もう開幕ですね~BSでやってくれないけど…
エイドリアン・ダントリー
スコアラータイプのSF。73~76年までノートルダム大でプレイ。この間、2度オール・アメリカンに選出されており、また73年に同大がUCLAの88連勝を止めたときのメンバーでもある。そして76年のモントリオール・オリンピックで金メダルを獲得した。
76年のドラフトでは1巡目第6位でブレーブスに入団。新人王を受賞し、過去5年間でブレーブスで新人王を受賞した3人目となった。しかし、オーナーの意向のためか、オフの間にペイサーズへトレードで移籍。シーズンが始まって23試合プレイしたところで、今度はレイカーズへトレードされた。1シーズン半を過ごし、79年オフにはジャズへ移籍した。
ジャズに在籍していた頃が恐らく選手としてのピーク。6度オールスターに選ばれ、オールNBAチームにも2度選出。81年と84年には30点を超えるアベレージを残して得点王になった。86年にはケリー・トリピューカらとのトレードでピストンズへ移籍。ここでも平均20点前後を稼いでいたが、88~89シーズン半ばにマーク・アグワイアとのトレードでマブスへ移籍。アグワイアは、アイザイア・トーマスと旧知の仲で、そのことがこのトレードに関係していたとかいないとか。因みにこのシーズン、ピストンズは優勝している。
33歳となった翌シーズンは衰えが顕著になり、シーズン半ばには故障で離脱。翌90~91シーズンの終盤にバックスで10試合だけプレイしてキャリアを終えた。
ジャンプショット、ゴール近辺、FT…3Pを除くあらゆるスタイルで高得点をあげることができたスコアラー。ファウルをもらうことが多く、1試合におけるFT成功数28本はウィルト・チェンバレンと並んでリーグタイ記録である。背番号4はジャズの永久欠番だが、ジャズがダントリーを放出したのは、期待の若手だったカール・マローンに悪影響を与えるかも知れないからだったとか。ピストンズもジョー・デュマース、デニス・ロドマンら若手へのダントリーのアプローチを気にしていたという。
クイン・バックナー
インディアナ大出身で、76年のドラフト1巡目第7位でバックス入り。キャリアを通じてタフなディフェンダーとして知られ、4度オール・ディフェンシブ2ndチームに選出された。また、軌道の低いシュートは独特だったが、得点力もないわけではなかった。
個人としては地味な選手だったがそのキャリアは華やかで、高校・大学・NBAで優勝し、金メダルを獲得したことのある3人のうちのひとり(あと2人はマジック・ジョンソンとジェリー・ルーカス)。先述のディフェンスだけでなく、堅実なプレイメイクのできるロールプレイヤーとしても一定の評価があったようだ。
インディアナ大時代は4年間先発としてプレイし、うち3年間はキャプテンを務めた。感情的なことで有名なボビー・ナイトHCとうまくやっていたようで、「最初に学んだのは権力を持っている人をリスペクトするということ。正しかろうと正しくなかろうとね(笑)」とのちにコメントしている。因みに74年には世界選手権(銅メダル)、76年の夏にはオリンピック(金メダル)の代表チームにも選ばれている。
プロ1年目は、個人としては平均2.4スティールをマークするなど持ち味は見せたが、チームは30勝52敗でディビジョン最下位に低迷。1シーズンで、高校と大学で喫した総敗戦数(25敗)の倍以上も負けを経験してしまった。しかし、シーズン途中にドン・ネルソンがHCに就任してからチームは改善しており、翌シーズンはプレイオフに進出。バックナーは2年目でオール・ディフェンシブ2ndチームに選出された。
その後、バックスは80年にミッドウェスト・ディビジョン首位に立ち、81年には60勝をマーク。バックナーは79~81年にかけて3年連続でオール・ディフェンシブ2ndチームに入っただけでなく、2桁の得点アベレージをマークしていた。尤も、バックナー自身は「私の長所はディフェンス。あとはゲームに対する知識と、チームメイトをゲームに関わらせる力だと思う。シュートが自分の強みだなんて思ったことはないよ」とのちにコメントしているが。
82年オフ、デイブ・コーウェンスとのトレードでセルティックスへ移籍。コーウェンスは将来殿堂入りをする名選手だが、このときは一度目の引退から復帰するところで、コーウェンスは2シーズンのブランクがある上に34歳であった。因みにセルティックスのGMだったレッド・アワーバックは、バックナーについて「彼は勝者でありリーダーだ。よく訓練された選手だよ」といった旨の評価をしている。ここでのバックナーはデニス・ジョンソンの加入などで年々役割が縮小していくが、84年には遂にNBAでもチャンピオン・チームのメンバーとなった。85年オフにペイサーズに移籍し、シーズン半ばに解雇されたところで選手としてのキャリアは終了。引退後は解説者を経て、93年、マブスのHCに就任した。
当時のマブスのオーナー、ドナルド・カーターは選手として常に勝者だったバックナーに白羽の矢を立てたが、11勝71敗に終わったばかりのチームを立て直すことはできずに大失敗。選手層が薄すぎた上、一部では「ボビー・ナイトのやり方に似ている」とも言われた厳格なやり方は若手と合わず、最初の24試合を1勝23敗、トータルでも13勝69敗という無惨な結果であった。これは(当時)、HC1年目の最低勝率記録であり、オフにはすぐ解任された。
因みに76年にはNFLのワシントン・レッドスキンズからも指名されたという。
ロン・リー
オレゴン大出身のG。同大時代、その恐れを知らないプレイスタイルと激しい勝利への執念から、HCのディック・ハーターに「カミカゼ・キッズ」と呼ばれた。
76年のドラフトでは1巡目第10位でサンズ入り。まずまずの成績でオール・ルーキー・チームに選ばれた。78~79シーズン途中にネッツへトレードされ、翌79~80シーズンはホークスで開幕。シーズン途中にはピストンズへトレードされ、82年に現役を引退した。
カレッジ時代の活躍は素晴らしく、オレゴン大の歴代の得点王でもあるが、プロでは大成せず。特にシュートは今ひとつで、ディフェンシブな選手として知られた。スティールも多かった。また、堅実でハードにプレイする姿は評価されており、キャリアのほとんどが控えだったがファンからの人気は高かったようだ。
ラリー・ライト
グランブリング州立大出身のPG。カレッジ時代は輝かしい実績を残し、76年のドラフト1巡目第14位でブレッツ入り。トム・ヘンダーソンやフィル・チェニアーらの控えとして、70年代後半の強いブレッツに貢献した。2年目の77~78シーズンには優勝、翌78~79シーズンもファイナル進出を経験している。
しかし、79~80シーズンは1stラウンドで敗退。ライトは、80~81シーズンの開幕から1ヶ月ほど経ってからピストンズと契約を結んだ。81~82シーズンは1試合プレイしただけでイタリアへ。地元のクラブチームに加入した。
ここでのライトはスターで、ライトが加わったチームは初めてイタリアン・チャンピオンシップを奪取。翌年にはチームをこれまた初めてのヨーロッパ王者に導き、ライトはMVPを受賞。ヨーロピアン・プレイヤー・オブ・ザ・イヤーも受賞した。その後もイタリアでプレイを続け(移籍はしている)、キャリア終盤には選手兼HCとなっていた。
引退後は90年に母校グランブリング大のACに就任。2シーズンをそこで過ごした後は、ソニックス、ブレッツのスカウトを経て高校のACに就任。99年には再びグランブリング大でHCとなるが、0年に解任された。NBAではスターではなかったが、控えPGとしては悪くなかった。