フェイスブックが荒れてる今日この頃。
読ませる文章・説得力のある文章を書けるひとっていいなぁと思ったりします。
ジェイミー・ファイック
リバウンダー。ドラフト2巡目第48位でミシガン州立大からシクサーズに指名された。カレッジ時代はCだった。開幕直後に解雇され、年明けにホーネッツと契約。ここでもすぐに解雇されるが、直後にスパーズに拾われた。当時のスパーズは怪我人が続出しており、リバウンド力をアピール。10日間契約組の中では輝きを見せた。翌シーズンはバックスでローテーションから外れるが、ロックアウト後98~99シーズン中に△トレードでネッツへ移籍すると出場機会が激増。
残りのシーズンで平均2桁のリバウンド(オフェンス・リバウンドは平均4.3本)を奪取。ジェイソン・ウィリアムス、ロニー・サイカリーらが相次いで戦列を離れたインサイドをひとりで支えた。シーズン終了後には総額1000万ドル近い大型再契約を締結。この頃の評価は高く、すぐに再契約を結ぶ姿勢を見せなかったネッツに対して「理解に苦しむ」といった声もあがるほどであった。翌シーズンはベンチ・スタートとなるが、リバウンドは平均9本を上回り、期待に応えている。
しかし、00~01シーズンを故障で6試合の出場に終わると、続く2シーズンを全休。そしてそのまま引退となってしまった。手足が短く、身体能力も高くないが、リバウンダーとしては優秀。特にオフェンス・リバウンドに強かった。シュートには難がある。
ジミー・カルース
ヴァージニア工科大出身のPF。94年に卒業するがドラフトにかからず、96~97シーズンに10日間契約でバックスに加入した。尤も、カレッジで4年間のスタッツはどの分野においても印象的なものがなく、特にオフェンスはFTが40%台など壊滅的だった。バックスでは4試合だけプレイして解雇されたが、ベンチにいるときに熱心に応援していたり、コートに出るとき・去るときに会場を盛り上げようとしたり、ムードメーカー的な価値はあったのかもしれない。
エマニュエル・ディビス
デラウェア州立大史上唯一のNBA選手。6フィート4インチとやや小柄なSGである。91年のドラフトにかからず、主にCBAでのプレイを経て、96年オフにロケッツと契約を結んだ。層の薄さも手伝ってか、ドラフト外ルーキーながらローテーション入りしたが、開幕13試合目に膝を故障してシーズン終了。翌シーズン復帰しても、たいした活躍はできなかった。99~01シーズンはソニックス、01~03シーズンはホークスでプレイしている。
ソニックス、ホークスではSGにフィットする人材がいなかったお陰で、スターターとして起用されることも少なくなかった。アウトサイド・シュートが武器。
ステビン・スミス
カレッジ時代の八百長スキャンダルで有名な選手。高校時代から目立つ存在だったスミスは、アリゾナ州立大に進学。同大をNCAAトーナメントに導くなど活躍を見せていた。しかし、4年生だった93~94シーズン、チームメイトのアイザック・バートンとともにギャンブルで作ってしまった借金を返済するために、ベニー・シルマンという生徒と、シーズン中のある4試合を調整しようと共謀。これがのちに発覚し、スミスは刑務所に入ってしまう。
ただ、これは当時すぐには明るみに出ず、スミスは大学卒業後プロデビュー。NBAのチームからドラフト指名はされなかったが、ヨーロッパやCBAなどでプレイ。96~97シーズンにはマブスと10日間契約を結び、8試合だけプレイした。97年に先述のスキャンダルが初めて明らかになり、99年12月~00年10月までを刑務所で過ごした。出所後はヨーロッパに戻ってキャリアを継続。フランス、イスラエル、ロシアなどを渡り歩いた。
ニックネームは「ヘダケ(ヘッドエイク)」。イタズラ好きだった子供時代に付けられたという。
レイ・オウズ
やや大柄なSF(6フィート9インチ・224ポンド)。アリゾナ大卒業後、NBAのドラフト(95年)にはかからなかったが、その1年後にウォリアーズのキャンプに参加。開幕ロスターに生き残った。因みにキャンプに参加できたのは、オウズの代理人の友人がウォリアーズのフロントに親しいひとがいたからだという。NBAで唯一のシーズンとなった96~97シーズンは、開幕2試合目でスターターとして起用されるなど、ドラフト外ルーキーながら57試合で起用された。
マーク・ポープ
モヒカン頭の白人F/C。ペイサーズ、バックス、ナゲッツでそれぞれ2シーズン過ごした。96年のドラフト2巡目第52位でペイサーズに指名されるが、入団は1年後。ここでは出番はないに等しかった。バックスではアウトサイド志向で機動力のあるビッグマンという特異性をジョージ・カールHCに評価?され、出場した試合の約半分でスターターとして起用された。カールの指示もあってかアウトサイドから積極的に打っていたが成功率は20%にも届かず、2シーズンで決めた3Pは計9本である。
カレッジでもワシントン大とケンタッキー大で2年ずつプレイ。ケンタッキー大が96年にNCAAチャンピオンになったときのメンバーである。
ウォルター・マッカーティ
6フィート10インチのF。ケンタッキー大が96年のNCAAチャンピオンになったときの主力で、当時はアントワン・ウォーカーやロン・マーサーらとチームメイトであった。ドラフトでは1巡目第19位でニックスに入団。ベテラン主体のニックスでは出番がなく、翌オフにはセルティックスへトレードされた。新天地では大学時代の恩師リック・ピティーノの元、ウォーカー、マーサーらと再会。全82試合に出場して、うち64試合でスターターとして起用されるなど一気に活躍の場が拡がった。
98~99シーズンにポール・ピアースが加入してからはベンチ・スタートとなるが、ディフェンスや3Pでチームに貢献。数字的には地味だが、ガッツ溢れるプレイはファンのお気に入りであった。ピティーノ体制では次第に出場機会が減少していくが、HCがジム・オブライエンに代わってからは再起。シューター的な役割も果たしていた。04~05シーズン半ばにサンズへ移籍し、オフには更にクリッパーズへ移籍。05~06シーズン終了後に現役を引退した。
カレッジ時代は身体能力が高く、スピードのあるPFだったが、プレイスタイルはSF向き。シュートエリアは広いが頼れるほどの安定感はない。ナチュラル・ポジションがわかりにくく、PGを除くすべてのポジションで起用される機会があった印象。引退後はピティーノ率いるルイビル大でACに就任。06年のオールスター・サタデイでは国歌斉唱を務めるなど幅広い才能があるよう。
アレキサンダー・ジョルジェビッチ
セルビア人のPG。92~96年をイタリアのクラブ・チームで過ごし、96年9月にブレイザーズと契約を結んだ。当時はアトランタ・オリンピックの直後で、同大会での活躍が評価されてのNBA入りだったかもしれない。しかし、ブレイザーズでは出番を得られず、96年12月には解雇。僅か8試合しか起用されなかった。その後はイタリアやスペインなどでプレイしている。ヨーロッパのリーグや国際大会では数々の賞を受賞している名PGで、それは数え上げたらキリがないほど。
セルビアとスペインの国籍を持っており、剃り上げた頭が印象的。愛称は「サーシャ」。NBAのドラフトにはかかっていない。