアーズに加入。3試合も起用されている。


アドニス・ジョーダン


5フィート11インチのPG。2巡目第42位でソニックスに指名されるがロスターには残れず、ナゲッツでデビューした。NBAでプレイしたのは93~94シーズンとロックアウトで短縮された98~99シーズンだけ。カンザス大出身で、91・93年とファイナル4に進出したときはスターティングPGを務めていた。レックス・ウォルターズは当時のチームメイトである。映画「ブルーチップス」に出演しており、そこではリック・ピティーノ率いるチームで、やはりスターティングPGとして起用された。


テリー・デヘア


シートンホール大史上歴代1位の得点・3P成功数・試投数を誇るSG。1巡目第13位でクリッパーズに入団し、2年目にはローテーション入り。バックアップながら2桁得点をマークし、3年目には3Pを139本成功させ、成功率も44%を誇るなど活躍を見せた。しかし、97年にキングスに移籍するとインパクトを残せず、翌シーズンの開幕直後に解雇。シーズンの残りはグリズリーズで過ごした。00~01シーズンにはペイサーズの開幕ロスターに入ったことがあるが、1試合も出ずに解雇されている。

シュートは上手いがNBAのSGとしては小さく(6フィート2インチ)、PGとしては厳しく、それがネックになったのかも。現役時代からオフコートでの活動にも積極的で、バスケットをする若者のために動いていたとか。


ボビー・ハーリー


デューク大出身のPG。カレッジ時代はクリスチャン・レイトナー、グラント・ヒルらとチームメイトだった。4年間の総アシスト数はNCAA歴代最多で、背番号11は同大の永久欠番となっている。ドラフトでは1巡目第7位でキングスに入団するが、そのシーズンの12月に交通事故に遭い、生命の危機に瀕する重傷を負ってしまう。翌シーズンに復帰するも精彩を欠き、3年目は2巡目ルーキーのタイアス・エドニーにポジションを奪われてしまった。

4年目の途中にグリズリーズへ移籍。のちにセルティックスで復帰を試みたことがあるが、NBAでは僅かに4年しかプレイしなかった。怪我をする前の1ヶ月ほども特に活躍していたワケではない。学生選抜としてドリームチームⅠと戦った経験があり(学生選抜が勝利)、このときはジョン・ストックトン相手に堂々たるプレイぶりを見せていたという話がある。


ジェームス・ロビンソン


6フィート2インチの小柄なSG。アラバマ大を卒業後、1巡目第21位でブレイザーズ入り。ブレイザーズ時代のハイライトはルーキーイヤーにスラムダンク・コンテストに出たことかもしれない。96年にはアイザイア・ライダーと交換でビル・カーリーとともにウルブズへ放出された。97年にはクリッパーズへ移籍。翌シーズンの開幕直後には解雇され、ウルブズへ出戻った。1シーズンのブランクを空けて、00~01シーズンにマジックでも6試合だけプレイしている。

スピードと爆発力を兼ね備えたSGであり、シューター。得点力も高いが、精度は今ひとつ。ウルブズ時代、ある試合で大当たりし、短時間で高得点を稼ぐ超人的なパフォーマンスを披露したことがあり、のちにステファン・マーブリーが印象に残ったプレイとして回顧していたことがある。ニックネームは「ハリウッド」。

平成5年ドラフト組②

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乃木坂の橋本さんのお気に入り、ロイ・ヒバートが良い感じ(今もお気に入りかはわからないけど汗)。パスが上手いとは知りませんでした。




マイク・ペプロウスキー


2巡目第52位でキングス入りした、大柄な白人C。キングスには1年しかおらず、続く2シーズンでピストンズ、ブレッツ、バックスと契約・解雇を繰り返し、NBAを去った。ラスト2シーズンは3チームで計13試合しかプレイしていない。プロ1年目、同期入団のボビー・ハーリーが交通事故に遭ったとき、事故現場に最初に着いて諸々の対応をしたのがペプロウスキーだったとか。ミシガン州立大の出身で、FG成功率は同大史上1位である。


アイザイア・ライダー


1対1の強さと、素行の悪さで知られたSG。UNLV出身。逮捕歴があるなど、学生時代から問題のある選手という評価ではあったようだが、ドラフト1巡目第5位でウルブズに入団。1年目は持ち前の得点力を見せただけでなく、スラムダンク・コンテストで見事なレッグスルー・ダンクを披露して優勝。自ら「イーストボーイ・ファンク・ダンク」と名付けたこのダンクは、チャールズ・バークリーが「今までみた中で最高のダンク」と絶賛するほどだった。もちろんオール・ルーキー1stチームに選ばれている。

ただ、最初の練習にいきなり遅刻したり、94~95シーズンにはそのシーズンからHCに就任したビル・ブレアと衝突したり、オフコートのトラブルで警察のお世話にもなるなど、当初懸念された問題行動は頻発。ある試合では、レフェリーの判定に抗議していたところ、観戦していた母親がコートサイドまで宥めに来たこともあった。ルーキー時代のケビン・ガーネットにとってよき兄貴分だったという話もあるが、チームの構想からは外れたようで、96年ブレイザーズにトレードされた。

ブレイザーズでは、個人成績はやや落ちたが、チーム力は上昇。タレントに恵まれたチームをリーディング・スコアラーとして牽引していたのがライダーだった。因みにブレイザーズに在籍した3シーズンで、計12試合を出場停止で休んでいる。99年にはホークスへ移籍。ここでもスコアラーとして活躍していたが、今度は勝利に結びつかず、おまけにシーズン終盤にはマリファナ関係の問題でチームから出場停止処分を課され、それがこじれて、なんと解雇されてしまう。

00年オフには王者レイカーズと契約。レイカーズ側は恐らくフィル・ジャクソンの指導力を計算に入れての動きで、実際、このシーズンはトラブルも少なく、アンチ・ドラッグ・プログラムに従わなかったとして5試合の出場停止を喰らった意外はよく振る舞っていた。しかし、その出場停止が響いたのか、怪我人の復帰が影響したのか、ベンチトップの平均得点をマークしたにもかかわらず、プレイオフのロスターに入ることができなかった。

そのオフには「サマーリーグに参加する」と意気込み、レイカーズの関係者も喜んでいたようだが、結局参加せず、レイカーズとの再契約はなし。ナゲッツと契約を結ぶが、01~02シーズン開幕10試合ほどであっさり解雇されてしまった。ボディバランスが良く、インサイドでバスケット・カウントをものに出来る強さと、アウトサイドからのシュート力を兼ね備えていた。ポストプレイも上手く、それはマイケル・ジョーダンも認めていたほどである。

ただ、「一度ボールを持ったらパスをしない」という悪評もあり、また、安定感もなかった。オフコートのトラブルも含め、扱いの難しい選手である。


ジョージ・リンチ


名門ノースカロライナ大出身のFで、93年のNCAAチャンピオン・チームの主力。1巡目第12位でレイカーズに入団した。3シーズン在籍したレイカーズでは24番、30番、34番と3つの背番号をつけている。96年オフ、シャキール・オニール獲得のためにサラリー・キャップに空きをつくりたいチームによって、ドラフト2巡目指名権と交換で、アンソニー・ピーラーとともにグリズリーズへ移籍。2シーズンを過ごした。転機となったのは98年のシクサーズ移籍。

キャリアで初めてシーズン通してスターターとして起用され、ロールプレイヤーとして渋く貢献。99~00シーズンには自己最高の個人成績をマークし、00~01シーズンは自身初のファイナルも経験した。カンファレンス・セミファイナルで足を骨折し、ファイナルでは強行出場したモノの本調子にはほど遠く、怪我のタイミングが悔やまれた。そのオフにはキャブス、ホーネッツとの△トレードでホーネッツヘ移籍。ジャマール・マッシュバーンのバックアップとなった。

04~05シーズンにチームが低迷すると、HCのバイロン・スコットと揉めるなど構想から外れ、シーズン終盤に解雇。そのまま現役を引退した。SFとしてはシュート力とスピードに欠けるが、リバウンドやディフェンスが良く、いいロールプレイヤーである。98年にノースカロライナ大が優勝した際、インタビューで「これまでで最高のチームですか?」と尋ねられたディーン・スミスが、「いや、今年のチームにはジェイミソンもカーターもいるけど、リンチがいない」とコメントしたとか(←これ、どこで聞いた話だったか忘れまして。ソースわかる方がいましたら教えていただけると嬉しいです)。


コーリー・ブロント


PF。シンシナティ大が92年にファイナル4に進んだときのメンバーで、ドラフトでは1巡目第25位でブルズに指名された。ここではあまり役に立たず、95年にレイカーズへ移籍。96~97シーズン途中、主力に故障者が続出したときに意外な健闘を見せ、実力があることを示した。しかし、層の厚いチームではやはり出番が限られ、98~99シーズンの序盤に解雇。以降、03~04シーズンまで計6チームを渡り歩いた。ベンチが定位置の選手だが、攻守に一定の貢献は期待できる。

頻度は多くないが、ミドルレンジからのジャンパーもまずまず。


クリス・ホイットニー


クレムソン大出身のPG。ドラフト2巡目第47位でスパーズに入団し、2シーズン在籍するがFG成功率が30%を下回るなど結果を残せず、解雇されてしまう。転機となったのは95~96シーズン。シーズン半ばに、PGに怪我人が相次いだブレッツと契約を結び、ここで活躍。バックアップとしての立場を確保した。その後、チームが低迷するに連れて皮肉にもプレイングタイムが増加。00~01シーズン中にロッド・ストリックランドがバイアウトでチームを去ると、スターターとしても起用されるようになった。

マイケル・ジョーダンが現場復帰した01~02シーズンはジョーダンとバックコートを形成。3P成功率が40%を超えるなど、キャリア最高のシーズンを過ごした。02年には再建モードのナゲッツへ移籍。ここでもスターティングPGを任されたが、若手を独力でリードせざるを得ない状況では思うようにプレイできず、成績は逆に下降。シーズン途中にはマジックへトレードされた。03~04シーズンに古巣ウィザーズでプレイしたのが最後。シューター型PGで、クイック・リリースで放る3Pは高確率だった。

一方で、サイズがない上に身体能力にも欠けるため、ディフェンスに難がある。また、ゲームメイクもあまり期待できない。


グレッグ・グレアム


1巡目第17位でホーネッツ(現ペリカンズ)に指名され、直後にシクサーズにトレードされる。6フィート4インチの小柄なSGで、シュートはまずまずだったが活躍の場はなく、95~96シーズン序盤にデリック・コールマンを絡めたトレードでネッツへ移籍した。因みに当時、シクサーズのチーム状態について「あんなに練習しないチームはない」とコメントしている。96年にはビンセント・アスキューと交換でソニックスに移籍するが、キャリアは開けなかった。キャブスでも少しだけプレイしている。

インディアナ大出身で、当時はカルバート・チェイニーやアラン・ヘンダーソンとチームメイトだった。


クリス・ミルズ


アリゾナ大出身だが、もともとはケンタッキー大生。88~89シーズン後にHCのエディ・サットンが不正な金銭を受け取ったというスキャンダルに巻き込まれ、編入した。因みにこのとき、同じ高校の仲間でともにケンタッキー大を目指したが、同様に入学を断念し、NBA入りを決断したのがショーン・ケンプである。ドラフトでは1巡目第22位でキャブスに入団。2年目にスターティングSFに定着した。当時のキャブスはロースコアな展開を得意としており、ミルズは貴重な得点源の一角だった。

97年には一度セルティックスへ移籍するが、開幕直前にニックスへトレード。これ以降のキャリアは主にバックアップが中心となった。98年にはウォリアーズへ移籍。ここでは最初の1年は良かったが、翌年からは故障に泣かされ続けた。03年にまたしてもセルティックスへトレードされ、一度もプレイしないまま、シーズン途中に今度はホークスへトレードされて直後に解雇、現役生活を終えた。キャブス時代は平均出場時間上位の常連だったが、キャリア終盤は健康状態に難がありすぎた。

攻守にバランスの取れた良いロールプレイヤーで、高いストロークを描くシュートも精度が高い。ただ、強豪チームのスターターとして物足りないかもしれない。02年12月、ブレイザーズ戦でボンジ・ウェルズともめ、ウェルズを追いかけ、ブレイザーズのチーム・バスを追いかけたというエピソードがある。


マルコム・マッキー


6フィート9インチのフィジカルなF/C。1巡目第27位でサンズに入団し、1シーズン(22試合)だけプレイした。NBAを離れた後は、主にヨーロッパで現役生活を続けた。ジョージア工科大出身で、通算リバウンド数は同大史上2位である。デューク大との試合で、スクリーンをセットしたときにボビー・ハーリーをフロアに叩きつけたのは有名だろうか。ハーリーは脳震盪を起こし、マッキーはファウルをコールされたが、マッキーはスクリーンをセットする際に動いていない。因みにマッキーは「Mackey」。

平成5年ドラフト組③

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スラムダンクにはまってたら、友だちに「NBAの方がもっとおもしろいよ」と言われたのが、目覚めたきっかけでした。

スラムダンクでは三井さんと仙道さんがすきでした。晴子さんより彩子さんでした。




ルーシャス・ハリス


6フィート5インチのSG。2巡目第28位でマブス入りして、計12シーズンをプレイ。02・03年とネッツがファイナルに進んだときのメンバーでもある。マブスでは3Jsのバックアップとして年々成績を上げ、シクサーズで1年過ごしたのを挟み、97年からはネッツでプレイした。01年にジェイソン・キッドが加入したことでチームが洗練され、ハリスも恩恵を受けた。個人成績もこの頃がピークである。04年にサラリー・キャップの問題で解雇され、直後にキャブスと契約。

レブロン・ジェームス中心のチーム作りで(たぶん)ベテランとしての働きを期待されたが、シュートが決まらないなど不発に終わり、オフに解雇された。ジャンプショット主体で得点を稼ぐタイプのシューター。頬骨を骨折した際にフェイスガードを付けてプレイしたら好調だったという理由で、完治してからも着用を続けていたことがある。ロングビーチ州立大の出身で、同大の永久欠番となっている。


ジャマール・マッシュバーン


「モンスター・マッシュ」と呼ばれたスコアラー。ケンタッキー大の出身で、カレッジ時代は1年次からめざましい活躍を見せていた。ドラフトでは1巡目第4位でマブス入り。ルーキーシーズンは、チームは弱かったが、チームの新人記録を7つも破ってオール・ルーキー・チームに選ばれている。2年目にはルーキーのジェイソン・キッド、1年先輩のジム・ジャクソンとあわせて3Jsを形成。チームはだいぶマシになり、マッシュバーン自身も1試合50点をあげるなど強いインパクトを残した。

しかし、3年目を故障で棒に振ると、4年目も開幕直後に故障。おまけに新HCのシステムとも合わず、シーズン途中にヒートへトレードされた。ヒートは打倒ブルズを目指すイーストの強豪だったが、アロンゾ・モーニング、ティム・ハーダウェイに続く第3オプションとなり、マッシュバーンのプレイは制限されてしまう。マブス時代のような爆発的なオフェンスはなりを潜め、また、HCのパット・ライリーと相性がいいとも言えなかった(97~98シーズンにはダンクミスで親指を骨折して批判されている)。

99~00シーズンには多少オフェンスの自由度が増すが、チームは1stラウンドで敗退。オフになると、大型トレードでホーネッツヘと放出された。当初はヒート側の補強ばかりが注目された動きだったが、これで強くなったのはホーネッツ。マッシュバーンはスコアラー、リーダーとしてブレイクし、03年にはオールスターにも初選出された。しかし、03~04シーズンの大半を膝の故障で休むと、04~05シーズンは全休。「復帰できる可能性はほぼない」と言われた。

そのシーズン途中にシクサーズへトレードされ、翌05~06シーズン終盤に解雇、引退となった。パワーとキレを持ち合わせたスコアラーで得点パターンが豊富。1対1に抜群に強く、先述の50点をあげた試合はブルズ戦で、スコッティ・ピッペンを相手にしてのものだった。故障が多かったことと、その影響もあってか安定感に欠けたのが難点。


エリック・ライリー


7フッター。ドラフト2巡目第33位でマブス入り。以降5シーズンを、マブス、ロケッツ、クリッパーズ、ウルブズ、セルティックスで過ごした。94年にはロケッツで優勝を経験しているが、プレイオフのロスターには入れなかった。ミシガン大の出身で、テリー・ミルズ、ロイ・ボートらとともにプレイした経験がある。同大が「ファブファイブ」を擁し、92・93年と2年連続で優勝したときは、リバウンドやブロックで存在感を見せる重要なバックアップであった。


エイシー・アール


6フィート10インチのC。アイオワ大の出身で、同大が91年のNCAAトーナメントに進んだときの中心選手である(デューク大に敗れた)。同大は92・93年もトーナメントに進み、いずれも途中で敗退しているが、アール自身は史上2人目となる1試合8ブロックをマークするなど印象的な活躍を見せた。ブロックショットでは同大の記録を持っている。ドラフトでは1巡目第19位でセルティックスに入団。(恐らく)そのオフに引退したケビン・マクヘイルの穴を埋め、ロバート・パリッシュを助けることを期待された。

しかし、まったく期待に応えることは出来ず、95年にエクスパンション・ドラフトでラプターズへ移籍。するとシーズン終盤に突如として確変し、古巣セルティックス戦では40点・12リバウンドをマークするなど周囲を驚かせた。ただ、そのオフにマーカス・キャンビーやポパイ・ジョーンズらが加入すると居場所はなく、シーズン半ばに地味トレードでバックスへ移籍。翌シーズン以降はオーストラリアなどでプレイした。


ハロルド・エリス


モアハウス大というディビジョンⅡのカレッジ出身。6フィート5インチのSGで、NBAのチームからドラフトされず、当初はCBAでプレイしていた。しかし、93~94シーズン途中(94年の年明け)にクリッパーズと契約を結ぶと、3試合目で23点を稼ぎ、4試合目にしてスターターに抜擢。そして、29点をマークする最高のパフォーマンスを見せた。この活躍はチームを喜ばせ、チームに残ることが決まるが、翌シーズンになると出場機会が激減。オフにはどこのチームからも声がかからなかった。

2年のブランクを空けて97~98シーズンにナゲッツでも30試合弱プレイしているが、このときはインパクトを残せなかった。跳躍力の高さとフィジカルの強さで、ペイントエリア内でビッグマン相手に勝負するSG。SGとしてはシュートに難があり、FTも今ひとつ。


エド・ストークス


7フッター。アリゾナ大出身で、ドラフト2巡目第35位でヒートに指名された。しかし、そのオフにギリシャのクラブ・チームの契約を結び、NBAでプレイしないまま、95年夏にブレッツへトレードされた。ブレッツとは契約を結ぶが開幕前に解雇されてしまい、翌年はナゲッツ、翌々年はソニックスで生き残りを目指すが、いずれも開幕ロスターに入ることすら出来なかった。97~98シーズン途中にラプターズでようやくNBAデビューするが、4試合しか起用されなかった。

ギリシャで、先述のハロルド・エリスとチームメイトだったことがある。


オンドレス・ギベールト(ギベアー?)


キューバのハバナ出身。6フィート10インチのCで、16歳だった88~89シーズンからプロとしてプレイし、93~94シーズンの終盤にウルブズと契約。キューバ人初のNBA選手となった(ABAを含めると2人目)。翌シーズンまで在籍するが、FG成功率が40%にも届かないなど貢献はほぼなし。95年のエクスパンション・ドラフトでラプターズに指名されるが解雇され、その後はギリシャやイタリア、プエルトリコなどでプロキャリアを続けた。


マイケル・カリー


ディフェンスとリーダーシップを評価されたスウィングマン。ジョージア・サザン大を90年に卒業するもドラフトはされず、プロデビューはドイツとなった。NBAデビューは93~94シーズンのシクサーズだが、10試合しか起用されず、翌シーズンはスペインでプレイした。転機となったのは95~96シーズン。シーズン序盤に契約したブレッツからはすぐ解雇されてしまったが、直後に拾われたピストンズでローテーション入り。オフには正規の契約を勝ち取った。

97~99年をバックスで過ごし、99年オフにピストンズへ復帰。移籍2年目には、グラント・ヒルが抜けたこともあって主にスターティングSFとして起用された。当時のピストンズはベン・ウォレスやジェリー・スタックハウスらを中心に再建を始めており、カリーやウォレスのディフェンシブなスタイルが、04年の優勝の土台となったのかもしれない。03年にリンジー・ハンターと交換でラプターズへ移籍し、翌シーズンにペイサーズで18試合だけプレイしたのを最後に現役を引退した。

時折ドライブから鮮やかなダンクを見せることがあったが、アウトサイド・シュートはなく、オフェンスで出来ることは限られていた。キャリアの多くを過ごしたピストンズがディフェンス主体だったことや、SFに人材がいなかったという運もあったが、良いディフェンダーであった。選手会の会長を務めていたこともある。引退後はピストンズのACに就任し、08年にフリップ・サウンダースの後任としてHCに昇格。しかし、アレン・アイバーソンが途中加入するなど難しいチームを指揮することになり、結果を残せなかった。

平成5年ドラフト組④

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11・12月でオケの本番が3つあります。観に行きたい演奏会も3つあります。がんばるます。




スコット・バレル


アメリカのアスリート史上初めて、2つのプロスポーツ・リーグからドラフト1巡目で指名された選手(NBAとMLB)。高校3年のときにマリナーズから指名されており、マリナーズはバレルをピッチャーとして育成したかったようだが、マイナー・リーグでプレイすることを提案されるも「マイアミ大で野球をしたい」という希望でそれを拒否。ところが同じ頃、コネチカット大のACからリクルートされ、コネチカット大でバスケットをすることを選択した。

1年次の終わりには、今度はトロント・ブルージェイズから指名され、夏の間だけマイナー・リーグでプレイすることを決意。バスケットとの両立が始まった。バスケットでも、NCAA史上初めて1500点・750リバウンド・275アシスト・300スティールをマークした選手となるなど、結果を残している。NBAのドラフトでは1巡目第20位でホーネッツ入り。1年目こそ平凡だったが、2年目にブレイク。スターターに定着し、MIPの投票で3位に食い込むほどの成長を見せた。

しかし、翌シーズンは故障で62試合を欠場。休んでいる間にロスター、HCなどが一新されてしまい、翌シーズン復帰したときには役割が限られてしまった。シーズン半ばにはウォリアーズへトレードされ、オフには更にブルズへトレードされた。ブルズでは、当初はチームに馴染まなかったが、次第に3Pとディフェンスで貢献。キャリア初のチャンピオン・リングを獲得した。98~00年は弱小ネッツでプレイ。00~01シーズンに4試合だけ古巣ホーネッツでプレイした後は、中国、日本などを渡り歩いた。


クリス・ジェント


6フィート7インチのF。オハイオ州立大を卒業後、ドラフトにはかからなかったが、93~94シーズンの終盤にロケッツと契約を結び、3試合だけの出場ながら平均10.3点をマーク。いきなりチャンピオン・リングを獲得する幸運に恵まれた。96~97シーズンにも3試合だけニックスでプレイしている。引退後は03年にシクサーズのACに就任したのを皮切りにコーチ業をスタート。04~05シーズンにはマジックのACとなり、ジョニー・ディビスがHCを解任されたときは暫定HCをも務めた。


ショーン・ブラッドリー


7フィート6インチのショットブロッカー。旧西ドイツのランツハル出身。アメリカのユタ州に移って州民権を獲得し、地元のブリガムヤング大に進んだ。ただ、プレイしたのは90~91シーズンのみで、その後の2年間はモルモンの不況活動に費やしている。そして、ドラフトではカレッジ経験がほぼ無いにもかかわらず、1巡目第2位でシクサーズに指名された。シクサーズでは、自身の身長とチーム名をかけて、「76番」を着用。チーム再建の期待を背負った。

しかし、ブラッドリーはその身長の割に235ポンドしかなく、柳のように細かったため、NBAのフィジカルさには苦戦。ブロックでは存在感を見せたが、全体的には期待を裏切ることになってしまう。3年目のシーズン序盤にはデリック・コールマンらとのトレードでネッツへ移籍。翌シーズンの半ばには大型トレードで、更にマブスへと放出された。当時、マブスのフロントにいたドン・ネルソンはブラッドリーの将来性にかなり期待をしていたようで、自身がHCになった後も大事に起用していた。

しかし、スティーブ・ナッシュやダーク・ノビツキーらの加入でチームが強くなると出場機会は減少。03年頃からは完全にベンチ・ウォーマーとなってしまい、その後、膝の故障もあって05年に現役を引退した。そのサイズと潜在能力から、マブスに移籍した頃くらいまではかなり期待されていた。得点力はそこそこだが、シュートタッチはビッグマンとしては柔らかかった。意外と熱くなりやすい性格で、試合中に小競り合いとなって相手を殴ったりしたこともある。

マブス在籍中にドイツ国籍を取得し、02年の世界選手権ではノビツキーと一緒に、同国を3位に導いた。引退後はディケンベ・ムトンボらと「国境なきバスケットボール」の活動に参加したこともある。ニックネームは「デススティック」「モルモン・マンティス」など。


ジョージ・ミュアサン


7フィート7インチの超巨漢C。ルーマニア出身。公式登録ではマヌート・ボルと同じ身長だが、厳密にはミュアサンの方が数ミリ高く、史上最も背の高いNBA選手である。因みに、ボル同様に両親の身長は平均的だが、ミュアサンの場合は下垂体の異常によるものだとか。母国で大学を卒業後フランスに渡って92~93シーズンをプレイし、そこでの活躍がNBAからも注目され、93年のドラフト2巡目第30位でブレッツに指名された。

2シーズン目には平均得点を2桁に乗せるなど成長を見せ、3年目にはMIPを受賞。FG成功率は58.4%をマークし、リーグ首位に立った。この当時のミュアサン、クリス・ウェバー、ジュワン・ハワードというブレッツのフロントラインは、ポテンシャルの高さも含め、インパクトがあった。しかし、97~98シーズンを膝の故障で全休すると、ロックアウト明けの98~99シーズンが始まっても復帰できず、そのまま解雇。シーズン終盤にネッツに拾われるが、結局1試合・1分しかコートに立つことが出来なかった。

99~00シーズンは開幕からネッツでプレイするが、もはやブレッツ時代のような貢献はなく、その後はフランスなどで少し現役を続けた模様。背番号77は、身長に因んでいる。サイズの割に器用な選手で、FTや打点の高いジャンプショットもまずまず。リバウンドも悪くなく、ボルとはタイプが違った。人柄も明るく、人気があり、マイケル・ジョーダンにひっかけて自ら「エア・ミュアサン」と称していたこともあった。


ニック・ヴァンエクセル


サウスポーのPG。ショーン・ケンプの母校でもあるコミュニティ・カレッジで2年過ごしたのち、シンシナティ大へ編入。ヴァンエクセル加入後の同大は強豪チームとなり、ファイナル4まで進んだ(ファブ・ファイブのミシガン大に敗れる)。ドラフトでは2巡目第37位でレイカーズに入団。実力は高く評価されていたが、カレッジ時代の素行の悪さに加え、ドラフト前のワークアウトをすっぽかしたことなどが評価を下げ、この順位まで落ちたと言われている。

プロ入り後はすぐにスターティングPGとして活躍。シュート・セレクションが悪かったり、94年からHCに就任したデル・ハリスと関係が良くなかったり、問題もあったが、ヴァンエクセルのようにルーキー時代から成功を収めたPGはあまりいない。4年目にシャックが加入するとレイカーズはウェストの強豪チームとなり、5年目には自身初のオールスター出場をも果たすが、そのオフ、ドラフト当日のトレードでナゲッツへ放出されてしまう。

シーズン途中にヴァンエクセルが故障したときに、代役を務めたデレック・フィッシャーが良い働きを見せたこと、プレイオフのある試合前のハドルで「カンクーン!」とヴァンエクセルが叫び、それをシャックが快く思わなかったこと、などがトレードの理由として噂された。ナゲッツではアントニオ・マクダイスとともにチームを牽引。移籍2年目にHCに就任したダン・イッセルは、「生きるも死ぬもヴァンエクセルと一緒だ」とまで言い切った。

しかし、プレイオフに出られるほどのチームまでは伸びず、01年にはマクダイスが故障。チームは低迷し、01~02シーズン半ばにマブスへ放出された。マブスはPGにスティーブ・ナッシュがおり、目当てはCのラエフ・ラフレンツの獲得であった。そのため、ヴァンエクセルはベンチ・スタートとなるのだが、この起用は上手く機能し、特に03年のプレイオフで見せた活躍は強烈なインパクトを残した。03年のオフにはウォリアーズへ移籍。

ここではスターターに返り咲くが故障もあってか不発。翌年のオフにはブレイザーズにトレードされ、更に05~06シーズンをスパーズで過ごして現役を終えた。得点力と爆発力を兼ね備えた選手で、先述のようにセレクションに難はあったが、当たると手のつけようがなかった。クラッチ・シューターとしても知られ、ビル・フィッチは「ベビーフェイスの殺し屋」と評している。ボストン・ガーデンでシュートを決めた最後のレイカーズの選手でもある。


アルフォンソ・フォード


6フィート1インチのG。ミシシッピ・バレー州立大学出身で、1年次に平均29.9点をマークし、NCAA全体の得点王となった。2年次も平均32.9点をあげ、ロヨラ・メリーマウント大のボー・キンブルに次ぐ結果を残した。フォードがカレッジ4年間であげた計3165点は、ピート・マラビッチ、フリーマン・ウィリアムス、ライオネル・シモンズに次ぐ史上4位の記録。4年間で、毎シーズン少なくとも平均25点以上をあげたのは史上初である。

しかし、NBAでは不発。ドラフトでは2巡目第32位でシクサーズに指名されるもロスターに残れず、93~94シーズンをソニックス、94~95シーズンをシクサーズでプレイ(計11試合)。それ以降はCBAやヨーロッパでキャリアを続けた。97年に白血病と診断されるが、そのまま現役を続行。カレッジ時代同様にスコアラーとして名を馳せた。しかし、04年8月に体調の悪化を理由に現役を引退。そこから2週間もしないうちに他界した。04年9月4日のことであった。

その年、ユーロリーグは「アルフォンソ・フォード・トップ・スコアラー・トロフィー」を設けている。プレイスタイルは完全にSG。身長の割に幅があるが、NBAのGとしてはスピードに欠けるかもしれない。


ロドニー・ロジャース


サウスポーのF。ウェイクフォレスト大の出身で、1巡目第9位でナゲッツに入団。1年目はほぼベンチ・スタートだったが、プレイオフでは1stラウンドで第1シードのソニックスを破るのに貢献している。2年目はラフォンゾ・エリスの怪我でスターターへ昇格。オフにはドラフト当時のトレードで、アントニオ・マクダイスと交換でクリッパーズへ移籍した。当時のクリッパーズはロールプレイヤーの集まりのようなチームだったが、ロジャースはスターターとして起用されることが多かった。

しかし、移籍4年目の98~99シーズンになると若手の加入や台頭で出場機会が激減。これによって99年オフ、サンズと契約を結んだ。サンズではベンチ・スタートだったが、6マンとして効果的に起用され、6マン・アワードを受賞。両方のFをこなせるロジャースの存在は大きかった。01~02シーズン半ばにはセルティックスへトレードで移籍。ここでも6マンとしてすぐに馴染み、チームの久しぶりのカンファレンス・ファイナルに貢献している。

そのオフ、ロジャースはFAとなるが、セルティックスはサラリーキャップをオーバーしていたため残留は難しく、ファイナルに進んだばかりのネッツに移籍した。ここでも6マンとして期待されたが、なんと不発。2シーズン在籍したが、それまでのような活躍を見せることはなかった。04~05シーズンをホーネッツとシクサーズでプレイしたのが現役の最後。6フィート7インチ・235ポンドという幅のある体格は一見PFだが、3Pが上手いなどプレイスタイルはSF寄りである。


アンドリュー・ゲイズ


恐らくオーストラリア人でもっとも有名なバスケットボール選手。メルボルン出身。18歳のときに母国のプロリーグであるNBLでプロキャリアをスタートし、新人王を受賞。以降、元選手でもある父リンゼイ・ゲイズの指揮するメルボルン・タイガースに長く在籍した。ゲイズはチームを2度のチャンピオンに導いている。国際舞台での経験も豊富で、オリンピックには5度も出場(ロサンゼルス~シドニー)。シドニー・オリンピックでは開会式で旗手も務め、オリンピックの得点記録も保持している。

また、89年には渡米してシートンホール大でプレイ。同大はその年にNCAAファイナルまで進んだ。卒業後にソニックスのトライアウトを受けたときは生き残れなかったが、94年にブレッツと契約を結び、7試合だけプレイ。また、98~99シーズンにはスパーズでもプレイした。このときは故障もあってほぼ出番はなかったが、一応チャンピオン・リングを獲得している。NBAでは短命だったが、NBLでは05年までキャリアを続けており、同リーグ史上最も偉大な選手と言えるだろう。

シューター型のスコアラーで正確なアウトサイド・シュートが武器。アトランタ・オリンピックではシェーン・ヒールとともに3Pがよく決まり、アメリカを苦しめた。また、パスも上手く、90年代前半にはアメリカから来たラナード・コープランドとのコンビでファンを湧かせた。

昭和59年ドラフト組①

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今までこんな頻度で更新したことがなかったので、ここに書く小ネタが浮かばなくなってきました。もうこの手も使えないので次がまずいですw




マイケル・アダムス


5フィート10インチのPG。ボストン・カレッジ出身で、ドラフト3巡目第66位でキングスに入団。1年目は18試合しかプレイできなかったが、2年目にブレッツでエニス・ワットリーのバックアップとして一定の役割を得ると、87年にナゲッツへ移籍して開花。開幕8試合目からスターターに定着すると、ラン&ガンのオフェンスにフィット。アレックス・イングリッシュ、ファット・レバーに次ぐ得点源としてチームを支え、89・90年には3P成功数でリーグ首位に立っている。

イングリッシュとレバーがチームを去り、HCがポール・ウェストヘッドになった90~91シーズンはオフェンス志向のバスケットに拍車がかかり、アダムスは自己最高となる平均26.5点・10.5アシストをマーク。しかし、平均失点が130点もあって僅か20勝に終わるなどチームとしての問題は多く、91年には古巣ブレッツに移籍した。ここではチームの中心として活躍し、オールスターにも初選出。このときもチームはパッとしなかったが、個人としてはキャリアのピークだった。

94~96年はホーネッツ(現ペリカンズ)でバックアップへシフト。成績は急降下し、95~96シーズンはマグジー・ボーグスが6試合しか出られなかったにもかかわらず、20試合ほどしかプレイしなかった。引退後はWNBAのワシントン・ミスティックスでHCを務めたのが有名か。独特な「プッシュ・ショット」で知られた選手。80年代にデビューした選手としては珍しく、3Pを多投。87~88シーズンから4年連続で3P試投数でリーグ1位、うち2シーズンは成功数でも1位に輝いている。

引退時点では1試合最多3P試投数の記録も保持していた。ただ、成功率はあまり高くない。


AC・グリーン


1192試合連続出場の記録を持つ鉄人。6フィート9インチのPFで、ドラフト1巡目第23位でオレゴン州立大からレイカーズに入団した。PFとしては細身でやや小柄だったが、弱くはなく、動きの良さはショータイムのバスケットにフィット。当初はカート・ランビスのバックアップだったが、2年目からスターターとして起用されるようになり、87・88年の連覇に貢献。89年にはオール・ディフェンシブ2ndチームに選ばれ、90年にはオールスターにも出場した。

93年にはサンズと契約。当時のサンズはファイナルでブルズに敗れたばかりで、優勝するためのラストピースとして期待された。因みにレイカーズはマジック・ジョンソンの引退や主力の高齢化で停滞しており、グリーンはそのチームから移籍することを躊躇ったようだが、バイロン・スコットとジェームス・ウォージーに「俺たちのことは気にするな」と諭されたという。サンズではチャールズ・バークリーがいたこともあってか、両方のFでプレイ。

貢献度は高く、個人スタッツも充実していたが、チームはカンファレンス・セミファイナルより先に行くことが出来なかった。95~96シーズンになるとマイケル・フィンリーの加入で出場機会が減り、96~97シーズン途中にはマブスへトレード。ここでは主にリバウンドでチームを引っ張った。また、97~98シーズン序盤(97年11月20日)にんは、リーグ記録となる907試合連続出場を達成。このときは、MLBの鉄人、カル・リプケンも祝福に訪れた。

99年にはトレードでレイカーズに復帰。年齢的に衰えは顕著だったが、スターティングPFとしてプレイし、自身3度目の優勝を経験した。シャックはグリーンの存在を「彼がいるだけでいいんだ」と評している。オフにはPFの強化を狙ったレイカーズに解雇されてしまうが、かつての指揮官であるパット・ライリー率いるヒートと契約。バックアップとして1年プレイして、現役を引退した。関係者によれば「記録を続けるためだけに所属先を決めようとはしなかった」とのこと。

キャリアを通じて休んだのは3試合だけで、それも怪我ではなくHCの判断であった。95~96シーズンにはスパーズ戦でJR・リードの肘が口に当たって負傷、記録が途切れる可能性も心配されたが、HCのポール・ウェストファルの配慮によって短時間ながら起用され続けた。敬虔なクリスチャン。非常に真面目な選手で、引退後に結婚するまで童貞であったという。因みにACは略称ではなく、これで本名。


ビル・ウェニントン


カナダ人の7フッター。ロサンゼルス・オリンピックとバルセロナ・オリンピックではカナダ代表としてプレイ。セントジョンズ大出身で、当時は名将ルー・カーネセッカのもと、クリス・マリンとチームメイトだった。ドラフトでは1巡目第16位でマブスに入るがあまり貢献できず、90~91シーズンをキングスでプレイした後、イタリアへ渡った。ここで2年過ごすのだが、そこでトニー・クーコッチをリクルートするためにイタリアに来ていたジェリー・クラウスの目に留まり、93年にブルズと契約。NBA復帰となった。

ミドルレンジのジャンパーが得意なウェニントンは△オフェンスにフィットし、6シーズン在籍。ブルズ2度目の3連覇にバックアップとして貢献した。現役最後の99~00シーズンはキングスでプレイしている。打点の高いクイックリリースのジャンパーが武器。足が長く、若い頃は速攻に絡むだけのスピードもあった。インサイドには弱く、ポストプレイやリバウンドはほとんど期待できない。明るい性格で、チームメイトにイタズラするのが好きだったとか。


マリオ・エリー


遅咲きのスウィングマン。ニューヨークのストリート出身で、プレイグラウンドでは「ジェディ」と呼ばれていたとか。ドラフト7巡目第159位でバックスに指名されるがロスターに残れず、ポルトガル、CBAを経て、90~91シーズン中にシクサーズでようやくNBAデビューを果たした。シクサーズでは3試合出ただけで解雇されるが、直後に加入したウォリアーズでローテーション入り。翌91~92シーズンはシーズンの半分近くでスターターをも務めた。

92~93シーズンをブレイザーズで過ごしたのを挟み、93年からはロケッツでプレイ。最初の3年間は主に6マンとして起用されたが、試合終盤など重要な場面では必ず起用され、94・95年の連覇に貢献。クラッチ・タイムに強く、95年のサンズとのカンファレンス・セミファイナル第7戦、残り7.1秒で決めた3Pは有名である。エリーはシュートを決めた後にサンズのベンチに投げキッスのジェスチャーをしており、これは「死のキス」とも呼ばれた。

96~98年はスターターとして、オラジュワン、ドレクスラー、バークリーのビッグ3を支えた。スパーズに移籍した98~99シーズンには再び優勝を経験。00~01シーズンにサンズでプレイしたのを最後に現役を引退した。シューター。モーションが遅く、本数も精度も印象に残るモノではないが、先述のように大事なところで決める力があった。ディフェンスも悪くない。ニューヨーク出身だからか、MSGの試合ではブーイングされることも多かった。


ジョン・バトル


ラトガース大出身のSG。SGとしては背が低く、6フィート2インチしかない。ドラフト4巡目第84位でホークス入りし、3年目以降はベンチ・スタートながら2桁の得点アベレージをマークするなど、活躍を見せた。91年にはキャブスに移籍。移籍1年目はまずまずだったが、2年目以降は故障もあってか奮わず、95年に現役を引退した。6マンとして有名ではないが、シュートは正確で良質のロールプレイヤー。10年のキャリアのうち7年をマイク・フラテロHCの元でプレイしている。


ジョー・クライン


アーカンソー大出身の7フッター。ロサンゼルス・オリンピックでは代表チームの一員として金メダルを獲得している。ドラフトでは1巡目第6位でキングスに入団。しかし、期待に応えられないまま、88~89シーズンの半ばにセルティックスへトレードされた。93年にはサンズへ移籍し、96~97シーズンはそこからレイカーズ、ネッツと渡り歩いた。97~98シーズンはブルズでロサンゼルス・オリンピック以来、ジョーダンとチームメイトとなり、初の優勝を経験している。00年で現役を引退。

ジャンプシュートが上手で、FT成功率は通算で80%を超える。ただ、それ以外に特筆すべき武器はなく、攻守共にスターターのレベルではない。サンズにいた当時、通算1万リバウンドを達成したバークリーが、「あなたのようにサイズがなくて、どうやったらそんなにリバウンドを取れるんですか?」と記者に聞かれ、

背が高くたって何も出来ないヤツはたくさんいる。うちのクラインが良い例だよ」とネタにされていた。


デトレフ・シュレンプ


旧西ドイツ出身のF。高校からアメリカで過ごし、ワシントン大を経てドラフト1巡目第8位でマブスに入団した。持ち前のシュート力は見せたが当時のマブスはスターターがしっかりしており、また、古典的なビッグマンとしての役割を求められるなど、役割はかなり制限されていた。4年目の途中にペイサーズにトレードされてからブレイク。ベンチ・スタートではあったが出場機会は増え、91・92年と6マン・アワードを受賞した。スターターとしての起用が増えた93年にはオールスター出場も果たしている。

93~94シーズンの開幕直前にソニックスにトレードされると、スターティングSFに定着。安定した得点源となり、ゲーリー・ペイトン、ショーン・ケンプを支えた。99年にはブレイザーズに移籍するが、過剰な層の厚さと年齢的な衰えからあまり目立たず、オフに引退を宣言。フロントは「現役を続けて欲しい」との意向からそれを受け入れず、翌シーズンの後半、主力の故障に伴って復帰を果たした。しかし、プレイは精彩を欠くことも多く、シーズン終了後に改めて引退した。

当時のブレイザーズには、このシュレンプへの特別扱いを快く思わない選手もいたとのこと。スコアラーではないがオフェンスの起点になれる選手で、2番手・3番手としては理想的な存在。得点パターンが豊富で、3Pからポストプレイまでどれも精度が高かった。ヨーロッパ出身のFとしてはディフェンスやリバウンドもそれほど悪くない。30代半ばまで明らかな衰えを見せなかった。84年と92年にはドイツ代表としてオリンピックでもプレイしている。


サム・ヴィンセント


ミシガン州の初代「Mr.バスケットボール」に選ばれたPG。兄のジェイ・ヴィンセントと入れ替わりでミシガン州立大学に進み、1巡目第20位で強豪セルティックスに入団した。ルーキーイヤーはあまり起用されなかったが、チャンピオン・リングを獲得。2年目は、シーズン中はやはり出番が少なかったが、プレイオフでダニー・エインジが怪我をしたときに意外な健闘を見せている。87年オフにソニックスへ移籍し、87~88シーズン途中には更にトレードでブルズに移籍。

ブルズでは主にスターティングPGとしてプレイし、キャリアハイの成績を残した。89年にはエクスパンション・ドラフトでマジックへ。スコット・スカイルズと、PGの重責を担った。92オフにバックスに移籍するが、プレシーズンで故障してしまい、シーズン終了。怪我が癒えるとギリシャに渡り、1シーズンだけプレイして現役を引退した。引退後はギリシャやオランダ、ナイジェリアのオリンピックの女子代表チームなどのHCを経て、07年にボブキャッツ(現ホーネッツ)のHCに就任。

しかし、選手と対立したり名指しで批判されたりするなどいいところがなく、僅か1シーズンで解任されてしまった。


ジョン・コンカック


サザン・メソジスト大出身の7フッターで、ドラフト1巡目第5位でホークス入り。指名順位に応えられるような選手ではなかったが、ディフェンシブCとしてはまあまあであった。コンカックを有名にしたのは、単なるバックアップCであったにもかかわらず89年に6年間1300万ドルという(当時としては)破格の契約を結んだことで、これはマジック・ジョンソンやラリー・バードよりも大きな契約であった。批判されたのは言うまでもない。

この契約後もコンカックがブレイクすることはなく、また、チームが補強する上での足枷にもなってしまい、「ジョン・コントラクト」という嫌なニックネームまで付いてしまった。身体能力に乏しい典型的な白人C。ディフェンスは評価されていたが、リバウンドやブロックに長けているわけではない。95~96シーズンにシャックのバックアップとしてマジックでプレイし、翌シーズンの開幕直後にウォリアーズへトレード。しかし、故障のために1試合も出られずに現役を終えた。

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